第2話 冬馬と三月

「姉ちゃん! カジキに長い鼻なんて無いんじゃないか!」

 お昼前だった。私が甲板の外壁にもたれ座って本を読んでいる時、遠くの方から勢いよく走ってきた冬馬が叫ぶような声でそう言った。

「ハァ? 何言ってるの、冬馬」

「今更とぼけたってだめだよ! 僕、もう知ってるんだからね。図鑑で絵も見たんだ」と言う冬馬だが、初め、私は本当に何のことを言われているのかが分かっていなかった。

 しばらくして、ようやくカジキというキーワードに対する記憶が徐々によみがえってきた。

「ああ、昨日言ったあれのことね」

それは、相当テキトーに言った言葉だったので、あまり記憶に留まっていなかったのだ。

「その所為で三月に大笑いされたんだからぁ」と、さっきの勢いはどこへ行ったのやら、今度の冬馬はしょげている。

 だが、私が気になったのは、彼の激しく起伏に富んだ感情についてじゃない。

「ふーん」

思わず私は言葉を洩らした。

「ふーんって、何?」

「ねえ、冬馬。三月のこと、どう思う?」

「へ?」

冬馬は何やら間の抜けた声を出し、間の抜けた表情を作った。

「だってね、いつものアンタなら、あんな見ず知らずの人、自分から近寄ったりしないどころか、逃げたり隠れたりするじゃない」

彼は半ば呆然ぼうぜんとしていた。私に指摘されて、初めてその異常とも言える事態に気が付いたというふうだ。

 そんな私の違和感が全く的外れでなかったのは、冬馬が次にこぼしたげんからも明らかだ。

「そういえば、なんでだろう」

彼は首を捻り、自分の中にある不思議を、独自の素直な感性で言い表し始めた。

「何て言ったらいいのかなぁ。凄く自然に入り込んでくる感じ、かな?」

「空気みたいに?」

私は、形を成さないで困惑している彼に、ちょっと助け舟を出してやった。

「空気かぁ……うん、そうだね。空気だ」

その比喩がよほどしっくりきたのか、彼は虚ろな目を中空にむけ、満足気に何度も頷いた。

「まあ、何にしても、誰かと仲良くなるのはいい事だよ、うんうん」

私は頷きながら言った。

「何言ってるのさ。あ、それにいつの間にか話をすり替えられてる! 謝ってよね、騙したこと!」

「あんな嘘で騙される方が悪いのよ。それに、カジキに長い鼻がないことは、一生忘れないでしょう、これで。むしろ感謝してみたら?」

 私に、謝る気がさらさらないことが、彼にも伝わったらしい。

「もういいよ!」

そう言い捨てて、冬馬はわなわなと肩を震わせた後、走り去った。その顔をちらりと覗き見たが、本気で怒っている様子ではなかった。


 昨日も少し触れたけれど、冬馬は人見知りをする。というのも、ずっと船の上で暮らしているからだ。

 ここは実に狭い社会でしかない。私と父と彼自身の三人の社会。それ以外の人に出会うことがない為、たまに会ったりすると、借りてきた猫だっていくらかマシだと思わせるくらいの存在に成り下がる。

 そう言っている私も、それほど多くの人と会った経験はないが、人見知りをするということは余りない。

 冬馬が生まれる前は、今よりずっと多くの仕事が父のところに依頼されてきていたので、仕事仲間の人といった多くの他人と触れ合う機会が、冬馬よりも偶々多く与えられてきたというのが理由だと思う。

 私はしばらくその場で本の続きを読もうとしたが、どういう訳か、言葉の意味がさっぱり頭に入ってこなくなった。

 とうとう私は、本を顔から離して溜め息を吐いた。認めざるを得ない。冬馬と三月のことが気になっていると。

 あの二人が、私みたいに本当の兄弟のようになってくれればいいと、そう思った。そうすれば、弟の人見知りも少しは治るのかもしれない。

 もういいよなんて言いながら、冬馬がどっちに行ったのかを思い出し、私はそちらへ向かった。

 船首側の甲板。そこは、私が本を読んでいたのとはちょうど反対側になる。

 何となく想像していた通り、冬馬と三月は同じ所にいた。彼らは並んで釣り糸を垂れて、何やら雑談をしているようだった。

 時々、冬馬の笑い声が弾ける。なんとなく邪魔してはいけないような雰囲気に、私はただ遠くから眺めるだけで、話し掛けたりはしないと決めた。そこに、僅かながら、寂しさがなかったと言えば、やっぱり嘘になる。

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