第18話

 王都には二十余りの警備部詰め所が存在するが、そのいずれにも犯罪容疑者を拘留するための牢が設置されている。

 ロータス街を管轄とする第五分隊の詰め所の地下にも、三十人の収容能力を持つ牢が存在していた。

 地下の一番奥には、特に重大な罪を犯した者を収容するための独房があり、いまそこでは一人の瘦身の男が鎖に繋がれていた。

 この男が、怪盗『影法師』の一味であることは説明するまでもあるまい。

 警備部の取り調べに対し、自らの名前すら吐かなかったこの男、『影法師』の仲間うちではジョン・タイラーを名乗っていたが、これは偽名である。『影法師』に属する者たちは、みな互いに詳しい素性を明らかにしていない。そういう約束だった。すべての構成員の素性を把握しているのは、首魁のカークただ一人であった。

 彼のことを書き述べるにあたり、ここではタイラーという呼称で統一したい。

 さて、このタイラーが逮捕されてから、すでに十日ほどが経過している。

 タイラーがその・・変化に気づいたのは、二日前のことだ。

 まず、尋問の時間が減った。拷問にも等しい責め苦を与えられながらも、一言も口を割らぬタイラーに対し、警備部も匙を投げかけているのか。タイラーの尋問に割いていた人手を通常の捜査活動に充てたほうが、効率がいいという判断なのかもしれぬ。

 そして、タイラーを監視する看守の数も減った。逮捕された当初は、二人の隊員が三交代でタイラーの監視に当たっていたが、それが一人・二交代となった。定時に行われる巡回も、頻度が減っている。

 この十日間、タイラーは白状こそしなかったものの、とりわけ反抗的な態度を取っていたわけではない。『影法師』の仲間がタイラーの奪還に動いた気配もない。

 そしてタイラーは、連日の責め苦によって極度の衰弱状態にあった――これは、半分は真実であり半分は嘘であった。タイラーは確かに弱ってはいたが、彼は演技によって実際よりも体調が悪いように見せかけている。

 タイラーには逃亡の意思もなければそれを実行する体力もない。よって、特別な監視体制はもう必要なし――警備部側がそう考えたとしてもおかしくはない。

(うまくすれば、思わぬ好機が訪れるかもしれぬ)

 好機とは、脱獄に適した機会ということである。タイラーは、まだ逃走を諦めていなかった。

(まずは、この四肢を拘束する枷と鎖をなんとかせねばならん)

 手枷足枷にはそれぞれ鍵がかけられている。しかし、タイラーの技術をもってすれば、針金の一本でもあれば解錠することが可能だ。これは、牢の鉄格子にしても同様である。そして、針金はすでにタイラーの手中にあった。取り調べ室と独房を往復する際、廊下の隅に細目の釘が落ちていたのを発見したタイラーは、よろけて転んだふりをした隙に、抜け目なくそれを拾っておいたのだ。

(次に、脱出経路だ。武器もなし、そしてこの身体の状態――いかに俺といえど、複数人に囲まれれば切り抜けるのは不可能。しかるべき経路を選ばねば)

 できれば、だれにも見とがめられずに脱出を果たすのが理想であろう。仮に、実力行使をせねばならない状況に立たされたとしても、一対一の状況ならばいまのタイラーでも物音や声を上げられずに無力化することができよう。

 詰め所内の隊員の眼を盗みつつ、最小限の戦闘で外を目指す。それには、建物の構造、そして定時巡回する隊員たちの動きを把握せねばならない。幸い、建物の構造についてはこの独房に連れられた際におおよそ把握できている。地下牢の巡回については把握できているものの、地上階のことまではいかに耳を澄ませてもはっきりとはわからない。

(上に上がってから先は出たところ勝負、ということになるだろうが……まあ、それは仕方あるまい)

 タイラーの頭の中では、徐々に具体的な脱獄計画が練り上げられつつあった。




 絶好の機会が訪れたのは、それから二日後のことである。

 時刻は日の出前。それまで静謐そのものであった詰め所内が、不意にざわつき始めた。

「どうした、なんの騒ぎだ!」

「火事らしい。三番地のほうだとか。火はかなり大きいようだぞ」

「おい、何をしている! 俺たちも出るぞ!」

「よしきた!」

 などという怒号が、地下にまで響いている。

「おい、シェイン!」

「はい!」

 ひとりの隊員が、階段を駆け下りてきた。この夜看守役を務めていた若い隊員が、立ち上がって答える。

「話は聞こえたな。俺たちは消火の応援に行ってくる。あとは頼んだぞ!」

「わかりました!」

 言い残すと、先輩格らしき隊員は慌ただしく地下牢を出ていく。

 ややしばらくすると、ふたたび詰め所は静寂に包まれた。タイラーは独房の壁に耳を当て、しばらく物音を探っていたが――人の気配は感じられぬ。

 どうやら詰め所には、シェインという若者以外の隊員はほとんど残っていないようだ。

(今しかない!!)

