第4話-3月30日~4月2日

  3月30日~4月2日


 アマネさんが僕を桂君と呼ぶようになってから1週間ほど記憶があいまいだった。

 

 覚えていることは僕らが様々なことを話したということだ。ある例を入り口に、互いの価値観や経験の話を主にした。必然的にそうなったのだ。

 外界からの情報をほとんど知らない僕が、流行の音楽や本のことを知っているわけがなく、彼女の方も詳しくはなかった。なので、自然と自身の話になったのだ。

 そこまでは覚えているのに、いざ話の内容となるとわからない。1日経つと、何を話したのかほとんど忘れてしまうのだ。その理由は話していた量が多かったせいだろう。

 その結論に至るまで、とうとう脳まで病にやられたのではないか、と疑ったほどだ。


 そういうわけで、僕はこの1週間をあまり記憶していなかった。しかし、その中でもいくつか変化があった。その部分だけは濃く残っている。



 最初の変化は和解から二日ほど経った日のことだ。その日は朝から明らかにアマネさんの口数が減っていた。そのことに僕はすぐ気づき心配したが、どうしたの、と言うのを決心するのに昼頃までかかった。ようやく訊ねてみると、不思議な言葉が返ってきた。


「話すのが嫌いではないの。ただ、言葉がまとまらないの」


 僕に訊きたいこと、話したいことがあるのだが、それが形にならない、ということだった。そして、おそらくこれには時間がかかり、あなたに迷惑をかけてしまう、と。このことを伝えるのでさえ、彼女は多くの言葉を用いていたが、それらは具体的というよりかは抽象的な表現であった。

 それを文字にするのは難しかった。言葉はアマネさんの口から発することで、違った言語のようにさえ聞こえるのだ。そのせいか、今までの会話も一字一句何を言ったのかまでは記憶していなかった。聞いた途端に、身体の中に溶けて、正しく記憶するのは困難だったのだ。

 そして、僕は彼女の抽象的な言葉を正確に理解できたわけではなかった。

 それでも、迷いはなかった。


「構わない」と僕は言った。「ずっと待ってる」


 


 それから数日に渡って、アマネさんは質問をし、僕はそれに答えた。


「桂君は鳥が好き?」「飛行機に乗ったことがある?」「血液型は?」「幽霊を見たことがある?」「何人家族?」


 このような取り留めのない質問が多かった。話の前後に何ら関係性がないのも特徴である。

 それらの質問に何度か答えてようやく、それが文面通りの問いでないことを僕は察した。

 それはあくまで何かのメッセージなのだ。アマネさんだけが知りえる、もしくは彼女すら完全に理解していない法則で組み立てられた問いなのだ。

 これには証拠がなく、直感に近いものである。なぜなら、色もわからないし、質問が何を意味しているのか、どんな事情を秘めているのか、さっぱりわからないからだ。

 そうすると、彼女の質問は試験やカウンセラーの言葉のような固さを持った。

 色も表情も見えず、声音さえほとんど変わらないアマネさんの言葉は本当にわからなかった。不思議さはより大きな不思議さに覆い隠され、事実をあやふやにしていった。

 だけど、アマネさんの言葉に悩むことに対して煩わしさはなかった。

 それに、ずっと質問攻めというわけでもなかったのだ。

 アマネさんは質問だけでなく、彼女自身のことも断片的に語ってくれた。弟と遊んだこと、父と母の職業、何が苦手で何が得意か、などの情報だ。そういった内容は全て滑らかに話してくれたから、僕は比較的記憶していた。

 弟が一人いて、母は教師で、父が医療関係の器具を扱う会社の社長だ。苦手なことは喋ること、得意なことは思いつかない。好きな食べ物はホットケーキ。怖いものは火。ちゃんと覚えている。

 しかし、それが質問の内容になるとわからない。質問に当然僕は答えたが、時折彼女が答えたこともあったのだ。あったはずなのだ。その事実を覚えていても、中身はわからない。一瞬のうちに風化していったみたいに消えていくのだ。それがとても重要なのだと理解していても。

