第2話

 夕刻。

 マーシャは、アイの部屋を訪れた。

「よくぞいらっしゃいました、先生」

 アイは前掛けで手を拭いながらマーシャを迎え入れた。

 あのグレン・ウェンライトの事件以来、アイは引き続きこの桜蓮荘に暮らしている。

「おや、少し早かったかな」

「いいえ、ちょうど全て準備が整ったところにござりますゆえ。ささ、どうぞ」

 と、アイは食卓の椅子を引く。

「すまない。さ、これを」

 マーシャが差し出した手提げ袋の中身は、赤と白のワインが一本ずつ。アイが振舞うという手料理への礼の品だ。

「今日はお招きいただき感謝するよ。しかし、どうしてまた急に?」

「このほど、ようやくこれ・・が完成したもので。せっかくだから、先生にも賞味いただきたいと思ったのでござるよ」

 アイが両手で包み込めるほどの大きさの壷をマーシャに見せる。中には、赤茶色の粘土のような物体が入っていた。

「これは……?」

「故国の伝統的な調味料にござる。パプイェと申しまして、向こうでは台所に欠かせぬものにござるよ」

 アイ促され、マーシャは匙でひと掬いして口に含んでみる。強い塩気がまず先に来て、その後にえも言われぬ芳醇な旨みと香り、そしてわずかな酸味が口と鼻腔に広がる。

「ううむ……味わったことのない味だが、これはなかなか」

「こちらに来てからずっとこのパプイェを作ろうと試みておりましたが、このほどようやく納得いくものが出来上がったのでござる」

 パプイェは大豆を原料とした一種の発酵食品だ。アイはシーラントに渡ってきた際、パプイェのもととなる酵母を持ち込んでいたのである。

 アイの故国・ゲトナーでは、各家庭ごとにこのパプイェが手作りされていて、味もその家庭によって千差万別である。

 ゲトナーでは「嫁を選ぶときは顔を見るよりも先にパプイェの味を見ろ」などと言われる。いくら見目麗しい嫁を娶ったとしても、パプイェの好みが合わないと結婚生活は続かないという意である。ゲトナーの人間にとって、パプイェとはそれほど生活と密接に関わっているものなのだ。

 さて、この日アイニッキが用意した料理であるが、まずパプイェと柑橘の絞り汁で味を調えたドレッシングを用いたサラダ。豚肉と多種の根菜を煮立て、パプイェを溶かし込んだスープ。半身の白身魚にパプイェを塗りつけ、その上から摩り下ろしたチーズをまぶし焼き目をつけたもの。この三品であった。

「ふむ。この献立ならば、白を二本のほうが良かったかな。ちょっと待ってくれ、今取ってこよう」

「いや先生、それには及びま――」

 アイが止めるのも聞かず、マーシャは部屋を出て行った。美味い料理には、その魅力を最大限に引き出せる適切な酒を選ぶこと。それが、料理を作った者への礼儀であるとマーシャは考える。

 特に香りが強く、辛口の白ワインを厳選し、ふたたびアイの部屋に戻る。

「では、いただくとしよう」

 マーシャの選んだワインはアイの手料理との相性がぴったりで、ふたりの食は進む。食が進めば、自然と会話も弾む。

「あのマイカ様がそんなことを……意外にござるな」

 話題は、マーシャが先ほどマイカから聞いたことへ及んでいる。

「恋心がそこまで人を突き動かすものとはなぁ。アイよ、ウェンライト殿も若いころはそんな気持ちを持っていたかもしれないぞ」

「さて、それはどうでござろう……しかし、あのキーリルさん・・・・・・にも、純情なところがあるのでござるな」

 アイがキーリルさんと呼ばわったのは、ニール・ハモンドのことだ。

 キーリルとは、アイの故国ゲトナーの伝承に登場する、ある種の妖精のような存在だ。丸々と肥えた小人の姿をしており、年の終わりにその年「良い子」にしていた子供には、キーリルから贈り物がもらえるとか。絵物語に描かれるキーリルとハモンドがそっくりなのだとアイは言う。

「マルグリット杯か。楽な戦いにはなるまいが、頑張って欲しいものだ。ときにアイ、お前は大会などには出ないのか?」

「某の目的は、名声を得ることではござらぬ。オネガの正しい姿をのちの世に伝えることが某の使命。いずれ、何らかの形で世間にオネガの技を披露する必要はあるが――某の技はまだ未熟にござる。今は、自己の研鑽が第一」

