第11話

 一行は、日暮れ前にダンスルーという町に辿り着いた。ここは、シーラム島を縦に貫くアーチボルド大山脈の北端、その麓に位置する。

 ヴァートたちはこれから、まずアーチボルド大山脈の東側に出て、しばし南下。山脈の切れ目となっているウェルナー峠にてふたたび山脈西側に出て、大河ドゥーネを船で下るという、フェオドール発案の経路をたどることになる。

 一行が取った宿は食堂つきで、料理こそいたって普通の田舎料理であったが、酒はなかなか上等であった。しかし、アリシアとフェオドールは一杯目に口をつけただけ。ふたりとも酒はあまり嗜まないのだという。

 ヴァートとカーライルにしても、兄妹の護衛を依頼されている身である。当面の危機は脱したといっても、次なる刺客が放たれていないとは限らぬ。痛飲するのは憚れるため、二、三杯を干すだけにとどめている。

 フェオドールは、カーライルが酒の肴に話す旅の話に聞き入っているところであった。

「私も、幼少のころは両親に連れられたびたびレンに行ったものだが……ここ十年以上は、故郷のフレドリン領からほとんど出ることはなかったものでね。カーライル殿のお話は、実に興味深いものだ」

 領地からほとんど出ない――それは、

(出られなかった、ということなんだろう)

 フェオドールの病身から、そう察したヴァートである。

 カーライルも、フェオドールが自らの話を目を輝かせながら聞いてくるものだから、すっかり気分が良くなったようである。旅の途中で起きた体験談を、面白おかしく披露していく。

「さて、と。俺は先に失礼します」

 泊り客たちがひとり、またひとりと食堂から退出していくなか、ヴァートも立ち上がった。

「おう。明日も早いから、寝過ごさぬようにな」

「先輩こそ、ほどほどに切り上げてくださいよ」

 食堂を出たヴァートであったが、向かったのは宿の部屋ではない。

 宿に入る際、外壁に古びた木剣が立てかけられていたのを目ざとく発見したヴァートである。宿の女将に聞くと、それは独立して家を出た宿屋の次男が、かつて剣術を学んでいた際に使用していたものだという。

 ここ二日ほど、ヴァートは鍛錬を行っていなかった。途中遭遇した二度の実戦は、長時間の鍛錬にも勝る経験となっている。鍛錬を怠ったといっても、ヴァートの腕前が下がるということはないだろう。

 しかし、毎日欠かさず行っていた基礎の素振り――ヴァートが初めてマーシャに教わったものだ――は、完全にヴァートの生活の一部となっている。これをやらずに床に入るのは、ヴァートにとって

「身体がそわそわして、落ち着かない……」

 ことであった。

 真剣は帯剣しているが、鍛錬のためとはいえそれを夜な夜な振り回す――どう見ても不審者である。

 そんな状況で、ちょうどよいところに木剣を発見したヴァートは、女将にそれを貸してもらえないかと申し出た。

「ああ、あれですか。なんなら差し上げますよ。もうだいぶ古いものだし、薪にでもしようかと思ってたところですから」

 とのことなので、ヴァートはありがたくその言葉に甘えることにした。ついでに、宿の庭を使う許可も得る。

 庭に出たヴァートは、木剣を手にする。オーハラ流の剣よりもいくぶんか大振りではあるが、重量的にはオーハラ流のそれと大差ないようだ。古ぼけてはいるが、腐敗などの大きな痛みはなく、訓練に使うには十分である。

 鼻から大きく一呼吸。

 上段に構えた剣を、一気に振り下ろす。

「違う……」

 呟いて、剣の握りの位置を小指一本分ほど下にずらしてもう一度。剣の重心がいつものものと異なっているため、握りや両足の位置、剣を振る際のふり幅や角度などを、少しずつ調整していく。

 十度ほど剣を振ったところで、ようやくヴァートの中にあった違和感が消えた。さらに三十ほど上段からの素振りを行い、左右からの袈裟懸け、横薙ぎ、そして下段からの斬り上げと、基礎の斬撃をそれぞれ三十ずつ繰り返す。普段はひとつの動作につき百回を目途にこなしていくのだが、翌日に疲れを残さないことを考えて今回は控えめの回数にとどめておく。

