第3話
その日のうちに、マーシャはレンの東の外れにあるというエッシュ流の道場に向かった。
その道場は、まわりを農地で囲まれた、レン郊外と言っていい場所にある。
広い敷地と大きな道場、そして道場の建物の脇にはこぢんまりとした母屋。ローウェル道場と似た趣を持つその道場の正門には、「エッシュ流・エルド道場」との看板が掲げられている。
「ごめんください、どなたかいらっしゃらないか」
マーシャが道場の扉を叩く。
「はい、何か御用ですか」
応対したのは、年若い門下生である。
「マーシャ・グレンヴィルと申します。道場のあるじ殿はいらっしゃるか」
マーシャの名を聞き、門下生は吃驚したような表情を見せる。引退して五年以上だが、かつてシーラント武術界で最大の知名度を持っていたといても過言でないマーシャであるから、無理もないだろう。
母屋に案内されたマーシャは、四代目道場主であるフレデリク・エルドなる初老の男の歓待を受けた。
「いやあ、かの『雲霞一断』がお見えとは。いったいなんのご用向きですかな」
「はい。今度のマルグリット杯に、ケネス・カッセルズ殿が出場されると聞きまして。久々にお会いしてご挨拶したいと思ったのですが、滞在先がわからない。そこで、レン唯一のエッシュ流道場であるここなら、カッセルズ殿の滞在先をご存知かと思いまして」
「なるほど。あなたとカッセルズ、かつてはマルグリット杯で激闘を繰り広げた間柄でしたな。たしかに、カッセルズは一昨日当道場を訪れましたよ。奴は、私の弟弟子の弟子――私からすれば
マルグリット杯のような大きな大会に出る場合、普通は早めに会場付近の町に入って調整を行うものだ。カッセルズもすでにレンに入っているのではないか――マーシャの予想は当たっていた。
エルドは、挨拶に訪れたカッセルズに対し、泊まって行くよう勧めたが、
「カッセルズの遠縁にあたるお人が、レン市内で宿を経営しているとかで、そこに逗留すると」
「宿の場所は?」
「詳しくは聞いておりませぬが……シスル街にある宿だそうです」
マーシャは、エルドの世間話にひとしきり付き合ったのち、丁寧に礼を述べて道場をあとにした。
「シスル街か。これは少々骨が折れそうだ」
歩きながら、マーシャが思わず独り言を漏らした。
シスル街は、下町の問屋街に隣接する区域だ。輸送業に携わる人々や、問屋に商品を買い付けに来る商人たちなど、問屋街にはレンの外からたくさんの人間が訪れる。そして、シスル街にはその人々を受け入れるための宿が多数存在するのだ。その数は五十軒以上にもなると言われており、カッセルズの宿泊先を割り出すのには時間がかかるだろう。
さて、なぜマーシャがカッセルズの居場所を知ろうとしたのは、無論彼に挨拶するためではない。ハモンド襲撃事件に関連してのことだ。
他の出場者に怪我を負わせることで、大会を有利に進める。マルグリット杯に出場する何者かの思惑により、ハモンドが襲われたとしたら――その可能性を考えたのである。
世間の耳目を集めるマルグリット杯であるから、あからさまに闇討ちなどをすれば、他の出場者に疑惑の眼が向けられるだろう。しかし、スリに扮すれば、単なるごろつきの仕業だと思わせることが可能だ。しかも、マルグリット杯の出場者には武術家としての矜持があるから、ハモンドのように通報もせず、泣き寝入りする可能性が高い。
そして、マルグリット杯の優勝を狙う何者かの犯行ということになれば、優勝候補筆頭といわれるカッセルズも目をつけられるのが自然だろう。
いささか薄い根拠ではあるが――カッセルズを見張っていれば、ハモンドを襲った何者かが尻尾を出すかもしれぬ。マーシャはそう考えたのだ。
マーシャが桜蓮荘に戻ったのは、夕方近くになってからのことだ。
中庭では、アイとミネルヴァが対峙していた。
ローウェル道場から人を出してもらい、この日の稽古はできない旨フォーサイス家の屋敷に連絡したのだが、ミネルヴァとは行き違いとなってしまったようである。しまった、と思いながらも、マーシャは二人の立会いを見守る。
