第9話 狂人

 三月に手渡された鉄パイプを、これ以上ないというくらい強く握り締め、私は操舵室のドアの前に立った。

 三月だとか冬夜とか、そういったことは今、考えないようにした。この扉の向こうで、冬馬と父が危険な目に合っているのだ。

 大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 振り返ると、三月が頷いた。その顔には不安の欠片かけらも見られない。うなずき返し、私はドアに向かい合った。

 意を決して、ノブに手を掛けてゆっくりと回す。ドアを開くのは一瞬だった。

 潮風で赤く錆の浮いた金具部分が、こんなときに限って不吉な音を立てる。

 振り返るグレータス。

 頭上高く振り上げた鉄パイプを、私は走りながら振り下ろした。

 だが、パイプは虚しく空を切っただけで、誰にも当たらなかった。一瞬早く、グレータスは脇へけていたのだ。

「姉ちゃん」

冬馬の呟き。その言葉の裏には、どうしてやって来たのか非難するような意味合いが含まれていたような気がした。

「冬海さん、でしたね?」

グレータスの口振りは、あくまでも穏やかだった。

「何故こんな所へ来たのですか? せっかく、最後の楽しみとしてとってあったのに。あなたとのゲームを」

背筋に冷たいものが走る。

 この男にとっては、誰かの命を奪うことなど、トランプ遊びと変わらないというのか。

「それは残念ね。あなたの思い通りにいかなくて」

本当は、怖くて膝が震えそうなのを隠すので精一杯だったのに、何故か私は冷静にこんなことが言えた。

 グレータスは、私の上辺だけ落ち着き払った言葉を聞いても、動じていなかった。むしろ、口許に冷たい笑みさえ浮かべている。

「気丈なお嬢さんだ。やはり、この中で一番楽しめそうなのはあなたのようですね」

再び疾走する悪寒。

「おい、こんなことしてどうなるっていうんだ」

父が一歩グレータスに歩み寄り、言った。

 グレータスは、冬馬を彼に見せるよう動かした。ナイフの切っ先が冬馬の首筋に、小さな傷を作りその部分が薄っすらと赤らむ。

「よせ!」

父は咄嗟とっさに詰めた分以上の距離を再び空けた。

 私は鉄パイプを再び強く握った。

 それを気配として感じ取ったのか、グレータスはこちらに向き直って言った。

「そんな物騒なもの、こちらに渡してくださいな」

「物騒なものを持っているのは、そっちじゃないの」

私は彼の目を見据えながらそう言って、仕方なく鉄パイプを手渡した。

 何気なく入り口の方を見た。何の気配も感じられない。三月はどのタイミングで突入するつもりなのだろう。

 冬馬、父、グレータスの順番で、私は視線を向けた。グレータス以外の二人は、この時点で、この先に起こるであろうことが予想できているようだった。目を見れば、それがわかる。だからこそ、こんな状態でありながら、誰もが絶望を感じないでいられた。

 三月がいる。彼こそがその場における唯一の希望だった。

 どれくらいの時間、そうしていたのだろうか。私の位置からでは、壁に掛かっている時計が見えないため、知る術がない。ただ、実際に流れた時間よりも長く体感していたのは間違いない。

 小さく割れた窓ガラスから、細くとがらされた風が入り込んでくると、笛のような音が部屋中に響いた。

 もう何度耳にしただろうか、その音は、私の心をどうしようもなく不安にした。突然、グレータスが口を開いた。

「そろそろいいでしょう」

その声が響いたと同時に、父が弾かれたような反応を示した。

「入日さん、分かっていますよね? 私の要求、聞いてください」

私は注意を傾けた。そう言えば、グレータスは何故こんなことをしているのか、まだ私は知らなかったのだ。

「本気で言ってるのか? こんな嵐の最中さなか、俺たちに出て行けと!」

「はい、もちろん。何せ、今私は監獄船から出てきたばかりで、移動手段を持っていません。私にはやらなければならないことがあるので、どんな種類であれ、船が必要なのですよ。実は、その前に遭遇していた医療船を乗っ取ろうかと思ったのですが、途中で難破してしまったもので」

