第四章

第1話 アスタロテ

 私は書斎しょさいでいつものように本を読んでいた。そんなに面白い内容ではないが、それくらいがちょうどいいと思う。面白い本は読んでいる時こそ幸せだが、それが終わってしまうと無性に寂しい気持ちになってしまう。

 だからと言って、この考えが全てではない。明日もし、とても面白い本を手にしてしまえば、こんな頼りない考えなどすぐに覆されてしまうのに違いない。

 ふと、何故か船が速度を落とし始めたのに気が付いた。窓の外に目を遣っても、遥かな水平線まで穏やかな海が広がっているだけだった。

 やがて、船は完全に停止し、私はその反動で前のめりになった。何かあったのだろうかと、私はしおりを挟むこともせずに本を閉じて置いた。こんな時、何の未練も湧かないのも、あまり面白くない本であるからこその利点だった。

 しばらくして、外の廊下を歩く足音が聞こえてきた。この船に乗っているのは、今のところ私を除いて三人。だから、足音だけでそれが誰のものなのかを当てるのは、そんなに難しくはない。この、細くてひっそりとした足音は、冬馬のものだ。ノックもなしに、いきなりドアが開かれた。

「あ、やっぱりここにいた」

「うん。何か用?」

「お父さんが呼んでたよ、お姉ちゃんのこと」

「え? なんで?」

「そんなの知らないよ。行ってみれば」

 冬馬は、ついでといった風にしばらく近くの本棚を物色していたが、「あれ? ないなぁ」と呟き、結局何も手にしないまま、さっさと部屋を出て行った。

 訳もわからないまま、私は操舵室に向かった。父はドアが開く音に気が付き、こちらに向き直った。

「どうしたの? また何か故障?」

「そうなんだ。計器類の調子がおかしいんだよ」

そう言いながら、彼は調子がおかしいという計器に意識を向けた。

「私、そういうのわからないんだけどな」

彼のすぐ傍に歩み寄りながら、私は言った。

「知ってるよ。ちょっと、倉庫まで取りにいってもらいたい物があるだけだ」

「ええ? なんで私がぁ?」

「倉庫と言ったらお前だろう?」

いつの間にそんなイメージが定着してしまっていたのだろうか。確かに、倉庫に一番行くことが多いのは私だが。

 そんな心当たりがあるだけに、湧き上がってくる不満を口に出せずにいた。

「それでな、取ってきてもらいたい物は……」

私にとって話は、ほとんど自動的に進行していった。


 埃が舞い、カビの匂いが漂う室内を長い間探し回り、予備のパーツや工具などといったものを抱え、さっさと倉庫から出てくると、先程から状況が動いていた。私たちのニイミヤ艇に、接舷している船があったのだ。

 その外見から、どのような船であるのかはすぐにわかった。連合の巡視船。私は取り敢えず船室に入り、操舵室へ向かった。

「なんか、連合の巡視船が来てるけど、悪いことでもしたの?」

「してねーよ」

そう言いながら、彼は私の両脇に抱えられた荷物を受け取ると、そのまま調子の悪い計器類へと向きを変えた。そして、「どうせ大した用事じゃないだろう。代わりに行ってこいよ、副船長」と言った。

「えー? 船長がここにいるのに……嫌だなぁ」

「ブツブツ言ってるんじゃねーよ。連合法でも責任者であれば、副船長でも問題はないことになっているだろう?」

既にこちらの言うことを聞く気がないらしく、早速修理に取り掛かってしまった。

「しょうがないなぁ、もう」

私は、この船の副船長として巡視船へ向かう事にした。連合法の定めるところによれば、船長であるためには十八歳以上であることが条件となっている。一方、副船長に年齢の制限はない。それどころか、副船長の存在しない船さえあるのだ。

 代表として私が巡視員の所に行くと、二十代前後の彼は二倍ほど年の違っているような私を見て、少し驚いた様子だった。

「何ですか?」

こういう時、子供だと思われたくないので、ついつい言葉や言い方が厳しくなる。

「あ、あなたがこの船の代表者ですか?」

「はい。船長は手が離せないと言っていましたので、副船長の私が代理で。何か、問題ありますか?」

「い、いえ……問題ありません。あの、参考までにお歳を伺っても」

「十一歳です」

少しだけでも鯖読さばよんでおけば良かったかもしれないと、言ってから後悔した。

 巡視員は驚きの余りか、一歩後ろに下がって、こう言った。

「そうですか。あ、本題に入りますね」

彼はわざとらしい咳払いを一つし、話し始めた。

「唐突ですが、アスタロテというのをご存知ですか?」

「アスタロテ? 知りません。何ですか? それ」

「嵐の名前です。先日、ここから南西の海上で発生した巨大な嵐に付けられた名前です。遭いませんでした?」

「あ、あの時の」

どうやら、三月がやって来るより少し前に遭遇した嵐のことのようだ。

「名前が付けられるくらいですから、相当な被害があったんですよ。あの嵐の影響で、沈んでしまった船は二十を越えるそうです。その中で問題だったのは、監獄船です」

監獄船とは、その名の通り監獄として囚人を収監しておくための船だ。

「監獄船が沈んだんですか?」

「そうです。そのため、そこに収監された囚人たちの生き残りが、逃げ延びた可能性が出てきたものですから」

私は、その巡視員が何を言わんとするのかが、その時点で既に分かった。

「うちは大丈夫ですよ。素性の知れない人はいません」

「あ、そうですか。じゃあ、これで。今後の航海もどうかお気を付けて」

巡視員は敬礼と共に立ち去った。

『素性の知れない人はいません』

三月のことが頭をよぎらなかったと言えば嘘になる。だが私には、三月を犯罪者として見ることなどできなかった。

 そこへ、脳裏に浮かんでいた人物が実際に現れた。私は一瞬その三月が、頭の中の存在であるように思え、一瞬混乱した。

「何かあったの?」

そんな極めて現実的な問いで、私は混乱から救い出された。

「あ、ええっと」

けれども、声が言葉になるまでには、もう少しの時間が必要だった。

「巡視船だったよね、今の」

「そうだよ」

私は悩んだ。彼に本当のことを話すべきかどうか。しかし、彼が潔白けっぱくであると信じているのであれば、そう悩んでいること自体が不誠実だという考えに至り、結局話して聞かせることにした。

「あのね、この前凄い嵐が来たんだけど、その時に監獄船が難破なんぱしちゃったんだって」

私はそう言ったとき、俯いていた。

「それで、そこに閉じ込められていた人が、逃げ延びたかもしれないから、気を付けるようにって……」

そう言いながら、私は視線を持ち上げて、三月へと向けた。

 当然、事実を平静な表情で受け止めているであろう三月の顔へと。でも、そうじゃなかった。彼は、そう。ちょうど『驚愕きょうがく』という表現が最も相応しい表情を浮かべていた。

 まさか、本当に? そう思った。

 その後三月は、取り繕うような笑みを浮かべて、こう言った。

「それは、気を付けないといけないね」

それも、取り繕った言葉なのは明白だった。

 だが、私の心を取り繕うことなど、到底できやしなかったと、彼も自ら気付いていただろう。

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