第3話 1日目
1日目・亜紗美の話
六月二日、朝九時。その日は初夏らしい暑さで、風はほとんど吹いていなかった。港町は開港祭で浜辺には大勢が馳せ参じていたが、それは一部の地域、一部の人間の間でのことだった。そんな浜辺から数キロ離れたここは、真っ青な空の下、真っ暗闇の世界。サウナ状態の私の目の前は光が届かない世界。ここが何処なのか、私には全く分からない。ただ怖い。何故こうなってしまったのか、全く分からない。
亜紗美は自らの手を顔の方に持って行った。布、そう彼女の顔には布の袋が被せてあったのだ。だからわからないのだ、自分がどういう状況下にあるかを。だから見えないのだ、ここが何処なのかを。だから届かないのだ、世界の光が……
その日の朝、亜紗美は朝一番に彼女宛ての手紙が届くからと、誰よりも早く出社した。オフィスの鍵を開け、すぐにエアコンのスイッチを入れてから届け物の手紙を受け取った。
開封し目を通した彼女は、「何、これ?」丸めてゴミ箱に捨てた。
こんなことで早く出社させられたことに対する苛立ちでいっそう暑さを不快に感じながら、日課の珈琲を飲む為に給湯室に向かった。インスタントコーヒーは好きではなかったが、手軽さからそれを飲んでいる。いつものカップに粉を入れたとき、肩を叩く者がいた。振り返った瞬間、鳩尾に物凄い衝撃が走った。
そして今、彼女はここにいる。
椅子に座っているのはわかったが、ここが何処なのかは分からない。彼女は立ち上がり、布袋を被ったまま辺りを見渡す素振りを見せた。袋には彼女の首辺りに縄が巻きつけられていた。
そして、「バンッバンッ!」突然、耳に轟いた銃声と共に、身を伏せ顔の袋を取ろうと試しみた。
「亜紗美!ヤバいよ。早く、早く逃げて」
「えっ?」緊迫した声が、すぐ隣で聞こえた彼女はうろたえた。
「死にたくないだろ?だったら今は何も考えずに走るんだ。真っ直ぐ走れ。亜紗美は生き延びるんだよ。その為に今は走れ、とにかく走れ!走れ!」
その声に全身に力を込めると、耳元で再び聞こえた銃声から逃げるように一目散に走り出した。一心不乱に走しる彼女の先に道などないというのに。そこはビルの屋上。修理中なのか柵のないビルの屋上。だから大空との境は十センチ程の段差しかない。その大空の目の前まで、袋を被ったままの亜紗美は疾走していた。
「今だ、ジャンプ!」
その声だけを頼りに、段差を飛び越えジャンプした。その先にどんな世界が待ち受けているかも知らずに、亜紗美は大空へと飛び立した。
すぐに体を重力が包んだ。手足をバタつかせ抵抗しても、重力には勝てそうになかった。そして彼女は、真っ逆さまに空を駆け降りていった。
「バイバイ、亜紗美」
横浜市郊外の十階建てのオフィスビルで飛び降り事件が発生した。勿論彼女は死んでいた。それは一目瞭然だった。首から上がなくなっていたのだから。
ある者は人間が空へと勢いよく飛び出した瞬間、何かのアトラクションかと思い歓声を上げた。ある者は真っ青な空をキャンパスに、突如噴き出した鮮明な赤に美を感じた。ある者は体だけの人間が降って来たことで宇宙人の襲来を予感した。またある者は地上に落ちて来た体だけの女性の、靴を履いていないストッキングの踵がビリビリだったことに少しの興奮を覚えてしまった。
澄みきった空、人はそれを見上げて癒される。そんな思いで空を見上げていた人々もいた。しかし多くはカラスの鳴き声に見上げた者が多かった。どちらにせよ空を目を向けた彼らが見たモノ。それはビルの屋上から突如飛び降りた人間。飛び降りたというよりも、大空へと飛び出したという方がシックリくる表現にも感じた。それほど勢いよく布袋を被った女性は、大空へと羽ばたいたのだ。
そんな彼女の頭上にはロープが走っていたことで、多くの見物客は見世物だろうと安堵した。
