第4話 2日目
2日目・水島の話
その日も雲ひとつない真っ青な空が広がっていた。天気予報では首都圏は最高気温が三十度、今年初の真夏日になるかもしれないと報じていた。そんなお初は嬉しくないと感じる真木野が最寄駅で電車を降りるなり人ごみの中、晴天の空を見上げた。目を細める仕草に眩しさ以上に疎ましさを醸し出した男は、また人ごみの中に目線を戻すと、流れに従って歩き始めた。大沢が殺風景な署に出勤したときには、既に無表情な真木野の顔はそこにあった。一課に現れるなり、掛け時計に目をやる大沢。ホッとして体を椅子へと預けた途端、噴き出た汗をハンカチで拭っていた。
「遅い」真木野は椅子に凭れ掛け、新聞紙に目をやりながら言い放った。
「すいません、でも」堪らず立ち上がった大沢。
「誰が定時に出勤して来なきゃいけないって決めた。それは事件がない朝だけだ」姿勢は一切変えない真木野に、思わず姿勢を正した。
「はい、以後気をつけます」
「ならさっさと用意しろ!佐久亜紗美の彼氏に会いに行くぞ」
「こんなに朝早くですか?」
「そうだ」立ち上がるなり、真木野はさっさと部屋を出て行った。大急ぎで大沢も続いた。
廊下に出ると、迷うことなく駐車場に向かおうとする大沢に、
「歩いて行くぞ」前を歩く真木野は振り返ることなく署を出た。だから大沢が顰め面をしたことも気が付いていなかった。気が付いたところで何を言うわけではないのだろうが。
署を出ると、室内が陰気臭いからなのか暗がりだったからなのかはわからないが、全身に降り注いだ太陽光に体のジメジメ感が抜ける思いがした。だから伸びをした大沢だったが、直射日光とアスファルトの照り返しに顔を顰めた。既に真木野の背中は小さくなり始めていた。大急ぎで大沢も続いた。街は大勢の通勤客でごった返していた。真木野の歩く速度は速い。だから普段呑気に歩く大沢にとっては付いて行くだけで息が切れるほどだ。
炎天下の中どれだけ歩かされるのかという大沢の不安は外れ、十分もしないで先を歩いていた真木野は立ち止った。
「ここか」零したようでも、それが大沢に伝えていることは彼も重々わかっていた。だから小走りになり真木野の横に並ぶと、足並みをそろえ建物の中へと入って行った。繁華街に建つ結構立派なオフィスビルの三階ワンフロアを貸し切っている会社の名前は㈱テクノポリス。今日は二人でエレベーターに乗り込んだ。三階のボタンを押す大沢。暫しの沈黙が二人を包みこんだ。目を瞑る真木野と、階数が光る掲示板を見上げる大沢。そして、「チンッ」の号令と共にエレベーターの扉が開け放たれた。開くなり爽快な冷風と共に目に飛び込んで来たのは、署とは雲泥の差で白が清潔な印象を与える受付と、そこで出迎えてくれた見た目だけ良さげな受付嬢の女性だった。
少し固まってしまった大沢に、
「タイプか?」さっきまでのテンションが嘘のような発言をした上司に、軽蔑の眼差しを向けた。床も白い大きなタイルでクリーニングが行き届いていて、歩くだけでタップダンスをしているような軽快な音が鳴り響いた。受付に辿り着くと、結局大沢が女性に話し掛けた。
「すいません。本日社長はいらっしゃいますか?」
「どちらさまでしょうか?」白いスーツ姿が可憐だったが、優しく笑った顔は本当に笑ってはいないと大沢は思った。
「すいません」頭を下げながら警察手帳を申し訳なさそうに翳した。
「け、警察の方、ですか?」笑顔がなくなった表情は明らかに動揺していた。彼女の本当の顔が見れたことで少しばかり優越感に浸る自分は、本当はSなんじゃないかとこんなときに感じてしまった。落ち着きなく受話器を持ち上げると、
「警察の方がお見えです」社長を呼び出した。
受話器を置くと少し落ち着きを取り戻した彼女が、
「只今水島が参りますので、そちらにお掛けになってお待ちください」そう言って右手で翳した先に、やはり白色の大きな革製のソファが配置されていた。遠慮なくそこに腰を掛ける真木野。大沢は会社の歴史や事業内容を展示しているパネルに目を運んでいた。別に興味があったわけではない。ただ何もしていないと、真木野に何かを話し掛けなければいけない空気が居た堪れないからだ。パネルによると、この会社は八年前に水島が一人で立ち上げたらしかった。会社は着実に成長を遂げ、業績はうなぎ上りだとグラフは教えてくれた。IT関連の仕事をしていることはここに来る前から知っていたことだからと、事業内容については写真を見るだけで文字までは読まなかった。言ってしまえば興味が湧かないのだ。アナログ人間の大沢はパソコンの操作をするのにも、二回に一回頭を叩かれながらいまだに真木野に教えてもらっているような有り様だ。だからこの手の業界には一ミリの興味も持てない。劣等感みたいなモノを感じているのかもしれない。
二人のいつもの不自然な距離感を打ち破るように、
「お待たせしました」水島が現れた。スラッとした長身で細身のスーツが似合う好青年といった面持ちの男に対抗心など持てるはずもないが、ただ友達にはなれないと大沢は勝手に決め付けた。それを諭したように立ち上がりながら微笑む上司の顔が、不気味に大沢を見ていた。
次に通された部屋は開放的な受付とは打って変わり、黒い家具で統一された応接室だった。座るなり名刺を差し出され、大沢一人が立ち上がった。そこには代表取締役・水島幸一の文字が躍っていた。それからやっとソファに腰を下ろすと、先程の受付の女性がコーヒーカップを三つ鉄製のトレーに乗せて、失礼しますの掛け声のあとに現れた。そのときの表情は最初に見た笑顔に戻っていた。あの表面上の笑顔に。仕事をしているときの笑いは誰しも心から笑ってはいないだろうし、表情というぐらいだから表面上でいいのだろうがと、大沢は一人納得をした。真木野にタイプなんだろと言われたことで妙に気になってしまう彼女の存在。そのせいで大沢にはその作られた笑いに嫌悪を感じてしまったのだろうと、勝手に自己分析もした。
「亜紗美のことですか?」そんな大沢を一人残し、挨拶もほどほどに水島が斬り出した。登場したときの爽やかさはどこかに消え、顰めた顔をしていた。
「はい」大沢は飄々と答える。
「彼女の死と私とどういった関係があるんですか?」水島の口調は明らかに苛立っていた。
「あなたと昨日亡くなった佐久亜紗美さんとは恋人関係にあったんですよね?」珍しく早い段階で質問を切り出した真木野に、
「先日、既に話し合いで別れています」彼は間髪入れずに返答してきた。
「ではそのことが原因で彼女はビルの上から飛び降りた?」
「そ、そんなことは知りませんよ」別れたとはいえ、一度は惚れあったであろう元彼女が死んだことに一ミリも悲しんではいないようだった。脹れっ面で顔を背けた水島に大沢が拳を握り締めたが、それを制止するように真木野が続けた。
「彼女の死を何で知ったんですか?」
「共通の友人が携帯で知らせてくれました。早くテレビを付けろって言われて」
「そしたら彼女がビルから飛び降りたニュースが流れていたんですね?」
「そうです」
「彼女の死に方はどう感じました?」
「死に方?」
「自殺だというのに顔を布の袋で覆って、ビルのテッペンから飛び降りたんですよ。普通の人間の沙汰じゃないでしょ?」真木野の言葉に力が籠る。
「自殺、それ自体が普通の人間の沙汰じゃないんじゃないですか」警察でも誰もが考えたことを目の前で項垂れる男も答えた。
「昨日の午前九時頃、あなたは何をされていましたか?」その質問に水島同様、大沢も面食らっていた。
「一応です。ひとりの人間が死んでいるんです。彼女に近い関係者疑うのは当たり前です」
「だって自殺なんだろ?」明らかに水島はたじろいでいた。そこには八年間で会社をここまで成長させた凄みなどどこにもなかった。しかし彼の動揺がイコール彼女を殺したに結びつくわけではない。一般人が突如自分が殺人の容疑者に仕立て上げられたのだから、彼の当惑は仕方がないことだろう。「その時間は既に会社に居ました。なんなら従業員を呼んで説明させますが」力む水島。
「いえ、結構です」青くなっていた顔が今度は見る見るうちに怒りへと変化し、彼は唇を噛んでいた。してやったりの表情を浮かべる大沢とは対照的に、真木野が表情を変えることはない。
「お忙しい中お時間を頂いてしまってすいませんでした」この男が謙虚になると相手は何故か苛立たしく、同僚は何故か不気味にも感じてしまうと大沢は常々感じている。立ち上がった大沢の前で、既に歩き出していた真木野が急に立ち止り振り返った。
