第5話 3日目
3日目・左耳の話
真木野は署に顔を出すなり、すぐに佐久亜紗美の所持品を探った。その中にはがき程度の大きさのメモ帳を見つけると、机の上に昨日ゴミ箱から発見したコピー用紙を広げ左手でメモ帳の表紙を捲った。
「1112324412713388。何だ?これじゃあ比べられないな」最初に出てきたのは、そんな数字が羅列されたペンの走り書きだった。仕方なくもう一枚捲った。
「明日貴代とアームストロング午後八時か」一通りメモ帳を最後まで捲ったが、あとは白が続くだけだった。彼は文字が書かれたページを、机の上に置いていたコピー用紙の横に並べて置くと、二つの文字を比べた。
「これは彼女の筆跡じゃない」一目瞭然だった。二つのメモの文字は素人でもわかるほど明らかに違う人物によって書かれたモノだった。
「じゃあこのコピーは誰が書いたモノなんだ?何故彼女はそんなメモを持っていたんだ?」顔を上げた真木野は宙を睨んだ。その顔がビクッと動くと、
「もしかして、高瀬孝次郎のメモ?でも私を殺したのは速川征太だ、では死んだ後にこの文を書いたことになる?彼女じゃない第三者が……」最後には目を見開き固まっていた。
「幽霊?」ボソッと漏らした自らの言葉に、彼は鼻で笑い返した。
その日は、朝から雨がザーザー降っていた。そんな中、犬の散歩をしていた六十歳過ぎの男性から、港から幾分中へと入った丘にある東京ドーム二つ分入りそうな大きな公園、そこの茂みへと飛び込んだ犬が、何かをくわえたまま離さないとの110通報が入った。指示通り現場に駆けつけた警官が見たものは、引き千切られた人間の左耳だった。犬によって少し噛み千切られていたが、鑑識が調べた結果、一箇所だけ人為的に切られている箇所を見つけた。それが何を意味するのか、それは佐久亜紗美のモノであった場合、彼女を殺した人間がいるとまでは言えなくても、彼女の死体を損壊し遺棄した人間がいるということ。つまり表面上は自殺で捜査を進めてきた事件が、彼女の左耳ということになれば殺害事件、あるいは死体損壊遺棄事件として捜査を進める必要が出てきたのだ。ただその耳が佐久亜紗美のものだと特定するには、もう少し時間が必要だった。
それでも人間の体の一部分が見つかったことで港署内に捜査本部が立ち上げられた。マスコミの過熱ぶりとそれに影響を受けた国民の関心の高さが後押ししたことは言うまでもなかった。
建て前は遺体の一部発見による捜査だったが、題材はまだ本人のモノとも分からない、いまだ自殺の線も残る佐久亜紗美のことだった。今までの捜査で分かったことを下山が報告した。その横で真木野は大あくびをしていた。報告を聞きながら捜査本部長である署長が顔を顰めたが、それだけだった。
3日目・相良の話
昼を過ぎても相変わらず空は黒一色で、雨は激しさを増していた。捜査が進展しても、大沢はひとり浮かない表情で外を眺めていた。事実を把握出来ないまま死んだ彼女が、真実を知りショックを受けている涙のようだと、大沢は目の前で降り注ぐ雨粒を見ていた。
「なに感傷に浸ってんだ?とっとと車前に回せ」野次った真木野は、この雨を何処かで喜んでいるようにも思えた。現実へと戻された大沢は、
「はい」気張った返事で駐車場へ向かった。
車を走らせると、
「何処に向かえばいいですか?」
「お前なら何処へ向かう?」乗るなり早々に靴を脱ぎダッシュボードの上に足を乗っけながら、真木野は聞いてきた。
「僕だったらですか?」
「そう君だったら」
「彼女の耳が見付かったんですよね?」
「まだ彼女のモノと決まったわけじゃない」上司の言葉が耳から耳へと通過した大沢の脳は、一つの疑問で埋め尽くされていた。
「何故犯人はあんなところに左耳を捨てたんですかね?あれさえ出てこなかったら、疑われてはいてもまだ警察はこの事件を、自殺で片付ける可能性もあったわけですよね」質問の答えとだいぶ違っていたことで、助手席で目をパチクリする真木野。
「もしかしたら犯人は彼女の耳をわざと捨てたのかも?」それに気付くことなく大沢は自らの言葉に首を傾げる。「もしかしたら死体を損壊している時に、猫か何かの動物に盗まれたのかもしれないだろ?発見した犬だって齧り付いていたくらいだ。それにあの耳はまだ佐久亜沙美のモノと決まったわけじゃないんだぞ」今度は強い口調で言ったことで、「そうですね」部下は上司との会話に戻った。
「で、俺の質問の答えは?」
「何でしたっけ?」頭を掻いて誤魔化す大沢に、真木野は明らかに苛立っていた。
「あっ、この状況下で何処に向かうかでしたね?」
「で、何処に向かうんだ?」真木野は腕組みをして怒りを必死で抑えた。
「わかった。速川征太の職場?」
「違う」
「でも課長には速川を調べろって言われてますよ」
「馬鹿。今の捜査状況で犯人と思しき人間に会ってどうする?ゴミ箱で見つかったコピーの紙切れ見せて、あなたがやったんですかって聞くのか?」
「それもそうですけど」腑に落ちない表情で運転を続ける大沢。
「それなら、佐久亜紗美のオフィスか自宅に向かいます」
「そこで何をする?」
「携帯電話!まだ見付かってないから、それ探します。今の時代、携帯電話が事件を解決したって話しよく聞きますもん」
「ぶっぶーハズレ。他殺である可能性が高いんだ。携帯電話なんてものはとっくに捨てられている。正解は彼女や高瀬孝次郎の母校でした」
「何でですか?今回見付かったのは十二年前の事件のモノではなく、この前起きた被害者の耳ですよ」
「何度も言わせるな!あの耳は彼女のものだと決まったわけではない。そして今回の事件は間違いなく十二年前の事件が絡んでいるんだ。つまり十二年前のことを解明できれば、芋づる式に今回の事件も明らかになる」「それはそうですけど……」大沢が不服そうな顔をしても、向かうのは彼らの母校だった。
だいぶ車を走らせたところで、ずっと外を見ていた真木野の口が静かに開いた。
「おまえがもし殺されたら、悔しいか?」ハンドルを握る大沢が、真木野の方に一瞬目を向けた。上司は相変わらず外を見ていたが、確かにそんなことを聞いてきた。
「それは悔しいですよ」だから答えると、
「当たり前か。で、その悔しさをどうしたい?」質問は続いた。
「僕を殺した相手に伝えたいです」
「それでも伝わらなかったら?」
「その周りの人間に伝えますね」
「どうやって?」
「どうやって?幽霊にでもなりますかね」そこまで話して、大沢は思はず吹き出した。その反応に外を見たままの真木野の顔が少しだけ赤く染まった。
「もしかして真木野さん、幽霊見たんですか?」
「そんなモノ見ない。いるはずもないだろ」そう言った上司を、部下は少し疑りの目で見つめた。
連日で訪れた高校。校門辺り傘を差しながら立っていたのは校長の相良だった。雨はだいぶ弱まったとはいえ、わざわざ出迎えてくれた校長にハンドルを握る大沢が会釈した。
「何度もすいません」適当なところに車を止め、降りるなり再び頭を下げる大沢に、
「いえいえ。何度でも協力します」頭を下げ返した相良の目は、後ろで知らん振りの真木野に向いていた。
校舎内へと入り廊下を思い思いに歩くと、昨日も通された応接室のソファへと腰を下ろした。座るなり話を切り出したのは、事件に無関心だと思われている真木野だった。
「校長先生。外の防犯カメラは、何年前に取り付けたんですか?」
「あっあれですか?確か十五年ぐらい前だったと思います。巷で学校を巻き込んだ凶悪犯罪が世間を騒がせていましたから、親御さんや近所の方々の要望で取り付けたんです」