しかし手足をバタつかせ急降下する女性は、ロープがパンパンに張った次の瞬間、空中分解したのだ。仮面を付けたままの顔は、ロープに引っ張られ大空へと舞い戻った。
その光景に、大空に飛び散った鮮血に、人々が狂喜乱舞する中、首を失った胴体は幹線道路沿いの歩道の上に落ちて来た。瞬間、辺り一帯の時は止まった。
五秒後にはそのことが嘘のように悲鳴がどよめき、多くの人間がわらわらと無駄に体を震わせた。十秒後には携帯電話を取り出す者。いまだ放心状態のまま動けない者。逃げ惑う者。気には留めても通常通り通勤する者。それぞれが思い思いに、たった今、目の前で起きた惨劇を見届けた。顔を覆ったり口を抑えながらも、首のない人間の周りには多くの野次馬が群がった。取り出した携帯で写真を撮る者さえ多くいた。それらはこの事件の報道が過熱する予感を漂わせる光景だった。
五分後には通報で駆け付けた警察が登場した。人々を掻き分け辿り着いた警官の動きが一瞬止まったあと、すぐに応援を要請していた。誰かが呼んだ救急車も数秒後に到着した。曝し物だった彼女は、救急隊員によってやっとモーフで隠された。しかし首のない彼女が担架ですぐには運び出されることはなかった。それは死に様故、殺人の可能性も視野に入れていたから。そして何より彼女が死んでいることは誰の目にも明らかだったから。
十分後には応援を受けたパトカーが夥しい数現れ、飛び降りがあった建物はすぐに封鎖された。事件発生から警察が建物を包囲するまでの十分間、このビルの出入り口は正面玄関と非常口の二つ、そこに付けられた防犯カメラの映像に、今回の事件と関係がありそうな人物の出入りはなかった。つまり彼女を殺した人間、もしくは死体を投げた人間がいるなら、必ずこの建物の中にいることになるのだ。
屋上に残されたモノは彼女が座っていたであろうパイプ椅子。それに屋上の真ん中に立てられた鉄の棒に括り付けられた縄が、飛び降りがあった反対側の道に垂れ下がっていた。その先に付けられていたモノは、彼女の顔を覆い隠していたであろう布製の袋が夥しい血痕を伴って縄に巻き付いていた。しかしその袋の中にあるはずの彼女の首はなくなっていた。このビルの屋上には柵が取り付けられていなかった。建築法的に問題を感じたが、それよりも問題だったのは、いつもは鍵が閉まっているはずの屋上に通じるドアのそれが開いていたことだ。大家に聞くと、確かに閉まっていたはずだと言うだけで信憑性は乏しかった。
封鎖後に警察はこの建物の中にいた人間すべてを集めた。その数は三百八十人にのぼった。いまだ自殺の線が濃いにもかかわらず、その猟奇的さに彼らはビル内にいた全員の指紋と持ち物検査、身元の確認を行なった。他殺なら犯人はこの中にいるはずだからだ。ただ建物内に犯人がいるなら、どうやって外に飛ばされた彼女の首を回収したかがネックだった。だから彼女が飛び降りたときトンビやカラスが何十羽も空を舞っていたという証言から、彼女の首は動物たちが持ち去ったと考える捜査員が大勢を占めた。でもそれは無理があるとも、口にはしなくても、そこに詰めかけた大多数が感じていた。しかし不審人物がこの建物から逃げた形跡がない以上、これは自殺としか考えられなかった。
白昼の事件だった為、何人もの目撃者が存在していた。その証言はどれもがおぞましいものばかりであったが、やはり自殺とみておかしくないと、目撃者の誰もが証言した。
このオフィスビルで働く慎平は、その光景をビルの真下で見ていた。出勤途中に建物の前を歩いているとき、路上を歩いていた女性が悲鳴を上げ頭上を指さしていたことで、ハッと空を見上げた。太陽の光に目を細めながら正確には確認できなかったが、空から降って来るのは人間らしき塊だった。その塊は途中まで間違いなく蠢いていた。が、一瞬時間が止まったように固まった塊。次の瞬間、真っ赤な雨が彼の真上から降り注いだ。