「古代ギリシャが好きなんですか?」その質問に不快を感じなかったのか、
「会社の名前がポリスだからギリシャってことですか。そういうことではないんです。確かにポリスはギリシャ語の都市国家です。でもテクノポリスは、一般的に経済発展拠点となる高度技術集積都市って意味で使うんです。だから私は特別ギリシャが好きなわけではないんです。このぐらいで説明は宜しいですか?」最初こそ、爽やかさを取り戻していたが最後はあからさまに嫌味にも感じる説明の仕方だったことに、今度は真木野がほぞを噛んだ。その部下はタダでは起きない大社長に寧ろ感服していた。
2日目・亜紗美の部屋の話
無言のまま歩いて署まで戻ると、休む間もなく、「大沢、車を正面に回せ」
「はい」今は何も口答えしないことが得策だろうと考え、頬を伝って顎から落っこちる汗を拭うこともせず顔色一つ変えずに駐車場へ走った。正面に車を回すとそれでも真木野は待ち侘びたと顔に書いて立っていた。
「よっし、佐久亜紗美のマンション行くぞ」
「はい」カーナビに彼女の住んでいたマンションの住所を入力していると、
「幹線道路沿いにあるんだ、こんなのに頼らなくてもわかるだろ?」助手席の上司の怒りはまだ収まってはいないようだった。従うふりをして結局最後まで入力し終わると、カーナビの案内通りに車は鎌倉街道沿いを南下した。二十分程で到着した彼女のマンションは、市営地下鉄の駅がすぐ隣にあり、彼女が飛び降りたオフィスビルからは二駅しか離れていなかった。彼女のマンションこそ正面が大きな道路で騒音が煩かったが、道を一本入れば閑静な住宅街がそこにはあった。
「この距離なら健康の為に歩いても良かったのにな」会社の人の話しでは彼女は毎朝地下鉄で通勤していたと、昨日の事故のあとに聞いたことだ。
「健康に気遣っても死んじまったら意味がないだろ」真木野のもっともな意見に、そしてお互い無意味だったと感じた会話に、無言のままマンションの管理人室に向かった。入口は一人暮らしの女性には最適なオートロック。昨日既に別の捜査員がこのマンションを尋ねていたが、二人にとっては初めての訪問だった。
管理人に続いてエレベーターに乗り、着いた三階で降りると、今度は廊下を数メートル歩いたところで、
「女の人の部屋に入るのって、なんかドキドキしますね」聞いた瞬間、真木野は無言を決め込んだ。大沢は自分の不謹慎な発言を悔いた。
先を歩いていた管理人が立ち止り振り返ると、ここですと一言付け加えたあとにドアの鍵を開けた。部屋は十畳ほどのワンルーム、長細い突き当たりにだけ窓がある都会にはよくあるタイプの部屋だった。昨日の捜査では事件に繋がるようなモノや遺書は見つからなかったと調書には書かれていた。中に入った瞬間立ち込めた香りに、大沢は思わず目を瞑ってしまった。しかしすぐに我を取り戻しそれを見開くと、淡々と物色を始めた真木野に向けた。幸いにも彼は大沢の変質者的な行動には気が付いてはいないようだった。彼は女経験があまりなかった。社会人になるまで女性と付き合ったことさえない程だ。大学を卒業してすぐ、幼馴染の久保健二に女性を紹介された。二つ年下の大学生で、刑事という職業の男性に憧れていた女性だった。それが幼馴染の頭の中に大沢の顔を思い浮かべさせたのだ。しかしいざ付き合ってみると刑事とは名ばかりで、優柔不断で頼りがいがなく、服のセンスも皆無の彼に、半年と持たずに彼女は大沢の前からいなくなった。その結果に幼馴染は頷いていた。彼も感じていたのだ。何故大沢が刑事になったのか、この男はどちらかというと刑事とは真逆の職に就くものと幼馴染は思っていた。だから大きなお世話でもやっていけるのかと、顔を合わす度にそう大沢に問い掛けて来るのだ。そして来週にも健二は大沢に次の相手を紹介すると言っていたが、正直乗る気がしなかった。兄と二人きりの男兄弟で育った大沢は、女性恐怖症なのだ。
「何ボーっとしてんだ?おまえはキッチンの方を探せ」
「はい」そこで初めてじっくりと部屋中を見渡した。彼の夢の時間をぶち壊すのは上司の仏頂面でも締め切られ逃げ場を失い熱せられ続けた空気でもなかった。それは光景。ソファに投げ捨てられたグチャグチャの服。床はフローリングの上に絨毯が敷かれていたが、雑誌やスカートなどで足の踏み場に困るほどだった。向かったシンクの中には、案の定、洗い物が山盛りで生ごみも散乱し異臭が立い込めていた。食器棚はあったが、その中に収められた皿はほとんどなかった。包丁だけはきちんと仕舞われていた。シンク横に置かれた、独り暮らしの部屋ではよく見かけるこじんまりとした冷蔵庫に手を伸ばした。その上にはどうやったらこんなに黒くなるのか、フル稼働で働いていたであろう電子レンジが置かれていた。冷蔵庫の中は驚くほど何もなかった。缶ビールにチューブのカラシとバターとマヨネーズ。何時からあるのか生卵が三個。それに白い小さな箱が、存在感たっぷりに置かれていた。恐る恐るそれに手を延ばす大沢。どうせ中身はケーキなのだろうが、チョコケーキでもないのに黒い物体に変わったものが出て来るだろうと思ったからだ。しかし中から現れたのは、期待を裏切っておいしそうな白いイチゴのショートケーキだった。甘党の大沢はもしこの場に真木野がいなかったら間違いなく食べていただろうと考え、こんなにおいしそうなモノを残して自殺なんかするだろうかと考えた。しかしケーキが二つあったことで、遣る瀬無い思いで箱を元の位置に戻した。
「惚れていたのは彼女の方みたいだから、奴がストーカーだったとは考えずらいな。水島は限りなくシロだ」そう呟いた真木野は彼女のパソコンを弄っていた。
「真木野さん、よくパソコンのパスワード解りましたね?」
「水島の誕生日も本人のも入れたら駄目だったから、彼女の誕生日四月九日と水島の誕生日の八月十日から4981って打ったらまんまと開きやがった」勝ち誇った表情の真木野に、少しばかり安堵する大沢がいた。しかしすぐに目に力を込めると、真木野の後ろからパソコンの画面を覗きこんだ。
「二人は一昨日の夜十時に別れている」
「もう別れましょうって、彼女の方から別れを切り出したんですね」
「水島がなかなか会えなくなり、自分の存在が重荷になっていたことを佐久亜紗美は気が付いたんだろう。もしかしたら気が付きながら、どうにかここまで誤魔化してきたのかもしれないな」
「しかし限界を感じ、一昨日彼女の方から別れを切り出したわけですね」
「そして彼の答えは、そうだなの一言だけ」
「切ないですね」
「切ないけど男女間の問題は、警察には介入できないことだからな」大の男が二人、女性のパソコンを覗き見ながらシンミリとした。
「となると、自殺の線が濃くなってきましたね」
「そういうことになるな」真木野は浮かない表情だった。
「それ以外にストーカー絡みの怪しいメールなどはありませんね」マウスを奪い取った大沢が慣れない手つきでそれを上下左右させていた。
「ネットの履歴もデパートのショッピングサイトや電気屋のサイト。旅行やショッピング系ばかりだな」ボヤいていた真木野の携帯電話が震えた。面倒臭さそうに画面を見つめる。しかし相手が課長の下山からだとわかると粛然とした態度に変わった。そして電話に出ると、下山の指示通り彼女の部屋の液晶テレビのスイッチを入れた。そこに流れていた映像。
「これって、佐久亜紗美が自殺するシーンじゃないですか?」
「そのようだな」そう、そこに映し出されていたのは、顔面に布の袋を被り、屋上を走り抜け、大空へとダイブする彼女の姿だった。その映像は彼女の首と体が空中分解されるところまでは映し出してはいなかった。顔を確認出来ない以上はまだ彼女と断定は出来ないが、充分にセンセーショナルなモノだった。
続けて画面に映った、大沢と同年代の女性アナウンサーが、
「この映像は昨日、横浜にあるオフィスビルで起きました、女性飛び降り事件で、たまたま向かいのマンションで撮影されたもので、今朝、当テレビ局に送られてきたテープです。送り主の方は、匿名を条件にこの映像を流すことを許可して下さいました」続けて女性アナウンサーは放送中に一枚の紙を広げた。
