第3話
翌日の昼下がり、マーシャはフォサース家の邸宅をおとなった。
フォーサイス邸は、環状構造のレン新市街の外縁部に位置する。余計な装飾などはなく、まさに質実剛健といったつくりの建物は、持ち主の思想をそのまま体現しているといっていい。
マーシャがここを訪れたのは、久方ぶりに自領からレンに戻った公爵ギルバート・フォーサイスと面会するためだ。まったくの無傷だったとはいえ、曲者の襲撃を受けたと聞いたマーシャである。公爵は肉体的にも精神的にも頑強な人物であることはマーシャも重々承知しているけれども、それでも公爵が心配になるのが人の情というものだ。
顔なじみの老執事に邸内に招き入れられたマーシャであるが、あいにく公爵は不在であった。国軍省にかかわる用事があるとのことだ。
「旦那様は、程なくお戻りになられる予定にございます。しばしお待ちくだいませ」
と、サロンにて歓待を受けた。
ちなみに、ミネルヴァと公爵夫人はともに、フォーサイス家との付き合いの深いとある貴族に招かれているという。屋敷に戻るのは、晩餐を終えてからになる予定だとか。
老執事と世間話をしつつ公爵を待つマーシャであったが、待てど暮らせど公爵は戻らぬ。
「おかしいですな。すぐに戻ると仰っていたのですが……」
執事もしきりに首をかしげる。
日も傾き始め、
(また明日にでも出直すか……)
とマーシャが腰を浮かせかけたそのときである。執事が、公爵の帰宅を告げた。
マーシャは、つい
いまひとり――ごく特徴のない足音である。しかし、マーシャにかかれば、足音の主が特殊な訓練を受けた人間であることがわかる。
ふたりの足音がサロンのドアの手前まで達したとき、マーシャは不意にあたりの空気が張り詰めるのを感じた。
公爵に付き従うもう一人の人物が、扉の向こうのマーシャに対し、強い警戒心を発しているのである。
と、ドアが開き、公爵がサロンに入ってきた。
「待たせてしまったようで済まぬな、マーシャよ。それからサディアス、マーシャ相手に
公爵は、背後の人物にそう苦言を呈した。
公爵の言う
その男――サディアス・オクリーヴは、
「申し訳ござりませぬ。しかし、御館様の御身をお守りするのがわが使命ゆえ。いかに御館様のお言葉でも、曲げるわけには参りませぬ」
と、厳しい表情で答える。
サディアスは、五十がらみの痩身の男だ。身のこなしは常にきびきびとして隙がない。細面に短く刈り込まれた頭髪。両眼は、常に鋭い眼光を湛えている。
「何十年の付き合いだが、おぬしも本当に頑固な男よ。まったく困ったものだ」
公爵が、大きく嘆息する。
「ギルバート様、私は気にしておりませぬゆえ。サディアス殿も、お久しぶりにございます」
マーシャが、とりなすように言う。
「失礼いたしました、グレンヴィル殿。ご理解いただき感謝いたしますぞ」
サディアスはマーシャに一礼すると、あるじの後ろに控えた。
長年公爵に仕え、その身辺を護る役割を担ってきたのがこのサディアスという男だ。
要人の身辺を警護するうえで、常に念頭に置かねばならぬ心得、それは「相手が誰であろうと信用するな」ということだ。
公爵に近づく人間は、たとえ公爵とごく親しい人間であろうと、
「もしこの人物が、公爵の命を狙う人間であったなら――」
と仮定して、警戒を怠らない。実際、信じていた親しい人物に裏切られ、寝首をかかれた人間というのは過去に多く存在するのだ。
ゆえに、サディアスは油断しない。公爵と接触する人間には、等しく警戒心を持って対する。それは、たとえ相手が自らの肉親だろうと、はたまた国王であろうと、変わらないだろう。
「ギルバート様、ご領地のほうで、曲者に襲われたとか――」
「うむ。しかし、騒ぎ立てるほどのことではないわ。あの程度の相手、わし一人でも十分だったわい」
公爵と談笑を始めたマーシャを見やりつつ、サディアスは考える。
(このグレンヴィル殿が、フォーサイス家に仇なす側の人間でないことは、神に感謝せねばならぬ)
