第2話 二人目の漂流者

 退路は北西。

 そちらには、つい先日まで滞在していたアルバ商業海域がある。去った方向へ進むというのは、ちょっとだけおかしな感じだった。

 外に出て見上げると、空の端が灰色に染まっていた。嵐の影響で風が強くなっているかどうかは、移動中であるため分からなかったが、心なしかいつもより、遠くの海面に見える白い波頭はとうが多いような気がした。

 船は長い間、飛び石のように海上を走っていた。進んでいるのとは逆の空には、はっきりと雨雲と分かる、部屋の隅に溜まっていたりするほこりすすを被せたような色の黒雲が浮かび上がっていた。

 こんな大変な時に限って、『良くないこと』というのは、親戚や仲の良い友人たちをこぞって招待し、現れてくれる。

 突如として、エンジンが止まったのだ。

 しばらくは慣性のまま進んでいた船体も、やがて水の抵抗によって、停止。

 私はさっき感じることのできなかった、嵐の風をその身に受けることができるようになったが、嬉しい訳がない。

 時間が経つごとに、風は徐々にその暴虐ぼうぎゃくさを示し始めた。直立していると、バランスを崩してしまいそうだ。

 エンジンルームには今、父と三月がこもって修理しようと努力している。甲板にいても、時々金属同士がぶつかり合う音が聞かれた。

 その音は私の不安をあおり、同時に頼もしくもした。偶々たまたま、父が必要なものを取りに、エンジンルームから外に出てきた時、私は修理の状況を尋ねた。

「どう? 直りそうなの?」と。

父は、「時間はかかりそうだが、直るさ。パーツは十分に補充してあるからな」と、気楽な顔でこたえた。

 だけど、私の前から去った父のその足取りは、慌ただしいものだった。

 ふと見ると、エンジンルームへ通じる階段を上がってくる三月の後ろ姿があった。私は、後ろから近づき、彼に声をかけた。

「ねえ、三月」

その時、彼の体が一瞬硬直したように見えた。

 彼も驚いたのだろうが、私自身も驚き、思わず一歩退いた。

 その後、ゆっくりと振り返った彼は、その顔にいつもの親しげな笑みを薄く浮かべ、「冬海か。驚いたよ」と言った。

 私は三月の横に並んで、彼の視線を追うように、海の方を眺めた。嵐の雲が見えるのだが、彼の視線は私が追うことのできない、更なる遠くに向いている。そんな気がした。

 やがて、その表情から笑みは消え失せ、深刻そうな顔をした。心の中の緊張が滲み出しているのだろう。

 私はそんな彼に言葉を失った。何かを言おうとしていたのを覚えているが、それが一体何であったのか、思い出せなかった。

 やがて、船室に行っていた父が、手に三十センチくらいの長さの棒を持って現れると、一緒になってエンジンルームへ入っていった。鉄の床扉は、大きな音を立てて閉じられ、やがて断続的な金属音が響くようになった。

 埃に煤を被せたような色の黒雲が、意志を持っているかのように迫ってきている。

 例えエンジンが治ったとしても、このままであれば、嵐の影響を受けてしまうのは確実だ。

 私は部屋に戻ろうと、体の向きを変えた。と、傍らに、いつの間にやら冬馬が立ち尽くすようにたたずんでいた。

 彼は、私の視線の先を探しているようだった。

「どうなっちゃうのかな」

不安そうに彼は呟いた。

 大丈夫。そう言ってやりたかったが、私自身その言葉を信じられないのだから、声に出すのが逆に怖かった。それでも何かを言うことは、その場における私の義務だった。

「わからないけど、父さんと三月が何とかしてくれるわよ」

 何とか、とは一体何だろう。私は、自分が口にした言葉が、どうしようもない未完成品であったのをはっきり自覚した。

 けれども、不安に押し潰されそうな弟には、満足とは言えなくとも十分ではあったらしく、静かに頷いた。

 強い風が波頭をさらい、私の顔に塩辛い横雨を降らせた。

「中、入ろ」

「うん」

 私は冬馬を連れ立って、船内へ入っていった。

 昼食を作るにはまだ少し早い時間だったので、私は自分の部屋に向かった。ドアを開けようとすると、後ろに冬馬が立っていた。冬馬の部屋は、私のよりも手前の部屋だ。部屋に向かうのであれば、ここにこうして彼が立っている筈はない。

「ん? 部屋に行ったんじゃなかったの?」

彼は無言で首を横に振った。言いたいことは、その不安そうな目に刻まれていた。

 私はそれを察して、何も言わずに彼を部屋へ招き入れた。

 先日は、弟の成長を目の当たりにしたところだったが、やはりまだ歳相応に幼い面も持っているのだなと、私は口元に微笑みを浮かべた。

 それからは特に言葉を交わすこともなく、ただ、同じ部屋に互いの存在を感じながら、時を過ごした。

 時計を見て、そろそろ昼食の準備を始めなければと思い立ち、部屋を出ようとした。

 そうすると、冬馬も立ち上がり、私の後に続こうとする。情けないなぁという思いの反面、私自身、一人でないことが嬉しくもあった。

 吹き付ける風は、大きな手で壁を叩いているような音と震動を生み出していたし、激しく上下する波は、天地がひっくり返りでもしたかのような揺れを私たちに絶えず与えていたのだ。表には出せないが、私だって、冬馬と同じかそれ以上恐怖している。

 調理場にやって来ると、冬馬はつまらなそうに椅子に座って、私がやっていることを見ていた。

 いつか、彼が私と交代で食事当番をしてくれるような日が来るだろうか。そんな思いが浮かんだが、あまり期待はしていなかった。

 冷蔵庫から鶏肉とニンジンとピーマンを取り出し、まな板の上に置いた。今日はチキンライスでも作るつもりだった。あと、タマネギが必要だが、これは外の壁に吊るして干してある。

 取りに直通のドアを通って外へ出ると、真っ先に殴りつけるような風が襲い掛かってきた。その風に押され、押し返しながら何とか、風との死闘を制し、外に出てドアを閉める。

 タマネギの吊るされた壁の方を見たが、無残にも強風で壁に打ち付けられ、変形したものや、そのまま下に転がっているものが目に飛び込んできた。

「仕方ないか」

そんな呟きも、風に連れ去られてしまう。

 持てるだけのタマネギを抱え、船内に避難させようとしたその時、それが私の視界に入ってしまった。

 荒れた海を漂う、白い布切れのようなもの。

 正面から見据え、私は一抱えのタマネギをぼとぼとと下に落としてしまった。

 それは、白い服を着た、紛れもない人間だった。

 船の残骸か何かなのか、何やら木材にしがみ付いて浮かんでいたが、高い波はそれさえ時々水面下に沈めてしまう。

 打ち放たれたようにエンジンルームへ向かった私の頭の中には、どんな考えも浮かんでいなかった。

 ただもう、慣れたように父を呼びに行った。

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