「同封されていたお手紙には、たまたま見えた覆面をした人物に慌ててビデオを回しました。まさか飛び降りるとは考えてなかったのですが、ビデオを回した瞬間、一目散に走り出す姿に鳥肌が立ちました。とっても怖い映像になってしまったので、消そうかとも考えたのですが、自殺か他殺かの決断を出来ないでいる警察の方々の、何らかのお役にたてればと送らせて頂きました、とのことです」
「だったらなんで警察に送らないんですかね?」食い入るように画面を見ていた大沢がいきり立った。「このテープと手紙、取りに行くぞ」真木野は淡々としていた。下山の指示はテレビを見ろだけではなかった。すぐにこの映像が流れているテレビ局に行けというものだったのだ。つまりビデオテープはテレビ局だけに送られていたのだ。真木野は仕方なくといった感じでパソコンをシャットダウンすると、一度部下の肩を叩いてからすぐにマンションを出た。
2日目・梨香の話
横浜から問題のビデオテープが放送され た東京のテレビ局まで、首都高速を飛ばした。随分走ったところで目の前に現れたのは、東京スカイツリーとレインボーブリッチ。
「いやー東京来ましたね」少しばかりテンションが上がった部下に、
「なに興奮してんだ?」
「だってこの景色見て下さいよ」
「塔も橋も、横浜の方が清楚感があって良い」横浜生まれの横浜育ち、生粋のハマっ子のこだわりなのだろうが、同じ神奈川県とはいえ田舎育ちの大沢には分かりかねる反論だった。
「そうですね」国際的大都市の東京に勝ち目のない戦いだとわかっていても、どこかに勝機を感じていたらしい。高速を降り音声案内通り目的地に到着すると、目の前には厭らしくでかい建物が聳え立っていた。東京テレビと書かれた看板を確認すると、警備員に警察手帳を見せ車を止めた。建物の中へと入ると、お上り状態の大沢とは対照的に何故かムスッとした真木野が足を進めた先で、待ち構えていたのは気高い美しさで異才のオーラを放つ女性だった。ロビーに燦々と降り注ぐ陽光もまた、彼女に力を与えていた。広いロビーだった為、彼女までの距離はまだだいぶあった。
「もしかしてアナウンサーの鈴江梨香じゃないですか?」小声で耳打ちする大沢。
「あぁ」微かな声の震えと歩き方の硬直具合から、真木野が緊張しているのは明らかだった。
「あんな感じの女性がタイプだったんですね?」野卑な笑いを浮かべた大沢の鳩尾辺りを、
「うっ」真木野の右拳が襲った。
「こんにちは」二人が彼女の前に着くなり先に挨拶をくれたのは、じゃれ合う刑事にクスッと笑っていた梨香の方だった。
「突然押し掛けてすいません」何時になく丁寧な真木野が部下に頼らず前に出た。課長は既にテレビ局に連絡を入れていた。だから梨香はここで待っていたのであり、突然の訪問ではない気がしたが、今それを口にしてしまったら鳩尾では済まないと考え、大沢は何も言わずに頭を下げた。
早速彼女が手渡してきたのは茶封筒。
「これが今朝届いたテープと手紙です」すぐに本題に入ったことがショックだったのか、結局頼りない上司に変わり、
「ありがとうございます」大沢が受け取った。
「これらが入っていた包みもありますか?」
「はい」やはりアナウンサーは、はい、一つ取ってもカツゼツが良いと感心する二人を置き去りに梨香は十数メートル向こうにある白色が少し黒ずんだ扉の中へと消えた。真木野はその後ろ姿を追い掛け、大沢がそんな上司の横顔をニヤニヤと拝見していた。
数分後、時が止まっていた真木野を呼び戻したのは同じ扉から現れた梨香だった。手にはA4程の大きさの茶色の包みを抱えていた。それを大沢が受け取ると二人同時に包みに貼られた宅急便の配達票を覗き込んだ。そこには手書きの住所が書かれていた。送り主の欄も同じ字体で、横浜市中区伊勢佐木町・・・田嶋康夫と書かれていた。
「住所も手書きでちゃんと書かれていますね」捜査を進める部下の声は、上司の耳には届いてはいないようだった。
「本当に自殺なんですか?」事務的ではない梨香の眉間にしわを寄せた表情が、真木野の心を掴んだのだろう。
「我々といたしましても自殺との見解を変えたわけではありません。しかしここまで猟奇的な死に方をされた以上、他殺の線も充分に考えられるとして捜査を続けております」こちらもカツゼツ良くハッキリとした口調の受け答えだった。
「そうですか。私もこの事件を聞いたとき、同じ女性として自らの顔を布で覆ってまで飛び降りをするだろうか引っ掛かったんです。確かにこれを見ただけでは自殺が一番筋が通ります。でもこんな自殺の仕方は異常です。難しい事件だとは思いますが、もし本当に他殺なら絶対に犯人捕まえて下さいね」
「はい、全力で頑張ります」会話は陰惨な内容でも、笑顔になった梨香に、気持ち悪くハニかんだ真木野が何故か敬礼をしていた。いつもの気だるそうな上司はそこにはいなかった。
帰りの高速で真木野は渡された茶封筒をずっと握ったままだった。いい年したおっちゃんのくせに、しかも既婚者である男がだらしない気もしたが、どこか可愛いとも思ってしまった。東京タワーのはるか頭上、太陽は今日一番の陽を車内に差し込んでいた。夏でも、車内のエアコンを最大限にしたまま時間が経てば、気を許すと居眠り運転でもしかねないほど快適になった。助手席では寝ているかはわからないが、目を瞑ったまま動かない上司。堪らず大沢も目を瞑りかけたが、どうにか目の筋肉を酷使し最後まで睡魔と闘いながら横浜へと戻った。
2日目・ビデオテープの話
署に着くなり、ビルの下に落ちていた首なし死体が佐久亜紗美だと判明したことが二人に告げられた。それから課長も交え数人で問題のビデオテープを回した。
「エグいな」ビデオを操作する大沢の二つ年上の林の口から、思わず毀れた言葉だ。そしてそこに居合わせた誰の顔もそう言っていた。テープには屋上で一人、顔に布を被った佐久亜紗美が頭を抱えていたが、思い立ったように走り出してから飛び降りる光景が、そして頭と胴体が切断されるまでの生々しい映像が写し出されていた。たまたま近くに居合わせていた人物によってホームビデオに収められた飛び降りの一部始終。
「テレビで流された映像だけでは、佐久亜紗美本人か確認は出来なかったが、、背格好といい、首が入った袋が飛ぶ場面といい本人と見てまず間違いがなさそうだな」真木野が口にした。それを見る限りでは、自らの顔を隠し飛び降りることは猟奇的ではあるが、彼女が間違いなく一人きりでビルの屋上から飛び降りていた。その光景に誰もが頭がいかれた結果の自殺行為だと断定せざるをえなかった。しかし大沢はその映像のある部分が引っ掛かった。
「もう一度始めから見せて下さい」画面に前屈みになる大沢の一言に、
「おまえよく何度も見れるな。どういう神経してるんだよ?」機械を弄りながら林が呆れた声を出した。
「いいから早く見せてやれ」
「はぃ」腕組みをしたままの真木野の言葉には、彼も従うより他になかった。
何度目かの試写中で大沢が突然、「止めて下さい」と指定した場面は、突如走り出した顔に布の袋を被った亜紗美の姿。その布の袋の口の方、彼女の首の部分から伸びたロープ、そのロープが何故か彼女が飛び降りる為に走って行く方に伸びていた場面だった。
「このロープおかしくないですか?」そのロープは最終的に彼女が走って行く逆の方向にある鉄の棒に括り付けられている。それはビデオからも現場検証からも明らかなことだ。
「何がおかしいの?」林の疑問に、
「彼女が自ら首にロープを繋いだなら、自分が走る方向にわざわざロープを弛ませて置く必要がありますか?」
「確かにおかしいな。彼女が自殺したなら、鉄の棒の周りに固まって置いてあるのが普通だ。彼女がロープの重さを感じない為にそのように置いた?」腕組みしていた手を顎に持っていくと、真木野が唸った。
「彼女にロープの重みを感じさせない為に、何者かが仕組んだようにも取れますね」大沢の一言は、この事件に対し重大な局面の変更を迫るものだった。つまり自殺と考えて処理をしようとしていた事件が、第三者が介入する殺人事件へと大きく舵を変更させるものだったから。
「自殺するような奴だ。顔を覆い猟奇的な飛び降りをした人間が何をしようとも全くおかしくないだろ?」それでも林は喰い下がった。
「確かに自殺する人の精神状態は異常だと言います。しかしだからこそ、猟奇的だからこそ、重たさを感じさせない為のこの冷静な行為が、逆に引っ掛かるんです」力説する大沢。悶絶する林。
「よっし、じゃあ他殺の線も視野に入れて捜査を進めてくれ」立ち上がった下山課長の一言が勝敗を決めた。膨れる林を気にすることなく、大沢はまだビデオテープを確認していた。
