第五章

第1話 ニンジン嫌い

 アンデスを去って一週間が経った。

 最初の数日は、初めてできた同年代の友達との別れに痛々しいくらい悲しんでいた冬馬だったが、今ではもう普段と変わらない様子にまで元に戻っていた。

 また、アレックスは私にとっても同様の存在で、当然私もその別れを惜しんでいた訳だが、それを表面に出すことはしなかった。

 だから、私たちは何ということもない普通の日々に戻っていたのだ。

 そんな私たちは今、商業海域へ向かっていた。


 つい昨日のことだった。

「ごちそう様」

冬馬はそう言って席を立とうとした。

「冬馬、待ちなさい」

私はその彼を呼び止めた。

 呼び止められる心当たりが最初からあったらしく、振り返った彼の視線は食卓の、それも自分が食べていた食器の上に注がれた。わかっているのなら、初めからしなければいいのに。

「冬馬、またニンジンだけ残して」

「だって」

アイボリー色の食器の上に、華やかな彩りをえるニンジン。

 フリーズドライで保存されていたものを、塩ゆでして戻しただけのものだ。

「ちゃんと食べないと大きくなれないわよ」

「ニンジン食べなくちゃ大きくなれないんだったら、ならなくてもいいもん」

何度か同様の遣り取りをした経験を持つ私たち、敵も中々手強い。だけど、限られた物資を無駄にする訳にはいかないのだ。

「第一、もったいないでしょう。もう、あんまり食料の在庫がないの。こんな所でえたくないでしょ?」

冬馬は何も答えない。あと一押しだ。

「お父さんだって、いつでも仕事がある訳じゃないんだからね」

父の方に目を遣ると、『俺は関係ないだろう』という視線が返ってきた。

 弟の目はニンジンの塊に釘付けで、さもすれば穴でも空きはしないかと思う程だ。そんな視線をふっと外し、彼は「分かった」と答える。

 席に再び座った冬馬は遂に観念して、ニンジンを口の中に放り込むと、ギュッと目をつむった。

 鼻で息をしていないのが分かる。普段よりも多めに咀嚼そしゃくして飲み下した冬馬は、やっと目を開いた。少しだけ涙目になっていた。

「食べたよ」

ちょっとだけ誇らしげな口調だったが、まだ鼻で息を吸えていないらしく、鼻声だった。

「うん。頑張ったね」

そう言って私は席を立ち、冬馬の背中をぽんぽんと軽く叩いてやった。

 彼は嬉しそうに笑顔を浮かべ、勢いよく椅子から立ち上がって、食堂を出て行った。

 その姿を見送って再び食卓に目を戻すと、今この瞬間にニンジンを口に入れようとしている三月と目が合った。その目は僅かだが涙目になっていた。

「まさか三月も、ニンジン、苦手?」

やはり長めに咀嚼し、意を決したように飲み込んだ三月は、今まで見せたことのないような辛そうな顔をして答えた。

「うん、実は苦手」

そう言われても、何故だろうか、あまり意外な感じはしなかった。

「でも、カレーに入っているニンジンなら食べられるんだよね」

「へぇ。冬馬もそうなんだよね。カレーだと、美味しそうに食べるんだぁ」

「カレーと言えば」

父が、会話の中に突如入り込んできた。

「最近カレー、食ってないな」

「何、食べたいの? でも、残念ながら、カレー粉はないのよ」

「食材もないって言ってなかったか?」

「そうそう、そうなの。このままだと、頼みの綱は冬馬が垂らす釣り糸くらいしかなくなっちゃう」

父は低い唸り声を上げて、言った。

「冬馬の釣りは当てにならねーからな……。これから買い物に向かうか。船とクレーンのパーツも補充しなくちゃいけないからな」

 父のその言葉で、私たちは商業海域を目指したのだった。

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