 不完全な技を人様に見せるのは、師であるケヴィン・ウェンライトに申し訳ない。アイはそう考えている。

 しかし、武術家も収入がなければ生きてはいけない。フォーサイス公爵が金銭的な支援をしようと申し出たが、アイはそれを断った。ケヴィンが残した遺産はあるが、それにも極力手を付けたくないというアイは、現在レンの建築現場で働いている。

 アイは人間離れした身軽さを持ち、物怖じしない。高所での作業も少なくないレンの建設現場にはぴったりだろう。

 そして、建設現場での作業では、武術家にとって必要な筋力を鍛えることもできる。

 アイは決して非力ではない。並の男になら負けぬほどの力はある。しかし、グレン・ウェンライトとの対決で露呈したとおり、強靭な肉体を持つ相手を一撃で倒すほどの水準ではない。

 肉体労働は、金を稼ぎながらいまのアイが抱える課題を解消することができる。まさに、一石二鳥というわけだ。

「しかし、このシーラントは本当にたくさんの大会があるでござるな。毎日、国内のどこかしらで大会や試合が行われている、などと師が申してござったが、誇張でないと実感したでござる」

「まあ、公式戦に限ればそこまででもないのだが。地方の町や村の祭りの余興などで行われるようなものも含めれば、その言葉も間違いではないだろうな」

 ここでマーシャが言う公式戦とは、正式には「武術局認定試合」とよばえれるものだ。国の機関である武術局が定める一定以上の水準を満たした大会、試合が公式戦とされるのだ。公式戦の結果は武術局によって記録され、のちの世に残される。

 マーシャが達成した百九十六連勝無敗というのも、公式戦における記録である。公式戦以外の戦績も含めれば、その勝ち星は倍近くに跳ね上がる。その場合も無敗であることは言うまでもない。

「街もマルグリット杯を前に、活気づいているように感じたでござる。この国の人々の武術好きは相当でござるな」

 大きな大会――特に三大賜杯が開催されるとなれば、会場となる町には観戦のために多くの人が訪れる。そして観戦客たち相手に商売をしようとする者たちも、わんさと現れる。三大賜杯のなかでも最高峰とされるトランヴァル杯、これは三年に一度、夏にレンで本大会が行われるが、その開催期間中のレンはまさにお祭り騒ぎとなる。レンを訪れる人間の数は、数万にも上るという。

「武術は盛んだし、食べ物は美味い。この国は、本当にいいところにござる。亡師と引き合わせてくれた天のお導きには感謝せねばならないでござるな」

 戦争によって荒れ果てた国で育ったというアイは、しみじみ語るのだった。


 翌日の午後のことである。

 ミネルヴァとパメラが、桜蓮荘を訪れた。無論剣術稽古のためである。

「あら、今日はアイさんはいらっしゃらないのですわね」

 少々残念そうなミネルヴァである。ミネルヴァはこれまで何度かアイともに稽古をしている。乱取りの成績はミネルヴァの全敗であり、いまのところアイの実力はミネルヴァを大きく上回っているといえる。

 ミネルヴァにとしては、同姓で歳が近いアイに負けてはいられない。アイを、乗り越えるべき壁と認識しているようである。

「今日はアイは仕事なのですよ。代わりに私がお相手しますのでご勘弁を」

「いえ、そういうつもりで言ったわけではありませんのよ。では、早速お願いしますわ」

「それと……今日はローウェル道場の客で、なかなかの実力者が出稽古に来る予定です。ミネルヴァ様も胸をお借りになるとよいでしょう」

「それは楽しみですわね」

 ふたりは、夕暮れ近くまでみっちりと稽古を行った。しかし、この日来る予定であったニール・ハモンドは結局姿を見せなかった。

(なにか、ほかに用事でもできたのだろうか……)

 ハモンドの人となりはマーシャもおおよそ把握している。真面目で几帳面な男だ。連絡も寄越さずに出稽古を休むような真似をするとは思えない。良くないことがあったのでは――不安がマーシャの胸中によぎる。