真木野は同封されていた手紙に目を通した。何度か読み返したが、これといって引っ掛かるところもなかった。強いて挙げるなら、自殺か他殺かの決断を出来ないでいる警察という文面から、手紙の差出人が警察に対する苛立ちを持っていることを窺い知れるのだが、それは多くの国民が感じていることなのだろう。文字はパソコンで書かれていたが、今どきとしか感じなかった。それ以外の部分ではおかしなところが見当たらなかったことで、真木野はそれ以上手紙に興味を示さなかった。茶封筒に書かれたテレビ局の住所、送り主の住所は手書きだった。だから警察も含めた手紙を目にした多くの人間が、事件とは関係ない第三者の送り主が実在すると信じた。それは真木野も例外ではなかった。「捜査行くぞ」上司の声に相変わらず画面に見入っていた大沢が停止ボタンを押し、ビデオテープをデッキから取り出した。そして掴んだビデオテープのラベルに目が止まった。
「ダブルスパイラル?」そう書かれたラベルの文字。
「ダブルスパイラルなんて映画ありましたっけ?」横にいた林が、俺かという顔をしたあとに、
「ダブルスパイラル?聞いたことないけど、ハリウッドとかに居ありそうな題名だな」もう一度ラベルへと目を向けたが、それは後で調べようと諦め真木野の元へと走った。それでも彼女の死が他殺である可能性はまだ低い。何故って、佐久亜紗美は屋上で一人、自ら走って飛び降りたのだ。そしてその光景をたった今自らの目で確認させられたのだから。
2日目・12年前自殺したらしい少年の話
捜査を進める為、署を出て車を正面玄関に回す大沢。時刻は三時を過ぎていた。さっきはだいぶ冷やされていた車内も、一時間ほどで元通りかそれ以上に温められ、乗り込んで数秒で汗が噴き出すのが分かった。そんな不快感を我慢していたが一向に真木野の姿はそこに現れなかった。いい加減待てないと感じた大沢は、ブツブツひとり言を言いながら仕方なく署に戻った。署内を走り回ったが、捜査一課にも喫煙所にもどこにも誰に聞いても彼の居場所を知る者はいなかった。廊下を捜索中たまたま少しだけ開いていた資料室を覗いてみた。ハンカチで汗を拭いながら落ち着かない大沢とは対照的に真剣な面持ちで過去の資料を広げている真木野の姿があった。
「ここにいたんですか」思はず声を張り上げる大沢に、ビクッとなる真木野。しかし反応はそれだけで彼は再び資料の方に目を戻し、それに読み耽った。
「何読んでるんです?」ゆっくり近づきながら話す大沢に対して、真木野から反応はない。それでも嫌な雰囲気を感じなかった彼はそのまま近づくと、上司が広げている資料を覗き込んだ。一つの資料を覗き込む二人の男の光景は、少しの時間続いた。
「同じじゃないですか」また声を張り上げた男に、あからさまに耳を塞いで真木野は迷惑そうな目を向けた。
「十二年も前の事件ですか。この自殺事件は真木野さんが担当したんですか?」
「いいや」ぶっきら棒な反応でも、大沢は熱っぽかった。
「それなのに覚えていたなんて凄いですね。それも自殺で処理されていたら僕だったら忘れちゃってますね。うん」一人頷く大沢に、実は警察関係者以外の友人から聞いて知った事件なんだとは、この男が言うはずもなかった。そう、十二年前のこの事件は真木野の学生時代の友人。友人と呼ぶにはあまりに彼は嫌われ過ぎているが、一応の友人の新堀に聞いた話を急に思い出し、大沢を放ったらかしてこの資料室へとやって来たのだ。
十二年前の事件、横浜のとある高校で起きた男子生徒の首吊り事件。それが今回の佐久亜紗美の死に方とそっくりだった。彼女は首こそ捥げてしまってはいるが、布の袋を被って高い所から飛び降りるやり方が同じだった。そしてこの事件も自殺として処理されていた。何より真木野が驚いた二人の共通点、それは同じような死に方をした二人の通っていた高校が同じだったことだ。
「十二年前の自殺は、何者かによって仕組まれた?」
「今回の事件を見る限りではそれもあるのかもしれないな」
「その犯人が佐久亜紗美?」その言葉にハッとなる真木野。
続けて大沢が、「十二年前に殺された人間の、呪い?」そんな言葉を口にした。
「なに馬鹿なこと言っている?」いつもなら聞き流すような言葉だった。しかし真木野は思はず答えてしまった。それがどれほど馬鹿げているかを知らしめたかったから。部下に、そして己自身にも。真木野がもっと肝を冷したこと、それは遂一週間前に聞いたばかりの事件の話が、余りにもタイムリーに今回の事件と関係していたこと。あの話を聞いていたから、彼は十二年前に同じような事件があったことを知ることが出来たのだ。もしかしたらあの男は、この事件が起こることを知っていたのではないかと勘ぐってしまう程だ。ただ犯人ならあまりにも間抜けなことだと考え、冷えた肝は元に戻せた。
いつからかその事件の調書を独占していた大沢が、
「自殺した少年の顔歪んでたみたいですね。苦しかったんでしょうが、どうして苦しいそうな顔してるんですかね?首吊り自殺の場合、普通一瞬で意識がなくなるから舌が飛び出ることはあっても苦しそうな表情にはならないはず。首吊りは脳にいく血液が遮断されて脳内が酸欠状態になった為死に至るのに対して、首を絞められると死因は気道が塞がれることによる窒息死が多いんです。脳に血液を送る動脈は二種類あります。頸動脈と脊髄の脇を骨に保護されながら上がっていく椎骨動脈。首を絞められた場合、頸動脈は塞がるが、椎骨動脈まではまず塞がらない。しかし自らの体重で締め上げる首吊りは斜め上方から首が引っ張り上げられて角度がつく為に両方の動脈が同時に塞がれて瞬時にして脳への血液供給が遮断される。つまり苦しむことはまず無いはずなんです。ただし上手い首吊りをした場合はですけどね」
「じゃあこの写真を見る限りでは首を絞められたような痕があっても自殺である可能性は払拭出来ないんだろ?首吊りした全員が綺麗に死ねるわけじゃないってことだ。絞まる個所がズレていれば苦しむことだって十分考えられる」
「それはそうですね。でも首吊りに使われたのは縄と書かれているのに、どうして顔に被せてあっただけの体操着袋の袋の紐から血痕が見つかったんですかね?」その疑問には真木野は何も答えなかった。ただ部下の観察眼には感服していた。
2日目・相良の話
県立A高校、二人はすぐにそこへと向かった。玄関を出たところに放置されたままの車を見つけた真木野が、
「こんなところに車置いとくんじゃねぇ」自分勝手に怒鳴った。大沢の顔が一瞬だけ歪んだが、
「すいません」この男は生きていく術を知っている。しかし出世できるタイプではないだろうという感触を真木野はえていた。
車は港からどんどん内陸に進み、いくつかの山を越えたところにその高校はあった。横浜とは思えぬ山間の中、車を近くに止めると歩いて門を潜った。時刻は午後四時を過ぎ、空気はだいぶ暖められべっとりとしていた。そんな中、校庭ではいまだ部活動が盛んに行われていた。青春真っ只中に似つかわしくない二人が歩いていると、たまたま目に入った女子テニス部の練習風景にどちらの足も止まった。するに真木野が大沢に冷たい目線を送った。それに気が付くと、今度は顎を振って見せた。それは先に行ってアポイントを取ってこいという合図だった。この二人で組むようになって一年。最初は扱き使い駄目だしをするだけの口煩かった上司と、今では無言で会話まで出来るようになっていた。
「ロリコンで捕まりますよ」一応の反論をかますと、膨れ面で大沢は一人職員室を目指した。開け放たれた扉を入ると下駄箱が並んでいた。丁度下校途中の男子生徒と女子生徒を見つけた。彼は迷わず女子生徒の方に声を掛けた。
「すいません、職員室はどちらですか?」
一瞬驚きの表情を見せていたが、「あっちです」優しく下駄箱の前を左右に延びた廊下の右の方を指して教えてくれた。
「ありがとうございます」すると女子生徒は軽く会釈をしてその場をあとにした。その態度に、少しばかり畏まった自分に、結局あのロリコンと同じ人種だった自分に、思わずため息が零れた。
「ロリコンはおまえじゃんか」後ろから聞こえた声に、大沢の背筋が凍った。ガクガク震えながら振り返ると、柱の陰から真木野がこっちを見ていた。
「随分早いじゃないですか?」焦りを苦笑いで誤魔化した大沢に、
