ループⅠ
第1話-3/27-Ⅰ
3月27日
どういうわけか、僕は夜中に目を覚ましていた。AM2時。おいおい、冗談だろう、と思いつつベットから上半身だけ起こしてみる。照明は完全に落ちていたが、月明かりがしっかり届いているので、室内が見えた。
普段寝ているベットと、鏡と電灯がついたサイドテーブル。あとは衣服や生活雑貨が収納されている木製のチェスト。どこにもゴミ一つ見つからない清潔空間。
「こんな息苦しいところで住んでいるのか。これなら、見えなくてよかったかも」
そこで言葉は失われた。一瞬の硬直から戻った僕の気のせいでなければ、扉が開いた気がする。そこを開けられるのは限られた人間なのだ。彼ら彼女らに見つかったら不味い。僕は本来できないはずのことをしているのだから。
しかし、今更隠れても遅い。誤魔化しようがなかった。ばっちり起こされた上半身と後頭部が見られている。狸寝入りならお手の物だが、寝ぼけた演技は恐らく見破られるだろう。
そういった判断が下せるほど危機的な状況である程度冷静でいられるのに、行動する勇気はなくじっとしてしまう。心ぐらい成長できているつもりだったが、そうでないことが今、証明された。
下手な嘘をつくより――仮にばれなかったとしても――正直に話した方が、僕の心にも彼らの業務にもメリットがあった。諦めることで、後ろを向く。
その途中、残り半回転で扉の方を向けるというところで、耳が相手の存在を捉えた。
「こんばんは」
それは透明さを感じさせる女性の声だった。僕にとって声とは色という情報を持った存在だ。
その声はどこまでも無色に近い薄い白色で、故にどこか歪だった。その捉え方が初めてだった。白なら白という色が存在しているが、この声は白ですらない。僕は病を患って初めて、色が感じ取れない声を聞いた。
例えるなら、やはり無だろうか。語彙力のなさもあるが、端的に言葉にしようとするなら、そうとしか表現できない白とは全く別種の存在だった。元々無くなりそうなものなのに弱い。まるで薄い硝子片を粉々にして敷き詰められているような儚い印象を感じた。
たった一言、こんばんは、という短い声に込められた色でここまで引きつけられたのは初めてだ。
不思議なことに僕にはその声の主の姿が見えた。僕の目は見えてはならないというのにだ。視力の問題もあるが、寝る前に厳重に巻かれた包帯が目を覆っているのだから物理的に閉ざされている。
思えば起きた時から目が見えていたような気がする。しかし、そんなことは些細なことだった。目の前にいる存在に思考のリソースを奪われてしまっている。
そこにいたのは見たこともない女の子だった。それは知らないという意味である。彼女が誰かはもちろん、これほど美しい人間を見たのは初めてだった。つまり、声の主の姿は天使だったのだ。正気でそう言いきれるほど声と同じく、人とは別種と言って差し支えないほどの美しさがあった。
その美しさ、もはや神々しさといったほうが適切な超越した美の権化は微動だにしなかった。扉を開けているだけで中に入ってこないし、ただ突っ立っている。まあ、それでも様になるのだが。
数分かけたちの悪い悪戯で人形でも置かれているのではないか、という結論に僕がたどり着いたとき、その女性は何か言った。それは僕が唯一、習得していると思われる日本語であったけれど、違う言語のように聞こえた。声量の問題もあるかもしれない。が、そんなことより問題なのは、そこに色がなかったことだ。何度聞いても色がない。視力を失った代わりに得た僕の能力が通用しないのは初めてだった。僕の目は世界を映さない代わりに、声にありもしないはずの色を付けたのだ。
僕が呆気に取られて返事をしなかったせいか、彼女はこちらから目を逸らし、扉を閉めて去っていった。足音が全く聞こえないから消えたと表現すべきかもしれない。
それから数分固まっていたが、僕は重い息を吐くことで元に戻った。返事どころか呼吸も忘れていた気さえする。時間が止まった、と言われた方が納得できるほどだ。
金縛りから解けた僕は自分が目の包帯に手をかけていることに気づいた。乱れはあるものの、包帯はまだ取れてはいない。やれやれ、病院生活が長いせいだ。
目を悪くした状態が長すぎたせいで、目を塞ぐものがあれば見えやしない、なんてこともわからなかった。そう、目を強制的に閉ざしているのだから、何も見えやしない。僕は寝ぼけていたのだ。
