第5話 丘の向こう側

 冬馬の風邪が完全に治ったのは、そんなことがあってから、二日後の朝だった。

「うーん、熱はない。咳も鼻水もない。喉は?」

父の問いに冬馬は力強く、「痛くない」と答えた。

「んじゃ、完治だな」

「やった!」

冬馬が喜んだのは無論、泳ぎの練習ではない。彼には彼なりに、海岸での楽しみが待っていたのだろう。

 父を除いた私たち三人は、ゴムボートに乗って海岸まで移動した。

 その前日のこと。私は三月をアレックスに紹介していた。或いは、三月にアレックスを。それも協力者として。

 私と三月の二人は、まだアレックスに会っていないことになっているから、気を付けなければならない。これが仕組まれた関係だと少しでも疑われそうな要素は、できるだけなくしておいた方がいい。

 ゴムボートはやがて、岸に着いた。六歳の弟は、初めこそ恐る恐るといった風に、砂の上を歩いていたが、やがて解き放たれた子犬のように元気よくそこら中を走り始めた。

 引いてゆく波を追いかけて走り、今度は寄せてくる波から逃げる。そんな一見意味のないようなことを、楽しそうに続けていた。

 そんな冬馬を、私と三月は少し離れた場所からずっと見ていた。

 一時間くらい纏りのない楽しみ方をしていた冬馬だったが、疲れたのか、砂浜に腰を下して砂遊びを始めた。まず砂の山を築き上げ、それが波にさらわれないように堤防らしきものを張り巡らす。

 けれど、満ちてきた潮は、彼の目論見を脆くも崩し、奪い去っていく。呆然として立ち尽くす冬馬。その時、彼は何を思ったのだろうか。この世に満ちた理不尽さを感じ取っていたのかもしれないし、波に対して憎しみを感じたかもしれない。

 私には弟の気持ちが分からないでいた。

 ふと、隣りに目を移した。三月が冬馬を見ている。今まで見たことのないような、愛おしげな目で、彼は私の弟を見つめていた。私は、そんな三月のことが益々不思議に思われた。

 こんな目、私なら誰に向けられるだろうか。

 考えを巡らせているうちに、さらに時間が経過した。見ると、太陽もかなり高い位置に昇り詰めていた。

 私は思い出した。そろそろ、というか既に、アレックスはこの場に登場する手筈になっていたのだ。

 しかし、その砂浜には私たち三人以外の人影はなかった。小声で三月に話し掛ける。

「ねぇ、アレックス、どうしたのかな」

「そういえば遅いなぁ」

彼は周囲を見回しながら答えたが、そこに焦った様子は少しも見られなかった。

「私、ちょっと探しに行ってくる」

 私は立ち上がり、なだらかな上りとなっている砂浜を駆け上がった。

 砂浜を越えると、そこはさらに丘がある。アレックスは、その丘の向こう側からいつもやって来ていた。

 私はまだ、丘の向こう側へ行ったことがなかった。そこに何があるのか、アレックス以外にどんな人がいるのか、全く知らなかった。

 私は真っ直ぐに丘を登り始めた。地面はからからに乾いていて、何だか赤く見えた。細かな小石を踏むと、時々足を取られそうになる。斜面がきつくなってくる後半には、ほとんど地面に手を付きながら、四つん這いで登らなければならなくなった。

 丘の頂上に着いた。後ろを振り返ると、足下には今まで登ってきた急斜面が、もっと視線を上げると、遠くを漂っている私たちの小さな船が、目に飛び込んできた。

 私は達成感のため、しばしの間、何のために丘を登ったのか、忘れてしまっていた。ただ、そうすることが決められていたように、私は空を仰ぎ見た。青すぎる空は、近いのか遠いのかわからない。

 私は景色の一部にでもなったように、全てを忘れてその場所に立った。

 その時、少し強めの風が吹き抜け、バランスを崩した私は、後ろによろけてしまった。踏みしめた右足の後ろで、パラパラと小石や砂が滑り落ちる。私は落下しそうになった恐怖で、現実を取り戻した。

「あ、こんなことしてる場合じゃなかった」

 私は、丘の反対側へ踏み出した。登る時とは違い、あっという間に駆け下りると、そちら側にも浜辺があったと気が付いた。

 よく見ると、浜辺には桟橋が掛かっていて、一隻の真新しい船が停泊していた。全身が真っ白で、今まで見たこともないような、綺麗な船だった。

 私は、その船が海原を疾走する様子を想像してみた。イメージの中、それはまるで、青空を流れてゆく真っ白な雲のように見えた。その白い雲こそ、アレックスとその家族の船なのだ。

 私は浜辺へ下り、その船のある桟橋に近づいていった。すると、ちょうど船から誰かが降りてくるところだった。

 その人は、アレックスではない。彼の母親なのだろう。金色の髪、青い瞳、真っ白な肌がそれを物語っている。

 彼女は言った。

「あら、あなたは?」

それがこれまでに聞いた事のあるものよりも、ずっと上品な口調だったので、私はどんな言葉を口にしても釣り合わないような思い、何も言えなくなってしまった。

「ああ、もしかしてあなた、三日前にここに来たっていう人ね?」

私は黙って頷く。

「何か御用?」

話の都合上、もう黙っている訳には行かなくなった。私は意を決して、口を開いた。

「あの……アレックス」

ただし、口から飛び出したのは、ごく限られた言葉の欠片かけらだけだった。私は、少し恥ずかしくなった。

「ああ、アレクサンダーのこと? あの子はついさっき出て行ったわよ」

「あ、そうなんですか」

頭を下げ、去ろうとするとき、彼女は優しくこう言った。

「ごめんね」と。

 私は彼女に笑顔で答えた。だけど、その笑顔はどうにも引き攣っていたような気がした。

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