「当たり前だ。ここに来た俺の目的はおまえとは違うの」そう吐くと、大沢の前を素通りして職員室へと歩いて行った。しかし実際は、大沢がいなくなり一人で覗き込んでいた真木野に、気が付いたテニス部の女子生徒の冷たい眼差しから逃げて来ただけなのだ。
職員室の前まで来ると、やはり真木野はそこで突っ立って待っていた。勿論これも二人の間では無言で出来るようになった遣り取りの一つだ。そしていつもの呆れ顔の大沢が、先に職員室のドアを叩いてから中へと入った。二人に気が付き一番に顔を上げたのは、四十代半ばの女性教師だった。大沢は慣れた手つきで彼女に手帳を見せると、
「神奈川県警の者ですが」
「警察?」相手の反応はほぼ一緒だ。警察に声を掛けられると、まず自分の過去に何か過ちがなかったかを考え、続けて家族や自分を取り巻く社会、会社だったり学校だったりに何か問題がなかったかを考えるから、誰もが不安な面持ちになってしまうのだろう。警察の中ではその反応が一目置かれているようで気持ちが良いといった意見も多いが、大沢はそれが世間の人たちから嫌われ煙たがれているようであまり好きではない。それでも仕方がないと諦め話を進めた。
「十二年前、この高校で起きました自殺についてお話をお伺いしたいのですが」すると強張っていた顔が一段と固まった女性が立ち上がり、
「少々お待ち下さい」後退りするように大沢の前から逃げて行った。彼女が向かったのは職員室の奥に居るのであろう校長か教頭の部屋だった。少しして、彼女よりもだいぶ落ち着いている年配の男性が現れた。にこやかに、姿勢を正した大沢と腕組みをしている真木野の方へとやって来た。
「こんにちは。私は校長の相良と申します」
「あっ、神奈川県警の者です。こちらが真木野で、私が大沢と申します」しどろもどろの挨拶に、何時になったら上手くなるのだと真木野はいつも思っているが、そのことは一度も本人には言ったことがない。そしてこの先も言うつもりはない。
「立ち話もなんですから、どうぞ奥へ」通された部屋は応接室。校長の指示通り、それほど高価ではなさそうなソファに腰を下ろす二人。税金で買っているのだから当たり前だ。大沢は庶民の目線で心の中で一人話をした。
「それで今日は?」
「先日、佐久亜紗美という女性が飛び降り自殺しました。その女性がこの学校の卒業生だったんです」相良に驚いた表情などはなかった。メディアでも散々取り上げられていたからだろう。
「この学校の卒業生が、自殺したと聞くのは非常に忍びないです」俯き顔を伏せる仕草に、それが本心なのかを疑って掛かる刑事という因果な商売に、嫌気を感じた真木野が相良から目線を外した。
「お察しします」そして一緒に悲しんでいる大沢を疎ましく思う自分が、汚い人間にも感じた。
「今回の事件と十二年前の事件が非常によく似ていたんです」そんなことはお構いなしに大沢は話を進めた。
「だから十二年前の事件の話をお伺いしたくて参りました」
「その事件でしたら大変ショッキングな出来事でした」既に顔を起こしている相良がそう返答してきた。
真木野は立ち上がり、応接室横に置いてある棚に卒業写真を見付けた。
「すいません。こちら見させてもらってもよろしいですか?」彼が指さした方を確認する相良。
「どうぞ」そこまで相良は笑顔で立ち振る舞っていた。
十二年前の卒業写真を見付けた真木野は、迷わずそれを棚から抜き出した。そして三組と書かれたページに高瀬孝次郎と佐久亜紗美の上半身の個人写真が共存していることを発見した。それ以上に真木野が引っ掛かったこと、それは卒業写真の孝次郎はみんなと同じ新緑の木々の背景ではなく、彼の後ろだけがただの灰色で塗り潰されていたこと。そして彼だけが笑ってもニヤけても勿論怒っても泣いてもいなかったことだ。全くの無表情でそこに写っていた。遺影でもここまで表情がないものはないだろうし、なにより使わないと思った。その写真に本人以上に真木野は怒りを感じた。「本当に自殺だったんですか?」写真を見ながら大沢の横に腰を下ろし、突然本題を切りだす真木野に、相良は少しばかり面食らった表情を覗かせたが、
「それはあなた方警察が出した結論のはずです。私たちが決め付けたものではありません」その言葉に、流石の彼も反論はしなかった。一般人に、私は事件の担当者ではなかったなどという言い訳が通用しないことなど重々わかっていた。
「では校長先生はどうお考えですか?あの事件は本当に自殺だったと?」攻め方を替える真木野。
「ここは学校です。職員以外の大人が入ってくれば目立ってしまう為、誰かしらが気が付くはずです」真木野は新堀の話しを思い出した。死んだ男子生徒の親に入った五千万円の保険金の話を。多分警察もそのことを嗅ぎ付け、校長にも聞き込みをしたのだろう。しかし納得がいった真木野とは対照的に、「だったら生徒が犯人だったってことじゃないですか?」大沢は校長の言っている本心がわからなかったようだった。だからお門違いな発言をしたのだろうと真木野は推測した。
「まぁ」幾分困ったように校長は返えした。
それを救いたかったわけではないが、「実は私、学校の先生になりたかったです。校長は最初から先生を志していたんですか?」真木野の質問に大沢は不服そうにした。
「そうだったんですか。あなたなら良い先生になられたことでしょうね。私も学生時代から先生を志していました。私の場合は時代が良かった。まだ先生という職業がそれほど人気がなかったときですから」少し嬉しそうに懐かしそうに話す相良。横で上司の意外な過去に大沢は目を丸くしていた。
「先生は当時既に校長だったんですか?」
「そのときはまだ国語を教えておりました」
「国語ですか。苦手科目の一つでした」
「そうなんですか?」
「作者の言いたいことがどうしてもわからなくて、テストはいつも平均点以下でした」
「それが今では人の心を読むことが必須の刑事ですか」
「だからこの職業に向いているのか、いまだに自問自答しています」
「でもそれが大切なんじゃないですか。人間、自分の地位や職業に奢ってしまってはそこで成長は止まります。常に自問自答、試行錯誤し思い悩みながらも先へと足を進める。そこにその人の成長があると、常々職員たちには話しているんです」大沢には目から鱗のような話に感じたが、校長を少しだけ良い気分にさせた真木野が、本題から離れることはなかった。
「死んだ男子生徒にも教えていたんですか?」彼らが来た目的がその話だったことを思い出したのか、もう少し自分の教育論について語りたかったのか、相良の顔つきが明らかに変わるのを真木野は見逃さなかった。
「男子高校生の自殺の原因は何だったんですか?十二年前の資料には何故かそんな大切なことが不明のままだったんです」幾分口が重くなった相良。
「そのことは我々といたしましても充分調べたことなんですが、結局自殺の原因まで掴めませんでした」それは政治家顔負けの苦しい弁解にしか聞こえなかった。
「虐めとかが原因だったんじゃないんですか?」
「そのような事実は当時ありませんでした」そう返す相良を弾き飛ばすように、
「過度の虐めによる自殺か、あるいはリンチの行く末の事故死?」大沢は推論を推し進めたが、真木野が割って入った。
「それでは校長は、何故彼が死ななければならなかったのかとお考えですか?」ここまでどうにか答えていた相良も、その質問には悶絶した。
「何故彼は死ななければならなかったんでしょう?虐めがなかったなら家庭内での問題とか?」真木野はなおも攻めたが、だんまりを決め込んだ相良。
「では最後に一つだけ教えて下さい。校長先生は十二年前に死んだ高瀬孝次郎君は自殺だったとお考えですか、それとも他殺だとお考えですか?これは私個人的にどうしてもお伺いしたいことなんです。正直に答えてください」
下を向いていた相良が、真木野と大沢の間にある窓から見える校庭の方に遠い目を向けた。
「分かりませんが、警察が自殺と断定したんですから、自殺でしょう」ここからどんどん攻めて埃を叩き出すのだろうと大沢は思っていた。
「今日はお忙しい所有難うございました」しかし真木野は期待を裏切りあっさりと立ち上がると、一礼して応接室から退室してしまった。慌てふためく大沢も頭を下げると、大急ぎで真木野のあとを追い掛けた。一人きりになった相良は立ち上がり窓の前まで足を進め、今度は確かにどこか一点を見つめた。
「高瀬君、そろそろ君の事件の真相が暴かれるときが来たのかもしれないね」誰かに話すような口調で頬を柔らかく上げた。