「じゃあ、医者じゃないんだ」

私は二人の会話に口をはさんだ。

「ええ、違います。白衣を着ていたのは、医療船の中に紛れるためです。それが、この船の中でも多少役に立ったようですが」

そう言って、一見邪気のない顔で微笑ほほえんだ。

 そこで今度は、父が口を開いた。

「お前みてーな奴が、一体何をしなければならないんだ?」

「そんなことを言って、時間稼ぎでもするつもりですか? 一体何のために?」

「そんなつもりはない。単なる興味本位だ」

「ま、いいでしょう。ある男に対する復讐です。こんなご時世に海賊なんてものを名乗っている変わり者の男ですよ。さ、もういいでしょう、出て行ってください」

最後、グレータスはきっぱりと言った。

 だが、父はそれでもまだ会話を続けようとしていた。

「お前に、この船が操縦できるのか?」

「ご心配には及びません。一通りの船は操縦したことがあります。この船、特別なのはクレーンが付いていることくらいですからね」

にやりといった具合に、グレータスの口が歪んだ。

 父は深い溜め息を吐き、首を横に何度も振った。

 そして、一際大きな声で、「分かったよ」と言った。

 私には、それがドアの前でタイミングを窺い続けている三月への合図に聞こえた。

「最初に出て行くのは俺だな」

これまた大きく言うと、わざと足音が立つような歩き方で、壁伝いにドアの方へ向かった。 

 グレータスは、それを満足気に見守っていた。全てが思い通りにいくと思い込んで。

 だが、次の瞬間、その場にいた誰もが予想しなかったことが起こった。

 船内の重力異常。壁が床に変わったように、そちらへ吸い寄せられる感覚。

 船が大きな波に捕まり、船体が急激に揺れたのだ。

 私と父は壁に身体を預けることで、何とか転倒しなかったが、両手を使っている状態の上、部屋の真ん中に立っていたグレータスは、呆気なく横転した。

 しかし彼は、それでも冬馬とナイフを放さなかった。

 何もかもが信じられないと言った顔で、グレータスはゆっくり立ち上がろうとした。

 そんな時だった。彼が扉を開けて、部屋に飛び込んできたのは。

 同時に、船体が波の谷へ吸い込まれていく。

 結果として、船の中では重力が減少し、三月の身体が信じられない程高い位置まで上昇した。そしてそのまま、立ち上がろうとするグレータスの頭を横から蹴り払った。

 またも横転するグレータス。それでもまだ彼は、逃げようとする冬馬の腕を片手で捕まえていたし、反対の手には鋭い凶器を握り締めていた。

 私たちは再度、何もできなかった。

 グレータスはゆっくりと立ち上がり、よたよたと近くの壁際まで後退した。もちろん、冬馬も一緒に連れて。そして呟く。

「まだ、いやがったとはなぁ」

先ほどと比べて、口調と声色が変わっていた。

「道理で、余裕があった訳だな。こいつら」

ひどく乱暴で、攻撃的な言葉選び。今までの穏やかな口調は、全て演技だったのだろうか。

 何れにしても、思い掛けないことが立て続けに続き、余裕を失った今の彼こそが、本当のグレータスらしい。

 グレータスは突然、左手で冬馬の首を、前の方から押さえた。眼鏡の向こうに見える神経質そうな細い目は、赤く充血していた。

「何を!」と、父。

 グレータスの腕に力が込められ、少しだけ冬馬の身体が浮いた。そのまま首を締め上げるのかと思っていたら、彼はさらに人とは思われない行動をとった。

 彼の右手に握られていたナイフが、冬馬の右頬を素早くかすったのだ。

「キャッ!」

私は思わず短い叫び声を上げた。

 鮮血が飛沫しぶきとなって宙を舞い、後はゆっくりと弟の頬を伝い流れていく。

 冬馬は食い縛った歯の間から、声にならない低い呻きを洩らした。そして、強く結ばれた瞼の端からは、水滴が溢れた。彼は、声を上げずに泣いていた。

「な……何すんの!」

私は非難した。

「ペナルティ。ルール違反だ」

「何を、馬鹿な」

父も非難に加わった。

 グレータスは狂ってしまったのだ。彼の中で何かが切れてしまったのだ。そうに違いない。でなければ、こんなことを。

 彼はさらに続けた。

「今のは、俺に最後のキャストを告げなかったことに対するペナルティだ。だからもう一つ、俺を背後から蹴飛ばしやがったことに対するペナルティもしてやらないとなぁ」

グレータスの視線が再び冬馬を見下ろした。

「やめろ!」

父が低い声で、尚且つ懇願こんがんするように言った。そして、一歩前に出る。

 それを牽制けんせいするように、グレータスはそちらの方を向いた。それに合わせて、父の足の動きが再び止まる。これでは、同じことの繰り返しになってしまう。

 しかし、私の足は根が生えたかのように固まったまま動けなかった。何とかしなければという思いだけが先行し、次々に私を混沌の闇へと落としていく。

 その時、少し後ろで動きがあった。そこにいたのは三月の筈だ。

 目を向けると、彼はどんな小細工もなしに、そのままグレータスに突進していくところだった。

「馬鹿が! そう来るだろうと思った!」

 グレータスのナイフが冬馬の首筋から離れ、三月の方に向けられた。

 これは罠だった。三月の方から意識を離したと見せ掛けて、三月に突っ込ませる。だが、そこに隙などなかった。

 罠であったことを知った三月は足を止めようと試みたが、勢いは止まらない。

 今、グレータスは全てを忘れて、自らの画策かくさくの成功と、数秒後に訪れるであろう、人を切り裂けるたのしみとに酔っていた。

 おろそかになった左腕から、冬馬がすり抜ける。

 グレータスの注意が一瞬そちらを向いたが、すぐに三月へと戻っていった。

 もう、どうでもいいのかもしれない。ただ、目の前の快楽さえ得られれば。

 その姿は本当に狂人だった。

 グレータスの右足が一歩を踏み出す。

 尚も消えない三月の惰性。

「冬夜ぁぁぁぁ!」

思わず口をいて出た。

 後は無我夢中だった。

 私の視界はぐらりと揺れたような気がした。

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