「それなのに、あの事件が起こってしまったわけですか」奥歯に物の挟まったような言い草の刑事を気にすることなく、「そうなんです」相良は即答した。何時取り出したのか横に座る大沢が、その日は卒業写真を開いていた。「事件当日もカメラは動いていたんですか?」真木野の尋問は続いた。
「勿論です」
「その日の朝、高瀬孝次郎君は一人で登校してきたんですか?」
「はい」
「映像は残ってますか?」
「すいませんがもうないんです。なんせ十二年も前ですから」
「この学校の生徒が一人死んだというのに、残ってないんですか?」
「確かに高瀬君は自殺しましたが、映像には何も怪しいものは載ってませんでしたから」
「事件があったのは夏過ぎ。当時彼は三年生ですから部活の朝練はありませんよね?それなのに朝六時半ごろ登校してくるのは可笑しなことですよね?」
「確かにそうですね。でも元々彼は帰宅部です」相良がニヤけた。
「校長先生は、当時彼が帰宅部だと知ってたんですね?」
「知りませんでしたよ。正直三年生だったことも。だからあの日、彼が早い時間に映像に映っていても怪しく思わなかったわけですから」上手く返されたことで真木野は苦笑いを浮かべた。
「なるほど、そして彼が死んでから帰宅部だったと知ったわけですね?」
「はい。流石に印象に残った生徒ですからね。帰宅部だったことを覚えてしまいました」大沢は写真から顔を上げると、あからさまに相良を睨んでいた。そんな部下の顔を確認しながら目線を卒業写真へと移した。そして見つけた。彼らと同じクラスに彼はいた。速川征太は薄気味悪い笑顔で確かにそこにいた。再び校長の方へと向き直すと、
「この前もお伺いしましたが、高瀬孝次郎君は本当に自殺だったとお考えですか?」
「はい」
「では校長先生はこの学校で自殺と他殺、起こって嫌なのはどっちですか?」
「随分と凄い質問ですね、答えなきゃ駄目ですか?」鼻で笑った相良だったが、
「出来ればお答え頂きたい」真木野はいたって真顔だった。
「それは、他殺の方が嫌に決まっているじゃないですか。自分の生徒の中で自らを殺す生徒の方が、他人を殺す生徒よりも救いを感じます」
「そうですね。嫌なことを聞いてしまって申し訳ございません」
「いえいえ」
「では最後です。十二年前のあの日の午前六時ごろ、防犯カメラに映っていた高瀬幸次郎君の横に、速川征太君は映っていましたか?」
「先程も答えましたが、彼は一人で登校していたんです。二人並んで映っているはずないじゃないですか」驚きの表情の後に、小馬鹿にした笑いを浮かべる相良。しかしすぐに自分の発言に顔を顰めた。
「二人で同時には映ってはいなかったけど、速川征太君は映っていたわけですね?朝早く、高瀬君が登校した時間帯辺りに」
「そんなことは言ってません。その日速川君はいつも通り登校して来ました」
「十二年前の一生徒の、いつも通りの登校姿をよく覚えていましたね」相良は自らの顔を何度も擦った。その態度は明らかに動揺していた。
「彼が登校してきた時間には既に高瀬君の自殺が起きていて、学校内はてんてこ舞いだったんです。だからいつもより注意深く確認したから、だから速川君の登校した映像も覚えていたんだと思います。それにあの子は問題児でしたから。喫煙で謹慎処分喰らったこともあるぐらいです」
「そうですか。問題児ほど可愛いと言いますもんね」
「まぁ、可愛いか可愛くないかはあまり考えたことなかったですが。彼の登校時間は普通だったと思います」
「でももうその映像は消してしまったんですよね。高瀬君が自殺し注意深く見たはずの映像を、処分してしまったんですね?」
「勿論、警察が自殺と断定するまでは取っておきましたよ。でも今はもう私の元にはありません」
「そうですか、わかりました。有難うございました」真木野は立ち上がり軽く会釈をして、大沢をひとり残し部屋を出て行った。
また取り残された大沢が、「二人の誕生日、一日しか違わないんですね」そう言って顔を上げた時、上司の姿がないことに気が付いた。慌てて写真をしまうと、「有難うございました」部屋を後にした。
その時、彼は相良が何の反応も示さなかったことを見逃すことはなかった。
帰りの車で、
「校長何かを知ってますね」
「間違いなく、十二年前の事件の朝六時頃、カメラには高瀬孝次郎以外の人物も映し出されていたに違いないな。でもそれを学校に責任追及することは難しいだろうが、あの体操着袋から重大な証拠が出れば、犯人を追い詰め自白させることが出来るんだが」真木野は校長との会話の中で、事件の真相に自分なりに近づけた手応えを感じたのだろう。一つの仕事を成し遂げたといった表情でタバコに火をつけた。そして一枚の紙切れを手渡してきた。
「これは?」手には持ったものの、運転中で確認出来ない大沢が尋ねると、
「彼らのクラスメイトだった人間の電話番号だ。この番号を宮部に伝えろ。それで電話させて、当時のことを聞き出すように指示しろ」
「僕がですか?」
「そうだよ、決まってんだろ」
「運転中です」
「路肩にでも止めればいい」
「無理ですよ。宮部は同期ですよ」
「だから何だ?」
「僕に仕事を頼まれたらいい気はしないはずです」
「何故そうだとわかる?」
「逆を考えればわかります」
「何を小さなこと言ってんだ」
不貞腐れる大沢。
「じゃあ、真木野さん、三橋さんに頼んで下さいよ」
「わかった」真木野は携帯電話の幾つかのボタンを押した後に発信ボタンを押した。何回目かのコールのあとに、「もしもし宮部か?」その名前に大沢があからさまに歯茎を見せつけた。それでも真木野は淡々と話しを進めた。「今から言う番号に電話しろ。十二年前の事件当時、高瀬孝次郎と同じクラスメイトだった人間の番号だ。結構書いてきたが、繋がる人間は少ないと思う。もしアポイントが取れたら会って話をしろ。そして十二年前の佐久亜紗美と高瀬孝次郎、速川征太の当時の関係や、白い体操着袋が何を意味していたのかを聞き出せ」
3日目・亜紗美のメモ帳の話
署に戻ると、大沢は朝出るときに真木野が立ち寄った部屋を覗いた。そして机の上のメモを見つけた。それは彼女が残した遺留品。
「駄目じゃないですか。こんな大切なモノ置いたままにしちゃぁ」そう言って昨日ゴミ箱から見つけたメモや彼女が残したメモ帳を手に取った。
「昨日ゴミ箱で見つかったメモ、彼女が書いたモノじゃなかったんですね」ふと顔を上げ辺りを見渡したが、誰の姿も見えなかった。
「この数字の羅列は何ですかね?」大声で叫んだが、隣室に居るであろう上司から何の反応も無かった。その後もじっと彼女の直筆だろうメモを見続けた。そして大沢は気が付いた。
「何かのクイズですかね?」「なぞなぞか?」ひとり言は続いた。「ポケベル?」今度は漏れたぐらいに小声だったはずが、
「ポケベルか」同じ部屋にはいなかったはずの真木野の顔が、突如扉に現れた。驚いている大沢に走り寄ると、「その数字変換すると何て書いてあるんだ?」飛びつきのいい上司に、仕方なく口頭で変換を始めた。
「11はア行の一番目ですから、アですね」
「次は?」真木野は急かしながら、彼女がメモした数字の下に、変換された文字を書き加えていった。「証拠品のメモ用紙に直接書くんですか?」呆気にとられる大沢を、「いいから続けろ」一喝した。
「12はア行の二番目、だからイです」仕方なく続ける大沢。
対照的に真木野は目から鱗といった表情で、「なるほど、32は三番目だからサ行か。それの二つ目だから、シだ。44はタ行の四番目だから、テで、12はイ、71は、マだな」得意気になっていたが、「33は、スだ。88はヤ行の、八番目?」最後で躓いた。
「それは、確か、ハートマークです」
「ハートマーク?」
「そうです」上司が聞き返したことで大沢の顔が赤くなった。それをニヤけながら見届けると、真木野は書き加えられた文字を口にした。