 一度一度の素振りを、どこまでも正確に、完璧に近い形でこなしていくかが重要な稽古である。傍から見ればさほど辛くもなさそうなのだが、全身隅々まで神経を集中させる必要があるため、特に精神力を大きく消耗する。

 すべてを終えたヴァートの額には、秋の夜にもかかわらず玉の汗が浮かんでいる。大きく息を吐いて、服の袖で汗を拭おうとしたときである。ヴァートは背後に人の気配を感じ、振り向いた。

「見事な素振りでした。あなたの力量は、こうした稽古によって培われたものなのですね」

「アリシアさん――どうしたんです、こんなところに」

 アリシアは、逡巡したかのように一瞬目を伏せ、それから口を開いた。

「お聞きしたいことがございます。どうして、私たちをお助けくださったのですか」

「前も話しましたけど――苦難があったら自ら飛び込んでいけ、ってのが師匠の教えでもありますし」

「本当にそれだけなのですか?」

 アリシアが疑問に思うのも当然のことだろう。確かに、困難というのは人を急激に成長させるものだ。しかし、いくら自分の力を高めるためとは言っても、それだけのために命懸けの戦いに身を投じる人間が、果たしてどれだけいるであろうか。

「お金目的、ってことで納得してもらえないですかね」

 困り顔で言うヴァートに、アリシアは微笑を浮かべて首を横に振った。

「御冗談を。あなたとカーライル殿は、報酬について兄上とろくな交渉もしていないではありませんか」

「参ったな……先輩はどうかわかりませんけど、いちおう俺にはお二人を助けたいと思った理由があります。でも――」

 いったん言葉を切って、ヴァートはちらりとアリシアの表情を窺った。貴族としての気品と誇り。それが、彼女の凛とした瞳には宿っている。顔かたちこそ違えど、アリシアが身にまとう空気は、ミネルヴァのそれとよく似ていた。

「――これからお話しすることは秘密にしてもらえますか」

「わが家名にかけて、お約束します」

「実は――俺と俺の家族は昔、お二人と同じように殺し屋から命を狙われたことがあるんです。どうして狙われたのか、というのはちょっとお話しできないんですが」

 アリシアが驚愕のていで両目を見開いた。

「家族は俺を逃がすために犠牲になりました。俺はなんとか逃げようとしたんですが、結局追手に捕まって殺されそうになって――そこで助けてくれたのが先生――マーシャ・グレンヴィルだったんです」

「それは、また――なんと申したらよいか――」

 申し訳なさそうな表情を浮かべるアリシアに、気にしないでください、とヴァートは先を続ける。

「俺を狙っていた奴は執念深くて、その後もいろいろあったんですけど、先生や師匠、それからたくさんの人たちに助けられて、こうして生き延びることができました。その恩に報いるためにも、今度は俺が困っている人を助けなくちゃならない。そう思うんです」

「――そうでしたか。秘密を打ち明けてくださったこと、感謝いたします」

 アリシアが、折り目正しく一礼して謝辞を述べる。ヴァートの話はかなり突飛なものであったはずだが、アリシアはそれをまったく疑っていないようである。

 顔を上げたアリシアは、ヴァートをまっすぐに見据えると口を開く。

「フェイロン殿にお願いが――今後また不測の事態に襲われたとき、恐れず戦えるよう、私を訓練していただきたいのです」

「それは――真槍・・で、ってことですよね」

 アリシアは頷いた。

「初めて刺客たちに襲われたとき――あのときは無我夢中で、どうにか抵抗することができました。しかし、今日の場合――刺客たちが襲ってくるとわかっていた、その気構えをしていたはずなのに――私は、恐怖で身体が動かなかったのです」

 アリシアは、悔しげでいて、恥じ入るような複雑な表情を浮かべていた。

 ふいに襲い掛かった危機と、あらかじめそうなると想定されていた危機。たとえば、いきなり剣で斬りかかられることと、身体が拘束された状態でゆっくりと刃物を近づけられること。どちらがより恐ろしく感じるかというのは、人それぞれだろう。

 わかっているからこそ恐ろしい、というアリシアの感情はヴァートにも理解できぬものではない。

 これまで兄妹と交わした会話やふたりの態度から、アリシアが病身の兄を護るために旅に同行しているのだということはヴァートにも容易に察せられた。そして彼女が、ミネルヴァほどではないにせよ勝ち気な性格であり、自身の槍の腕前にもそれなりの自信を持っているということも。