二人の距離は、まだ遠い。大剣を肩にかつぐミネルヴァの表情からは緊張が見て取れるが、アイにはまだ余裕があるようだ。
とにかく、ミネルヴァはアイとの相性が悪い。懐に入られると途端に不利になるミネルヴァに対し、アイはマーシャ以上の速力を持つ。
ミネルヴァとしても、一度勢いづいて剣を振るうことができれば状況は変わる。回転を利用した竜巻の如き連撃は、間合いの短い相手をなかなか寄せ付けないのだ。いかにアイといえど、その場合素手の不利が出てくる。
ミネルヴァがじり、と間合いを詰めるが。アイはすっと退いて間合いを外す。この勝負、間合いを制し、自分の呼吸で先制攻撃を仕掛けたほうが有利である。
ミネルヴァの重心がわずかに動いたのを、マーシャは見逃さない。
(仕掛けるか――しかし、そのまま打ちかかるのではアイには通じぬぞ、ミネルヴァ様)
マーシャ同様、アイもミネルヴァの動きに気付いていよう。そのまま剣を振るおうとすれば、まさにそのときを狙っていたアイに動作の
ミネルヴァの肩がぴくりと動いた。
同時に踏み込むアイであったが――ミネルヴァは意外な行動に出た。大きく後ろに跳んで、距離を取ったのだ。
すでに加速の体勢に入っていたアイの身体は、容易には止まらぬ。ミネルヴァは幻惑をひとつ入れることで、自分に有利な間合いを作り出したのだ。単純ではあるけれども、アイをも惑わすほどその
「はぁッ!!」
ミネルヴァの大剣が、アイの肩口に迫る。木剣とはいえ、喰らえば負傷は免れぬ呵責のない斬撃だ。しかし、マーシャ同様、手心を加えて勝てる相手でないことは、ミネルヴァも過去の立会いで理解している。力を抜くことは、格上のアイに対して失礼であるということも同様に理解していた。
「なんの!」
並の武術家ならば、勝負は決まっていただろう。しかし、ミネルヴァの剣は地面を打った。
アイは、まずミネルヴァの剣を手甲で防いだ。しかし、手甲では重厚なミネルヴァの剣の威力をすべて防ぐことはできない。アイは、剣が手甲が触れたその瞬間に、肘・肩・腰、そして膝の関節を同時に回転させることにより、ミネルヴァの剣の軌跡を斜め方向に逸らしたのである。
初撃をかわしたことにより、間合いは完全にアイ有利となった。
「ふッ!」
「くうッ!?」
アイの繰り出した右拳を、ミネルヴァは辛うじて回避する。しかし、続けざまに振るわれたアイの左足が、ミネルヴァの両足を刈り取った。
たまらずミネルヴァが転倒し、拳をつきつけられたところで勝負ありとなった。
「ありがとうございました……つうっ、アイさんの蹴りは効きますわね」
アイの蹴りで足が痺れたのだろう。ミネルヴァは剣を支えに立ち上がった。
「ミネルヴァ様もいい攻撃にござった。いまのは某もやられたかと思ったでござる」
しかし、アイがまだ実力のすべてを見せていないことはミネルヴァもわかっている。アイはまだ靴を脱いでいない。
マーシャと立ち会う際、アイは必ず靴を脱ぐ。強靭な足指を用いることにより、オネガ流はその真価を発揮するからだ。
そしてそのアイも、いまだマーシャから一本すら取れていない。
「ふう、先生の域に達するにはまだまだ時間がかかりそうですわね」
ミネルヴァは、さらなる闘志を燃やしている。彼女の目指す場所は、はるか遠い。
「ふたりとも、お見事」
マーシャが、拍手しながら歩み寄った。
「ミネルヴァ様、本日は申し訳ありませんでした。お屋敷のほうには使いを出したのですが――」
「いえ、お気になさらないでくださいまし。先生の代わりに、アイさんにみっちり相手をしていただきましたから」
「アイも、済まなかったな」
「某のほうもお気遣いは無用。実にいい稽古になったでござる」
アイは、にっこり笑って答えた。
「先生、本日はどういったご用件でしたの? 桜蓮荘の方からは朝早くからお出かけになったと聞きましたが」
午前中いっぱい惰眠を貪ることも多いマーシャが、早朝から出かけるというのは、彼女をよく知る者からすれば相当な異常事態である。
マーシャは、ハモンドが暴漢に襲われ負傷したこと、疑念を抱えてエッシュ流のエルド道場を訪ねたことを話した。