「すべて並べると、アイシテイマスハートか」
「彼女はどうしてこんな言葉をメモしたんですかね?それも数字で」机の上に彼女のメモ帳を広げ、二人は難しい顔を並べた。
「このメモ帳は、誰かから電話か何かで言われた言葉や約束を忘れないようにメモする用だったんじゃないですか?」
「おそらくな」
「となると、誰かが数字の羅列を電話何かで言ったのを、彼女はメモしたということですよね?」
「少し奇怪な気もするが、多分そうなんだろうな。それか、メールで送られてきた?パソコンにはそんなメールはなかったから、消されたか?」
「あるいはまだ見つかっていない携帯電話に送られて来たんですかね?」
「アイシテイマスハートか。誰が彼女に送ったメッセージだ?」
「速川征太が彼女に送ったんですかね?」
「ストーカーかもしれないから、考えられなくもないな」
「それとも、彼女自身が誰かに送ろうとした?でも何で今更ポケベルなんですかね。確かもう廃止になっちゃいましたよね」
「でもおまえよく覚えていたな。ポケベルの変換の仕方」
「中学とか高校時代、散々やりましたからね」
「おまえ今幾つだ?」
「三十です」
「ってことは、佐久亜紗美とかと同じ年か」
「そうですね」
「彼女たちも十数年前まではポケベル世代だったんだな?」
「そういうことですね。まあ高校時代は、大概携帯電話が出回っていましたけどね」
「このメッセージもしかしたら、高瀬孝次郎が彼女に送ったのかも?」青ざめた上司に、
「何訳わかんないこと言っているんですか?彼は十二年前に死んでいるんですよ」
「そんなことはわかっている。だから幽霊だよ。彼の霊が……ゴホッゴホッ」そこまで言い掛けて真木野は我を取り戻したのか、咳払いで誤魔化した。
3日目・県立図書館の話
クールビズスーツの上着を掴むと、雨を嫌がりながら二人は再び車に乗り込んだ。向かう先は林が調べた速川征太の仕事場。彼は県が経営する図書館員を務めている。車を南の方に走らせると、それほど大きくはない交差点を山側へと登った。図書館は都心からほど近いが、緑が生い茂る閑静な中にあった。
「立派な建物ですね」車を降り、雨を嫌そうな表情で表現した大沢が率直な感想を述べた。
「警察署とは大違いだな」皮肉たっぷりに真木野が返した。ガラス張りが映える正面玄関から入ると大きな吹き抜けになっていた。その奥にカウンターを見つけた。そこまで向かうと、
「すいません。本日、速川さんはご出勤されていますか?」
「本日速川はお休みを頂いておりますが」応対してくれたのは、如何にも本が好きそうな顔立ちの女性だった。
「速川さんはこの人物で間違いないですか?」大沢は背広の内ポケットから一枚の写真を取り出した。それは高校のときの速川たちが写る、相良から借りたモノだった。
「どちら様ですか?」
手帳を取り出し、「申し遅れました」素早い大沢の行動に、真木野がニヤけた。大沢は手帳を見せたときの彼女の反応が、今までの人間とは違うことに驚いていた。
その写真を手に取ると、「だいぶ老けはしましたが、間違いなく速川です」仕事のように淡々と答える女性。
「有難うございました」礼を言って二人は再び車へ戻ると、同じように林が調べた速川征太が住む家へと向かった。
3日目・宅急便の話
図書館から車で十分程の所に住む彼のアパートは、佐久亜紗美が住んでいたマンションと彼女が飛び降りたビルの丁度中間ほどの位置にあった。
「住んでいる場所からして怪しいですよね」着いた早々に大沢が言ったことが最もでも、彼が犯人である証拠にはなるはずもなかった。日没まではまだだいぶ時間があったが、こんな雨の日は辺り一帯既に暗闇に近かい色をしていた。車を降り、辿り着いたアパートはお世辞にも綺麗とは言えなかった。二階角部屋に住む彼の部屋まで今にも崩れ落ちそうな外に剥き出しの階段を上った。二階の共同通路には、幾つかの部屋の前に洗濯機が置かれていた。速川征太が住んでいるらしい部屋の前にはそれがなかったことで、彼は洗濯をコインランドリーでするのだろうと推測ができた。事件とは全く関係がないことでも、大沢は常々注意深く探るようにと、真木野から口を酸っぱく言われている。しかし今回の発見はどうも事件との繋がりはなさそうだった。彼が住む部屋の前まで来てブザーを鳴らしたが、中から反応はなかった。郵便受けから中を覗いたが、人の気配は感じなかった。
「無駄足でしたね」大沢がボヤいた。
「そんなことはない」そう言った真木野が、勝手にドア横に取り付けられた赤色がだいぶ剥げた郵便受けから取り出したモノは、宅配便の不在票だった。
「なに勝手に見てるんですか?」真木野は動じない。
「彼らの高校から送られてきたモノだ」それ以上に、彼の眼はギラギラしていた。
「高校からですか?」大沢も身を乗り出し、真木野が舐め回すように見入る不在票を覗き込んだ。
「今日届けられたモノのようだな」
「事件と関係あるモノですかね?」
「十二年前に撮られたビデオテープ?」
「まさか?校長はもう消してしまったって言ってましたよ」
「でも、今日話した最後にこうも言ってた。私の元にはもうないと」
「そうか。昨日僕たちが訪れた後に、校長が速川に送ったから、だから手元にはもうないと」
「そういうことかもな。よっしっ、不在票に書かれた番号に電話して荷物が何処にあるかを確認しろ」
「人の荷物勝手に見ちゃうんですか?」
「人一人の命が奪われてんだよ」
「は、はい」真木野の声に顔に大沢はたじろいだ。
電話で確認したところ、荷物は近くの集積場に集められたとのことだった。すぐに教えてもらった場所に向かう二人。車の中で、真木野は下山へと電話を掛けた。今すぐに速川征太の自宅を張り込んで欲しいという要請だった。集積場は住宅街を抜けた港近くの倉庫街にあった。同じマークを付けたトラックが出入りする中、注意深く車を進めると、事務所らしき建物を見つけた。中にいた事務員に不在票を見せると、すぐに荷物を探してくれた。「やっぱ不味いですよ。本人に成り変わって荷物を受け取るなんて犯罪です」もぞもぞしている二人に事務員の女性が睨んできた。思はず首を窄める大沢。
「分かった」仕方なく真木野は手帳をその事務員に見せると、手渡してきた速川征太宛ての荷物を手に取った。その荷物を開けようと試みる真木野に、
「奴が犯人である証拠は何もないんです。任意でしか調べることは出来ないんです」その声に驚いたのは事務員の方だった。
「わかったよ」不貞る真木野が、その荷物を怯える事務員に返した。
事務所から車まで雨粒を滴らせながら大沢はとぼとぼと歩いていた。
「生意気言ってすいません」
「何でおまえが謝る。悪いのは俺だ。おまえは正しいことを言っただけだ」独り傘を差した真木野が庇った。
「でも僕は捜査の邪魔をしています。あの荷物が何なのかを見れば事件が大きく進展します」
「自分が取った行動を悔いるな。常に自信を持て、少なくとも周りの人間にはそう振る舞え」
「はい」車に乗り込んでも、
「宅急便の中身何だったんですかね?」大沢はブツブツ続けた。
「ビデオテープだ」真木野は涼しい顔で答えた。
「やっぱり見ちゃったんですか?」目をむく大沢に、
「見てねぇよ」真木野は目を逸らした。
「じゃあ何でビデオテープだってわかるんですか?」
「備考の所に親切に書いてあったんだ」
「やっぱり見ちゃったんじゃないですか」
「中身は見てねぇだろ」
「そこまで見れば一緒です」
「見えちゃったんだよ。おまえは俺の嫁よりも煩いな」
「真木野さんの家ってカカア殿下なんですか?」興味津々の表情の大沢を、真木野が煙たがった。