いや、違う。2時に起きたというのと、目が見えるというあり得ない現象が重なったから今まで正常な判断が出来なかったのだろう。これは夢の中だ。
それなら、禁則事項を犯しても怒られない。
僕は安堵し、夢から脱出するために机の角度を調節して、シーツ平らに戻し、布団を上まで引く。
「病院といえば、幽霊だけれども」
あの子は何だったんだ、ということを考えようとしたが、いつものアレが来た。夢の中ではあまりに遅い睡魔さんの到着に、僕はそのまま身をゆだねた。
翌朝、目が覚めても脳裏に、天使の姿はくっきり残っていた。
夢に――それが事実だったかはわからないが――出てきたのは、綺麗な女の子だった。それは間違いない。天使や女神といった幻想的な容姿と雰囲気を兼ね備えていた女性だ。
僕はため息をつく。いくらなんでもそりゃないだろう、と。
そいつは拗らせすぎだ。生身の異性をずっと見ていないから、といって妄想を始めるなんて。
「やっぱり欲求を絶つというのは限りなく難しい」
僕は情けない感傷もほどほどに日課を始めた。一日は着替えの確認から始まる。この作業が習慣化する前、つまり入院する前まで、何をしていたのかは覚えていない。今も十分実りのないことであるが、前も変わりはないと思う。
僕は手触りで着替えが何の服かを確かめる。そうしないと一日が始まらない。これをしなければやっかいごとが多発するのだ。自分が何を着ているのか忘れない様、脳に強く刻むために行う。
撫でたり叩いたりする。そんなことをしたって目が見えていないのだからデザインはわからない。それでもこれが洋服であるか、和服であるのかの判断はつく。今日は和服だった。
僕に支給されている服装には様々な種類がある。昨晩着たのはシャツスタイルのものだった。交互になどの規則性はなく、無作為に選ばれている。
指定の場所に用意されてある肌着を着替え、和服を羽織り帯を締めた。
この一連の動作がとても重要だった。
当たり前。その言葉が持っている意味はひどく重い。そして、そんな当たり前を強く意識してしまうのは、昨日の出来事のせいだろう。
若き故の過ち、という奴だった。健全な男子の証明ともいえる。親友と初めて喧嘩した。だから動揺して夢なんか見たのだ。目にしっかり巻かれた包帯がその証拠だ。無意識のうちに身体が動いて直したりしない限り。
阿呆なことを考えても気分転換は上手くいかなかった。
そうでなくともここ最近、朝から気分が暗い。これではいけないな、と頬を張ってから用意されていた朝食を済ます。
目が見えなくても、パンやおにぎりなら食べられるのだ。
既に視覚がなくとも用意された病室の中であれば問題なく生活できる。
3年前、僕の体は病に蝕まれた。
僕が患っている病の症状の一つは視力の異常だった。明るいとか暗いというのはわかるけれど、何も見えない。健康であったころの感覚でいうと、常に目を瞑っているようなものだ。 それ以外に全体的な身体能力の低下。老衰と変わらない。それらの症状は、一つの病によるものだった。
そして、その病は世界に二つだけ残された不治の病の一つだ。
一人で朝食を終え、ベットの上で伸びをしていると、足音が聞こえてきた。一応、手間のかからない患者を演じているので、布団を整え澄ました顔をして待つ。
控えめなノックが3回。その速さや力加減、聞こえてきた足跡が、誰かを教えてくれる。親友だ。昨日、大喧嘩した。
「おはようございます。夏川さん。昨日はすみませんでした」
仰々しく頭を下げる親友。僕もどう対応すべきか悩んでいていたので、大人しく相手の趣旨に付き合うことにした。
「おはようございます。先生。こちらこそご迷惑をおかけしました」
抑えきれず空気を吐き出してから、進矢は笑った。僕も大きく笑う。幼なじみに敬語を使うことがおかしいのではなく、彼が張り切って敬語で話そうとするのが変だった。本来、僕の親友は敬語で話すべき相手なのだ。変なのは彼だけである。
「一人で来ると無理だ。親友の前では簡単に外れてしまうほど、先生の皮はまだまだ薄いらしい」
そう言って、進矢は健診の準備をし、僕の座っているベットの近くに椅子を置いた。
「慣れないことはするものじゃないよ。けど安心していい。進矢は医者らしかぬ謙遜、そして技術が、腕が素晴らしい、と絶賛されてたじゃない。医者の皮はもうぴったりくっついてる」
「やめてくれ。俺はまだ学生だ。医師免許はない」