 タイラーの決断は早かった。

 まずは、独房の隅に隠してあった針金を取り出す。それを口に咥えると、あっという間の早業で手枷の鍵を外した。両手が自由になった以上、足枷や独房の鍵はもはやタイラーの妨げにならぬ。

 十日以上四肢を拘束され続けたとあって、立ち上がろうとするだけで身体中の筋肉と関節が軋みをあげる。しかし、行動できないほどではない。

 するりと鉄格子を抜けると、タイラーは足音一つ立てずシェインの背後に忍び寄る。

「あッ…………」

 シェインが、ごく小さなうめき声を上げて昏倒する。思わず、タイラーの口に笑みが漏れた。

 ここからは、時間との勝負である。隊員たちが詰め所に戻り、異変に気が付く前にここを脱出し、できるだけ遠くまで逃げおおせなければならない。

 慎重かつ迅速に、タイラーは階段を駆け上がった。予想通り、隊員の姿は見られない。

(表門のほうには、おそらくは数人隊員がいるだろう。側面の塀を乗り越えれば、たしか人気のない裏通りに出られるはず)

 無人の詰め所内を一気に駆け抜けたタイラーは、目指す建物脇の塀まで易々と辿り着くことができた。念のため一度あたりを見回してから、素早く塀をよじ登った。

 塀と並行する通りには、人の姿は見られない。

(こうまで上手くことが運ぼうとは――ついていたな)

 ほくそ笑みつつ、タイラーは夜明け前の道を走る――その逃走劇の一部始終を、一人の人物に見られていたことも知らずに。




「うまくことが運びましたね。ついている」

 タイラーの背中を眼で追いながら呟いたのは、パメラであった。全身を黒の装束に身を包み、顔には覆面。伸縮性に富む布地で作られ、身体の線に密着する仕立ての装束は、密偵としての正装・・といえるものだ。背後には、オクリーヴ家の若手であるアーノルド・トマス・ゴードンの三人が控えている。

「では、私が先行して尾行します。あなたたちは三方に散り、私から距離をとって着いてくること」

 さすがのパメラである。タイラーも隠密行動に関しては高い技能を持つはずだが、パメラと比べれば雲泥の差と言わざるをえまい。一定の距離を保って尾行を行うパメラの気配を、タイラーはまるで感知できていない。

 最初こそ背後を気にしながら走っていたタイラーであったが、詰め所を離れ、ロータス街を出たあたりまで来ると、警戒は一気に緩まった。尾行するパメラとしては、俄然やりやすくなったわけだ。

 タイラーはやがて、レヴァント街という街に入った。ここは、レン港と隣接する区域で、船乗りや港湾労働者などが多く居を構える。

 海の男というのは概して気性が荒い。また、陸に上がった海の男の娯楽といえば飲む打つ買うと相場が決まっているため、レヴァント街には多くの酒場、娼館が立ち並ぶ。このような立地であるから、治安はあまりよろしくない。

 道には夜通し痛飲したか、あるいは女を抱いたかした朝帰り・・・の男の姿もちらほら見られるようになっている。

 タイラーといえば、独房から逃げ出したときのままの装いであるから、下着の上に申し訳程度の衣類を身に着けただけの状態だ。ようやく寒さの盛りが過ぎた時節ゆえ、そのような服装は当然目立つ。必然、人の少ない通りを選んで先へ進んでいく。

 やがてタイラーは、レヴァント街の一角にある、倉庫が連なる区域にて足を止めた。彼の眼前にあるのは、何の変哲もない一軒の倉庫である。タイラーはここで一度周囲を見渡したのち、倉庫の扉を潜った。

(なるほど。ここはどうやら『影法師』の根城の一つ――あるいは、不測の事態が発生したときに駆け込む隠れ家か)

 タイラーが入っていった倉庫のはす向かいに位置する民家の屋根の上から、パメラがその様子を見守っていた。

 少しの間を置いて、アーノルドら三人が追い付いてくる。

「パメラ様、遅れまして申し訳ありません」

「いえ、上出来です」

 複数人で協調して尾行を行う場合、それぞれがある程度の物理的・時間的間隔を保ったほうが、互いに連携が取りやすいし相手にも気取られにくいものだ。

 三人がパメラからやや遅れて到着したのは、基本に忠実に尾行を行ったことの証左に他ならない。

「あの盗賊の男は、心身ともに衰弱しているはず。しばらくは倉庫内に身を潜め、体力の回復を待つ可能性が高いでしょう」

「はい。ですから、あの男自身よりも、倉庫を出入りする人間に目を光らせ、誰と連絡を取ろうとするのか――それを明らかにせよ。そういうことですね」

「ええ。ですが、決して深追いはしないように。こちらの動きを悟られるくらいなら、いっそ相手の動きを見失ってしまってもいい。そのくらいの慎重さで行動するように」

「心得ました」

「任せましたよ。私は一度、お嬢様とグレンヴィル様に報告に戻りますので」




 いくつかの偶然と、タイラーの優れた手腕により実現したように見える今回の脱獄であるが――賢明なる読者諸兄は、すでにお気づきだろう。これはすべて、第五分隊長レイ・コーネリアスによってそうなるように誘導され、仕組まれたものだ。要するに、タイラーは本人がそれとは知らぬまま、わざと逃がされた。そういうことだ。偶発的な出来事といったら、実際にロータス街で火事が起こったことくらいなものである。