「あぁって、大きなお世話だ」
「意外だな。だから会社では威張っているんですね」
「威張ってないだろ。だし家庭はカカア殿下の方が上手くいくんだ」
「そういうものですかね?」一人頷く大沢。
「そういうものだ」助手席で遠くを見つめる真木野。
「そんなことより」思い立ったように話し始める大沢に、真木野がギョッとしていた。
「そのテープには人には知られちゃいけないモノが写っている可能性が大きいですよね?」
「おそらく十二年前のあの日、高瀬と速川の早過ぎる登校時間を記録しているモノが写っているんだろう」
「でも何故校長は僕らには消したと嘘を付いたのに、速川にそれを送ったんですかね?」
「まぁビデオテープの内容は憶測だからはっきりは言い切れんが、おそらく委ねたんだろ」
「委ねた?速川にですか?」
「多分な。校長は十二年前のあの日、高瀬の死に速川が少なからず絡んでいる証拠を見つけた。そしてそれを本人に突き付けることで、あとは自分で決めるように仕向けたんだ」
「なるほど」
「これで、十二年前の高瀬孝次郎の死の真相が見えてきたな。あれは自殺じゃなくて他殺だった」
「でもまだ憶測の域を出ませんね」
「あとはあの体操着袋さえ調べることが出来れば」
「十二年前だと、他に遺留品も残ってませんからね」
「何としてもあの袋を手に入れないとな」
「明日貸してもらえるまで頭下げに行きますか?」
「そうだな。一筋縄では行かないだろうがな」車で移動中、トンネルに入った。結構長いのにトンネル内は電燈が故障中なのか暗闇の世界が広がっていた。その壁に真っ直ぐに伸びる車のライトが当てられた。その様が恰も闇だらけの事件に、光を当てる自分たちのようだと真木野は思ったが、口には出さなかった。部下に冷やかされることほどムカつくことはないからだ。そんな真木野のポケットの中で震え出したのは携帯電話だった。彼はそれを取り出すと、すぐに通話ボタンを押した。
「もしもし」相手は鑑識官箱芝だった。
彼は真木野よりも七つほど年上の鑑識官だ。仕事は丁寧で誰からも信頼を集めていた。だから滅多に人を信用しない真木野からも絶大な信頼を置かれていた。しかし彼が誰からも信頼され尊敬される理由は、仕事熱心ということ以上に彼の人柄が大きなウエイトを占めていた。そんな男はいまだ真木野にはヒヨッコ扱いの大沢に対しても丁寧にそして熱心に対応してくれた。
「今朝見付かった耳の持ち主がわかりました」その答えに真木野はただ頷いた。今朝犬によって見つけ出された、何者かによって捨てられた左耳の持ち主は大方の予想通り、佐久亜紗美のモノだった。
3日目・川端の話
彼らが次に向かった先は、バーアームストロングだった。時間は午後五時、雨は相変わらず降り続いていた。車から店までの道のり、雨に港からの風が味方して横殴りのモノへと変貌したことで、二人は無言のままビルに逃げ込んだ。オープン前の店内で川端は料理を仕込んでいた。
「いらっしゃいませ。あっ刑事さん」カウンターに背を向けた状態で包丁を握ったまま振り向いた川端のトーンが幾分下がる。
「お忙しい時間にすいません。マスターに聴きたいことがあるんです」恐縮する大沢。
相変わらず仏頂面の真木野に川端が口角を上げ、「いいですよ。何ですか?」
お客様を迎えるような優しい口調に大沢が安堵し、話し始めた。
「マスターの言うとおり、彼女の死にストーカーの存在が浮かび上がってきました」決して笑顔で話す内容ではないのかもしれないと大沢は思いながらも、川端への報告をした自分の声が少しばかり上ずっているように感じた。「やっぱりそうですか。そうなると彼女を殺した犯人が早く捕まれば、きっと彼女も浮かばれますね」前回よりも少し冷めた川端の反応が、大沢を孤立させた。
「それで彼女、そのストーカーについてどのようなことを言ってましたか?知っている限りで良いんで話し聞かせてください」真木野が後ろから顔を出した。
「わかりました」何かを決意したような表情で、「私の知らない人物ですから、名前などは会話の中で出てきていたとしても覚えてないのですが、どうやら昔から顔見知りのようなことを言ってました。確か元彼氏だったような?」しかし何時しか自信のない表情に変わっていた。「すみません。仕事をしながら話をするもので、相手の話を全部は聞いていないし、他のお客さんの話も混じってしまうこともあるんです」
「仕方ないですよ。サービス業は同時にいくつかの仕事をこなさなきゃなりませんものね」大沢は一人頷いていた。そんな同情に苦笑いで答え川端は話を続けた。
「ただそのストーカーをしている元彼氏みたいな人間の、無言電話や夜中にマンションの外で立たれたことが本当に怖いって言っていました。あと幼馴染の女性と二人で来店されたときは、彼女がその男に殺されるかもって言っていたのは鮮明に覚えています。でももう一人の女性も彼のことを知っていたらしくそれはないと宥めてましたが、実際彼女が死んだのを聞いたときにその会話を思い出して、咄嗟にその男性に殺されたんじゃないかと思ったんです」
「その幼馴染の名前は覚えていますか?」期待に胸ふくらませる顔をした大沢に、
「確か、タチバナさんだったと思います」
「橘貴代」真木野と大沢が同じ顔で見合った。
そんなことに気付くことなく、「その元彼氏は彼女を相当愛していたんですかね?」ため息交じりにそう漏らした川端が、微かに見える港の明かりに目をやっていた。
「テレビでやってましたけど、十二年前のある男の子の自殺はもしかしたら殺人事件で、今回の事件と何らかの因果関係があるそうじゃないですか?恨みによるものかもとどっかのアナウンサーが言ってました」川端は渋い表情をしていた。
「そこまではまだわかっていません」その表情にまた警察批判だろうと大沢は思ったが、彼の心意は分からなかった。
「十二年前の犯人かもしれないという男性がいるらしいじゃないですか?それがその元彼氏なんですか?」今度は強く、大沢をそして蚊帳の外に居るようにカウンター後ろのガラス瓶に入れられ並べられている色とりどりの酒類を眺める真木野に向けられた。それから川端は手元のまな板の上で切り刻まれたネギに目を落とすと
「でももし十二年前の事件の恨みなら、元彼は犯人じゃないんですかね?」
「何でですか?」今度は真木野が川端をきつく見た。
「彼が犯人なら十二年前の事件の隠ぺいじゃなきゃおかしいですもんね」
頷く大沢を今更それに気が付いたのかと真木野は言い掛けたが止めておいた。代わりに呆れた表情を向けたが、大沢がそれに気付くことはなかった。いつの間にか料理の手を止めこちらに体を向けていた川端もそこには触れずに話は続いた。
「アナウンサーの言うとおり、今回の事件の犯人が恨みを晴らしたのならどうして今回の事件で殺されたのが、容疑者の彼ではなく、亜紗美ちゃんだったか。恨みによる犯行なら、彼が殺されるのが普通ですよね。でも死んだのは彼女。ところで犯人は十二年前に死んだ男の子の為と思って恨みを晴らしたんですかね?それとも自分の恨みを晴らしたんですかね?」
川端の言葉が理解出来なかった大沢が、へっという顔を覗かせた。
「いや、恨みを晴らすなら、自分の為にするべきだと思うんです」いよいよわからないといった感じの彼に、「死んだ者の為に恨みを晴らそうと考えちゃいけないと思うんです。私だったら死んだ者の為に恨みを晴らすことは考えません。私自身の為に恨みを晴らします。そうじゃないと全てを死んだ人間のせいにしてしまう。それは可哀相だし、ズルいと思います。だから今回、そう考えた犯人が彼ではなく彼女を殺したのかも」