 翌日。その不安は現実のものとなった。


「ハモンド殿が襲われたとは、まことですか!?」

 朝に、「ハモンドが昨日、何者かに襲われ負傷した」との報せを受けたマーシャは、朝食もとらずにローウェル道場に駆けつけた。

「うむ」

 マイカが苦々しげに頷いた。

「怪我の具合は」

「左腕の骨にひびが入っておる。さほど重い傷ではないのじゃが――」

「いったい、なにがあったのです」

「あ奴は、昨日もマーシャのもとで稽古する、と言ってここを出た。その途中での話じゃ」

 人通りの多い通りを歩いていたハモンドは、一人の男とぶつかった。男がスリだとハモンドが気づいたのは、その直後のことである。

「スリを追いかけるうち、ハモンドは裏通りに入った。そこで、四人の男たちに囲まれたらしいのじゃ」

 薄汚れた身なりをした四人の男たちは、手に手に棍棒を持ってハモンドを打ち据えにかかった。そこはさすがと言うべきか、出会い頭に喰らった不意打ちの一撃以外、痛手となるような打撃は受けなかったのだが――その最初の一撃が、ハモンドの左腕を打った。

「その男たちはどうなったのです」

「逃げ散ってしまったそうじゃ。本人は、おそらくスリの仲間ではないかと申しておるが」

 しつこく追い縋ってきたハモンドに業を煮やしたスリが、彼を袋叩きにしようとした。確かに、考えられないことではない。

「しかし、よりによって腕とは」

「まったくじゃ。この大事なときにのう」

 二人が大きく嘆息していると、そこへハモンドが顔を見せた。

「これはグレンヴィル殿……昨日は失礼いたしました」

 ハモンドは開口一番、前日に稽古の予定をすっぽかしたことを謝罪した。

「いえ、お気になさらず。それより、怪我の具合はいかがですか」

「ごろつきなどに不覚をとってしまい、お恥ずかしい限りで――しかし、大した怪我ではありません。この通り」

 ハモンドは、包帯が巻かれたままの左腕をぶんぶんと振って見せた。しかしマーシャは、その精一杯の作り笑いに、わずかな苦痛の色が混じったのを見逃さない。

「試合はどうなさるおつもりか」

「無論、出場しますよ」

 ハモンドは即答した。

 確かに、出場自体が不可能なほどの怪我ではない。オーハラ流で使う剣は片手でも扱うことができるし、ハモンドの利き腕である右腕はまったくの無傷だ。大会が始まるのは十日以上後だから、傷も多少は良くなるだろう。しかし、片腕の負傷が試合に与える影響は、言うまでもなく大きい。

 武術の試合には、危険が伴う。防具は身につけるし、使う得物も模擬用の木製である。しかし、大怪我をする者は一定の確率で出るし、時には死者も出る。万全でない状態で試合に出るということは、さらなる大怪我を負ったり死亡したりする危険性が高まるということだ。

「大事をとって、今回の出場は見送ってはどうかね」

「いえ、そういうわけには参りません。マルグリット杯を手にしないうちは、リンゲート道場に戻らぬと心に決めておりますので」

 ハモンドの眼に迷いはない。マーシャとマイカは、彼の決意を覆すのは無理だと悟った。

「わかった、もう止めはすまい。しかし、決して無理はするでないぞ」

 と、マイカも認めざるを得ないのだった。


 ローウェル道場を出たマーシャは、歩きながら考える。

(いくら不意打ちといえど、ただのごろつきがハモンド殿を負傷させることなどできるのだろうか……)

 このことである。

 ハモンドは、国内最高峰の大会で優勝を狙えるほどの実力者だ。スリの仲間が四人程度集まったとて、ものの数ではないはずだ。

 しかし、相手がただのごろつきでなかったとしたら、話は別である。

 あえてそれと悟られるような形で相手の所持品を掏り取り、追いかけさせることで自分たちの思惑どおりの場所に対象を誘い込む――手法としては、古典的なものだ。

 マルグリット杯に優勝することで得られる金と名誉は大きい。ほかの出場者を妨害しようと考える人間がいても不思議ではない――いや、試合を前に、闇討ちなどの卑劣な手段で他の出場者を負傷させる、などといった事件は実際過去に何度も起きている。

「マルグリット杯の出場者は、たしか明日発表になるはず。念のため、調べてみるか」


 さらに翌日。

 昼下がり、マーシャは下町にあるとある診療所を訪れた。ホプキンズという老医師が営むこの診療所では、ファイナ・スマイサーなる少女が働いており、マーシャの目的は彼女だ。

 ファイナは、流行り病で両親を亡くしたのち、老医師に引き取られ、以来この診療所でホプキンズの助手をしている。気立てがよく、細かいことにもよく気が付く娘で、診療所を訪れるすべての患者に愛されている。

