第10話 嵐に終わる
ふと気が付くと、その場に二人の男が倒れている。
一人は冬馬。傷口の痛みの所為なのか、気を失っている。グレータスの手からすり抜けたのは、彼の意思ではなく、単に支えを失っただけに過ぎなかったらしい。
そして、もう一人はグレータス。
その近くに転がっている椅子を見て、私は自分の行動を思い出した。
あの時、船は再び大波に捕まって揺れた。私はその揺れで近くに滑ってきた椅子を持ち上げ、グレータス目掛けて思い切り振り下ろしたのだ。
あの瞬間、彼の意識にあったのは唯一つで、三月の体に深い傷跡を刻み付けるという快楽だった。だから、私の単純過ぎる一撃を、避けるなり防ぐなりできなかった。
父は何も言わずに、グレータスをせっせと縄で縛り上げ始めた。
私は冬馬の傍にしゃがみ、頬を軽く叩いてみた。目覚めはしなかった。
すると、冬馬を別の角度で見下ろしていた三月が、何も言わずに冬馬を抱え上げた。そして、弟の部屋まで運んで行った。
私もその後を無言で着いて行った。
ベッドに冬馬が横たえられると、私はその顔に付いた血を自分のTシャツの裾で拭き取った。
後で洗うのが大変だなと、本当にどうでもいいことが頭に浮かんで、ふと幸せを噛み締める喜びを感じた。
すっかり綺麗になった訳ではないが、私は拭くのをやめて、ベッドの隅に腰掛けた。
それから、椅子に座って休んでいた三月を、本当の名前で呼んだ。
「冬夜」
「何? 姉ちゃん」
少しの空白の後、私は声も出さずに笑った。
それをきょとんとした顔で見ている冬夜がさらに可笑しくて、もっと笑った。
笑いの潮が引くと、冬夜が私に尋ねる。
「姉ちゃん、何がそんなに可笑しいのさ?」
「どう見ても年上の弟に、姉ちゃんなんて呼ばれるのが可笑しいのよ」
「ああ、そういうことか」
「それより、話してくれない? これからどうするのか」
「帰るんだよ。元の世界に」
「どうやって?」
「この嵐に乗っていくんだ。幾つかの世界を行ったり来たりしている嵐の話、聞いたことない?」
「あんなの、お伽話じゃない」
「でも、僕はその嵐に乗ってこの世界にやって来たんだ。だから、多分帰れると思う」
「だけど、仮にその嵐がホントにあったとしても、また同じ場所と時間に帰れるとは限らないんじゃないの?」
「うん、そうだね。でも、この嵐は僕を元の世界に返すために起きたものだと思うんだ。この世界では、僕は死んだ人だからね。要するに、異物なんだよ。それに、確信もある」
「確信?」
「そう。嵐の進路だよ」
私はハッとした。彼の言うことは尤もだ。実際に嵐が進んでいる進路は、気象学上あり得ないようなものだったのだから。
「僕は思うんだ。この嵐は、この船を追い掛けているんじゃないかって」
「それは、冬夜が乗っているから?」
「うん。異物である僕を、元の世界に戻すために、この嵐は僕を追い掛けている」
自信に満ちたその顔。おそらく、彼の言うことは正しいのだ。
「じゃあ、どうしても行っちゃうんだ?」
「うん。向こうにも待ってる人はいるからね」
「それって、私と父さん?」
「うん」
私は考え込んだ。冬夜のこと、冬夜がこれから帰るという世界のことを。
私のいるこの世界では、冬夜は既に死に、冬馬が生きている。だが、冬夜のいた世界では、冬馬が死んで冬夜が生きている。
つまり、多季さんが二人を出産するあの時、どちらが生き延びたのか。もっと言うなら、どちらが先に生まれたのかということに対する答えが、それぞれの世界で異なっているだけ。
私の世界では、冬馬が先に生まれ、冬夜の世界では、冬夜が先に生まれた。それだけの違いが、二つの世界を分けてしまった。
私は頭を左右に揺さぶり、溜め息だけを残して、これ以上考えるのをやめてしまった。
「姉ちゃん」
「あ、何?」
冬夜の呼びかけは、あまりにも突然過ぎたので、私は変な返しをしてしまった。
「冬馬のことで、一つ言っておきたいことがあるんだけど」
「冬馬の? うん、一つと言わず、いくらでも言って」
「冬馬と僕。名前こそ違うけど、生まれてからずっと、同じ経験をしてきている。ここで経験したこの一ヶ月ほど、僕はずっと昔、今の冬馬が立っている視点で、同じ経験した。だからわかるんだ。冬馬が泳げなくなった本当の理由が」
私は思わず息を詰めた。
冬馬が泳げなくなった理由、私が考えているあの北海での出来事ではないと、彼は言うのだろうか。
「確かに、冷たい海で溺れた出来事がきっかけなんだけど、それで直接海が怖くなった訳じゃない」
「じゃあ、何なの? その、あなたたちが海を怖くなった理由って」
「姉ちゃん」
「何?」
「だから、僕たちが泳げなくなった理由は冬海姉ちゃんだ」
私は少しの間、思考がストップした。
綺麗に漂白された意識の中で、おぼろげになりゆく自分だけを感じた。
しばらくすると、白い世界そのものがスクリーンであるかのように、冬馬が海で溺れたあの寒い海がそこに現れた。
ふと我に帰り、思わず辺りを見回す。風のゴーゴーという唸り声が全体を包んでいた。
冬夜に目を向ける。彼は私の方をずっと見ていたらしい。
「私が……原因なの?」
そう言った私の声は、明らかに震えていた。
「別に、責めてる訳じゃないよ。多分、仕方ないことだったんだ」
「ねぇ、私がどういう風に関わってるの?」
冬夜は少し顔を上に向け、遠くを見つめるような目をして、そのまま語り始めた。
「僕たちがあの日、海で溺れたことで、姉ちゃんは変わってしまったんだ。その時のことを僕は、はっきりと思い出せる」
「私が変わった?」
「うん。あの日から急に、姉ちゃんは大人みたいになった。確かに、姉ちゃんが今まで以上にしっかりしてくれるのは心強かった。でも僕は、何となく寂しかった。だから、姉ちゃんをあんな風に変えてしまった海が怖くなったんだ」
「そう……だったの?」
冬夜の言葉が私の意識の中核まで浸透するには、少し時間が掛かったので、私の返答は、随分ゆっくりとしていた。
「うん。冬馬は忘れてしまっているけど、後で突然思い出すと思う。僕みたいに」
「でも私は……そう、あの時、本当に私は冬馬を死なせてしまうところだった! だから、もうあんなことが絶対にないように、言われたことだけはきっちりやろうと……責任を……」
自分でも何を言おうとしているのか、形にならないまま頭の中をグルグルと回転している。
そんな中で、ただ一つだけ言えることがある。冬夜の言うとおり、私はその日を境に変わろうとしたという事実だ。
「今、十一歳だよ、姉ちゃん。そんなに背伸びすることなんてないんだよ」
私は正直言って、かなりショックを受けていた。今は、それが地になっているが、私が無理やり自分を変えようとしたのは、ひとえに冬馬のためだった。
しかしながら、それが単なる自己満足だったという。
私は少し遅れて返した。
「うん。じゃあ、がんばってみる。もっと十一歳らしく……もちろん、急には無理だと思うけど……あれ、冬夜! あなたならそれが私にできるのかどうか、わかってるんじゃないの?」
だけど、冬夜は僅かな笑みを浮かべて、「さあね」と言った。
その表情からは、役目を全て終えてしまい、束縛から解放された人がするみたいな、清々しさが感じられた。
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