川端の言葉に真木野が唸った。大沢は少しばかりおぞましい話に感じたのか、一歩後退して川端を見詰めた。
3日目・真犯人の話
店から出ると、帰りも一段と強まった横殴りの雨を嫌がりながら車まで走った。乗り込むなり、
「次だ」
「やっぱり橘貴代の家ですか?」
よくわかったなぁと言う代わりに、「オウ!」真木野は力強く頷いた。
正直大沢は乗り気ではなかったが、それでも車を橘邸へと発進させた。
「さっきの話しですが……」どの話だと言いたげな真木野の顔。
「バーのマスターの話です」それで理解したようだと悟った大沢が話を進めた。「恨みを晴らすなら、自分の為にするべきだってやつ、最初は怖いことを言う人だと思いましたけど、最もですよね。殺された人からしてみたら、恨んでいるかなんて本人以外わかりませんものね」一人納得がいく表情の大沢。
「殺された人間のほぼ全員が、相手のこと恨むだろ」即答だったこと、そして以外だった返答に、運転中の大沢が助手席を直視した。
「コラッ!危ないだろ。前見ろ、前を」真木野は必死で前方を指差した。「何故彼があんなことを言ったのかはわからないが、知り合いの事件だから多分テレビで色々見ているうちに感じたことなんだろう。ストーカーの元彼氏らしき男が本当に速川なら、彼は佐久亜紗美をずっと見張っていたんだろう。そして、今までの捜査方針通り、十二年前の事件の真実が彼女によって明るみに出ることを怖れ犯行に及んだことになる。ところが恨みを晴らすということになると、高瀬孝次郎の敵を取ったことになるわけだ」「でもだったら何故速川征太を殺さなかったんですか?」
「だからバーのマスターが言いたかったことがそれなんだ」上司の言葉に再び真横を向く大沢。
「わかった。わかりやすく説明してやるから前を向け」大きく頷き、前を見た。
「いいか、殺された孝次郎の為なら確かに速川征太を殺すだろうが、もし犯人が自分の為に恨みを晴らすなら、高瀬孝次郎の死後、のうのうと高瀬孝次郎を殺したかもしれない男と付き合った佐久亜紗美を、犯人は一番恨んでいたかもしれない。その上彼女が死んだら速川征太の悲しみは計り知れない。そういう意味で高瀬孝次郎の為ではなく、自分の為に恨みを晴らしたなら、彼女の死も頷けるわけだ」
「なるほど。佐久亜紗美が死ぬことで、犯人が高瀬孝次郎を失った時と同じ苦しみを、速川征太にも味合わせることが出来る……そう考えた人物って、もしかして?」魂消た表情の大沢が横を向いたまま固まった。
「そう、高瀬咲枝だ」真木野が答えながら指で前方を差していた。
「しかし彼女がそんな恐ろしいことが出来ますか?」
「息子の為だったらそこまで出来ないかもしれない。しかし自分の為だったら」
「それも有り得る」
真木野が頷いた。
「そうなると防犯カメラに写っていた男は、高瀬咲枝?」
「それは無理だ。いくら着込んでも小さくて細身の彼女では、いくら画像が鮮明ではない防犯カメラでも男には見えないだろう」
「ではあの男は?」
「次男坊がいるだろ」
「和馬ですか?」
「そうだ。だって年齢まではわからなかったんだろ?」
「それならあり得ますね」明るい表情を見せた大沢とは対照的に、真木野は神妙な面持ちに変わった。
「しかしこれはあくまでも推論だ。やはり重要参考人は速川征太であることに変わりはない」
「はい」大沢は肝に銘じていた。
「でもよくマスターそんなことに気が付きましたね」
「そこまで彼が言いたかったかは、わからんぞ」
「それって、真木野さんだから気がつけたって言いたげですね」
「だってそうなんだから仕方ないじゃん」
そんな馬鹿げた会話をしながら大沢は、死を扱うことに慣れてしまっている自分達刑事にとって被害者には申し訳がなくてもこういった時間も必要なんだと、彼は心の中だけで言い訳をした。
3日目・高田の話
「横浜で起きました女性飛び降り事件に、新しい情報が入ってきました。今朝、現場から五キロほど離れた公園の茂みの中から見つかりました顔の一部とみられる遺体は、一昨日飛び降りで亡くなりました佐久亜紗美さんのモノである可能性が出てきました。DNA鑑定の結果が出次第発表があると思いますが、柴田さん、見つかった遺体の一部が飛び降りた女性のモノとなると、捜査に変更はありますかね?」
すると手をテーブルの上で組み、ボールペンを握り締めている偉そうなオヤジが、何も考えていなそうな様子で話し始めた。
「そうですね。警察は飛び降りた女性の顔が無くなったことに違和感を感じながらも、不審人物がいなかったことで自殺と考えていたようですが、今回見つかった顔の一部が今回の事件の被害者のモノと断定されれば、付着物ですとか損壊された箇所を細かく調べることで自殺か他殺かがわかる決め手が、見つかる可能性は大いにあると思いますね」
「昨日、事件現場近くの人が撮ったという女性が飛び降りる瞬間のショッキングな映像が流されていましたが、あの映像を見る限りは、女性が顔に布の袋を被った状態で、一人で飛び降りていました。果たしてこの事件、自殺なのでしょうか、それとも他殺なのでしょうか?謎は深まるばかりです」
コメンテーターの発言に対して何のコメントもせずに、女性アナウンサーは時間配分を考えたのか話をまとめ、画面はコマーシャルへと切り替わった。それを確認してから、高田はチャンネルを変えた。しかし次に出てきたのも同じ事件の話だった。
「NNMテレビで今回の事件と十二年前に起きました高瀬孝次郎さんの自殺事件について調べた結果、いくつかの類似点が浮かび上がってきました。まずはその死に方です。どちらの事件も死亡した方の顔には布の袋が被せてありました。そして偶然の一致では片付けられないのが、二つの事件の被害者が同じ高校で、十二年前に男子生徒が亡くなったときのクラスまで同じだったことです。ここから導き出されることは何なのか?それとインターネット上に載っているという高瀬孝次郎さん直筆の日記から、今回の事件との因果関係を臭わせるモノを警察が見付けたとの報道もありますが、今回の事件、もし他殺だった場合、十二年前、警察が自殺と断定した事件までも他殺の可能性が浮上するわけです。果たして二つの事件はどういった繋がりを見せるのでしょうか?警察は十二年前に自殺だと断定した事件を、他殺だったと認めるのでしょうか?今後の捜査の行方が気になります」
熱く語られたニュース報道に、食い入っていた高田の背後から声が聞こえた。
「兄ちゃんのところにはテレビのインタビュー来ないのか?」
「来るわけないじゃないですか」夕食の時間も終わり、病院のベッドの上で横たわりながら境川連治と高田和夫は顔を合わせることなく、ただそれぞれがブラウン管テレビの画面を眺め、話をした。
「もし来たらどうする?」
「断ります」
「何でだよ?有名人になれるチャンスじゃん」“じゃん”は確かに横浜弁らしいが、いい年した強面のオッサンが使うと幾分無理が生じるもののようだ。
しかしそこにはあえて触れずに、「有名人になることに何の意味があるんです?」最初から最後まで同じトーンで高田は聞き返した。
「それはだな……」答えに困った境川の行きつく先は、だんまりだった。
それから程無くして、「臨時ニュースか?」病室のベッドの上に座り込み、ただテレビを付けていただけの高田和夫が、突如聞こえた発信音に目を凝らしていた。
「今朝、見つかった顔の一部、佐久亜紗美さんのモノと警察は断定?何でこんなことを臨時ニュースで流すんだよ。こんな情報を誰が早く知りたいんだよ」
「落ちつけよ、にいちゃん」テレビに掴みかかっていた彼に冷静な声が届いたからなのか、それに宥められるようにベッドに戻った。