 診療所の昼休憩の時間を狙って診療所を訪れたマーシャは、ホプキンズの許可を得、ファイナを近所の飯屋に連れ出した。

「おごってもらっちゃっていいんですか?」

 ファイナの前には、少々値の張る料理が並べられている。

「連れ出したのは私だからな。遠慮しないで食べてくれ」

「じゃあ、いただきます――それで、聞きたいことってなんですか」

「マルグリット杯のことでね。ファイナのことだ、もう出場者については把握しているのだろう?」

 なぜマーシャがファイナを訪ねたかのか。それは彼女が筋金入りの武術愛好家だからだ。武術愛好家とは、自身では武術をやらぬけれども、武術の観戦、そして武術に関する知識を蓄えることを趣味とする人間のことだ。

「もちろん。早起きして武術局の支部まで行ってきましたから」

 マルグリット杯の出場者は、各地方の予選を勝ち抜いた者たちが二十八名、そして武術局の推薦による特別出場枠が四名ぶん。計三十二名だ。その出場者の名が、この日の朝武術局の前に張り出されたのである。

「地方予選を勝ち抜いた人たちについては、もう知ってたんですけど――推薦枠のほうは、ぎりぎりまで秘密にされますから。誰よりも早く情報を仕入れなきゃ、武術愛好家とは言えないです」

 ファイナはそう言って胸を張る。地方予選の代表者については、武術愛好家同士手紙をやり取りすることによって情報交換がなされる。普通の人間は武術局の発表前に地方予選の代表者を知ることはないが、武術愛好家ならば話は別である。

「今年の注目株はどのあたりだろう」

「まず、優勝候補の筆頭といえば、ケネス・カッセルズですね。マルグリット杯準優勝一回、四位と八強が一回ずつ。マーシャ・グレンヴィルと同じ時代に生まれなければ、三連覇を達成していてもおかしくなかったと言われて――って、カッセルズについては先生ご本人が一番良くご存知ですよね」

 マーシャは苦笑しつつ、先を促す。

「ほかには、推薦枠のカリム道場・アンドルーズ、ヤーマス道場・ブーア、あとセルス地区代表のカニンガムなんかも有力紙されてますけど、カッセルズに比べれば一枚落ちる、っていうのがあたしの意見ですね。それから――カーラックの予選を勝ち抜いたニール・ハモンド。予選の試合を実際に見た人の証言では、相当の実力者だとか。今大会の大穴と目されていますね。あっ、そういえばハモンドは先生のいとこ弟子にあたる筋の人でしたよね」

「やはり、カッセルズが有力か。ときに、カッセルズの来歴については知っているか?」

「まあ、だいたいのところは。出身地はライサ島のジェラルマン地方。十八歳のとき王都に上京、秋季大会で優勝したのが武術家としての第一歩です。流派はエッシュ流ですね」

 エッシュ流は、さほど有名な流派ではない。マーシャも、この流派の遣い手はカッセルズしか知らぬ。

「エッシュ流か。レンに道場はあるのだろうか」

「たしか、一軒だけですけどあるはずですよ。街の東の外れ、大門の手前あたりだったと思います。今の師範が四代目の、結構古くからある道場ですよ」

「いやあ、本当に詳しいな」

 マーシャが感心するのも無理からぬことだ。熱の入った武術愛好家は、下手な武術家よりも武術界の事情に通じているといわれている。

「ありがとう、参考になった。付き合ってくれた礼だ、せっかくだからデザートまで食べていってくれ」

 残りの時間、マーシャはファイナとともに、ちかごろの武術界の動向についてとりとめのない話をするのだった。

「そうだ、先生。最近ヴァート君から手紙は来てますか?」

 別れ際に、ファイナがそう尋ねた。

 マーシャに一命を救われたヴァート・フェイロンが北の地に旅立って、もう一年以上が経過している。数ヶ月の間、ヴァートの介護を担当したファイナは、いまだ彼のことを気にかけていた。

「ああ。ハミルトン殿にこれでもかとしごかれているようだな。帰ってくるのがいつになるのかは分からないが、あの調子だと相当鍛え込まれた姿が見られそうだ。そうだな、今度手紙を送るときはファイナのことも書いておくとしよう」

「よろしくお願いします。そうかぁ、ヴァート君も頑張ってるんだ。あたしも負けてられないですね」

 ファイナは最近、ホプキンズに本格的に医術の手ほどきを受けている。単なる助手ではなく、ひとりの医師となってホプキンズを支えていく決意をしたのだ。

 ファイナならば、きっと良い医師になるだろう。彼女の行く末を、暖かく見守ろうと思うマーシャであった。

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