そのことだ。
もしマーシャが刃を持って公爵に襲い掛かったならば、オクリーヴ家の頭領たるサディアスがその命を投げ捨てる覚悟で立ちふさがったとしても、
(ひとたまりもなく、やられてしまうであろう……)
というのが、サディアスの客観的な判断である。
サディアスには、眼に入るすべての人間の戦力を推し量ろうとする
鋭い観察眼を持つサディアスであるが、マーシャの真の実力だけは彼の眼をもってしても見極めることができぬ。
マーシャの実力を推し量ろうとするとき、サディアスはまるで
(地獄の深淵を覗き込んだような……)
こころもちになる。
それだけ、マーシャの力は底が知れないということだ。
「ときにギルバート様――王都を騒がす『怪盗』の噂、ご存知でしょうか」
と、二人の会話は怪盗騒ぎのことに及んだ。
「うむ。小耳に挟んだ程度、ではあるが」
「なかなか尻尾を掴ませぬ相手だとか。私の知己にも警備部の隊員が何人かおりますが、みな多忙をきわめている様子です」
「それは憂慮すべき事態ではある。怪盗を追うことを優先させた結果、レンの治安が悪化するようではいかぬからな」
顎鬚を撫でつつ、公爵はしばし考える。
「そうさな、さし当たっては警備部のほうに人員を回すよう、国軍省のほうに働きかけてみるとしよう。ただ、いま国軍省は少々ごたついておってな。増員は時間がかかるかもしれぬ」
「ごたついている、とは――いえ、立ち入ったことをお聞きしてしまいました」
「いや、構わぬよ。いまの国軍省の内情は、多くの人間が知るところ。今日マーシャを待たせてしまったのも、
と、公爵は語りだした。
前年に長年勤めた国軍大臣を辞めた公爵であるが、軍に対する影響力はいまだ強く、ことあるごとに会議に呼ばれては、意見を求められる。このことは、かつて『剣士マーシャの酔憶』の章においても語られている。
いま、国軍省を揺るがしているのは、次期大臣の選定問題だ。
現職の大臣は、ルーサー・マードックという男である。
マードックは、七大公爵家の筆頭というべき存在、ランス家の分家の出で、長年公爵の右腕として仕えてきた。
公爵が後継者を指名する際、自らの息子に世襲させるだろうとのもっぱらの予想を覆し、大臣に抜擢されたのがこのマードックであった。
公爵によれば、マードックは優れた将の資質を持つという。これは、たんに戦場の最前線で兵を指揮する能力が高いことを意味するものではない。
「いまどき、勇猛なだけでは王国軍の
公爵は、常々こう口にしている。
さて、公爵にその能力を認められたマードックであったが、大臣の就任二年目を待たずして、大病を患った。
一命は取り留めたものの、マードックの身体は酷く衰弱し、公務を続けることは困難となってしまったのだ。
そこで、後継問題が起こったというわけだ。
「なにしろ王国軍というのは、多くの国家予算がつぎ込まれている。ということは、それだけ多くの利権が発生するということだ。大臣が誰になるのか、それによって得をする者もいれば、損をする者もいる。いまの国軍省は、いくつかの派閥に分かれ、身内で争っている状態なのだ。まこと、嘆かわしいことよ」
と、公爵は吐き捨てるように言った。自身が大臣職にあったときも、この利権争いに大いに悩まされた公爵である。ついついマーシャに愚痴をこぼすのも、無理からぬことだ。
「つまらぬ話を聞かせてしまったな。許せ」
「とんでもございませぬ。ときに、れいの怪盗の話なのですが」
と、マーシャが話題の軌道修正をした。
「その首領らしき男が、『隻眼の暗器遣いである』との情報を小耳に挟んだのです」
マーシャは、ちらりとサディアスを見た。
オクリーヴ家の郎党は、みな暗器術を習得している。隠し武器の扱いというのは、言うまでもなく密偵にとって重要な技術だ。
そのオクリーヴ家の頭領たるサディアスならば、暗器術に長けた人間にも明るいはず――マーシャが屋敷を訪れたのは、サディアスの意見を聞くためでもあった。
