第2話 商業海域

 この海の至る所に、同じ目的を持った船が集合して、大きな共同体を作っている海域がある。以前に仕事をしたリカルド先生も、研究を主とした船が集まる研究海域から来ていた。つまり、商業を目的とした船が多数集まってできた共同区域が、商業海域だ。こういう所へ行けば、大抵のものを買い揃えることができる。

 今回訪れたのは、アルバ商業海域。世界中にいくつかある商業海域の中でも、共同体意識が特に強いのか、様々な船が架橋によって繋がっていて、さながら一つの巨大船のようになっている。

「え? 商業海域に行くの?」

新たな行き先を告げられ、冬馬は尋ねた。

「そうよ。食料と船のパーツを買いにね」

 普通、このくらいの年代の子供であれば、商業海域へ行くとなるのと、手が付けられないくらいにはしゃいだりするものなのだろう。けれども、人見知りの激しい冬馬にとっては、良い感情も悪い感情も引き起こさない。少なくとも、表面上は。

 珍しいものが目に出来て、あわ良くば何か買ってもらえるかもしれないという前向きな想い。そして、大勢の知らない人がいるという後向きな想い。それらが、彼の胸中で衝突し、差し引きゼロという結果を生み出しているらしい。

 しかして、次のような反応となる。

「へぇ」

まあ、予想はしていた。

 しばらくして、空が俄かに曇り始めた頃、私たちは目指す海域へとやって来た。

 最初に目に付いたのは、見たこともないような巨大な船だった。

 平面的な広さはもちろんのこと、何階建てなのかわからないが、とにかく立体的にも圧倒的だった。

 純白の船壁には、大きく『ATLAS』と示されている。これが、おそらく船名なのだろう。

「アトラスか」

父が呟いた。

「アトラス? 何をする船なの?」

私は尋ねた。

「これも商業船だ。あのデカイ船の中に、いくつもの商店が収まっているんだ」

 多数の商店が集まって、まるで一つの巨大な船のようになっているこの海域。一方、あのアトラスという船は、一つの船の中に多くの商店が入っている。

 両者は似ているが、形成のされ方が逆なのだ。

 では、そんな船が何故この海域を訪れているのだろうか。

 それを父に聞く。

「なんで、そんな船が商業海域にやって来るの? お客の取り合いになるんじゃないの?」

「そんなこと、知らねーよ。現にいるんだから、何かあるんだろう」

「その何かを聞いているの!」

「だから、知らねーって!」

無意味な言い争い。

 その時、先導する船がこちらに合図を送ってきた。停泊場へと誘導するためだ。

 お互いにつまらない口論をやめた。

 係員に誘導され、私たちが降り立ったのは、いかだのように四角い、船を繋ぐためだけの船。ちょうど、浮島に近いものだ。側面にはずらりと船が停泊していて、その四隅に、他の船へと通じる橋が渡してあった。

 このような浮島はこの場所だけでなく、この海域のそこかしこに点在していて、実際かなりの船舶が停泊できるようになっている。

 橋を渡り、私たちは最初の船に乗り込んだ。

 その船は、金物屋さんであるらしい。鍋や包丁といった台所用品から、この広い海の一体どこで使えばいいのか、かまくわなども売られている。

 父が周囲の音に負けないようがなり声を上げた。

「冬海。俺と三月は船のパーツを探すから、お前は冬馬を連れて食料の買出しをしてくれ」

「うん、わかった」

 その船からは、さっききた浮島への橋を除けば、二つの橋が別の船へと渡してあった。父と三月は向かって右側の橋を、私と冬馬は左側の橋をそれぞれ渡った。

 橋を一つずつ渡っていく度に、周囲を満たす他人たちの数が増大していく。この海にこれだけの人がいたのかと驚いてしまう程だった。

 人々の喧騒や息使いが、大きな波となって私たちという小さな存在を飲み込もうとしているかのように思えた。

 周りにいるのは、私よりも頭一つか二つ背の高い大人ばかりで、そんな中にいる私たち姉弟は、言葉通りちっぽけだった。

 動いているのだか動いていないのだかわからない人の波を掻き分けて、私は進んだ。こんな中で、冬馬は私のシャツの後ろをつまんで着いて来ていた。

「冬馬。シャツ、伸びちゃうでしょう? 離して」

振り返り、私は注意すると同時に手を差し出す。冬馬は一旦シャツから手を離して私の手を握った。だが、どういう訳だか、冬馬は少し経って私の手を離し、またシャツを引っ張って歩く。ひょっとしたら、彼は手を繋ぐのが照れ臭かったのかもしれない。だから、シャツを摘むのか。

 不満を言ったものの、シャツ一枚と指先で繋がっているこの状況は、私にとっても微かな安心感を与えてくれた。

 冬馬がはぐれていないという確認ができたというだけではない。微妙な違いかもしれないが、それは私が一人でいないという確認になるのだ。

 私が、「離しなさい」と言って、冬馬が手を離す。そして、また引っ張る。この不毛な繰り返しは、彼とコミュニケーションを取る一つの方法だった。

 そんな行動が幾度か繰り返された後、珍しいお店を見つけた。古書店だ。

 多季さんの書斎にも引けを取らないほどの蔵書が、店の本棚に並べられていた。そのどれもが、くすんだ色をしていて、ボロボロで、おもむきをかもし出している。

 その時に生じた感覚は、私にとっては懐かしさに匹敵する程、胸を熱くさせた。

 私は思わず手近な本を手に取り、そっと開いた。むせ返るような古紙の匂いが、潮風に混ざって鼻孔をくすぐる。

 文章に目を通そうとした時、私は冬馬の方を少し振り返った。呆れ顔の弟がそこにいる……筈だった。いつもの視線の高さに、彼の顔はなかったが、それでもシャツは引っ張られ続けている。

 ふと目を落とす。

 一瞬、冬馬が小さくなったのだと思った。しかし、そんなことはない。それは冬馬ではなかった。冬馬よりもずっと小さな男の子で、今にも泣き出しそうな顔をして、私を見上げている。

「ママ、どこ」

涙を目に浮かべながら、舌っ足らずな口調でその男の子は言った。

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