「ドンッ!」一秒後には真横に何かが落ちて来た。それは人間。正確には首から上がない、そこからは大量の血を噴き出した女の人らしき変死体。そして彼はたった今、自らに降り注いだ赤い雨こそ、目の前で首を捥がれた女性のモノだと知る。すぐに人々が狂喜乱舞する光景を目の当たりにする。警備員が飛び出してきたあとに、どんどん数を増していく警官。気が付けば、ビルは完全に警察官で包囲されていたと、慎平は証言した。
このオフィスビルで働く純子は、何気なく外を見ていた。真っ青な青空に仕事なんか止めて、どこか遠くに出掛けたい気持ちをぐっと堪え、深呼吸でもしようかと大きな窓から青空を見上げた瞬間だった。ガラス窓の上から突如何かが降ってきたのだ。それが人間であることはすぐに分かった。何故ならガラス一枚を挟んだ目の前でその塊は止まったから。ピンと張ったロープに行く手を阻まれていたのだが、
「ブチッ!」微かだが聞こえた鈍い音と共に、上下にバラバラにされた人間らしき塊。次には固まったままの彼女の真ん前に、真っ赤な液体が二メートル四方ほどベッタリと飛び散り視界を遮った。
「キャーッ!」すぐには出なかった悲鳴。自分でも驚くほど一部始終を見終えた後に、思はず出た悲鳴だった。その後は周りの人間たちの慌てふためく横で、ただ呆然自失で立ち尽くしていた。何が起きたかもわからず彼女が我を取り戻したのは、事務所に駆け込んでくる警官が純子の肩を叩いたからだ。言われるがまま事務所を出ると、出口で長蛇の列に並ばされた。そして指紋と住所氏名などの個人情報を強要されたと、純子は話した。
飛び降りた女性の身元はすぐに割れた。横浜市在住の三十歳会社員。名前は佐久亜紗美。事件が起きたビルには彼女が務める会社も入っていた。自宅はオフィスから地下鉄で五分ほど行ったところのマンションで一人暮らしをしていた。彼女はわざわざ顔を隠して自ら飛び降りた。警察も誰もがそう信じて疑わなかった。というよりもそう信じることにした。
某テレビ局のアナウンサー・高嶋由紀子。手渡されえた原稿を手に掴んでスタジオに現れる。二時間ほど前に起きたばかりの飛び降り事件の原稿に目を通す。警察は自殺だと見ているとの書き込み。そして時報と共に始まった番組の冒頭から、お決まりの政治献金疑惑の事件を報道し終え、一度コマーシャルへと入った。その間中もずっと手渡された原稿に目を通す由紀子。CM開けますのスタッフの声に、正面カメラに体を向き変え、女を全く武器にしない強い眼でそれを見つめた。画面は彼女の凛とした表情を捕らえた。
「ここで只今入りましたニュースです。本日午前九時頃、横浜市中区の幹線道路沿いのオフィスビルで、このビルで働く女性が飛び降りました。女性は顔を布製の袋で覆っていた為、飛び降りた際首の部分で切断され、即死でした。他殺の可能性は少ないものの、警察は自殺と他殺の両面から捜査を進めている模様です」原稿とは違うことを彼女が言ったことで、番組プロデューサーは目を丸くしたが、放送終了後そのことを彼女に問い詰めることはしなかった。
事件後、人々はわらわらするばかりで無駄に時間だけが流れた。時刻は夕方五時を回っていた。夕方といっても夏至間近のこの時期、お日様は漸く西に傾き始めたばかりで、まだまだ日差しが体に刺さる感じだた。
1日目・川端の話
死んだ彼女の同僚たちの話から、彼女のことをよく知る二人の人物に会う為に、神奈川県警港署の刑事二人は車を走らせていた。自殺と考えている警察は捜査本部を設けることはしなかった。ただ他殺の線も残る以上、所轄の警官が独自で捜査を始めた。