「どうだ、サディアス。心当たりはないか」
公爵に促され、サディアスはしばし黙考する。
「……申し訳ござりませぬが、思い当たる人物はおりませぬ」
眉ひとつ動かさず、そう答えた。
「……左様ですか。では、時間も時間ゆえ、私はそろそろ失礼いたします」
晩餐に付き合ってくれとしきりに引き止める公爵を振り切って、マーシャは屋敷を辞去した。
「収穫はなし、か」
マーシャがぽつりと呟く。しかし気にかかるのは、サディアスの見せた態度である。件の暗器遣いの話について、マーシャは、
(サディアス殿は、なにか隠し事をしている……)
そんな気がしている。
マーシャの質問を受けたサディアスは、まるで感情の動きを見せなかった。しかし、まったく表情を変えなかったというのは、
(かえって、怪しい……)
まるで、内心の動揺を押し殺しているかのように、マーシャは感じたのだ。
サディアスはフォーサイス家の忠実な僕である。公爵相手に隠し事などをする男ではない。が、それはその場にマーシャがいなければの話だ。
いかにマーシャが公爵から全幅の信頼を受けているといっても、サディアスからしてみればあくまで部外者だ。
公爵には語ることができても、マーシャには語ることができないという類の話もあるだろう。
公爵も、サディアスが何か隠していることには気付いているはずだ。しかし公爵は、彼が語らぬのなら、無理に話を聞きだそうとはしない。それがフォーサイス家にとって必要なことだと判断したなら、自発的に話し出すはず――公爵は、サディアスの性向は知り尽くしている。
もっとも、サディアスが隠し事をしているというのも、あくまで「そんな気がする」程度のものだ。もともと、サディアスは滅多なことで感情を表に出す男ではない。なので、マーシャの推量にはなんの根拠もない。
(ともかく、警備部の増員をお考えいただけたのは幸い。コーネリアス殿もシェインの奴も、これで少しは楽になればよいのだが)
白い息を吐きつつ、すっかり暗くなった家路を歩くマーシャであった。
「しくじったそうだな」
そう言ったのは、四十がらみの商人風の身なりの男だった。
「ああ。ランドルフが雇った傭兵の中に、ひとり凄まじい遣い手がいた。あの場は、逃げるしかなかった」
どうやらそこは、広い廃屋の一室であるようだ。壁はぼろぼろに剥がれ落ち、天井の裂け目からはきらめく星空が垣間見える。
「まあ、よいわ。この程度のことは、想定の範囲内だ。ただ、二度のしくじりは許さぬとわが
商人風の男の叱責に、隻眼の男は鼻を鳴らすのみだ。
「……それで、次の獲物は決まったのか」
「まだ決まっておらぬ。此度の失敗で、次はより慎重を期せねばならなくなったのでな」
「そいつは済まなかったな」
謝罪はしたものの、隻眼の男にはまるで悪びれる様子がない。今度は、商人風の男が鼻を鳴らした。
「ともかく、計画が固まりしだいいつものやり方で
隻眼の男が頷く。
「それから、奪った金の分配についてだが――」
「俺は、金欲しさにあんたらに協力してるわけじゃない。何度も言ったはずだ」
隻眼の男の言葉には、形容しがたい凄みがあった。金に興味がないというのも、本当なのだろう。
「わ、わかった……」
商人風の男は、男に射竦められ、完全に気圧されたようであった。
「話はそれだけか」
「ああ――いや、最後に一つだけ。お前はその眼を見られているはずだ。迂闊な外出は控えるのだぞ」
「言われるまでもない。俺も、そこまで警備部を舐めているわけではない」
「うむ。くれぐれも、油断するなよ」
最後にもう一度念を押して、商人風の男は去っていく。
隻眼の男は、傍らの酒瓶を手に取ると、一気に呷った。
「くくく。こんな形で、復讐の機会が得られようとは。あの連中にも、感謝せねばならんな」
笑みを浮かべる隻眼の男。しかし、その右眼を染め上げるのは、深い憎しみの色であった。
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