「ほかの出場者を陥れる……そのようなことが許されるはずがありませんわ」
話を聞き、ミネルヴァが憤慨する。
「いや、まだそうと決まったわけではありません。あくまで私ひとりの思いつきに過ぎないのですから」
「しかし先生、あの|
アイも、眉間に皺を寄せている。
「先生も、黙って見ているおつもりではないのでしょう?」
「無論です、ミネルヴァ様。さしあたって、ケネス・カッセルズの居場所を突き止めようと考えています」
マーシャは、エルド道場で知り得た情報を語る。
「なるほど、それは骨にござるな。明日は現場の仕事もござらぬゆえ、是非、某にも助力させていただきたい」
「私もお手伝いしたいのですけれど――」
そこで、パメラが口を開いた。自分から発言するのは、彼女にしては珍しい。
「お嬢様のお手を煩わすわけには参りません。僭越ながら、私がお手伝いさせていただきます」
情報収集の専門家であるパメラが手伝うのなら、マーシャの調査は捗るだろう。
「ありがとう、パメラ。ミネルヴァ様、よろしいか」
ミネルヴァは若干面白くなさそうに頷いた。世間慣れしていないミネルヴァには、この手の情報収集は向かない。それは、自身も理解している。
「では、ふたりとも、明日はよろしく頼む」
と、マーシャは頼もしい援軍に感謝した。
翌朝から、三人の調査は開始された。シスル街にある宿屋を、手分けして片端から当たって行くのだ。
適当な理由をでっちあげ、宿屋の主人にカッセルズらしき人物が泊まっていないか聞き込むのだが、中には宿泊客について他言しようとしない宿もある。その場合、マーシャの記憶をもとにパメラが描いた人相書きをもとに、ほかの宿泊客に聞き込みをする。
お昼時、三人は予め示し合わせておいた飯屋で落ち合った。
「結果はどうだった」
「某のほうは、九軒回ったが空振りにござった」
「私も似たようなものだ。パメラは?」
この日のパメラは、女性用の剣術着を身につけ、髪をひとつ結びにくくっている。武術家を探すのが目的であるから、武術を嗜んでいる人間を装うのが自然と考えてのことだ。
「私は十六軒の宿を回りましたが、カッセルズなる人物は見つかりませんでした」
マーシャたちの倍近くの宿の調査を終えているあたりは、さすが専門家である。
「半分以上は回ったことになるな。もうひと頑張りだ」
マーシャの言葉に、ふたりは頷く。
マーシャがケネス・カッセルズの宿泊先を突き止めたのは、日が傾き始めたころのことだった。
シスル街の裏通りに面した、小規模な宿屋である。
「こちらに、ケネス・カッセルズというお方が逗留されていないかな」
マーシャが、入り口で受付をしていたあるじと思しき中年男に尋ねる。胴回りが太めで、愛想のいい男だ。
「ええ、たしかにカッセルズ殿はうちにお泊りですよ。なにかご用ですか?」
「カッセルズ殿とは、ちょっとした知り合いでして。エルド道場で偶然彼の話を聞き、訪ねてみようと思った次第です」
「そうですか。しかし、あいにくカッセルズ殿は外出されています」
「なるほど、それは残念」
「お待ちになりますか?」
マーシャは考える。
カッセルズに事情を話し、協力を求めるのもひとつの手ではある。しかし、因縁の相手である自分の頼みを、素直に受け入れるだろうか。
それに、カッセルズは大事な試合を控えた身である。試合に向けて調整中であろう彼に手を借りるのは、さすがに申し訳ないと思う。
「いえ、これから用事がありますので。今日のところはこれにて失礼いたします」
ここでカッセルズが不在だったのは幸運だったかも知れぬ、そうマーシャは考えた。
「よろしければ、言伝などお預かりしますよ」
「それにも及びませぬ。大した用事ではありませぬゆえ、私が訪ねてきたことも、別段伝える必要はありませんよ」
そう言って、マーシャは宿を辞した。
「まずはふたりと落ち合って、作戦を練るとしよう」
と、マーシャは昼に集合場所として使った飯屋に足を向けるのだった。
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