第4話 三月
夕食のことはさておいて、私はあの男がどうなっているのかが気に掛かったので、そのまま客室へ向かった。部屋のドアを、今度はノック無しにいきなり開けた。
あの男は目を覚まして、ベッドから上半身を起こしていた。眠っていたのはむしろ、それを見張っているは筈の冬馬だった。
部屋に入った瞬間、私と彼の目は数秒間交差したまま固まっていた。相手はどうか知らないが、少なくとも私は、目の前にいる存在に何かを感じていた。何か、というのをどう表現すればいいのか、私にはよく分からなかったが、もしも誤解を恐れず強引に例えるなら、運命の人にやっと出会えたかのような、奇妙なほどに強い親近感だった。
私はハッと我に返り、男に声を掛けた。
「お腹の具合は、もういいの?」
「あ、うん」
話し掛けられた男の方も、たった今我を取り戻した風だった。
その短い会話に、冬馬は目覚めた。
「アレ? 起きてる?」
目を擦りながら立ち上がる彼に、私は言った。
「そうよ、冬馬。眠ってたのはあなたの方よ。さぁ、父さん呼んできて」
「はーい」
私は、部屋を後にする冬馬の後ろ姿を目で追い、それが見えなくなると、再び男に目を戻した。どういう訳か、彼の顔は何か恐ろしいものを見たときのように、青ざめている風に見えた。
何故そんな顔をしたのか想像も付かないが、私はその余りの表情に、何も話し掛けられなくなってしまった。
やがて、父がやって来た。彼は早速、素性の知れない男にすべき最初の質問をした。
「まずは名前を聞きたい」
すると男は、少し
「思い出せません」と。
「思い出せない? じゃあ、乗っていた船は?」
彼は無言で首を振った。
「まいったなぁ」
と、父は小さな声で洩らした。
その後も、父は次々に質問をしていった。問われた男も、まだ意識の混濁が若干残っているのか、迷いながら少しずつ答えた。
様々な質問の答えから明らかになったことは一つだけだった。それは、男が記憶喪失であるということ。そのたった一つが、唯一、結果として示された。
「すみません」
本当に済まなそうな顔で、男は言った。
「いや、記憶が無いのはお前の所為じゃねー。気にすんな。そんなことより、俺らの紹介でもしておくか」
そう言って彼は、私たちの方を見た。
「じゃあ、この人も一緒にここで暮らすんだ?」
人見知りである筈の冬馬が、何故か嬉しくて興奮したように問い返した。
「ああ、そういうことになる」
「僕はねぇ、冬馬! にいみやとうまっ!」
その口調だけで、冬馬がこの見知らぬ男の人にかなりの好印象を持っているとわかる。だけど、私の知る限り、こういうことは本当に
次は私の番。
「私、冬の海って書いて、とうみ」
最後に、父が名乗る。
「俺は、入日。この船の乗員は以上だ」
男は私たち三人の顔を、改めてという感じでじっくり眺め回していた。その間、誰も口を開くものはいなかった。
不意に、父が言った。
「それにしても、アンタをどう呼ぶかなぁ。名前がないとやっぱり不便だろう」
アンタとはもちろん、この男の人である。
「何か、特別呼んで欲しい名前とかあるか?」
などと、無体な事を私の父は言う。
案の定、男は首を傾げて、困り果てていることを表現した。
「無いみたいだな。しょうがねー、冬海。こいつを最初に見つけたのはお前なんだ。お前が名付け親になってやれよ。な、いいだろ?」
最後の『いいだろ?』は、名付けられる当人に向けられていた。私にではない。私が名付けることは、父の中で既に決定された事なのだ。嫌だと否定することはできないみたいだ。
「はぁ、構いませんが」
彼が戸惑い半分な様子で了解すると、その場の視線全てが一瞬の内に私へ集まった。
「えぇ? うーんと……」
そんな羽目になろうとは、全く予想していなかったので、私の頭の中はその時真っ白になって、何かが浮かんでくるような様子はなかった。
「そんな、急に言われても」
「じゃあ、俺が付けるか?」
と、父。なんということを言うのだろうか。
「あ、それはやめて。なんだか嫌な予感がするから」
私は必死で拒否した。
「何だよ、それは」
父はそう不平を口にしながらも、まんざらではない様子で笑った。
その一方で、私は必死に名前を考えようとイメージを膨らませた。だが、何しろ、これまで何かに名前を付けた経験など全くなかったのだ。そう簡単に思い浮かんでくる筈もない。
しばらく考えていると、ふと男が漂流しているときの情景が、目の前に蘇ってきた。
嵐の後に訪れた、嘘のように穏やかな海面。その深く広大なスクリーンに映し出されるのは、現実離れした幻想美を
「三日月」
私は無意識に口走っていた。
「え?」という声が、周囲から上がった。
私は決めた
「うううん、三月。みつきにする」
そうして、彼の名は
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