彼女が飛び降りたのは、港署がある横浜中心街から西に三キロほど行ったオフィスビル。そして二人が向かっているのが、山下公園よりも南に位置する本牧埠頭界隈。バブル期は中心街や元町から足を延ばし多くの観光客で賑わった街も、今ではその面影もなくなってしまった。港署から車で二十分程で辿り着いた場所も、ひと気がだいぶ淋しく海の塩で浸食されてしまった建物で荒廃していた。
「何でこんな淋しいところまで彼女は飲みに来ていたんですかね?」カーナビの目的地周辺ですの合図に従って、若い方の刑事大沢公靖は車を止めるスペースを探した。
「さあな」返ってきたのはカーナビの音声よりも温か味を感じない上司の声だった。上司であり相棒の男は真木野薫。大沢は車を路肩に止めるとサイドブレーキを引いてから、手帳を広げた。
「着いたか」の声に一度顔を上げ、
「はい」簡単にやり取りを済ませると、もう一度手帳を見た。
「会社の人の話だと、この先の角にあるビルの三階だそうです」助手席に座っていた真木野は、深々と座り込んでいたシートから気だるそうに体を起こした。
「駅からだいぶ離れているんだな」
「そうですね」
「お客来るのかな?」
「どうですかね、常連客ばかりじゃないですか」
「常連客か、となると店の従業員と客が仲良くなるのも頷けるな」
「店に着く前から素晴らしい推理力ですね」
「馬鹿にしたか?」
大沢は手を顔の前に持って行くと、「してませんしてません」大げさに横に振った。車から降りると、日光に顔を顰めゆっくりとした足取りでバーの入っているビルへと向かった。バーのマスターには事前に連絡を入れていた。ビルに着くなり階段に向かう大沢を気にすることなく、真木野はエレベーターのボタンを押した。
「歩きましょうよ」
「嫌だ」
「だったら僕もエレベーターで行こう」
「駄目だ、若者は走れ」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」お互いニヤけた瞬間、エレベーターのドアが開いた。それを合図に大沢は階段を駆け上った。エレベーターを降りると息を切らした大沢が既に待ち構えていた。そして降りて来た真木野に勝ち誇った目をした。
「たった三階まで駆け上がっただけで、息を切らすとは情けない」引き攣りに変わった顔を横目で見ながら、真木野はバー・アームストロングの扉を開けた。しかし真木野が先に入ることはない。扉を開けた状態で、膝に手を当てて息を整えている大沢に先に入るように目で促した。この男は挨拶が嫌いなのか、ただ人見知りなのかはわからないが、人に会うときはいつも部下を先に行かせる。今回も例外なく、大沢は上司より先に店に入った。
「いらっしゃい!」冷やされた室内の空気に噴き出し掛けていた大沢の汗が一気に冷やされた。
「お忙しいところすいません。先程電話した、神奈川県警の者です」
「あぁ、さっき電話してきた刑事さんですか」カウンターの奥からこの店のマスターらしい人物が出迎えた。第一印象は気取らない気さくな感じだ。
「はい。あ、この人が警部の真木野です。そして僕は大沢です」
「どうも、私は川端と申します」真木野以外の二人が同時に頭を下げた。店内は南国を思わせる椰子の葉やローソクで演出されていた。そしてバーとしては例外なく薄暗い中ブラックライトが怪しい雰囲気を漂わせていた。少し前にこんな感じの店が流行りましたよね、と大沢は思ったが言うことは避けておいた。
「それで、聞きたいことって確か、亜紗美ちゃんのことですよね?」呼び方からも彼女がこの店の常連であることは明らかだった。
「はい。もうご存じだとは思いますが、今朝彼女はビルの屋上から飛び降りました。即死でした」
「みたいですね」店はオープンしていたが、まだ準備の最中らしく、川端はカウンターを拭きながら会話を続けた。真木野は入口近くの壁に無数に貼られた写真の中に、店長の川端と一緒に笑顔でピースサインする生き生きとした彼女を確認した。大沢は手帳を取り出し、川端との会話をメモし始めた。「彼女は確かにうちの常連です」