固さが少し残った声だった。僕と進矢にとって昨日の出来事はまだ尾を引いている。そして、それは僕の方に非があった。何をすべきかは古今東西決まっている。
「昨日は本当にごめん」
ほとんど直角に頭を下げたため、つむじあたりの毛が膝へとこぼれる。男のくせに長い髪だ。面倒だと言っている場合ではない。散髪を頼まないといけないな。真剣に謝っているつもりなのに、考え事は止まらなかった。
「よしてくれ。桂が俺に話してくれるのはうれしいことなんだ。ただ、昨日の話題に冷静さを保てなかっただけで。怒ってないよ」
進矢は気恥ずかしそうに咳をした。
「その話は終わり。今日の健診ちゃちゃっと終わらせようか」
僕は計器によるチェックを受けた後、決まりきった質問に答える。僕の病は身体能力を衰弱させるため、他の病気に掛かりやすいので、健診は朝晩行われる。
健診は計器のチェックと、精神状況の検査という目的で口頭質問がある。
質問の内容は何百回と同じことを繰り返せれば暗記してしまった。進矢はそれを専用の紙に記録し、平行して即座に記録媒体へと転送していく。健診の内容はプロジェクトに参加している者たちで共有できるようになっているのだ。夢の内容など、医療に関係するかわからないプライベートな項目もあるが、恥ずかしさは頭にない。そういう感覚は何度もやっていると薄れてきた。
進矢が記入している間で、既に暗記された質問を一から頭の中で問いかける。異常なし。特筆事項は――ある。鮮明な夢、もしくは幽霊の話。夢の内容についての質問には答えず、他の質問が一通り終わってから僕は言った。
「そうだ。これから話すのは、雑談半分、医療半分というところなので記録を中断してもらっていい?」
リスクがあったとしても今朝からずっと脳裏に刻まれている少女の正体を明らかにしたかった。それが何故なのかははっきりしていないし、監視が強まるなどデメリットの方が大きい。進矢の貴重な時間も潰してしまう。
場合によっては最悪の結末を迎えることとなる。包帯を取ったことが事実であれば、和多田病院のモルモットという職も失ってしまう可能性も高い。
仮に夢の話であったとしても僕が禁則を犯そうとしていたことには変わらないのだ。夢にまで出てくるというのは危険な兆候だ。そのことが悟られるのも問題だし、表面に出ない保障もないから危うい。
モルモットはルールを守ることが前提にあり、それらは簡単に破れるから、微妙なバランスで成り立っている職なのだ。
だけど、訊かずにはいられない。だから、隠すしかなかった。
僕の悪事を親友であっても話すつもりはない。言えば彼を困らせてしまうだろうし、僕にも利点もない。そうしてしまうことを悔やみはするが、そこまで病院側に従順ではなかった。たまの息抜きぐらい許してくれ。
「いいよ。もう、水くさいなあ」
進矢は身を乗り出したのか、息づかいを近くに感じた。
そこまで張りきられると言いにくいが、僕は必死に頭を使って、昨日の光景をできるだけ詳細かつ客観的に伝えた。目が見えていたという部分は省き、夢か心霊現象なのかはわからない、と付け加えて。
それが上手くいったのか、進矢の息づかいは色合いはそのままに朗らかなものから、真剣に集中しているものへと変わる。
おそらく、この切り替えの早さこそ、彼が医者になれた要因の一つだろう、と再度思った。
「なるほど」
話を聞き終えた進矢は、少し考えるからと言って黙り込んだ。
その間に僕は余計なことを考えてしまう。
どうして、こんな実のない話しかできないのだろう。よくよく整理してみれば、少女がふらりと病室に入って、出ていっただけである。ユーモアの欠片もない。けれど、僕が笑わせるつもりで話したら進矢はいつも笑うんだ。桂ちゃん、桂ちゃん、最高だよ。今も僕にその気があれば笑うんだろう。
「不可解なことが多くて、夢だと言いたいところだが」
進矢はそこで区切り、じっと僕の顔を見つめた。不思議な話だけど、視線というものは目を閉じていても感じる。声に感情に呼応した色がつくのと同じくらいわかりやすい。これらは表情よりも雄弁で偽ったり誤魔化すことはできないのだ。それ故、入院してから僕の対人スキルは向上している。
「何でも抱え込む桂が俺に言ってくれるってことは、結構な大きさの悩みなんだ。それだけ言うのは流石に気が引ける」