「それ見て怒ってんのは事件の関係者だけだ。俺なんか関係ないから、へーっとか、よかったねーっとか、しか感じねぇ。まあ早く犯人捕まればいいね、ぐらいは思うがな」ベッドに仰向けの状態で横たわり、両手を頭の後ろで組んでいた男の横のカーテンが勢いよく開け放たれた。そこには何時になく息遣いを荒げた男が仁王立ちしていた。
「にいちゃんにもそんな感情あったんだ?その方が俺も愉しいよ」しかし高田はその言葉に冷めたのか、左手に掴んでいたカーテンを今度は勢いよく閉めた。そして布団へと潜ると、この男のことを昨日は味方だと思ってしまった自分を恥じた。
3日目・貴代の話
橘貴代の住む団地に着いたのは夜七時頃だった。その頃には朝から降り続いたぬるい雨も止んでいた。湿気を帯びた空気のせいで纏わり付くズボンを大沢は嫌がりながら、黒ずみがだいぶ進んだ白い壁の間を上司の後に続いた。ここまで遅い時間の訪問は失礼だとも思ったが、鶴の一声で大沢は仕方なくここまでやって来た。橘貴代はパートタイマーで、六時頃まで家を留守にすることが多いようだったが、その日は非番らしく在宅していた。それを事前の電話連絡で確認した。電話の声から彼女は来て欲しくない口ぶりだった。勿論時間が遅いからではなく、自分たち刑事とは関わりたくないといった思いが受話器越しにひしひしと伝わって来た。警察を嫌がる相手は事件に少なからず関わりを持つ人間だ。これも真木野からよく聞く言葉だ。しかし大沢自身は誰しもが嫌がっているとの印象を持っていた。そんな彼からしてみても、確かに彼女はそれが群を抜いていた。
「今日は一日中雨だったから蒸しますね」車を降りるなり大沢が弱音を吐いた。真木野も同じ思いでも彼が表情に出すことはなかった。代わりに彼女の棟まで十数メートルを小走りで進むと止まることなく階段を一気に上がり、玄関前のインターフォンを鳴らした。
「はいはい」ドアの奥から少し呆れたような声が聞こえた。出て来たのは橘貴代本人だった。二人の顔を見るなり、「刑事さん、今日は何の用ですか?」その反応に表情に彼女に疾しいことでもあるのかはわからないが、二人の訪問を快く思っていないのは電話通りだった。
「佐久亜紗美さんの件ですが、彼女はほぼ他殺と断定されました」
「そのようですね」
「テレビで知りました?」
「はい」つくづく情報の広まる速さに感心していると、
「で、私に何を聞きたいんですか?」
感心している場合ではなさそうだと感じた真木野が、玄関のドアを全開まで開けると室内へとその体を押し込んだ。
「アームストロングというバーはご存知ですか?」
「知ってます」少し威圧された表情の貴代。
「行ったことは?」
「あります」
「佐久亜紗美さんと一緒に?」
「はい」しかしそれにも慣れると真木野ばりの無表情で、心を感じない会話は続いた。
「そこであなたは彼女から相談を受けましたね?」
「どのような相談ですか?」
「彼女がある人物からのストーキングに悩まされているという相談です」
「そんな話をしたような、しなかったような。すいません、はっきり覚えてません」惚ける貴代。
「したんです。店のマスターがはっきり覚えていました」力む真木野。
「じゃあ、したんじゃないですか」彼女は開き直ったが口ぶりから動揺が伝わっていた。
「その相手、あなたも知っている人物なんじゃないですか?」
「私は知らない人です」貴代は不快感を露わにした。
「でもストーカーしていた男性って、彼女の元彼氏ですよね?」
「亜紗美の元彼氏になんて会ったこともないです」
「会ったことある人物もいるでしょ?一人ぐらいは」過去を思い出そうとしたのか、嘘を付いていたのか、ただ彼女の目は間違いなく落ち着きを失った。
「確かにあなたたちが社会人になってからの亜紗美さんの彼氏のことを知らなくてもおかしくはありませんが、あなた方が同じ高校に通っていたときの同じクラスの彼氏ぐらいは知っているでしょ?」相変わらずの回りくどい言い方だったが、真木野は卒業写真をあの短時間見ただけで、速川征太ばかりか橘貴代までが佐久亜紗美や高瀬孝次郎と同じクラスだと気が付いていたことに大沢は脱帽した。
「その時代の彼氏なら確かに覚えています」
「だったらそのストーカーが元彼氏で、それもあなたと同じ高校時代に彼女が付き合っていた彼氏だってこともわかっているはずです。なんせ、全校の話題だったでしょうから」真木野は何時か新堀に聞いた話を元に憶測で話を進めていたが、貴代の表情から憶測はどうやら真実らしかった。
「彼女にストーカーをしていたのは、速川征太ですね?」力なく頷く貴代。
「何故です、何故彼を庇ったんです?」
「私は庇ってなどいません」
「この前訪れたとき、あなたは彼女が自殺だと断言していました」
「断言までは……」
「しかし彼女からそんな相談を受けていたなら、彼女があのような死に方をした時点で、その男に殺されたのかもと考えるのが普通じゃないですか?現にバーのマスターはあなた方の会話を聞いて、もしかしたらと気が付かれたわけですから」真木野の勢いは貴代を飲み込んでいた。
「でも亜紗美はビルの屋上からひとりで飛び降りたんでしょ?テレビでもやってました、彼女がひとりで飛び降りるところを。周りには誰もいなかった。間違いなく彼女はひとりで飛び降りてるじゃないですか。それを自殺というんじゃないですか?」
ここまで快調に責め続けた真木野の口が、ピタリと開かなくなった。たたみ掛けるように貴代は続けた。
「あの子、いつもそうだから。男の気を引く為だったら何でもやる子だから。だから今回だって水島さんの気を引く為に……」そこまで話し泣き崩れた彼女に、掛ける言葉はなかった。
まもなく梅雨を迎えるとことを教えているような空の下、力なく歩く二つの背中がゆっくりと車へと戻って行った。
「女って生き物はわかりません。仲が良いふりして腹の中では相手を恨んでいたりする」
「男でもあることかもしれんが、女の方が根が深そうだな」
「そうですね。でも彼女が速川を庇っていることは確かですね」
「確かに。しかし佐久亜紗美が他殺でも、速川征太か高瀬咲枝に殺されたとしても、あの屋上のトリックはどう説明すればいい?」
「それは……」大沢の口を噤んだ。
3日目・容疑者の話
車内は何時になく静かだった。真木野の携帯が出ろと鳴った。液晶の画面を一度確認すると、
「もしもし」相手は鑑識の箱芝だった。
「どうしました?」少し冷めた対応の真木野とは対照的に、箱芝の鼻息は荒かった。
「見つけましたよ」
「何をです?」
「佐久亜紗美のゴミ箱に入っていた紙切れの出所がわかりましたよ」
「本当ですか?」今度は真木野が興奮していた。
「ネット上に同じ文面で同じ筆跡のモノをとうとう見つけました」パソコンの画面に見入る箱芝はもっと先を行っているようで、興奮の余り掴んでいた鉛筆が無惨にも二つ折りになるほどだった。
大急ぎで署に戻る二人が向かった先は、勿論鑑識部屋だ。
「箱芝さん」大声を張り上げて大沢がドアを開け放った。
「待っていましたよ」さっきまでの興奮は冷めているようだったが、それでも四十代後半とは思えないほどの少年の目で二人を出迎えた。
「これを見てください」箱芝の机の上に置かれたパソコン画面に二人同時に目を向けた。殺されたある少年の真実。そこに写されていたのは黄ばんだノートをそのままスキャンして貼り出されたモノだった。そして最後には、佐久亜沙美のゴミ箱に捨てられていたあの紙切れ同様の言葉“私を殺したのは速川征太です”という文字が躍っていた。箱芝はビニールに入れられ保管されている彼女が捨てた紙切れのコピーを握ると、少し渋い顔で、