「近頃、佐久さんは店の方に来られていました?」
「三日前に来ていました」
「そのときに変わった様子などはなかったですか?」
「いつもとそれほど変わった様子はなかったように思います」
「そうですか」カウンターを拭き終わった川端が、思いつめた表情のまま顔を挙げた。
「テレビで見ました。彼女本当に自殺なんですか?あんな惨い死に方を彼女は選らんだんですか?」「それはまだ解りません。今のところは自殺の線が濃厚ですが、他殺の疑いもあるからこのようにして捜査を続けています」
「彼女多分、殺されたんじゃないですかね?」その言葉に後ろで黙ったまま酒の瓶を眺めていた真木野の顔つきが変わった。
「どうしてそう思われるんです?」それを背中で感じながら大沢が質問をぶつけた。
「彼女ストーカーに悩んでいたんです」
「ストーカー?」
「はい。一・二ヶ月前ぐらいから、無言電話や、メール。夜中に外から彼女のマンションの部屋を見られていたこともあったって言ってました」
「その人物と彼女は知り合いだったんですか?」前のめりになっていた真木野と大沢を、
「すいません、そこまでは」川端の一言が拍子抜けさせた。
「そうですか」大沢はガッカリと顔に描いた。
「マスターは宇宙とかに興味があるんですか?」それは真木野が初めてした質問だった。
「いえ、別に」
「そうですか?」
「どうしてそんなこと聞くんですか?」振り返った大沢が真木野に聞き返した。
「あぁ、アームストロングですからね。宇宙にはそれほど興味がないんですが、最初に月を歩いた人間の偉大さに肖ろうと思いまして、この名前にしたんです」先に理解した川端が答えた。
「なるほど」白々しく真木野は手を叩いた。
「そういえば」その音が合図だったわけではないのだろうが川端が何かを思い出したらしく、それほど高くない薄暗い天井を見上げ話し始めた。「亜紗美ちゃん、その男のことで警察に相談したはずです」「それは何時ですか?」大沢がしまい掛けた手帳を再び取り出した。
「一ヶ月ほど前だったと思います」
「何処の交番ですかね?」
「さぁそこまでは。それなのに彼女死んじゃったんですね」一度は二人を見ていたが、今度は床の方に目を向けていた川端の語尾が失速したことで、警察に対する不信感や嫌悪感を察してしまった大沢の表情が曇った。方や真木野は相変わらずポーカーフェイスのままだった。
「もし殺されたなら警察の責任ですよね?今まではニュースで同じような話を聞いても、他人だったからそれほど気にも留めていませんでしたが、実際知り合いの人が殺されてしまうと、警察の何かが起こらないと動かないという体質には、嫌気がさしますね」今度は語尾が強まったことで憎しみさえ籠っていると感じた発言に、大沢だけが渋い顔で黙り込んでいた。
店を出るなり、真木野は携帯電話ですぐに本部に問い合わせた。勿論内容は佐久亜紗美が本当に警察にストーカーのことで相談をしているかだ。五分ほどで折り返された電話で、彼女が警察に相談をしていたことが証明された。警察も彼女の訴えに何もしなかったわけではなかった。その日から近くの交番の巡査は彼女が帰宅する時間近くに何度も足を運んだらしいが、それらしい人物は一度も確認出来なかったようだ。しかしそれから一ヶ月後に彼女は飛び降りた。これがもし他殺なら警察の責任は免れないだろう。それでもあの男が言った通り、最近のストーカー被害で殺された女性のほぼ全員が警察に相談をしている。警察もその事実を隠すことなく公言した上で呆気羅漢を決め込む。そしてそれが罷り通ってしまっている。隠ぺいすることの方が悪いことなのだろうが、オープンにしたならそれなりの謝罪と辱めを感じなくてはいけないのではないかと、電話を切り車に戻りながら考えていた真木野が助手席に乗り込んだ。
