第9話 謝罪と感謝
冬馬が助けたアレックスは、演技などでなく、本当に溺れていた。
ずっと彼のもとに付いていた冬馬が、少しの間部屋を出た時、私はそんなアレックスに話し掛けた。
「ホントに泳げなかったのなら、そう言ってくれなくちゃ」
ベッドに横たわる彼は、本当に意識を失っているみたいに、しばらく何も答えなかった。
しばらくして、思い出したように彼は答えた。
「そんな事できないよ」と。
まだ少し苦しいのか、消え入りそうな声だった。
「なんで? 死ぬところだったんだよ?」
「どうしても、泳いで欲しかったんだもん、冬馬に。それに」
アレックスは会話として不自然な場所で言葉を切った。
「え? それに?」
私が先を
仕方なく私は、もう一つの疑問を口にした。
「なんで、アレックスが冬馬に泳いで欲しいなんて思うの?」
この問に、アレックスは少し悩むような仕草を見せながら、答えた。
「僕は、陸で暮らしているんだ」
私だって全く学がない訳じゃないのだから、彼の言っていることの意味を理解できたつもりだ。この世界に残っている数少ない陸地に住むというある種の特権が与えられているのは、よほど特殊な立場でなければならない筈なのだ。
アレックスは続けた。
「僕が住んでいるのは、七海連合本部の宿舎だ。父さんも母さんも、連合の職員なんだよ。もちろん宿舎は陸にある。だから、泳ぎ方なんて教えてもらったこともないし、その必要もあまりない。多分、こうやって海に触れることも、これからしばらくないんだと思う」
七つの海に分けられた世界を動かす七海連合。その本部の宿舎に住んでいるというアレックスは、いわゆるエリートの子息なのだ。仕事は世襲が多いこの世界で、それは、ゆくゆく彼もエリートになっていくよう定められているのを意味している。
「僕は多分、これからずっと陸で暮らさなきゃいけないんだ」
そう言ったときのアレックスは、どこか寂しそうで、悔しそうに見えた。私はそんな彼にこう言った。
「海が、好きなんだ?」
「うん、好きなんだよ。初めて来たんだけど、はっきりわかった。僕は海が好きなんだって。だからこの海で、自由に泳いでみたかったんだ。冬海みたいに」
「うん。でも、それと冬馬が泳ぐのと、なんで関係があるの?」
「冬馬に、僕の泳ぎたいという気持ちを重ねていたんだと思う。冬馬が泳ぐことで、勝手なんだけど、僕も泳いでいるような気になれるんじゃないかって思った。冬馬は友達だから。このほんの少しの間だったけど、本当に、今までで一番楽しかったんだ、冬馬といたこの数日間」
「そう」
その時、扉をノックする者があった。入ってきたのは三月。彼は入ってくるなり、ドアも閉めないまま、言った。
「今そこに冬馬がいたけど。僕の顔見たら逃げていったよ。何かあったのかな?」
今の話を聞かれたのだろう。
でも、私は、「うううん、何も。ところで、何か用事?」と、淡々と返事した。
「あ、そうだ。アレックスのご両親が今し方この船に」
「え? 父さんと母さんが?」
アレックスはいきなりベッドから立ち上がり、私が止めるのも聞かずに全速力で部屋を出て行った。
「凄い
誰へともなく三月が呟いた。
遅れながら、私たちもアレックスを追いかけて甲板に向かった。船内から外へ出ると、早速出迎えたのは、ヒステリックな女の人の声だった。
「アレクサンダーにもしものことがあったらどうするんですか!」
叫んでいたのは、何日か前、私たちがいたのとは反対側の浜辺で私が見た、あの上品そうな女性だった。その横に並んでいたのは、いかにも厳格そうな中年男性。彼らこそ、アレックスの両親。
母親の両腕は、まるで
「大体、どうしてあんたらの子供をうちの子と一緒に遊ばせたりしたんだ!」と、今度は父親が怒鳴る。
「それは、子供たちの問題だからな」