外に出た二人は同時に手で顔を仰ぐ仕草をしていた。時刻は間もなく五時になろうとしていた。この季節、この時間帯はまだまだ一日が終わりに向かっていることを全く感じさせない光の強さと蒸し暑さがあった。
2日目・咲江の話
「よっし、次行ってみよう」何故か少しハイテンションになる真木野。今回の事件ばかりか十二年前の事件までも自殺が殺人事件になるかもしれないことがそんなにうれしいのかと、大沢は上司の精神を疑った。まぁ捜査一課で働く刑事の宿命なのだろうと、客観的に解釈しておいた。
「何処行くんです?」
「決まっているだろ。高瀬孝次郎の家だよ」
「じゃぁ、電話して住所聞きます」
「馬鹿っ。さっき読んだ資料に載っていただろうが」そこまで気にしていなかった自分が恥ずかしく、また車に乗り込んでカーナビに住所を入力する際、さらっと言ってのけた真木野にここでも大沢は目から鱗だった。そして帰りはロリコンキャラではなかった真木野に、大沢が一人ほくそ笑んだ。
「気持ち悪いな。何だよ?」
「いやっ、何でもないです」不完全燃焼に感じた大沢だったが、笑った真意は真木野の大人な捜査の進め方に、常々格好良さを感じていたからでもあった。
五分ほどで着いた高瀬家の電気が付いていたことで二人は安堵した。玄関まで行って真木野は少しばかり驚いてしまった。一戸建ての木造平屋住宅は結構な年数が感じられ、あちらことらから隙間風が家中を通り抜けることは明らかだった。十二年も前とはいえ、五千万円もの保険金が入った人間が住む家には到底思えないモノだった。インターフォンを鳴らすと、玄関先に出て来たのは高瀬孝次郎の母親らしき初老の女性だった。二人を確認した彼女の表情は曇って見えた。
「夜分すいません」そう切り出す大沢。
そして相手がどちら様ですか、と聞き出す前にいつもの馴れない自己紹介をしておいた。室内へ通されるなり、
「十二年前の息子さんの事件のことで幾つか聞きたいことがあるんですが」唐突にも感じる大沢の言葉に、もうそのことには触れて欲しくないといった面持ちの母親を、真木野はじっと見続けた。彼女の名前は高瀬咲枝だと先程の資料から思い出せたことで、大沢は一人良い気分になっていた。真木野は、目の前の彼女が生活に疲れ果て、決して幸せそうには思えなかった。
「今更あの事件の何が知りたいんですか?」
「真相です」そんなことお構いなしに、大沢はズケズケと事件を掘り起こそうとしていた。玄関先で立ち話をしていると、突如閉めたばかりの扉が開いた。現れたのは茶髪の少年だった。帰宅したのだろう彼の年は、死んだ孝次郎と同じ高校生らしかった。その少年が、何だ貴様ら、そんな目で二人を見てきた。
「こちら刑事さん。ちゃんと挨拶しなさい」どうやらその少年は死んだ孝次郎の弟のようだ。真木野は、ふと、弟がここまでは大きくなれたことにホッとした思いで、少年の亀の首みたいに動いた無言の挨拶を見ていた。
少年は玄関に靴を脱ぎ捨てると、
「警察が何の用で来ているの?」小声で母親に尋ねていた。
「お兄ちゃんの事件のことで、聞きたいことがあるんだって」彼女は息子に、何故か恐縮したようにボソッと漏らした。すると少年は振り返り、
「今更何の用だ?散々人の家庭引っ掻き回しといて、よく十二年も経ってからのこのこと来れたもんだな」突如捲し立てた態度に、大沢は面食らっていた。
「和馬、止しなさい。あなたは奥に行ってなさい。ご飯用意してあるから」憎しみを露わにした少年は、二人を凝視したまま家の奥へと消えていった。少しの沈黙を破ったのは母親の咲枝だった。
「どうぞ、狭い家ですが、よかったらお上がり下さい」そう言って二人は玄関横にある六畳ほどの部屋に通された。そこが普段は居間であり、食堂であり、寝室なのだろうと、端っこの方に置かれている物を見て真木野は判断した。畳は完全に擦り減り、物が溢れ返っている時代を全く感じさせなかった。二人を座らせると、一度奥に消えた母親と和馬の言い争うような声が聞こえた。
「弟は何であんなに警察を嫌っているんですかね?母親の咲枝さんもどこか我々を嫌がっているみたいですし」大沢の疑問に真木野は答えなかった。少ししてお盆に湯呑を乗せて咲枝が戻って来た。そして二人の前のテーブルにそれを置くと、二人と対峙するようにゆっくりと腰を下ろした。
「孝次郎の事件のことで私に何が聞きたいんですか?」大沢の口が動き出したが、先に声にしたのは真木野の方だった。
「十二年前の事件で私は担当刑事ではなかった為、これからの質問で無礼なことをお伺いしてしまうかもしれません。どうかご勘弁ください」正座をしたまま軽く頭を下げた真木野。大沢は開いた口が塞がらないといった感じでそれを見届けた。目の前で咲枝は表情を強張らせたまま俯いていた。
「昨日、佐久亜紗美という女性がビルの十階から飛び降りて命を絶ちました。その死に方が十二年前の孝次郎さんと同じ方法だったんです。彼女の死も孝次郎さん同様に自殺として片付けられようとしていました。しかし調べて行くうちに他殺の線も浮上した為、十二年前の事件の関連性もあるのではないかと考え、こうして今日お伺いさせて頂きました。勿論死に方が同じだっただけで二つの事件を関連付けた訳ではありません。ご存じかも知れませんが二人は同じ高校で同じクラスだったんです。これが単なる偶然だとは我々は考えることが出来ませんでした」
「十二年前も今回も、私たちは関わっていません」テーブルに置かれた飲み口が少し欠けた自らの為に入れた湯呑茶碗を見つめながら静かに、しかし強い口調で咲枝は言葉を発した。
「十二年前、何故孝次郎君に保険金を掛けていたんですか?」自分が知らない事実に大沢はただただ驚きを露わにしながらも、黙っているしかないと感じた。
「あれは、息子の友人の母親が保険の外交員の仕事していたんです。その人の勧めで、付き合いで入ったんです。でも孝次郎だけ入ったわけではありません。私も一緒に加入したんです」咲枝は目線を湯呑に定めたまま段々と語尾を強めていった。「こんなことになるならあのとき入らなければ、もしかしたら孝次郎は死なないで済んだんじゃないかと考えてしまうんです。でもお金が入るのが私たちだったことを考えれば、そんなはずないのかもしれませんが」奥歯にモノの挟まったような言い方が引っ掛かった真木野は、
「母親が保険の外交員だった友達の名前は憶えていますか?」静かな時が流れた。それに耐え続けた二人に、観念したように咲枝が重たい口を開いた。
「速川征太。孝次郎の顔に被せてあった体操着袋の持ち主の子です」。
孝次郎は保険金が入るギリギリで死んだ。体操着袋の持ち主の少年は保険に詳しい家の息子だった。彼は当時、保険の仕組みを知っていたとしてもおかしくはない。そうなると孝次郎の死が自殺でも他殺でも、速川征太という少年が、この事件に何らかの関わりを持っていたことは間違いなさそうだった。勿論高瀬咲枝の話だけで決めつけてしまうのは危険であることは重々承知している。一番得をしたのは、今目の前で項垂れている顔に全く赤みを感じない女性であることに変わりはないのだから。色々思いを巡らせながら、真木野は高瀬咲枝の後ろに置かれた仏壇の中に遺影を見つけた。「旦那さんはお亡くなりになられたんですか?」
「四年前突然倒れ、そのまま死んでしまいました。心筋梗塞だったんです」
言葉を失った真木野に変わって、咲枝が話を続けた。
「十二年前、保険金のせいで私たちは濡れ衣を着せられた。私たちはお金なんか欲しくなかった。だから随分あとに入った保険金全額を慈善団体に寄付したんです。しかし警察は私たちの容疑が晴れると、さっさと息子の捜査から手を引いた。結果は自殺。全く納得がいかなかった。疑いが晴れても周りの人間たちは後ろ指差しながらこそこそと噂した。息子殺しだって、ときには聞こえるような声で罵った。家に帰れば生ゴミや犬のフンまでがばら撒かれていた。息子を失って一番傷ついているのは家族なのに、どうしてこんな仕打ちを受けなきゃならないのかと、毎日枕を濡らした」
「行き過ぎた捜査があったなら謝ります。しかし保険金の事実がある以上は、たとえ孝次郎君の友人の母親との付き合いで入ったとしても、警察はそのことに目を瞑ることは出来ないんです」お互いが段々ヒートアップしていった。
