第6話 泳ぎの練習

 さっきは下った丘を駆け登り、さっきは登った丘を駆け下りて、私が再び砂浜に戻ってきた時、そこには既にアレックスがいた。

 そしてまた既に、冬馬とアレックスは仲良さそうに遊んでいた。

 荒れた呼吸を整えながら、私が二人に近づいていくと、冬馬はこちらに気付いて走り寄ってきた。

「お姉ちゃん、どこ行ってたの?」

「別に……ただの……散歩よ」

息も絶え絶え答えた。

「ふーん。そんなに疲れる散歩だったの?」

「そんなこといいでしょ。 それより」

私は意図的にアレックスの方に目を向けた。

「あ、さっき友達になったアレックス」

冬馬は、私にアレックスを紹介した後、今度は逆をやった。アレックスに私を紹介した。

 冬馬の目が他を向いている間に、私はアレックスに微笑わらいかけた。彼も頷き、微笑い返した。これでやっと、冬馬を泳げるようにする作戦が始められる。

 そう思って見ると、冬馬の着ているTシャツも短パンも完全に乾いて、風にそよいでいるのが分かる。それは、彼が一度も水の中に入っていないことを意味していた。

 しかし、何はともあれ、何かを始めるには十分なエネルギーが必要だ。それは実際に泳ぐ冬馬のみならず、彼を泳がせる私たちにも言えることだ。時間にしても今は正午を過ぎた辺りで、お昼にするちょうどよい頃合いでもあった。

 私は、満ちてきた潮で少し水に浸っていたゴムボートの中から、クーラーボックスを担ぎ出し、白い浜辺に突き刺されたパラソルの下に置いた。

 それが合図となったのか、日陰の中にみんなが集まってきた。このクーラーボックスの中には、私が早起きして作っておいたお昼ご飯が入っている。

 昼食を箱から取り出し、容器を砂浜に置いてから、私は一つの失敗に気が付いた。そこに用意されていた昼食は、食器の数や、おかずの量などから見て、明らかに四人分だったのだ。

 三月、冬馬、私、そしてアレックス。

 私はここにアレックスがいるのを知らないという設定なのだから、ここに四人分の昼食があるのは矛盾している。

 私は途端に、水分の少ないじっとりとした嫌な汗をかき始めた。

 その矛盾に、三月は気付いたようだった。だが、彼は大丈夫だよと言いたげな表情を浮かべた。

 結果として、それは正しかった。冬馬は私が心配したことなんて、露ほども気付かないようだった。むしろ、早速できた友達と一緒に昼食を食べられることが、単純に嬉しいようだ。

 昼食後私たちは、すぐに作戦を実行することはせず、浜辺で過ごした。食事をとった後すぐ、海に入ってはいけないというのは、誰もが小さい頃からよく親に注意されて、みんな知っている常識だ。もしも、食べてすぐに泳いだりしようものならば、死んでしまうことだってある、と。

 十分な時間が経過した頃、私はそれとなくアレックスにサインを送った。前もって打ち合わせをしていた訳ではないが、彼はそのサインを察してくれた。

 アレックスが何気なく冬馬に言う。

「ねぇ、水に入らない?」

それに対する弟の反応は、なんともわかりにくいものだった。彼は、それまで砂を触っていた手すら止めず、かといってアレックスの方を見たりするでもなかった。要するに、彼は無反応だったのだ。だが、それでも言葉の上では明らかに拒絶の反応を表明した。

「えー。泳げないよ、僕」

依然いぜんとして砂弄りをやめようとしない冬馬。そんな彼に、アレックスはさらに言った。

「実は、僕も泳げないんだ」

その時になって、初めて冬馬は手を止め、そしてアレックスに視線を向けた。

「本当?」

「……うん」

少しの間をおいて答えたあたり、アレックスの演技力はなかなかのものだ。

 彼はさらに続けた。

「本当は僕、ここに泳ぎの練習にきたんだ。だから、冬馬に教えてもらおうかと思ったんだけど」

「なんだ、そっか」

いい流れだ。

「こうなったら、一緒に泳ぎの練習しない?」

アレックスの言葉。この後の冬馬の反応が全てだった。

 私は祈るような気持ちで冬馬を凝視ぎょうしした。それを冬馬に気付かれると、不自然な態度として映ったかもしれない。だけど、そうなる前に三月が私自身にそのことを気付かせてくれたので、危機を逃れることができた。

 私は視線を彼から外し、耳だけを集中させた。波の音よりも、風の音よりも、弟の声が聞こえるように。でも、私が弟の返事を聞くことはなかった。何故なら冬馬は、無言で頷いただけだったのだから。

 そのことを私は、三月にぽんぽんと肩を叩かれるまで気付かなかった。目をみぎわの彼らに移すと、水面を蹴り上げて水飛沫を相手に飛ばそうとしている冬馬の姿があった。

 泳ぐという行為にはまだまだ遠いが、自分から水の中に入るということを既にやっている。紛れもない、大きな一歩だった。それが、このアンデス海岸における、冬馬の第一日目となった。

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