やや押されながらも、我が父は答えた。
「あなたは、子供に責任を押し付けるというんですか!」
責任という言葉に、私は心臓を細い刃物で突き刺されたような気分になって、思わず息を詰まらせた。
そもそも、こんなことになったのは、私の責任だ。確かに、発案したのは三月かもしれない。だけど、彼はこの案を私に強要しようとはしなかった。私には、この作戦をきちんと判断して、却下することだって十分にできたのだ。
私は無意識のうちに、数歩前に進み出ていた。だが、口を開いても、どれだけお腹に力を込めても、言葉どころか声すら出なかった。
その時、今までどこにいたのか冬馬が、背後から立ち止まった私の背中を押したかと思うと、静かに歩み出て行った。
やがて、その場にいる全員の視線が彼に集中した。彼は、すっすっと、すり足に近い独特の歩き方で歩いていく。どこに、誰のもとに向かっているのだろうか。
そして、皆の見守る中、冬馬は立ち止まった。場所は、アレックスの両親と私の父が向かい合っているその中間。そして、父、アレックスには目もくれず、その両親の方だけを見据えて彼は深々と頭を下げた。「ごめんなさい」と。
それは、今まで私が聞いたこともない程、六歳の弟にしてはやけに大人びた口調だった。それからも冬馬は顔を上げることなく、そのままそこに停止し続けた。その場にいた誰もが予想していない展開だった。
「い、今更そんな風に頭を下げられても……ねぇ?」
やっとのことでアレックスの母親は、苦々しげに言葉を搾り出した。そして、自分の発言を護ってもらおうと、横にいた夫に目を向けた。
「ああ、全くだ」
子供に真正面からこんな謝られ方などされれば、自分が常に正しいと信じ続ける大人は、逆に許すタイミングをなくしてしまうものなのかもしれない。
またしても、その場で声を発する者がいなくなってしまった。
私は、虚しくも冷たい気配の存在を身に感じていた。すぐそこで燃えているような西日が海に沈み、東の空が
ふと、「違うよ」と、その風にそっと乗せるような、ひっそりとした声があった。アレックスだ。
彼は母親の腕から離れ、冬馬の前に立ちもう一度言った。
「それは違うよ」
アレックスの態度は、
「違うって、何?」
冬馬が問う。
「謝るのは君じゃない、僕の方だ。悪いのは僕なんだから」
「僕はアレックスに謝ったんじゃないよ。アレックスのお父さんとお母さんに謝ったんだ」
そう言って、冬馬はソッポを向いてしまった。
「いや、謝るよ。僕は君に酷いことをした。ごめん」
私とアレックスが話していたのを、冬馬は部屋の外で聞いていた。だから、冬馬がそうやって謝られるべきであるということは、彼自身にも理解できた筈だった。しかし、彼はずっと黙ったままだった。そんな彼に、アレックスはさらに言った。
「本当に悪かったって思っている、だから……」
と、突然、その先を遮るように、冬馬はボソリと言った。
「なんで謝るんだよ」
空白の時間があって、冬馬は顔を上げながら、押し殺した声で言った。
「なんで謝るんだよ。死ぬところだったのはそっちじゃないかぁ……」
頬を伝う涙が遠目にも分かった。
「あ、いや……ごめん」
慌てふためいているアレックスが、しどろもどろになりながらさらに謝った。そんな矛盾に気付き、迷った末に彼は自信なさげに言い直した。
「あ、ありが……とう? 助けてくれて、ありがとう。これでいいのかな」
冬馬は一度大きく頷き、しつらえたばかりのアンバランスな笑顔で言った。
「やっぱり、謝られるよりもありがとうの方が嬉しい」
そして、尚も笑いながら、改めてこう言った。
「こっちこそ、ありがとう」
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