 もし、僕がきちんと覚えていて、意味を理解していたなら、と思わずにはいられない。でも、そうしたところで結局は変わらないのだ。あの日会った時に全てが内包されていたのだから。そして、あの時の彼女はもういないのだ。


 空白についてわかることといえば、それがアマネさんの意思のようなものを研ぎすませ、形作っていたということだ。それはまるで自分自身に問いかけているな作業であった。そこには間違いなく何かの意図があった。それだけしかわからない。

 その答えを持っていたのは、もう消えてしまったあの時の彼女だけなのだ。楽園にいる彼女ではない。


 だから、次に明瞭な記憶は、その問いが止まった日だ。変化があった日から3日か4日後の話である。

 そして偶然にも彼女の日記にもその日が記されていた。その内容について記すのは順序があるのでまだ先となる。


 僕がいつものように検査を終え、部屋に戻ると、アマネさんは子供のように分かりやすい仕草でこちらを見つめた。彼女にしてはずいぶん露骨だったので、ついにまとまったのだ、と直感的に感じた。


「どうかした? 話してよ」


「聞きたいことがあるの」


 改まって、アマネさんはそう言った。

 オーケー、と少し覚悟して僕は返した。

 アマネさんは躊躇った様子で口を開けたり閉じたりしてたが、数分してゆっくり言葉を紡いでいった。


「桂君はその、入院することをどう思った?」


「悪くない条件だったから受けたんだ」


 僕は即答し、彼女が悩んでいたことに心の中で苦笑いした。まだ、信用されていなかったのだ。こんなことならくどいくらい、何でも聞いてくれ、とでも言うべきだったのかもしれない。 


「それはお金のこと?」


 僕は驚きながらも頷いた。誰かがアマネさんに僕の事情を教えたのだろう。噂は尾ひれが付く。それは厄介だ。少し長く黙って、僕は一から説明する準備をしてから答えた。


「僕らの家族は5人家族だったし、両親は共働きで生活に余裕はなかった。妹は高校生で弟は小学生だから、まだまだお金がいる。だから受けた。そうでなくても病の僕をどうにかできる余裕はなかった。どうすることもできなかった。両親のことを尊敬こそしていなかったけれど、感謝はしていたし、家族がやっぱり大事だったからね。僕一人のわがままで家族全員が貧困に陥るのは困る。少し行動は制限されるけど僕の面倒を見てくれて、尚且つ莫大なお金までくれるって提案は最高だったよ」


「本当に?」


「本当さ」


 それだけは事実だった。僕は自らモルモットになることを選んだのだ。お金を得る代わりに実験に付き合うことを決めたのだ。


「ありがとう」


 小さな声でアマネさんは言い、しばらく黙っていた。その間、彼女は自身の体を擦ったりして落ち着かない様子だった。


「ねえ、実はね私の耳ってとても変わってるの。別に誰かに馬鹿にされたことがあるわけじゃないわ。勝手に私がそう感じてしまうの」


 そうなんだ、と僕は返した。凡庸性のある返事に救われた。脈絡がなく急な話だった。何より目が見えていない僕がどう反応すればいいというのだ。

 でも、これが不自由だとも、息苦しいとも思わないし、思えなかった。


「どう言えばいいのかな。ほら、耳って尖っていたり、丸かったり、広がっていたり、とにかく何とも言えない形じゃない? でも、私のは変わってるの。変、と表現してもいい。だからね、触ってみて、感想を教えてほしいの」


 アマネさんは僕の手をそっと取った。僕は平温が高いのに手先が冷たいので、それほど熱くないのに彼女の熱が染み渡るような感覚があった。

 そのことに僕が気を取られていると、彼女は顔を近づけるために屈んだのか、甘い香りが漂った。

 アマネさんはゆっくり僕の手を引っ張って誘導しようとした。耳にたどり着くまで彼女の髪が僕の手の甲や指先に当たって、その度にその部位から刺激が走り身体がこわばった。

 ようやく触れることのできたアマネさんの耳の全長は僕の小指より小さく全体的に薄かった。それだけではわからないので、大きさを測るためにたてた小指で全体像を把握しようと縁をなぞった。