「彼女のゴミ箱から見付かった紙切れが、これをコピーしたことはほぼ間違いないと思います。しかしですね、彼女が持っていた紙切れの文字、つまり最後の文と、それまでに書き綴られていた多分同級生からの執拗な虐めについて書かれた文字の筆跡が違うんです。パッと見は私でもわかりませんでしたが、しかしよくよく調べていくと明らかに違う人物によって書かれたもののようなんです」
「つまり十二年前に高瀬孝次郎によって書かれただろうのノートの最後に、誰かが一文を書き加えたということですね」
「そういうことになると思います」真木野の言葉に箱芝が頷いた。
「高瀬、咲枝」大沢が漏らした言葉を、
「それが一番有力な容疑者だろう」真木野が拾った。
「しかし彼女はただ速川征太という名前を書き加えただけで、今回の事件に関わっていた証拠にはなりません」大沢は犯人を絞り込むことに消極的だ。
「彼女には充分過ぎる動機がある」真木野は今回の発見と、高瀬咲枝本人の仕返しで佐久亜紗美を殺したという考えに自信を深めていた。
「佐久亜紗美殺害が、仕返しという動機なら確かに高瀬咲枝が怪しいんでしょうけど、佐久亜紗美のオフィスのゴミ箱に捨てられていたメモからは本人の指紋だけが大量に検出されているんです。あの紙は間違いなく佐久亜紗美自身が捨てたんだと思います」
何が言いたいと言いたげの表情をしている上司に、大沢は怯まなかった。
「佐久亜紗美はネット上に高瀬孝次郎の日記を見つけたんじゃないですかね。その最後に書かれていた文字に驚いた彼女が、速川本人に詰め寄った。逃げきれないと感じた速川が、彼女の息の根を止めた?つまり隠ぺいです」
「いいか、十二年前と同じ殺し方をしてるんだ。隠ぺいにはならんだろ?」真木野は食い下がったが、
「そんなことないです。他殺の線が濃くなったとはいえ、彼女は一人ビルから飛び降りているんです。十二年前同様の手口で、速川はまた自殺を作り上げたのかも。前回同様、警察を欺けると確信しているんじゃないですかね」自らの推論を推し進める部下に威圧された。
「なるほどな。それが本当なら、我々も舐められたもんだな」真木野が大沢の意見を生かしたことで二人の意見はまとまった。
「ここまで追い詰めたが、容疑者が二人いる以上、もっと証拠を集めなければならないな」そしてパソコンを睨みながら真木野と大沢はやる気を漲らせた。
3日目・まとめの話
二人が一課に戻ると、待ってましたと言わんばかりに三橋が話し始めた。
「速川征太には前科がありました」
「罪状は?」下山が相槌の如くに言葉を挟んだ。
「殺人未遂です。三年前の四月。歌舞伎町の路上で若者の小競り合いがあり、そのとき殺され掛けた少年が速川を名指しで訴えたんです。目撃者の話では数人いたということだったんですが、本人は速川にやられたの一点張りで、速川自身も罪を認めたそうです。彼はそのまま起訴され有罪判決を喰らい、懲役二年の実刑判決。つい数ヶ月前に出所したばかりです」
「前科者だったんですか。写真からはそうは見えませんでしたけどね」感心したのか、大沢が何度も首を縦に振っていた。それを横目で確認した林が顰めた顔で話し始めた。
「先程、昨日テレビ局に送られてきたビデオテープに書かれていた住所の住人から電話がありました。昨日本人は手書きの宛名を書いたのは自分じゃないと言っていたんですが、本当は書いた覚えがあったそうです」
「どういうことだ?」書類を見ていた三橋が顔を上げる。
「一ヶ月前ぐらいにポストに不要になった電化製品一点一万円で引き取りますのチラシが入っていたそうです。そこですぐに書かれていた電話番号に問い合わせると、次の日に宅配業者の男が訪問して来て、宅配便の宛名を書く用紙にサインするように言われ、差出人の欄と受取人の住所を書いたみたいです。そして男は不要だったテレビと掃除機を段ボールに入れると二万円を手渡して来て、表に今回使われた宛名用紙を貼ったらしいです。その用紙がどうも今回使われたモノと同一である可能性が高いようなんです。それと、不要な家電が二つということで、それぞれ取り扱う場所が違うからと言われ、もう一つ違う住所宛てに伝票を書いたんですが、そっちの差出人の住所は空欄のまま、あとで書くからと言われたと……」
「その住所は?」
「横浜市内だったことは確からしいんですが、はっきりとは覚えていませんでした」
「どうして覚えていない?」机を叩く真木野。
「終始笑顔で、疑わしい素振りなど何もない上に、お金まで貰えるわけですから、全く用心していなかったと言ってました」とばっちりを受けた林は、恐縮そうに付け加えた。
「その男の特徴は?」輪の中から少し離れた所にいた大沢が聞いた。
「年は二十代後半から三十代。キャップの帽子を深く被り黒ぶちの眼鏡を掛けていて、格好はどこでも売っていそうな作業着だそうだ」
大沢は防犯カメラに映っていた男のことを思い出し、「ビデオテープの人間も多分、そのぐらいが妥当な年齢かと思います」発言した。
「しかしそうなると高瀬咲枝が犯行に及ぶことは不可能?和馬はまだ高校生だ、どう見たって三十代には見えない。彼女が犯人である為には共犯者が必要ということか?」一人考え込む真木野を他所に、大沢が話し始めた。「十二年前の高瀬孝次郎の事件、どうやら自殺ではないようです。犯人は速川征太でないかと、我々は考えています。あとは証拠品である高瀬孝次郎が首を括ったときに顔に被せてあった体操着袋のDNA鑑定さえ出来れば、証拠は揃うと思います」
「その体操着袋なら十二年前に調べたはずだ?」下山が噛み付いた。
「調べたかもしれませんが、当時の調書には、害者は鼻血を出していたとの記述はあるのに、体操着袋の血痕のDNAのことなどは全く載ってないんです。だからもう一度自分たちの手で調べたいんです。明日、高瀬咲枝の下に行ってきます」しかし大沢の熱意が勝ったのか、それ以上下山は何も口にしなかった。
「体操着は高瀬咲枝ではなく、持ち主の速川征太に返したはずだぞ?」三橋が意外なことを口にした。
「そんなはずありません。十二年前の調書には確かに遺族に返したとの記述がありました」
「そんなはずはない」
言い切ったものの自信がなかったのか、三橋は資料室へと調べに向かった。
それを見届けた大沢が話を続けた。
「そして今回の佐久亜紗美の事件ですが、彼女のオフィスのゴミ箱から見つかりましたメモが、どうやら十二年前に殺された孝次郎が書き残したであろう日記を、誰かがネット上に載せたモノであることが判明しました。今回の事件、十二年前の事件に対する復讐か、もしくは隠ぺいだと考えられます」
「隠ぺいの容疑者が速川であることはわかるが、復讐は、これも速川なのか?」下山の疑問に大沢は答えた。「隠ぺいは速川だと僕らも思っています。しかし復讐となると僕たちが思っている容疑者は高瀬孝次郎の母、高瀬咲枝ということになるんですが」
「そもそも復讐ならどうして佐久亜紗美なんだ?高瀬咲枝は速川征太を恨んでいたんだろ?」下山が首を傾げた。
「自分と同じ苦しみを味合わせたかったからでしょう。十二年経った今でも、ストーキングするほど好きな女だったんですから」真木野が割って入った。
「高瀬咲枝は速川が佐久亜紗美のストーカーだったことを知っていたわけか?」
「そこはまだ不明ですが、恐らく何らかの形で知ったんだと思います」
「なるほど」何度も頷く下山のとは対照的に、大沢は一人腑に落ちないといった表情をしていた。
真木野は小声で、「トイレ」と零して部屋を出て行った。
全体の緊張感が切れかかったところで、「すいません」そう切り出した宮部は恐縮していた。
