第3話 風邪

 空は青く澄みきっている。また、それをそのまま映したかのような海の色。さすが保護区の海ということもあって、とても透き通っていて、淡い青色をしている。

 海風さえも暖かく、今にも冷たい水の中に身を沈めたいという衝動を抑えるのに、私は苦労しなければならなかった。

 しかし、絶好の海水浴日和だというのに、私の弟は風邪を引いて寝込んでしまっていた。お昼になるまで起きてこないと思ったらこれだ。

 これから泳がされることを無意識のうちに察知し、引いた風邪なのか。恐るべし……なんて馬鹿なことを言っている場合じゃない。本当に、これでは何をしにやって来たのかわからない。

 冬馬が寝込んだのは、アンデス海域に到着する前の日だった。

 思えば、その前の日の夜くらいから、弟はどこかぼんやりとしていたようだった。日のある内、いつものように釣りをすることもなかったし、夜は部屋に引きこもって遅くまではしゃぎ暴れていた。

「馬鹿よ、あの子は」

冬海は呟いた。

 甲板には、自室で寝込んでいる冬馬以外の三人がいた。

「ねぇ、ここにはどれくらいいられるの?」

尋ね、父の方に顔を向ける。

「ちょうど一週間だ」

今度は三月の方に顔を向ける。

「大丈夫?」

彼は頼りなさ気に微笑み、首を傾げて見せた。

「はーぁ……。私、泳いでくる」

どうとも言えない脱力感に包まれた私は、二人を残して部屋を出た。

 アンデス海岸に来ると決まった時、そこで何をさせられるのか知らない冬馬は無邪気に喜んだものだった。何せ、彼が海岸というものを実際に目で見るのは、今回が初めてだったのだから。

 私の場合、ずっと前、多季さんがまだ元気だった頃、アンデスではないが、こういった海岸へ行ったことがある。もっともその時は、両親の仕事という味気ないものだったのだけれど。

 浜辺というものがどういうものだったのか、その頃の私はまだ小さかったのであまり覚えていない。多季さんも父も、ずっと仕事をしていたので、その間私はずっと一人でいた。

 浜辺の印象があまり残らなかったのは、その空白のような日々が続いていたからなのかもしれない。

 だけど、そんな寂しそうにしていた私を気遣ってなのか、海岸で過ごす最後の日の夕方、多季さんは一緒に過ごしてくれた。まるで、それまでの空白を全て埋めてしまおうとしているかのように、多季さんは一生懸命で、何より、楽しそうだった。

 私もそれが嬉しかった筈なのだが、まだ心のどこかに解けきらない頑なな部分が残っていたらしく、その時に感じていた想いがどういったものであるのか、今となっては具体的にすることができなかった。

 ただ、一つだけ言えるのは、私も一生懸命になって遊んでいたということだ。それは、暗くなってお互いの顔がわからなくなるまで続いた。

 だからなのか、私の記憶に残っている海岸の風景は、いつも夕暮れを過ぎた薄暗い色に染まっていた。


 私は父や三月と話をしていた舳先へさき側から後部へ移り、海を一度覗き込んだ。海面は実に穏やかで、まるでエメラルドグリーン色のビロードを広げたようだった。

 私は水中眼鏡を装着し、一旦、数歩後退すると、勢いをつけて海に飛び込んだ。冷たい衝撃と、耳を塞がれた感覚。細かな白い泡が顔を軽く突付いて消えてゆく。それが収まった頃、私は目を開いた。

 透明な壁の向こうに薄っすらと海底が見えた。それ程この場所は浅く、水は透明なのだ。私は水面に顔を出し、遠くに見える海岸を見た。そして、その方向に向かって、一生懸命水を掻き始めた。

 とても気持ちがよく、泳ぐことに集中できた。いや、本当のところ、集中ではなく夢中だ。

 その時、頭の中からは、考えなければならないいろんなことさえも、消えてしまっていた。

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