進矢は僕がこうなる前から、こういう人間だった。優しいという言葉は彼を形容するのに最もふさわしい。人のために悩むのを面倒と思わないのだろう。
「これが夢か心霊現象かどうか、という結論は置いといて、まず俺の疑問点から解消していこうと思う」
考えをまとめるから、と進矢は机を人差し指で何度が叩いた。正確な8ビートを刻む。
「医学側から見た意見を言うと、その子の声の色が見えなかったことよりも、桂がその時間に起きれたことの方が不思議だ。間違いなく眠りについていて、起きることがないはずの時間帯だから。そうだろう?」
「そうだよな。僕は23時には寝ていなければならないんだ。病が夜更かしもさせてくれない。言われてみれば夢だったような気もする。今更ながら、どこかで彼女を見たような記憶があるような、ないような。だから具体的なのかも」
断定ってわけじゃない、と言って進矢は笑った。
「考えてみたけど、医者としてはこれぐらいしか言えないな。事の真偽はわからない。内容に関しても短いしね。君が23時以降に目を覚まし続けられない、という条件が変わった可能性もあるけど、そうであれば今後データが取れるだろう。念のため看護師の方に多く見まわってもらうよう頼んでおくよ」
申し訳なさそうに進矢は素早く頭を下げた。
「今度は私情だよ。医者としての意見じゃない。俺の意見は簡単だ。その少女がここに入れたこと自体に恐れを感じる」
「なんでさ」
そう僕が訊くと、進矢は語気を荒げて、おい、と言った。
「ここの警備を通り抜けたんだぞ? 考えられないようなことだ。世界最高峰の機密事項が詰まったこの病院の、最重要機密を難なく見つけられるってことに少しは危機感を持ってくれ」
「そうだよな。僕はこの病院のものだっていうのに、自覚が足りなかった」
「そんなこと言うなよ。俺が言いたかったのはそう言うことじゃない。ただ、桂が狙われたんじゃないかって心配だったんだ。俺も悪かった。冷静じゃなかった」
進矢は小さな吐息をもらした。その音から得る情報は多かった。
僕がどんな表情をしていたのかはわからない。自分では進矢に感心していたつもりだったが、彼に申し訳ない、と思わせてしまうような顔だったのだろう。
だから彼はすぐに、謝罪の言葉を口にした。
進矢の長所だ。笑っているときも、謝っているときも、怒っているときでさえ、彼は綺麗な声をしている。明るく強すぎる色彩は常に美しい。子供のような無垢さを保ちながら、秀逸な頭脳を持つ。
強すぎる才覚と、万人から憧れを抱かせる心を持っている。全方位から光が差し込まれているような力強さで、人を支えることができる。
視覚を失った代わりに得た機能はしっかりそのことを示していた。
そんな僕の羨みを受信したかのように、進矢の左腕が微かに震えて、それに驚き今度は体をぴくりと動かす。
実際、僕の感情が読まれるなんて事はない。僕がある程度読めたとしても。音についた色は心情を滲ませているので、本心といっても差し支えないからだ。
しかし今回のはただの被害妄想だ。どうやら時間のようである。
「おっとマリちゃんからご催促だ」
「うん。端末に連絡するなんて、彼女も律儀だな。ノックして入ってくれたらいいのに」
「俺の時間のコントロールをしてくれるんだからありがたいよ。またあとで」
去っていく進矢に、僕は手を挙げた。
静かに扉が閉まる。この時、僕はまた安堵した。毎日、親友が隣にいることに息苦しさを感じ、離れるとほっとした。そしてそんな自分の汚い、とまた思った。
進矢、もう俺とおまえは違うんだよ。俺もおまえも変わってしまったんだ。それに気づいてくれよ。
和多田進矢は世界に求められていた。
今、この世で最も必要とされている職種が医師だ。国内で有数の病院であり、世界最高峰の研究機関でもある和多田総合病院の二番手の彼を独占するのは申し訳ない。いくら医学が進歩したとしても、不治の病は二つ残っているし、確実に治るとされている病であっても進行具合や残された時間によっては治療するのが難しくなる。それに医師の数は慢性的に足りていない。だからこそ、まだ学生である進矢が特例として治療行為を行えるのだ。
それだけでなく彼は世界で10本の指に入る実力とされている。まさに天才というわけだ。
そのような人間が僕のために時間を取ってくれている。親友だから、と言うが、僕は彼に何もしていないし、何もできない。
いつからこんな事を考え、親友に会うだけで息苦しさを感じているのだ?