 正直、普通の耳だった。けれど、触った感じだけなので断定はできなかった。


「そうだね。僕も変わっているところはあるよ。どこだと思う」


 卑怯だけれど、話題を逸らすことにした。


「ちょっとわからないわ」


「まず低身長だろう」


「確かに背の順で並べば前の方でしょうね」


 言われた通りだった。変わったところとはいえない。ただの欠点だ。僕は、そう、と相づちを打って時間を稼ぎ、考えた。


「でも、一番前じゃないんだ。ほぼ平均だしね、似たようなのは多くいる」


「その通りね」


「実は君のような唯一とはいえないんだけれど、僕はとても体毛が濃いんだ」


 ほら、と腕をまくる。反論もないので苦肉の策は上手くいったらしい。

 安堵していると、アマネさんの手が僕の毛にそっと触れ、静かに撫でていった。確かめるには長い時間、何度か上下し、ようやく手を離した。

 僕は触ってほしかったのではなかった。ただ意図して話題を変えようと、笑い話を投入するつもりだったのだが、すっかりそのことを忘れて黙り込んでいた。

 沈黙が不自然なほど広がってから僕はようやく口を開いた。


「だからね、客商売のアルバイトをしていた頃は、お客さんに濃いな、と笑われた。半袖のシャツが制服だったんだ。そこで怒るわけにもいけないし、僕は二つ茶化す言葉を用意していたんだ。一本から100円で売ってます。足の方はもっと濃いんですって。逃げ道を事前に用意していると困らないんだ」


 スムーズに会話を運ぶことができなかったからか、沈黙は話す前よりも濃くなった。眠気みたいに、何もかもやる気を失いそうな濃さだ。

 失敗してしまった。やはりテンポよく話さないといけないのだ。こんな事で笑ってくれるのは進矢ぐらいである。

 そんな僕の反省は意味をなさなかった。自棄なふうではあったけれど、彼女はきちんと笑い声のような音を出してくれた。


「ごめんなさい。あのね、私、きちんと楽しんでいるの。この話は愉快だったし、想像してみたら最高だったわ」


 失敗しなくてよかったが、そこまで言ってくれると、照れてしまう。


「桂君は楽しそうに笑うのね」


 僕としてはそんな自覚はなかった。今までそんな風に言われたことは一度もない。そもそも、僕は今、笑っていたのだろうか?


「覚えてる? 3日前に言った話。3月30日ね」


 3日前と指定されても、その日もきちんと24時間あって、そのころには僕らは和解していたので、いったいどの話を指しているのかはわからない。だから、3日前というキーワードで最初に浮かんだ言葉を投げた。


「翼の話かな。翼があったらどうしたいって奴」


 よくよく考えてみれば、3日前という索引ではこの話しか記憶していなかっただけだった。


「そう、それよ。よくわかったわね」


「偶然だよ」


 気の利いた冗談も言えなかったことに僕は頭を抱えた。

 アマネさんに冗談は通じないので自然と減ったというのはある。色が見えないから接し方が測れず、誠実でいるしかなかった。

 だが、それが守れているとは言えない。

 誠実でいようと考えているくせに、都合が悪くなった時だけ嘘をついて冗談にしてしまう自分が嫌だった。一貫した姿勢というのを取れなかった。

 もし冗談を言うのであれば、逃げるためでなく、誰かを思って使いたかった。誤魔化すのが誠実だとは到底思えない。

 こう接したいという理想があるのに、守ろうとしない自分が情けなかった。

 しかし、アマネさんは僕のそんな様子に気づかず、話を続けた。


「もし、翼があるとしたら。あのね、失礼な話だけれど」


 そこでアマネさんは一度言うべきか迷ったようで黙り込んだ。どうやら頬や口元を手の甲で拭っているようなので続きを言おうか迷っているのだろう。顔を手で拭ったり擦ったりするのは、悩んでいるとき出る彼女の仕草だということを僕は発見していた。