「何かあってから動く警察の体質、どうにかならないんですかね?」
考えていたことを言われた真木野だったが、「人員が足りないんだ。仕方がないだろ」テレビでどこかの警官が顔をモザイクで守りながらそんな反論をしていたことを思い出し、模範にしてみた。それで納得がいったのかは知らないが、大沢はそれ以上攻めては来なかった。
出て行った二人と入れ替わるように店に現れたのは新堀とその連れだった。
「いらっしゃいませ」川端の声に、
「どうも」軽く会釈するとカウンター一番奥の席に腰を下ろした。一番奥の席、そこだけがこの店で唯一港が見える場所で、新堀の特等席だ。
「今の人たち警察でしょ?」
「何でわかるんですか?」
「何となく、匂いかな」
「凄く鋭い鼻お持ちなんですね」二人は目も合わせることなく会話を進めた。新堀は常連だったが、もう一人の男性は初めての来店だと川端は気が付いた。
「生、貰える?」
「お二つで宜しいですか?」
「うん」新堀は背広のポケットから煙草を取り出すと、どこかのスナックで貰ったのだろうマッチで火を付けた。火薬の匂いが微かに店内を彷徨った。どうやらこの男は、自分の連れを紹介する気などさらさらないようだ。
「ニュース見た?」
「何のですか?」
「今朝あったでしょ、女の胴体だけが空から落ちて来たのに、自殺で片付けられそうな事件」
「それなら知ってますよ。そのことで刑事さん来たんですもん」その後も連れを忘れているかのように、二人だけの会話は続いた。
冷えたジョッキを取り出すと、それを斜めにしてサーバーから出て来たビールを注ぎ、新堀とその連れの前に置いた。
「お待たせしました」そのとき初めて目を合わせた川端と連れの客。
「あっ、彼、俺の同僚」それで一安心したように、
「どうも、神山と申します」丁寧に名刺を手渡して来た。だから川端も笑顔で久々の名刺交換をした。しかし連れの話はそこまでで、あとは新堀のやりたい放題だった。
「でも何で、警察がこの店来たの?」上目使いの彼に、
「死んだ女性がこの店の常連だったんですよ。それで色々聞きたいからって。それだけです」川端が苦笑いで返した。
「どんな娘だったの?」
「いい娘でしたよ。すごく気が利くし美人でした」
「そうなんだ。勿体ない。でも聞き込みをしているってことは、やっぱり彼女殺されたんだ?」
「自殺と他殺の両面から捜査しているみたいです」
「で、マスター怪しい人物とか心当たりあるの?」
「そんなのありません」きっぱりと言い切った川端に笑顔などなかった。
「だって彼女と仲良かったんでしょ?」
「意地悪は止めて下さい。ただの常連さんです」
「そうなんだ」ニンマリとした新堀だったが、「でもあんな惨い死に方されたら残された家族が可哀想だよな」次にはシンミリとしていた。
「そうですね。気の毒です」シンクに溜まった洗い物に目をやる川端。
それから暫く三人は黙ったまま無駄に時間だけが流れた。新堀はビールを平らげると、「御馳走さん」一人勝手に立ち上がり千円札二枚を置いて店をあとにした。そのあとを連れが慌てて出て行った。
「何なんだ、あの人?」店内で一人、川端が漏らした。
1日目・貴代の話
再び車を走らせ真木野と大沢が次に向かった先は、佐久亜紗美の学生時代からの親友・橘貴代の所だった。川端のバーから車で十五分ほどで着いたそこは、港町横浜の面影を全く感じさせない、緑が生い茂った中にある団地だった。
「三号棟の403号室ですね」車を止め、前と同じように自らのノートに書き写した住所を確認している部下を、真木野がじれったそうに見ていた。車を降りた二人はやっと空が赤み掛かり始めていたが、暑さは止むどころか車内で一度は冷やされた二人の体に纏わり付いてきた。シャツ一枚になりたい思いを辛抱し大沢は橘貴代が住むアパートの棟を目指して先を歩く真木野の背広を追い掛けた。着くなり今度は階段しかなかったことで、大沢が嬉しそうに真木野の方に目を向けた。