また答えはでない。だからいつも頭にへばりついている。解消されることなく沈殿していく。今日は一層、濃く残っていた。
それでも、時は流れる。なので、僕は心の内にある黒い感情を隠して繕う。
進矢はもちろんだが、僕のために時間を割いてくれる人々の手をこれ以上煩わせるわけにはいかない。自分にできる最善で恩を返さねば。
マリさんが来るまで、呼吸に意識を集中させ、気持ちを落ち着けた。
「おはようございます」
きっかり進矢が退室してから3分後にマリさんが入ってきた。看護師ある彼女は、病院内端末を使えるので、来る前に必ず連絡をくれる。いつも彼女が僕と進矢の長話を止めてくれていた。
僕が挨拶を返している間に、マリさんは5歩距離を詰めて椅子着き、そのまま座った。包帯や専門の器具をベット横にあるサイドテーブルに置いていく。昨日見たものが現実なら、鏡と電灯のついた。
彼女が準備をしている間、僕はいつも世間話をする。
この時、何を話していたか数日するとはっきりしない。確率として最も高いのは進矢の話題だろう。僕には趣味が少ないため共通の話題として、彼がよく取り上げられた。僕は親友として、マリさんは看護師として関わることがあるからだ。それに彼は人格とスキルはもちろんルックスもよかったから、彼女も気になるだろう、とおっせかいの側面もある。
進矢は神に愛されたとしか思えない人間だった。
マリさんは、そんな彼が惹かれてもおかしくない女性であった。人だから気分の上下はあるだろうに、彼女は常に優しい色で僕と接してくれる。芯を持った強く柔らかい女性だった。
「そういえば、桂君と会ったのちょうど2年前なんですよ。覚えてました?」
もちろん覚えていなかったが、そろそろ2年という期間はわかっていた。毎日のように顔を合わせていれば忘れることはないし、正確な日にちこそわかないが、記憶をたどれば出会った季節ぐらい簡単に遡ることができる。だから、頷いても嘘ではない。そう思うが、僕にはもう大胆不敵に嘘を吐く技術は失われていた。
「そうだね。もう春だから。部屋の植物も元気になる時期?」
誤魔化した返事をすると、窓から差し込む暖かさ、隙間から入り込む微かな匂いを身に感じた。言葉にするとそれに集中できるのだから不思議である。
「最近、暖かくなってきましたから、咲いてきてますね。といっても基本的にその季節に合わせた花を準備してますから何かは常に咲いてますよ」
実を言うと、そんなことはわかっていた。マリさんも不思議に思ったに違いない。なぜなら、我々はよく植物の話をするし、二人の共通点として親が花屋に勤めていたというのがある。いくら男でも生まれた時から花をずっと目にしてきたのだから、知識は勝手に見についていた。そのことをもちろん彼女は知っている。
誤魔化すとつい、他の話題に逃げたがる癖だ。昔は堂々と嘘をつけたから、癖に困ることはなかったが、今ではあまりに不自然な話題を出してしまうのでやりにくい。
だが、マリさんは追及はせず、椅子から立ち上がり、僕がいるベットに座った。
「よしできた。桂君いきますよ」
マリさんの手が僕の顔にある包帯を取っていく。女性の細い指先で撫でられるとこそばゆい。
今は完治しているが、以前花粉症だったせいか鼻先をくすぐられると盛大なくしゃみをしてしまうので、必死にこらえる。
マリさんは綺麗な指の割に不器用で、包帯を取るのに四苦八苦しているようだった。そうなると密着して、僕の背中に柔らかな感触が押し当てられる。それが形を変えるほど強く密着しながら彼女は僕のもみあげと耳の間に指を滑らせて、こめかみあたりにある包帯を解いていた。
新しい包帯が巻かれるまでの間、僕は緊張する。意識を集中させ欲求に耐えなければならない。痛いほど瞑る。できることをしないというのは存外難しい。
目に包帯が当たると、また僕の背にマリさんの大きな乳房が押し当てられ、動きにあわせ形を変えていく。
時折固さを感じるのはきっとボタンだろう。そうに違いない。
心拍数がゆるやかにあがっていく。顔を紅潮させたり、息が荒くなったり、身体の一部が主張したりはしない。そこまで初ではないし、これは仕事なのだ。真剣に取り組むべきものである。
肩を叩かれ、耳元でそっと終わったことを告げられた。
僕はありがとう、と言って、部屋を出るために壁を伝う。
「今日も検査だから、すぐ済ませてくるよ」
「はい。祖谷先生ですね。いってらっしゃい」
マリさんは扉を開けて、見送ってくれた。
僕は部屋からスロープを辿って、指定された場所についた。僕の部屋もその場所も北病練の同じ階なので数分しか歩いていない。
朝と晩の簡易健診に加え、すぐ終わる検査か週に一度はある精密機器を使った検査のどちらかを受ける。ここ二年変わることのないスケジュールだ。
健診は様々な医師が担当するが、検査は祖谷先生と進矢が交互に交代して行っている。今日は祖谷先生の日だったので少し気を引き締めて部屋に入った。
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