「あの時、私は考えごとをしていたの」


「それぐらい誰にもあることだよ」


 僕だって偶然覚えていたにすぎない。

 反省したにも関わらず、喋りやすいよう、運命だね、なんて口にできる度胸もないまま微笑んで続きを促した。


「ありがとう。それでね、もう一度聞かせてほしいの。どうしても確かめたいのよ」


 わかった、と僕は言った。


「翼があったらおそらく使うね。歩くのが面倒になってしまうかもしれないけど」


 3日前と同じことを僕は答えた。しかし、これで彼女が満足しないのは覚えている。前回もそうだった。

 だが、どう答えたのか記憶していない。まず、こう答え、そのあとそれにアレンジを加えて、アマネさんの満足を得たということしか覚えていなかった。前回、彼女の満足という正解をもらっただけに、少し緊張し悩む。

 長くなりすぎない間で、どうにか言葉を付け加える。


「結局は、どう使うかだろうね」


「どう使うか?」


「そう、どう使うか」


 まさか食いつかれるとは思っていなかったので、サイドテーブルに置いてあるお茶を啜って時間を稼ぐ。さっきからこんなことばかりしているな、と思った。

 僕はまず具体的に想像した。自分の背に羽が生えている格好だ。人の背に羽、となると、鳥のものではなく純白の天使が背負っているようなものが浮かんだ。そうすると、翼はある形に変わって、僕の脳髄を刺激した。もはや、翼を生やした人を想像できなくなっていた。


「あるから使う、っていうのはどうかと思う」


 湯呑みを静かに置いて、僕は説明した。


「あるから使う、できるからするっていうのは非常に単純なことだけど、実際そういうわけにはいかないでしょ。歩けるから歩くのか、拳があるから殴るのか」 


 スラスラと声に出してはいるが、僕に冷静さはなかった。勢いで乗り切ろうとしている。翼をつけた自分、というのを全く想像できなかった僕は、もっともらしいことを言ってこの場を収めようとしていた。誠実でいたい相手に僕は誤魔化すことしかできなかったのだ。


「どう使うのか。極端なことを言ってしまうと、その方向性みたいなものが基準や個性や意思だったりするんじゃないかな。少なくとも僕はそう思う。だからこそ、選択が重要なんだって考える。積み重ねることで変化していくと信じている。もちろん選択する時は、状況や他の要因にも左右されるだろうけど」


 これで終わりのつもりだったが、アマネさんは何も言ってくれない。

 となれば、得意の誤魔化しを披露するしかない。

 今回ばかりは仕方なかった。僕の雑な話術を恨むだけで、誤魔化しをすることに罪悪感はなかった。


「まあ、僕は歩くのが面倒になるとわかっていて使ってしまう怠け者ってことだ」


 一応、笑えるような話としてまとめたつもりだったけど、アマネさんは黙ったままだった。わかりやすいようにきちんと説明したかったが、何を言ったのか朧気である。


「この病になってからそういうことばかり考えているせいだね。くだらない理屈をこねるのが上手くなってしまったな」


 僕は意図的に笑みを形作った。


「さっきの話に戻すけど、僕は選んだんだよ。自分でここのモルモットになることを」


 話を変える代わりに出た話題は、告白だった。この一言こそが僕という人間を端的に表していた。この選択は、弱さでもあり強さでもあった。

 だが、そのことにアマネさんが気づくとは思っていなかった。ただの自己満足である。


「やっぱり桂君には翼があるんだね」


 またアマネさんは抽象的なことを言った。



 それから、僕らは幾分距離を縮めた。半分ずつ近づいたわけではなく、アマネさんが一気に距離を詰めた。

 ぽつりと彼女の特徴的である意図の見えない抽象的な質問が出ることはあったけれど、仲直りしてからの1週間に比べれば少ない回数であった。

 本を読み聞かせてもらったり、指の感覚で区別できるちょっとしたゲームをしたり、映画を見たりした。

 ここが病室で、僕の目が見えないという違和感がなければ、至って普通の時間が過ぎた。それはずいぶん久しいことであった。

 確実に僕の心は緩んでいた。

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