 クルーニー一味を撃退する際、カーライルの作戦においてアリシアは戦力として数えられていなかった。万一討ち漏らしがあって、その討ち漏らしが兄妹に向かったときのみ槍を使うよう指示されていただけだ。このこと自体彼女にとっては屈辱的だっただろう。

 加えて、いざ戦闘が始まると身体がすくんで動けなかったという。アリシアが忸怩たる思いを抱えているということは、その表情からも明らかであった。

(先輩は、『人を斬ることへの覚悟など、持たずに済むのならそれに越したことはない』と言っていた――実際、それはその通りだ)

 ヴァートも、これまで幾度かの真剣での戦いを経験している。しかし、敵の身体を剣で斬る感触には、いまだ慣れることができない。その戦いはすべてが自分や誰かの命を護るために行われたものであるにもかかわらず、である。

 しかしヴァートはそれでいいと考えている。かのマット・ブロウズ、そしてかつてのマーシャのように、人斬りの魔力というのは容易に人を狂わせる。

 人を斬ることへの嫌悪感というのは、自らを戒めるために必要なことだというのがヴァートの考えなのだ。

(でも、アリシアさんの力にもなってあげたい)

 ヴァートは、アリシアの瞳を見つめる。一歩も退く気はない。瞳が、そう語っていた。ヴァートは、小さく嘆息した。

「――わかりました」

「本当ですか!?」

「ええ。でも、俺も初めて真剣で戦ったときは無我夢中だったし、上手く教えられるかはわかりませんよ」

「もちろん、構いません」

「訓練はいつから?」

「フェイロン殿がよろしいのであれば、いまからでもお願いしたいです」

 夜も更けてきたが、多少ならば翌日に大した影響はないだろう。ヴァートはそう考える。

「それじゃあ、なにから始めたらいいかな……うーん、まずはあれ・・からか」

 ヴァートは、腰から外して壁に立てかけてあった自らの愛剣をアリシアに渡す。

「アリシアさん、剣は扱えますか」

「いちおう、基礎だけは学んでいます」

「じゃあ、抜いてください」

 言われるがまま剣を抜くと、アリシアは基本の正眼に構えた。対するヴァートはふたたび訓練用の木剣を手にする。

「うまくできるかわかりませんけど――行きますよ」

 ヴァートの両眼が、すっと細められた。

(想像しろ――眼の前には、真剣を持った強い敵――そう、先生のような――)

 眼前には、いままさに襲い掛かって来ようとする強敵。一瞬でも気を抜けば、即座に命を奪われるような状況――深い集中に入ったヴァートの身体から、不可視のなにか・・・が噴き出した。

 自らの過去を取り戻したい、そして強くなりたいと願ったあの日。ヴァートは、マーシャにやられたことを、アリシアにも試そうとしているのだ。

 ヴァートから噴出したのは、殺気――もしくは、それに近いものであった。

 かつてマーシャが見せた禍々しい殺気に比べれば、ヴァートのそれははるかに生易しいものであっただろう。しかしそのはあたりの空気を支配し、アリシアはその肌に刺すような痛みさえ感じている。