「でも、だったらどうやって私たちがあの子を殺すことが出来たんです。六時に学校に我が子を呼び出して殺し、それを同じクラスの生徒の子の仕業に仕立て上げた?冗談じゃない、何故わざわざ学校なんです?」資料には確かに孝次郎の死亡推定時刻は、朝の六時半頃と記載されていた。そして顔に被せられた布の袋は、同じクラスメイトの体操着袋だったとも書かれていた。大沢は足の痺れを我慢しながら、全く見えない話しに、昼間見た資料を元に懸命に話しの全容を解明しようと試みていた。ただ真木野が言った保険金の話は初耳だったし、一番驚かされた。
「では高瀬さんは十二年前の事件、息子さんの死は自殺だったとお考えですか、それとも他殺だったと?」突き進む真木野。
突如泣き出した咲枝。奥の方からズカズカと足音が近づいてきた。
「いい加減にしろ!もう良いだろ」奥で聞いていたのだろう、和馬が割って入ると母を庇った。その光景にこれ以上聞き出せないと、普段は冷たい人間だと同僚に思われている真木野が口を噤んだ。その横で黙り込んでいた大沢が立ち上がった。
「最後に一つだけ」和馬が物凄い形相で彼を睨んだが、それ以上に強い眼差しだった大沢に威圧されていた。
「十二年前の調書読ませて頂きました。その中に書かれていたんですが、孝次郎君が被っていた体操着袋を自殺ということで持ち主の少年ではなく、遺族に返したとの記述があったんですが、その袋今もお持ちですか?もしお持ちでしたら、貸して頂けませんか?十二年前の事件の全容が知りたいんです」咲枝の体が突然震え出した。
「今更何なの?十二年前には孝次郎は勝手に死んだからって一方的に返しておいて、今度は必要だから貸せって。そんな勝手が許されると思っているの?」静かに始まった咲枝の心の叫びは、最後には泣き叫び、和馬が母親の体を抑えるほどだった。
完全に圧倒された二人は、仕方なく高瀬宅をあとにした。
「どうもありがとうございました」玄関先で大沢がそう伝え頭を下げた横で、もっと下に頭を下す真木野の後頭部が見えた。外に出て一度家の方を見上げた真木野。すぐに向き直すと重たい足取りで歩き始めた。
「僕は自ら命なんか絶たない。殺されたんだよ、僕は首を絞められて殺されたんだ」
車のドアに手を掛けたとき、真木野はゆっくりと高瀬孝次郎の実家へと目を向けた。それは聞こえた、何処からかは分からないが彼の耳には届いた。その声が生身の人間の声でないことはすぐに分かった。不思議と恐怖心はなかったはずなのに、乗り込んだ助手席のシートに体を預けたとき、全身を鳥肌が巡っていた。そして暑さのせいではないぬるぬると感じる汗が汗腺からジンワリと出てきたのが分かった。今聞こえた声は本当に本人の訴えなのか、それとも心の奥底で感じていた思いが真木野自身にそう訴えて来ただけなのか、今の彼には分からない。ただ全力で事件の解明をするだけだと考え軽く目を閉じた。
「次はどこ向かいます?」前傾姿勢でハンドルを握る大沢の操縦で車は走り出した。
「十二年前の事件が本当に自殺だったとして、佐久亜紗美が彼の自殺に深く関わっていたとしたら、恨みを晴らす為にあの母親が残された二男と共に、息子と同じ要領で彼女を殺害したなんて考えられないですかね?」
「それもあるのかもしれないな」相変わらず窓を開けたまま外を見つめる真木野。
景色に高い建物が目立ち始めた頃、
「十二年前の事件と今回の事件に繋がりがあると真木野さん、考えてるんですか?」大沢が口を開いた。
「さぁな」
2日目・亜紗美のオフィスの話
夏至間近、車内に入り込む風は湿気を帯び生ぬるい。家に帰ってエアコンの効いた部屋でビールでも飲みたい気分だが、今夜も遅くなりそうだと大沢は少し項垂れた。そんな日に窓を全開にし外を見つめる上司の横顔が格好良くても、部下の願いは窓を閉めてせめて車のエアコンで涼みたいというものだった。そんな上司でも事件の真相を一番知りたいのはこの男なのだろうと、次に行くように指示された場所を聞いてそう感じた。それは佐久亜紗美のオフィスだった。外は明るくても時刻は六時を回っていた。彼女のオフィスもすでに捜査はされていた。しかし真木野は拾いきれていない証拠、十二年前の事件と今回の事件の接点となるモノがきっとあると踏んでいた。
署がある港の方に車を走らせる途中に、昨日の朝、日本中を震撼させた事件が起こったオフィスビルはある。惨劇があった歩道には、清掃しても取りきれない血痕がへばり付き、事件の凄まじさを物語っていた。それは彼女からのメッセージだと感じた大沢が顔を顰める横を、涼しい顔で真木野はビルの中へと入って行った。
最上階にある彼女のオフィスに向かう為、エレベーターの前で待つ真木野が、横に並ぶ大沢に、
「おまえは警備室へ行って防犯カメラを確認して来い」指示を出した。
「それは昨日やりました。不審人物は映ってはいませんでした」
「そんなことはわかっている」ヘッという顔でいる大沢。
「おまえが確認したのは、事件があった九時から警察が完全に包囲する九時十分ぐらいまでの時間だろう。もっと前だ、もっと前から確認して来い」そこまで説明をされ、
「なるほど、わかりました」大沢がやっと理解した。
二人でコンビを組んで一年。この男が切れ者なのか、はたまたただのバカなのか、相棒を理解出来ないのは寧ろ上司である真木野の方だった。
警備室の中へ入ると早速昨日の防犯カメラ映像に目を凝らした。長い時間を確認しなければいけない為、大沢は相当な早送りで画面を回し、食い入るようにそれを睨んだ。その速さに同じように画面を見る警備員が、目を躍らせながら白旗を上げた。大沢の動体視力は目を見張るものがあった。しかし彼は生まれつき恵まれていたモノを遺憾なく発揮した記憶はない。因みに学生時代、彼はずっと文科部だった。
エレベーターを降りた真木野は、彼女が働いていた広告代理店のオフィスへ向かった。そこには十名ほどの人間が、昨日同僚が死んだことなど気にも留めていない感じで齷齪と働いていた。上司や同僚たちは昨日事件後に散々聞き込みをされていた。だから真木野が姿を現した瞬間、ウンザリといった空気を彼は肌で感じた。昨日の時点で既に鑑識はオフィス全体を調べている。指紋、足跡、血痕その他諸々。自殺なのか他殺なのかを判断できる証拠品は見つからなかったようだ。社長に承諾を得て、彼女のパソコンを開いた。パスワードは隣にいた女子社員が教えてくれた。仕事上のトラブルという線も無いわけではなかったから、ワードやエクセルの資料、メールのやり取り等に不審な点がないかを隈なく探した。これだって昨日鑑識が調べはしていた。結局その線では怪しいところは何一つ見つからなかった。インターネットも開いてみたが、自宅と同じで服や家電製品のネットショッピングやオークション、旅行のサイトに繋がるばかりで目を留めるようなモノはなかった。一番有力な手掛かりが隠れていそうなパソコンは諦め、次に彼女が座っていたデスクの引き出しをしゃがみ込んで調べた。それは引き出しの奥や隙間に詰まった資料などを見つける為、見落としがあってはならないのだ。まして彼女の死に係る重要なモノなら、奥の方に隠れていることが往々にしてあると彼は考えていた。しかしそこにもそれらしいモノは見つけられなかった。続いて彼が目を向けたのがゴミ箱。その中身が一昨日から捨てられていないことを確認すると、彼は煙たがる隣の女子社員に構うことなく、床に紙切れを敷き中身を広げた。
大沢は相変わらずの早さで人々が行き交う画面を見つめていた。横にいた警備員は付き合えないと感じ、既に自分の仕事に体を向けた。一人画面を血眼になって睨み続けた大沢が、
「彼女、自分の足で歩いてこのビルに出勤したのか」一つ目の発見のあと、二十分後を映し出した映像に、「この男は確か、三十分前に表口から入って来た男だ。出るときは何で裏口なんだ?」怪しい男を捕らえた映像を発見したのだ。しかしそれはやはり怪しいだけで犯人ではないのかもしれない。何故なら男がこのビルから退出したのは、彼女が死ぬ十分も前だったのだ。
ゴミを一つ一つ手にとって真木野は確認をした。昼ごはんを買ったのか、近くのコンビニのレシート。何か欲しい物があったのか、洋服屋の広告チラシ。スナック菓子の空袋と対照的な存在のサプリメントの空の容器。それは自殺を考えていた人間のゴミ箱には到底感じられなかった。そんな中からとうとう見付けた。事件を大きく突き動かしそうな証拠品を見付けたのだ。それはぐちゃぐちゃに丸めて捨てられたコピー用紙。そこには書かれていた、私を殺したのは速川征太だ、と決してきれいではない手書きの文字で、確かにそう書かれていた。引っ掛かるのは、手書きの文字を印刷したモノだったこと。原本は他に存在するのだ。ただこれを見る限りでは、佐久亜紗美は他殺。犯人は速川征太ということ。
