第7話 三月の策

 三月は言った。泳げる能力はある、それが今は恐怖に遮られて出せないだけだろう、と。それが本当なら、今こうやって続けている技術的な練習は何の役にも立たないのではないか。

 冬馬の練習が始まって二日後、アンデスにやって来てからだと四日目の夜、私は部屋で一人、そう考えていた。

 冬馬は一向に泳げるようにならない。水を顔にひたすと、身体は自然と浮いてくる。あとは、足をばたつかせ、腕で前へ漕ぎ出すだけで、もっとも単純な『泳ぐ』という動作が完成するというのに。

 けれど、アレックスの存在は非常に効果的だったようで、今のところ、渋い顔一つせず、練習を続けている。

 それでも彼が泳ぐのに足りないものは冷静さだと、私は感じている。その冷静さを彼から奪っているものこそ、三月が言うような恐怖なのだというのなら、このままの練習法で彼を泳げるようにするのは不可能に思えた。

 恐怖を取り除く前に、恐怖の原因となっている出来事をおさらいしてみる。それは、冬馬が三歳の時だった。

 私たちがいたのは北方の寒い海だった。この時、その場所を訪れたのもサルベージの依頼で、父は毎日冷たい海の中に潜って、いろんなものを引き上げていた。

 当時八歳だった私は、覚えたてのナビをやっていた。今と比べると、それほど本格的なものではなく、まだ練習段階といった風だった。

 冬馬は、今とは違って釣りなどしていなかった。そう言えば、彼が釣りをするようになったのは、この後のことだった。

 話を戻そう。その頃の私には、ナビの他にもう一つの役割があった。それが、まだ幼い弟の世話だったのだが、むしろその当時は、そちらの方が私の本業だったのだ。

 私は、やっと父親の仕事を手伝うことができると、少しばかり熱中し過ぎていたのは間違いない。だから、海底のものがクレーンで引き上げられてくる間、私は気が付かなかった。冬馬が、冬の冷たい海に、うっかり落ちてしまった事に。

 この時の私は、ナビを続けるということで、弟を見ておくという責任を果たしていなかった。

 考えてみると、何とも皮肉なことだ。先日、サルベージの初日。あの日の私は、弟を助けるといって、ナビするという責任を放棄していたのだ。

 結局、海に落ちた冬馬は、いち早く気が付いたサルベージャーの一人が船に上げてくれたお陰で、冷たい水の中、なんとか凍え死なずに済んだのだ。

 多分、このときの冬馬は、まだ泳げたのだろう。けれども、冷たい海の中にウェットスーツも着ないで飛び込んだら、それだけで気を失ってしまうことだってありえないことじゃない。

 そうでなくても、あまりの寒さに全身が強張って、泳ぐどころではなくなってしまうだろう。

 この時の経験が、冬馬に海への恐怖を刷り込んでいるのだと、私は確信している。この恐怖を取り除く為に、どんなことをすればいいだろうか。

 私は、長い間机に向かって考え続けていたが、結局煮詰まってしまったので、この船の中で今抱えている悩みを共有できる唯一の仲間、三月のもとを訪れた。悩みを打ち明けると、彼はうーんと長く唸った。なんだかその仕草がわざとらしく見えて、私はつい笑ってしまった。

 けれど、三月自身は何故自分が笑われたのかわからないらしく、腕組みしたままきょとんとしていた。私は、「気にしないで」と言っておいた。

 少しして、彼は一つの作戦を語り始めた。

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