「バーカ、今度は走りたい気分だからいいの」強がった真木野を一人残し、大沢は猛然と階段を駆け上り始めた。
「待てっ」遅れまいと、中年の真木野も体に鞭打って階段を上った。息を切らしながらも一気に駆け上がった大沢が後ろを振り返ったが、真木野の姿はなかった。だいぶ後に完全に歩いている真木野が、文句を言わせまいと睨みつけながら四階に到着した。だから何も触れることなく、大沢はブザーを鳴らした。
「はーい」中から聞こえた女性の声だけでは本人かはわからないが、もし本人なら親友があんな死に方をしたことに対するショックはそれほどなさそうにも感じた。ドアの向こうにこの家の住人の誰かが着いたことを感じ取った大沢が、
「すいません。先程電話しました、神奈川県警の者ですが」
「はい」返事と同時に扉が開き、中から現れたのは橘貴代と思しき女性だった。同時に届いた匂いから、今晩の夕食はカレーだと察しが付いた。玄関には子供用の靴が幾つも並んでいた。「夕食時にすいません」
「刑事さん?」
「はい、こっちが警部の真木野で、私が大沢と申します」手帳を翳し先ほどと同じように挨拶を終わらせると、世間話を交えながら幾つか佐久亜紗美との関係などを質問したあとに本題に入った。
「今回の事件、橘さんは自殺だと思いますか?」
エプロンで濡れた手を拭きながら、「えっ?じゃあ他殺なんですか?」貴代は目を回していた。
「それはまだ解りません。でも彼女の近くにいたあなたはどう考えますか?」
「私は自殺だと思います」彼女は淡々としていた。
「どうしてそう思われるんですか?」靴に描かれていた絵柄から男と女の子供がいることが窺い知れた。
「亜紗美、彼氏のことで悩んでいたみたいです」
「彼氏?」
「はい。IT関連の会社の社長だって言ってました」
「何で彼女は悩んでいたんです?」
「何でもベンチャー企業らしくて、とにかく忙しい人でなかなか会えなかったみたいで。でもある日、彼女がいつものように彼に会えないでいるときに、亜紗美の友人が彼氏が浮気している現場を見たって言い出したんです。それで彼女相当ショック受けちゃって」
「それで彼氏とはどうなったんですか?」
「聞いたらしいんですが、はぐらかすばかりで、ちゃんとした対応をしてくれなかったみたいです。彼女もそれ以上は問い詰められなくて、亜紗美、彼氏にフラれることを何よりも恐れていましたから」気付いたように下を向く貴代。「でも結局一ヶ月後にフラれちゃったんです」
「それがショックで、彼女は自殺したと?」相変わらず手帳を広げたままの大沢が彼女の顔を覗きこんだ。
「多分」
「あんな惨い死に方を選んだ?」
「それは私も引っ掛かりますが、最後まで彼の気を引きたかったと考えれば、あの子ならあり得る気がします」
車に戻る途中、肌着を着ない大沢は背中にYシャツがへばり付いてくるのを疎ましく感じながら白色のセダンを目指した。
「橘貴代は親友だったんですよね?」乗り込むなり大沢が首を傾げた。
「多分な?」
「女の友情なんてあんなもんなんですかね?」
「どうだろうな」これ以上続けても期待した答えなど返ってこないと、悟った大沢は話題を変えた。「彼女の近くにいた人間だけでも、意見が分れちゃいましたね」今度はひとり言で終わった。
無言の真木野も同じことを考えていた。それと橘貴代が言った、亜紗美ならあり得る、という言葉が引っ掛かった。
1日目・まとめの話
署に戻ると誰もが口にした。これは殺人事件なんかじゃない。自殺だ。ある者は頭のおかしくなったヤツが、最後まで周りの人間たちを混乱させるための演出だと言った。またある者は自己主張、自己表現、生きる気力を無くした人間が最後に目立とうとしただけだろうと言った。結局どの捜査員も楽観的だった。首のない死体を前にしても、そしてあるはずの顔がそこになくても、彼らは女の死を自らが命を絶ったとして、幕引きをしようとしていた。
