第二章

第1話 動かないクレーン

 航海に出て数ヶ月。地平線の向こうに大陸が見えた。「おお、あれがインドの地か!」そう叫んだ男の顔は日に焼け、何日も剃っていない髭に覆われていた。


 私が読んでいるのは、コロンブスという人の伝記。この本によると、彼が見たその大陸は、インドなどではなく、アメリカ大陸であったという。彼のこの間違いは、近辺にあった島々を『西インド諸島』と名付け、その大陸に元々住んでいた原住民を『インド人』と名付けるに至った。実に人騒がせな話だ。

 いや、確かにそう思ったが、そんなこと最早どうでもいい。問題なのは、唯の一つの実感も、私には湧いてこないということなのだ。

 それにしても皮肉なのは、彼の発見した新大陸も、今はほとんどが海の底であること。それどころか、全世界が同様の道を辿っていた。

 現在、地球上で陸地は、僅か3%ほどまでに減少している。それだから、私たちの多くは、海上で生活しなければならない。

 一応断っておくけれど、今の話は物語の中のお話なんかではない。現実の歴史。

 しかしながら、コロンブスという人が、インド航路を発見しようと航海に出て、新大陸を発見したなんていう事実も、こんな世界しか知らない私たちの前では、絵空事とほぼ変わらない。

 視線を窓の外に向ける。水平線と、そのきわを昇りゆく朝日しか見えない。

「陸って言われてもねぇ」

 ちなみに、この本を読むのは初めてではない。明らかに読む本を間違えたような気がしているものの、私は続きに目を通そうと視線を下に落とした。

 その時、廊下に乱暴な足音が響いてきた。こんな歩き方をするのは、一人しかいない。足跡は操舵室の方へ消えていくかと思っていたら、この部屋の前で止まった。

 勢いよくドアが開かれ、父が入ってきた。最初から彼の行動を言い直すなら、押しかけてきた、というのが正しい。

 私はうんざりした様子をわざと仕草と表情と口調に込めて、「何?」と尋ねた。

 彼は、そんな事お構いなしといったいつもの調子で言った。

「冬海、大変なことになった。クレーンが動かねー」と。

クレーンは、サルベージにとって最も重要な設備だ。

「え? って、明後日から仕事じゃない! どうするのよ」

「それがわからないから、こうして困ってんだ。近くにドッグ船なんて無いし、パーツ売ってるような商業船も無い」

 私たち二人は早速、動かなくなったというクレーンの所へ行った。実際に動かないところを見せる為、入日はクレーンの操作を始めた。確かに動かない。

 いや、クレーンのエンジンは一応動いている。唯、その動力が作動部位に伝わっていないようだった。

 そこへ、眠気をまだ残した様子の三月がやって来た。おそらく、この騒動で起こされたのだろう。

「何かあったの?」

「あ、三月。おはよう。なんかさぁ、クレーンが動かないらしくって」

「へぇ。どれ」

 彼は父に一旦エンジンを切るように言うと、クレーンのあちこちを調べ始めた。その結果、ギアが一つ足りなくなっていると分かった。

「こんな所のギアが自然に取れる筈ないし。何か心当たりでもないかな?」

三月が父に尋ねた。

「心当たり、あっ!」

「『あっ!』て事は、あるのね? 心当たり」と、私。

 父はなんだか言いにくそうに口許を歪め、うなじの辺りを手で押さえると、言った。

「こないだ、誰かにやったんだっけな」と。

「誰に?」

「困ってる奴に」

「なんで?」

「いや、困ってたから」

 親子によるどこか間の抜けた一問一答に、三月が割って入った。

「その、あげた人のクレーンが壊れてたの?」

「そうじゃねー。そいつの場合はエンジンだった。そのときは仕事の依頼も無かったしな、そのうち買おうと思ってたんだが」

「予備パーツは無いんだよね」

「ああ」

「じゃ、エンジンのパーツを使うしかないと思う。同じ規格のギアが使われてる筈だから」

「そんな事したら、船が動かなくなっちゃうじゃない」

と、私は抗議した。

「サルベージの現場に行けば、さすがに予備パーツを持っている人もいると思うよ。汎用性の高いギアだからね。だから、着いてからゆずってもらえばいいよ。肝心なのは、今、動作テストをしなければいけないってことだろう?」

「あ、そっか」

 それでその問題は解決してしまった。

 父は胸を撫で下ろし、機嫌良さそうにしながら操舵室へ入っていった。

 しかし、私の心には引っかかることがあった。例えば、何故なぜ、記憶喪失だという彼がエンジンの異常を正確に発見し、修理の方針まで立てる事ができたのか、という。

 自分に関することは全く覚えていないのに、少なくともクレーンの修理ができるくらいの記憶はあるというのだろうか。

 私は、まだ眠たそうなぼんやり顔で船内へ入っていった三月の背中を見つめ、心がざわつくのを感じた。

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