「僕は今日、真木野さんの指示で、佐久亜紗美の高校時代の同級生たちの話しを聞いてきました。それによって、高瀬孝次郎が何故速川征太の体操着袋を被ったまま死んだのかの真相が見えてきました。事件があった数日前、ホームルーム中に速川が自分の体操着が袋ごと無くなったことを懸命に訴えていたそうです。何日か後にあんなことが起こったから脳裏に焼き付いたと何人かの証言が得られました」
気配を感じた大沢が振り返ると、既に真木野はトイレから戻り真剣な面持ちで宮部の報告に聞き入っていた。「それと当時、佐久亜紗美が嵌まっていたらしいマンガを見つけました。少し前に、歴女という歴史好きの女性が話題になっていますが、当時としては珍しく、彼女は大の歴史好きだったようです。そして彼女が愛読していたマンガというのが戦国時代の武将が主役の話しで、今日そのマンガ全巻を読破したんです。その中に戦に勝った武将が自分たちの家紋入りの白い布を、破れた武将の遺体の上に掛けるシーンが幾つもありました。つまり顔に被せてあった白い体操着袋の意味は、当時佐久亜紗美のことを好きだった高瀬孝次郎が、速川征太に敗れたということを、犯人が意図的に作り上げたとも考えられるわけです。そして名前入りの白い布で遺体の顔を隠したことで、彼女に対して勝利者は自分だというアピールだったんじゃないかと推測します。つまりそこからも、犯人は速川かと考えられるわけです。それと今日夕方から速川の自宅前を張り込んでいたところ、夜八時過ぎに帰宅が確認出来ました。それ以降は一歩も外には出ていないと、今も張り込みを続けている捜査員から連絡がありました」宮部が話し終わるのと同時に、三橋が調書を広げたまま手に持って戻って来た。
「本当だ、確かに遺族、つまり高瀬咲枝に返したと書かれている。でも実際は速川だ、間違いなく速川征太に返した。なんせ俺の班が担当した事件だからな」
渋い顔をした真木野が、「いや、でも高瀬咲枝はその体操着袋も持っている風だった」
その意見に同席していた大沢が頷いた。
「十二年前、速川征太に返したはずの証拠品が、今は遺族の下にあるということか」唸る下山。
「どうなっているんですかね?」大沢の疑問に、
今は答えがない真木野が、「明日、高瀬咲枝から真実を導き出そう」決意を口にした。
「はい」そして大沢も拳を固めた。
そのあと、下山が真木野を一人会議室へと呼んだ。
上司が待つ会議室、何の色気もない長机にパイプ椅子。そこは6月でも少しひんやりとする空間だった。その中で一人、こちらに背中を向けて立っている下山。
「どうしたんですか?」その声に彼が部屋の入口の方へと振り返る。
「十二年前の事件だが、本当に他殺なのか?」
「私はそう思っています」
「速川征太は高瀬孝次郎を虐めていただけじゃないのか?それで彼は思い悩んで自ら命を絶った。その可能性だって充分考えられるだろ?」
「そうなると、捜査結果は自殺ということになるわけですね」
「その通りだ」
「それをはっきりさせる為に、明日高瀬咲枝が持っているであろう、あの体操着袋を必ず彼女から借りて参ります」
「もう十二年前のことだ、強引に捜査を進めて、冤罪を出すわけにはいかんのだ。ここは……」
「我々はとことん調べます。十二年前だろうが、二十年前だろうが、警察が出した答えと行き着いた場所が違っても、真実を導き出します」話している途中だった下山の口が、開いたまま閉じることを忘れていた。
「失礼します」そんな上司を一人残し、真木野は一礼すると部屋を出て行った。
3日目・自殺トリックの話
時刻は夜の十一時を過ぎていた。
「まだ帰らないのか?」テレビ画面を睨む部下に真木野が声を掛けた。
「あっ、お疲れ様です。これもう一度見たら帰ります」大沢は佐久亜紗美が飛び降りたシーンを何度も確認していた。
「橘貴代に言われたことか?」
「はい。何も言い返せなかった」橘貴代に言われた一言。それは最後に言われた、『亜紗美はビルの屋上からひとりで飛び降りたんでしょ。それを自殺というんじゃないんですか?』何も言い返せなかったのは彼女の云うとおりだったから。佐久亜紗美が他殺であると証明できても、あの屋上のトリックを解明できない限りは、例え容疑者が挙がっても、そこを突かれたら勝ち目はない。絶対に解かなければならない難題なのだ。何度も何度も画面の隅から隅まで隈なく確認した。数羽のカラスが画面上を通り抜けて行った。彼女の首から伸びた縄のたるみを気にしながらも、それ以外で彼女が釣り糸などに引っ張られるような素振りはなかった。もう一度頭から確認することにした。
「俺は帰るぞ。明日もあるんだ。おまえももう帰れよ」
「はい。これだけ見たら帰ります」ビデオの頭の所で、彼女は布を被ったままキョロキョロしてから勢いよく後ろに振り返ったあと、屈み込んで顔から布の袋を剥ぎ取ろうとした動作をしていたのに、突如それを止め、立ち上がり数秒動かなくなったあとに、一目散に走り出し、そのまま空に飛び出した。
「真木野さん」突然大声で呼ばれた真木野が、ビクッとしながら振り返った。
「どうした?」そして大沢が見入る画面に近づいた。
「一連の動作は自殺だと考えられていたから、頭のイカれた人間の行動で片付けられてきました。しかし他殺の線が色濃くなった今、このテープの冒頭の彼女の動作は大きな意味をなすと思うんです」
「屋上トリックを解くカギか?」
「はい、多分」
再びテープを巻き戻し、冒頭から二人画面に食い入りながら、
「急に後ろを振り返り、屈み込んで布の袋を顔から剥ごうとしたのに、どうして彼女は突然それを止め、この状況下で一秒も動かなくなったんでしょ?」考え込んだときの癖なのか、真木野が顎辺りを擦った。
「彼女が被っている袋の中だけの世界があるんじゃないですか?」おとぎ話を彷彿とさせる大沢の発言だったが、
「彼女にしか伝わらない世界?顔を隠した理由は、十二年前の事件との繋がりもあるのかもしれないが、このトリックを成立させる為には不可欠だったんだよ。隠された顔の感覚のどれかを使って彼女を追い込むトリックがきっとあるんだ」真木野を閃かせたようだった。
「視覚とかですか?」
「そうだ、例えば視覚なら彼女にしか見えない世界を見せて脅迫したとか」
「彼女に3D眼鏡を掛けさせても、彼女を自発的に走らせるのは難しいかと思います」
「もっと単純な仕掛けだ。彼女がその場から逃げすような仕掛け」
「だったら暗闇の世界を作って不安を煽ったんじゃないですかね?」
「何も見えない暗闇の世界で彼女を追い込むなら……聴覚だよ。彼女にしか聞こえていない犯人からのメッセージで、暗闇で崩れかけていた彼女の平常心を、崩壊へと追い込んだんだ」
「彼女にしか聞こえないメッセージ?」
「そうだ」
「なるほど。遠くからでも彼女を操縦出来るように」
「そう、操縦……イヤホンだよ。きっとイヤホンが取り付けられていたんだ」
「そうか。それを回収する為には、彼女の頭を持ち去る必要があったんだ。これでトリックが解けましたね」
白熱した大沢を、
「馬鹿。これはあくまで推測でしかない。証拠だよ、これを実証する為には証拠を上げなきゃ駄目だ」真木野が戒めた。
「そうですね」しかし大沢は二人で行き付いた推論に確信を得ていた。
「犯人は何故頭ごと回収したんですかね?イヤホンだけ引き抜けば良かったんじゃないですか?そうすれば警察は自殺と断定したはずです」だから唯一引っ掛かったことを口にした。
「んーん、顔を持ち去らなければならなかったか、あるいは持ち去りたかった?」確かにと感じた真木野が唸った。夜中の署内で、二人の刑事が一喜一憂したまま、日は替わろうとしていた
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