ただ彼女がストーカー被害に苦しんでいたことは確かなようだった。
「彼女が助けを求めた交番は、彼女のマンションと同じ道路沿いにあり、歩いて五百メートルほどの距離にありました」そう話し始めたのは、大沢の同期宮部だ。
彼は大沢同様手帳を広げると、「今からちょうど一ヶ月前、彼女はその交番を訪れています。そこでストーカーに悩まされていると訴えたそうです。その時点で被害はなかったのですが、彼女が捜査員に見せた携帯電話に、一日二十件以上の番号非通知の電話がビッシリ詰まっていたそうです。彼女の話ではそれが一週間以上の期間ずっと続いていたらしく、夜も眠れないと訴えています。あとマンションの外に現れたストーカーを、自宅の部屋から本人が撮った写真もあるんですが……」そう言って机に出された何枚かの写真は、薄暗い中に人物は写っていても、それが男なのか女のかまでは分からなかった。
「それと、気になることが一つ。彼女と話した警察官が、そのストーカーはあなたが知っている人間ですか、の問い掛けに口籠ったそうです」
「つまり顔見知りということか?」輪の中心にいる下山課長が反応すると、
「でもだったら何故彼女はそのことを言うことなく、寧ろ隠したんですかね?」大沢が訝しげな顔をした。
「元彼氏で暴力魔?だからストーキングはおっかないが、そんな彼を怒らせるのも逆襲が怖いってとこですかね」宮部とペアを組む林が話をまとめた。
ただ、「鳥や猫が、人間の首を一瞬で持ち去りますかね」大沢のボヤキには、誰からも反応はなかった。
トイレに行くと言ったきり最後まで真木野が戻って来ることはなかった。どうせ煙草でも吸っているのだろうと、誰も彼が戻らないことを言及する者はいなかった。
1日目・高田の話
彼女が飛び降りをしたビルにほど近い、横浜の総合病院で入院したばかりの患者・高田和夫は、消灯時間になっても暗やみの中、ベッドの上で上半身を起こしたまま身動きが取れなくなっていた。
「どうした、にいちゃん。不安なことでもあるんか?」そんな彼に声を掛けたのは、隣のベッドの患者・境川連治だった。彼の見た目は強面で名前からもどこかのスジの者ではないかと、和夫はここに入れられてからずっと思っていた。
「大丈夫です。不安なことなどありません」そして彼は体を寝かせると、自ら出た汗で湿ったシーツに不快感はあっても何の温かみも感じない布団の中へとそれを潜らせた。内心、カーテン一枚だけ隔てた男が怒鳴り出すのではないかとドキドキしていたが、そのときの和夫の精神状態はそんな恐怖さえも払拭するほど落ち込んでいた。
「さっきのテレビでやってた飛び降り自殺したとかいう女、にいちゃんの知り合いか?」強面の男は優しい口ぶりで聞いてきた。それでも黙っていた和夫だったが、「昔の彼女か?」構わず会話を進める連治は、薄暗い何もない天井をジッと見ていた。
「違います」和夫は心を込めなかった。
「そうか」だから連治もそれ以上を問い質すことをしなかった。和夫は体を横向きに寝返ると、正面に現れた壁に目を止めた。そこに何があるわけではない。寧ろ何もない壁だからこそ、そのあとも長い時間それを見つめることが出来たのだ。連治は相変わらず天井を見て、少しだけ口元を緩めた。彼も何かを見たかったわけでも知りたかったわけでもなかった。ただ気になったのだ。一日中隣に存在する赤の他人のことが。あの事件のニュースが報道されてからの彼の落ち込みが、見るに忍びないものだったから。
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