 ヴァートはゆっくりと間合いを詰めるが、アリシアはじりじりと後退するのが精一杯であった。

「ッ!?」

 アリシアの背が、宿屋の外壁にぶつかる。彼女が気を取られたその一瞬で、ヴァートは間合いを詰めると横薙ぎに木剣を振るう。

「あッ!」

 アリシアの手から剣が離れ、甲高い音を響かせて地面に転がった。

「とまあ、最初はこんな感じで。真剣勝負の空気に慣れるには、実際に体感してもらうのが一番だと思います」

「――ッ!? あ、ありがとうございいます」

 アリシアは、はっとしたように顔を上げた。完全に、ヴァートの気に呑まれてしまっていたのだ。

「いきなりこんなことを仕掛けて済みません。でも、俺も昔先生にこんなことをやられたんです」

「なるほど。あなたが経験したことだというのなら、確かなのでしょう」

 アリシアはすっかりヴァートを信用しているようだ。

「それから、敵に攻撃を当てることもはじめは躊躇してしまうと思うんです。だから、ますはこれを」

 ヴァートは、アリシアに木剣を渡す。自らは無手でアリシアと対峙した。

「アリシアさんは、防具をつけていない相手と稽古したことはありますか」

「いいえ」

 ほとんどの武術家は、アリシア同様防具なしの相手と乱取りなどはしないであろう。なぜなら、武術家というのはあくまで試合を想定して稽古を行うからだ。

「まず、木剣でもいいので生身の相手に躊躇せずに剣を向けられるようになること。そうすれば、いざというときに身体が動きやすくなると思います」

 ハミルトン道場の門弟たちも、まったく防具を着けないというわけではない。しかし、一般の武術家に比べればはるかに軽装で乱取りを行う。そして師匠たるハミルトンは、弟子たちと立ち会う際一切の防具を身に着けぬ。

 桜蓮荘においても、ミネルヴァのみが最低限の防具を身に着ける。アイは拳を保護するための布を巻き付けるだけ、マーシャはハミルトン同様防具は身に着けない。

 そのような環境で育ったというのも、初めての実戦においてヴァートの身体が自然と動いた一因であるといえよう。

「じゃあ、かかってきてください」

 防具を着けず、無手であるヴァートに対し、たとえ木剣といえども斬りかかるのが躊躇われるのも無理からぬことだ。

 なかなか一歩目を踏み出せぬアリシアに、ヴァートは

「大丈夫。思い切り来てください」

 と、自信たっぷりに声をかけた。アリシアの剣の腕が、本人の言うように

「基礎を学んだだけ……」

 であることは、その構えからも明白だ。槍を持たれたならばともかく、剣ならばまず自分に攻撃を当てることはできない――驕りたかぶりはなしに、ヴァートはあくまでも客観的にそう判断している。

 剣を持ったときのヴァートとの実力差は、アリシアも十分に感じているようである。表情を引き締めると、剣を構えなおした。

「では――行きます!!」

 勢いよく踏み込み、アリシアが上段から剣を振り下ろす。

「まだまだ、思い切りが足りませんよ!」

 ヴァートは軽い足捌きでアリシアの側面に回り込みつつ、叱咤の声をかける。ヴァートの言葉どおり、アリシアの剣にはまだ迷いがあった。

「ふッ!!」

 ヴァートの胴をめがけ、アリシアが剣を薙ごうとする。ヴァートは避けるのではなく、あえて間合いを詰めるとアリシアの手首を抑えて見せた。

「ッ!!」

 アリシアは手首を返して斬り上げを放ちつつ、大きく後ろに跳んだ。ヴァートはそれに合わせて前進し、同じ間合いを保ち続ける。アリシアは二度、三度と斬撃を放つも、ヴァートの身体にはかすりもせぬ。

(だんだんと良くはなってきているけど――まだ怖がってる感じがするな)

 ヴァートには、そんなことを考える余裕さえあった。一方のアリシアは、ひらり、ひらりと剣を避けるヴァートに焦れつつも、ヴァートほどの実力を持つ相手と乱取りをすることに少しずつ楽しみを覚えているようであった。表情が、次第に活き活きしていく。

 不意に、ヴァートの体勢が揺らいだ。宿の庭に生える雑草にでも足を取られたか――アリシアが、一気に間合いを詰めた。

「そこッ!!」

 上段からの斬り下ろし。いままでで、いちばん鋭い一撃であった。

 しかしアリシアの剣は空を斬る。彼女が気付いたとき、すでに視界にヴァートの姿はなかった。

「一本、ですね」

 アリシアの背後から、ヴァートがその首筋を軽く手刀で打った。

 エリオット・フラムスティードとの一戦以降、ヴァートは自分なりに幻惑フェイント術というものを研究するようになった。

 体勢を崩したと相手に見せかけ、その隙を狙って攻撃が放たれる瞬間、ぐっと身体を低く沈めて素早く相手の脇をすり抜ける。エリオットにはまだ劣る水準ではあるが、ヴァートが自ら考えだした幻惑術のひとつであった。

「最後の一撃は結構良かったと思います。あとは、繰り返し慣れていくしかないですね」

「――わかりました。ありがとうございます」

「じゃあ、今日のところはこのへんで止めときましょう。夜も遅いし、あんまり物音を立てると宿のお客さんにも迷惑がかかってしまうので」

 宿の客室の窓を見れば、すでに灯りが消えている部屋も多い。ふたりは簡単に汗の始末をすると、自室へと戻るのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る