 徐々にタイラーに対する警戒を緩めたのも、火災に際し詰所のほとんどの隊員が出動させられたのも、すべて自然な形でタイラーに脱獄の機会を与えるためであった。

 タイラー自身がこの作戦に気づかなかったのは、第五分隊の隊員たちも作戦のことを知らされぬまま動いていたからに他ならぬ。彼らはみな、コーネリアスの指示に粛々と従っていたにすぎない。そしてコーネリアスの指示は、すべてごく妥当な理由に基づくものであった。

 タイラーとしては、詰め所での隊員たちの勤務体制を観察し、思慮を巡らせてこの脱獄を敢行した。自分ではそう思い込んでいる。しかしそれはすべて、コーネリアスの掌の上で踊らされていただけなのだった。

 鍵を開けるのに使われた釘にしても、あれはコーネリアスの手による仕込み・・・である。

 いったん捕縛した容疑者をあえて逃がす意味。それは、タイラーをいわば撒き餌にして、『影法師』を一網打尽にすることだ。

 上手く逃げおおせたタイラーが次にすることはなにか。いうまでもなく、それは、何らかの形で『影法師』の仲間と連絡を取ることだ。そして、タイラーが連絡を取った相手を知ることができれば、『影法師』の正体に一気に迫れることになるかもしれない。

 このような手法は、犯罪捜査でしばし使われる。しかし今回の場合に大きな障害となったのが、タイラーがきわめて高い技能を持っているということである。

 タイラーを囮とする以上、警備部側の動きを悟られることは作戦の失敗を意味する。それだけに、尾行者がタイラーに気取られることは絶対にあってはならない。

 警備部内にも、尾行を得意とする腕利きがいないこともない。しかし、タイラーを相手とするとなると、みないま一つ心もとないというのが現状であった。

 そこで、「尾行術の専門家」として部長アークランドによって推薦されたのが、パメラだったのだ。

 時をさかのぼること三日前。

 コーネリアスが、ひとり桜蓮荘を訪れている。

「実は、れいの怪盗の捜査に際し、尾行術に長けた人材が必要でして。すると、上役のアークランド部長が、『お前の知己のマーシャ・グレンヴィルなら、そのような人間に心当たりがあるはずだ』と申しまして」

 と、訝しげにマーシャに尋ねたものである。マーシャからマクガヴァンを経由し、アークランドに情報が伝わったのは言うまでもない。

「ええ、たしかに。それで、コーネリアス殿――その人物をご紹介する前に、いくつかお話ししなければならないことがあります」

 と前置きすると、マーシャはサディアス――この場では、サディアスが用いる変名の一つであるエイベルで話を通したが――が個人的な因縁から怪盗を追っていたこと、その結果警備部がまだ知らないいくつかの情報を掴んでいることを正直に話した。サディアスの本来の帰属など、いくつかの事実をぼかしておいてはいたのだが。

「なるほど……あいわかりました。そのエイベル殿・・・・・については、深く追求しませんよ」

「よいのですか」

「ええ。私どもとしては、最終的に怪盗を全員捕縛できさえすればいいのです。その過程で、外部の人間の多少の・・・介入があったとしても、問題にはしませんとも」

「ありがとうございます……このご恩には必ず報いましょう」

「ご恩を受けているのはこちらのほうです。ほれ、この左腕、あなたがいなければこんな怪我だけでは済まなかったはずですから」

 と、「魔剣」騒動の際に骨折した左腕を、マーシャに示して見せるコーネリアスであった。




「パメラ、あれでよかったのだな」

 コーネリアスが桜蓮荘を辞去してから、マーシャはパメラに問いかけた。

「はい。ミネルヴァ様にも相談の上です。思えば父は、カークを討つことのみに腐心し、怪盗による被害を食い止めることは考えていなかったようにございます。身内の恥を人知れず葬り去ることが、自らの義務だと考えていたのでしょう。しかし、たとえ世間に恥を晒すことになろうとも、世に仇なす怪盗を捕らえることを先に考えるべきにございました。それが、フォーサイス家に仕えるものとしての使命かと存じます」

「しかし――お前個人もカークと因縁があるのではないのかな」

 これは、パメラの口からは語られていないことだ。しかし、パメラの態度から、マーシャは彼女がカークに対し「一族の裏切り者」ということとは別の思いを抱いていると感じていた。

「確かに――ほんの少し前・・・・・・までの私ならば、そうだったでしょう。しかし、今の私にとっては、もはやさほど重要なことではないのです」

「お前がそう言うのなら、そうなのだろう」

 パメラの言う「ほんの少し前」とは、ホプキンズの診療所前で、ミネルヴァと心を通わす前のことか――マーシャは、そう推察する。

 しかし、カークのこにと言及するたび、パメラの表情がほんのわずかに曇るのを、マーシャは見逃さない。

(やはり、なんとかしてカークと一対一で接触する場面を設けてやるべきだな)

 でなければ、パメラに悔いが残るに違いない――マーシャはそう感じていた。

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