「えっ?亜紗美、速川って人に殺されたの?」真木野本人よりも先に驚いたのは、先程まで彼に冷たい視線を送っていた隣に座る女子社員だった。その声にオフィス中がどよめき出した。そんな中、真木野は口ずさんだ。
「速川征太?十二年前の事件で死んだ人間の顔に被せてあった体操着袋の持ち主も確か、速川征太だ」突如浮上した二つの事件の接点と速川征太という人物。二日目にして事件は透明感をググッと増したように感じた。今知ったことは他には決して公言しないよう念を押し彼はそこを後にした。
2日目・まとめの話
その夜、署に戻ると別の班同士、今日掴んだ情報の交換をした。
「佐久邸を張り込んでいたところ、五人の人間が尋ねてきました。三人はマスコミ関係。今回の娘の自殺をどう受け止めているかを、相手が出なくてもインターフォン越しに捲くし立てていました」そう報告したのは、真木野の同期で同じ警部の三橋だった。言わば二人はライバルというわけだ。
「残りの二人は、一人が佐久亜紗美の父親が経営する佐久製作所の専務野間口。もう一人が何故か特許庁の新堀という男でした」
「特許庁?」
「新堀?」下山と真木野の反応はほぼ同時だった。
「知ってるんですか?」横に立っていた大沢が声を掛けた。
「いいや」そこにいた誰もが真木野の嘘を見破っていた。しかし誰も大沢でさえもそれを突っ込んで聞き出す者はいなかった。いくら攻めたところで、この男が本当のことを言うはずなどないと知っていたからだ。次に林が手帳を広げた。
「私達は、まずビデオテープが入っていた封筒に書かれていた住所に行ってみました。そこには書かれていた名前と同姓同名の人が住んでいましたが、彼はこのテープに全く身に覚えがなかったんです。手書きの宛名も全く書いた記憶がないそうです」
「やはりそうか」話しを切った下山だったが、
「それと」
林の報告はまだ続いた。「その事実に怪しさを感じた私達は、佐久亜紗美が飛び降りる瞬間を撮影したであろう現場へも行って来ました」一呼吸置くと林の顎が上がった。お決まりのポーズに、これから彼が話す内容が彼にとってのスクープであることを、誰もが認識出来た。「撮影が行われたであろうビルは、彼女が飛び降りをした問題のビルより一階高い十一階建てでした。ビデオ映像から考察するに、屋上に登らない限りはあのアングルは不可能です。そしてその屋上に上がる為には鍵が掛かった扉を通らないと出られないんです。つまりこのビデオテープを送った人物は、わざわざ屋上まで上って撮影したわけです。だから今回の事件は他殺。犯人はビデオ撮影をしたビルの屋上の鍵を持っているか、入手可能な人物ということになります」
「それは楽観的過ぎるだろ。ビルを見ていないから確信があるわけではないが、屋上へは鍵がなくても行き方なんていくらでもあるはずだ。それに屋上から隣のビルを覗き見る変態がいてもおかしくはないだろ」真木野が言い寄った。
「だから他殺とはまだ決め付けられないが、あのビデオテープを送り付けて来た人間がそこに存在しなかったことは、大いに他殺の可能性が出てきたわけだ」下山が少し肩を落とし気味の林を庇った。
「まぁ、わざわざ偽名を使っているんだから、あのビデオを撮影した人間が、今回の事件に絡んでいる可能性は大いにあるだろうがな」真木野も言い過ぎたと感じたようだった。
そんな空気などお構いなしに、大沢が報告を始めた。
「真木野さんと僕は佐久亜紗美の死に方が、布の袋を被って首を括ったという点で、非常に類似した事件が十二年前にも起きていたことを突き止めました。だから当時その事件があった、横浜郊外にある高校に行ってきました。そこで十二年前死んだ少年と今回死んだ彼女が、その高校出身で当時同じクラスであったことを突き止めました」
「その事件なら私も覚えてます。あの事件も確か自殺で片付けられたはず」三橋の大きな声を真木野が煙たそうにしていた。
「十二年前の捜査報告書にも、自殺で処理したと書かれていました。しかし類似した点がある以上は、この事件ももう一度捜査し直す必要があると思います」
「捜査のやり直し?」下山がギョッとしていたが、大沢は気にしなかった。
「はい。この事件、もしかしたら他殺の可能性が出て来たんです。それから事件があったビルにも行きました。そこで防犯カメラをもう一度確認したんですが、昨日自分が見落としていたある男の映像を見つけました。一度目は彼女が飛び降りる四十分前に正面の入口から入る姿。二回目は彼女が飛び降りる十分前に裏口から出て行く同じ男のうしろ姿でした。格好は黒いニット帽にサングラス。黒いジャケットに下はジーンズです。年齢は映像からはわかりませんでした。因みにこの男がビルに入った十分後に佐久亜紗美が通勤する姿も映っていました」大して書かれた痕跡もない手帳を広げ、大沢が発表をしている横から、
「それでおわ……」一歩踏み出し、そう言い掛けた真木野を押し退け、
「あと真木野さんが彼女のオフィスから凄いものを発見しました。それは彼女のデスクの横のゴミ箱から発見されたんですが、私を殺したのは速川征太、という何かメモのノートをコピーした紙切れを見つけたんです」大沢は真木野の心など知る芳もなく、振り返り上司に笑い掛けた。目を背けた真木野。そこまで話すなと目で訴えたところで、この男が気が付くはずもなかった。
「速川征太?」三橋の疑問形を待っていましたと言わんばかりに、
「それがなんと、十二年前死んだ少年が首を括ったときに顔に被っていた体操着袋の持ち主が、その速川征太なんです」大沢は呆れ顔の真木野とは対照的に、生き生きとした表情で答えていた。
「ということは、今回の事件と十二年前の少年の自殺は、繋がりがあると考えられるわけだな」腕組みをした三橋が、真木野の方に同情したような目と、本心を物語っているような上がった口元を向けた。それに気が付かない振りをする真木野の肩を、
「二人ともよくやった。そういうことなら、捜査やり直しも仕方がないな。ただくれぐれも慎重にな」下山が労った。大沢の方を見ないでもそれだけで浮かれていることは、真木野には察しが着いた。案の定、彼は犯人を捕まえたぐらいの笑顔でその日を終えていた。
「よっしっ、じゃぁ明日からはとにかく、その速川という男のことを洗ってくれ」
「わかりました」
その夜の帰り道で、真木野は新堀の携帯を何度か鳴らしたが、彼の声を聞くことは出来なかった。
下山はデスクで一人、十二年前の事件を捜査し直すことについて、上にどう説明すればいいか頭を抱えた。
2日目・高田の話
市内病院内では、消灯後もテレビに布団を被せ、その中に入り込み汗が噴き出ても構わずに画面と対峙する高田和夫の姿があった。彼はその中でテレビ画面に頭を打ち付けていた。見てしまったのだ。亜紗美が飛び降りるシーンをテレビ局が放出した映像によって見せられてしまったのだ。画面に頭をコンコン打ちつけながら涙を流していた。
「大丈夫か?」暗闇の中、そんな声と共にカーテンレールが動く音がした。境川連治がそれを動かしたことは見ないでもわかった。
「やめて下さい」布団を被ったまま、汗だくの彼は思はずそう言っていた。しかし連治が怒りを顔に出すことはなかった。すぐにカーテンを締め直し、
「ごめんな。でもテレビなんか見るな。奴らに心なんてない。この事件に関係のない多くの国民に興味を抱かせることしか奴らは考えてない。偽善者ぶった表情で原稿読みながらも、事件の被害者や関係者の気持ちなんか考えちゃいないんだよ、奴らは」彼は怒ってくれていた。それが嬉しかったわけではないのだが、味方が出来た気がした和夫が、今度は二人の間に引かれていたカーテンを開けた。「すいません。僕はこの事件の関係者なんかじゃないんです。ただ昔ずっと大好きだった人が関わっているってだけなんです」
少し拍子抜けしたような面持ちになりながらも、「それだって立派な関係者じゃないか」明らかに慰められていると和夫は思ったが、決して嫌な気分にはならなかった。久々に感じた人の温もりだったから。
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