第3話 戦いへの意志

目を開けるとまず粗い木目の板が目に入った。それが二段ベッドの下の部分から見える上のベッドの底だと、シェルティアはゆっくりと認識する。シェルティアはやおら体を起こした。

「あ…シェルちゃん!」

横にいたアンネッタはほっとした表情でシェルティアに呼びかける。シェルティアは自分がいつの間にか私服姿になっていることに気が付いた。

「私…今まで一体…」

ここに来る前の記憶を思い起こす。確か自分は雑木林にいて、鳥のネメシスを討伐して、突然現れた狼のネメシスと戦ったのである。シェルティアはそこではっとする。

「私…ネメシスを倒した後どうなっていたの!? 何をしていたの!?」

「お、落ち着いて!」

アンネッタはシェルティアの両肩を優しく押さえた。

「説明するから、落ち着いて聞いてね」

再度アンネッタに言われ、シェルティアは頷いて焦る気持ちを抑える。

「あのネメシスを倒した後…シェルちゃんはかなり取り乱していて、ジュードが何とか落ち着かせようとしたの。そのとき隊長がシェルちゃんを気絶させたことでその場を収めて、ここに帰投したんだ。その後医務室に運ばれてけがの様子を見てもらった後に、ここに連れて来られたの。あ、着替えは私がしたから安心して。それで…」

アンネッタは俯いて、そこで一旦言葉を切った。きっとこのあと、自分にとって悪い知らせが告げられることはすぐに分かった。

「それで…シェルちゃんは暫く自室で静養も兼ねて謹慎するように、って…。いつまでなのかは分からないけれど、隊長がその内教えるって…」

 やはり、悪い知らせであった。錯乱して皆に迷惑をかけただけでなく、暫くは戦いに出られないのだ。せっかく技術を学んだというのに―シェルティアは虚無感に襲われた。

「あ、食事は私が持って来るね。ヘザーさんにも許可は取ってあるから。あと、宿舎と食堂以外は歩いちゃ駄目とも言われているかな…」

「そう…ごめんね…。アンネッタにも皆にも迷惑かけちゃって…。このベッドも、アンネッタの使っている物よね? 本当にごめんなさい…」

シェルティアは何とか言葉を口にした。アンネッタは首を横に振る。

「ううん、気にしないで。それに、今回は仕方のないことだよ。シェルちゃんは心に深い傷を負っているのに頑張って…きっと頑張りすぎちゃったんだと思う。だから今は、ゆっくり休んで」

「ありがとう、アンネッタ」

アンネッタの優しさは、優しい分だけシェルティアには辛かった。もっと自分は責められても良いはずなのに、否、責めたり怒ったりして欲しかった。〝お前は弱い、足手まといだ〟と。ふとシェルティアは、何かが足りない事に気が付いた。

「あれ…私のバレッタは…?」

「ああ、枕の横に置いたよ」

アンネッタに言われて横を見ると、銀の薔薇のバレッタが息を潜めるように置かれていた。シェルティアはそれを手に取る。

「初めて見たときから思っていたけど、綺麗なバレッタね」

「お母さんから貰ったとても大切なものなの。お母さんのお母さんの、そのまたお母さんから受け継いできたもので…」

話をしている内にシェルティアは村に残った父と母を思い出す。そして、自然と涙が溢れ出て来た。

「お父さん…お母さん…!」

無性に両親と村が恋しくなった。そして亡くなった人々のことも思い出し、胸が苦しくなる。

「シェルちゃん…」

アンネッタは自分も泣きそうになると、シェルティアの肩を抱いた。

 


 団長室では、ゲオルギウスが険しい表情でアシュレイからの報告を聞いていた。レイナは神妙な顔をしている。そして暫し間を置いたあと、ゲオルギウスは口を開いた。

「…彼女の心のケアが十分でなかったことはこちらの配慮不足だ。彼女には申し訳ないことをしたな」

「それは隊長である私の責任でもあります。今回の討伐作戦で、鳥のネメシスのときは冷静に戦えていたとジュードから聞きました。きっと今まで抑え込んでいた心の傷が表面化したのでしょう」

アシュレイが答えた。

「心配なのは今後です。このまま戦線に復帰できるのか…。目の前で仲間を失ったショックから戦線に復帰できず、除隊になった者も少なくはありません」

レイナも自分の意見を述べた。

「ふむ……」

ゲオルギウスは考え込むように少し俯き、腕を組んだ。アシュレイとレイナはじっとゲオルギウスの言葉を待つ。ゲオルギウスはすぐには言葉を発さなかった。

 永遠に続くと思われた沈黙のあと、ゲオルギウスは顔を上げてアシュレイとレイナを見た。

「…シェルティアは初陣で三体ものネメシスを倒したそうだな? その前にもネメシスを二体倒している。シェルティアは稀有な逸材だ。中々褒めることはしないビリーでさえ、彼女の腕を称賛していた。何とか戦線に復帰してもらいたいものだ。……一つ、私に提案がある」

 それからゲオルギウスは、アシュレイとレイナに提案の内容を話した。



 ――何もない真っ暗な空間で、剣で斬り付け、突き刺した狼のネメシスは絶命した。だが、確かに倒したはずのネメシスは再び何事もなかったかのように起き上がる。それを見たシェルティアは、凍りついたかのように動けなくなる。そして、素早く飛びかかり、腕を、足を食い千切られていく。痛みは無い。ただ、自分がこのまま食われ、死んでいくという恐怖を味わうだけである。ネメシスの牙がシェルティアの頭部に食らいついたところで、シェルティアの目の前は真っ暗になる。そして気が付くと、また自分は剣を握っており、ネメシスと対峙している―ずっとこんなことの繰り返しであった。この地獄はいつまで続くのだろう、とシェルティアは誰にともなく問い掛ける。そして気が付けば、自分はまた狼のネメシスに向かって行っていた――

 ゴーン、ゴーン…と高らかに響く鐘の音でシェルティアは目を覚ました。今のが夢で良かったと、心底ほっとする。そして全身汗をかいていることに気が付いた。鐘が九回鳴ったので、今は朝の九時である。普通に生活をしていればかなりの遅刻だ。それだけ自分は深い眠りに付いていたのかと、驚く。早起きが身に付いていた筈のシェルティアには考えられない事であった。

 汗ばんだ服を脱いでチュニックと麻布のスカートに着替える。ふと自分の机の上を見ると、パンとおかずが盛ってある皿を載せたトレイが置かれてあった。そしてその横には、アンネッタの丸っこく可愛らしい文字の書き置きがあった。

【シェルちゃんへ。朝食をここに置いておきます。私は訓練に行ってきます。お昼になったらまたご飯を持って来るね!  アンネッタ】

「…ありがとう、アンネッタ」

シェルティアは机の前に座り、パンを齧った。自分は本当に今までアンネッタに迷惑をかけっぱなしである。申し訳なく思うと同時に、心底自分は駄目な人間であるとシェルティアは落ち込んだ。アンネッタから、三日間自室謹慎をするように伝えられている。その間はまだ迷惑をかけ続けることになるので、アンネッタに恩返しをするのならばその後である。ただし、自分がここから追い出されなければの話だが。先のことを考えて気が重くなりながら、のろのろとシェルティアは朝食を食べ終えた。

 空になった皿とトレイを見て、シェルティアはこれをどうするべきか分からないことに今気が付いた。置いておけばアンネッタが運んでくれるだろうが、これ以上甘える訳にもいかない。人目が気になるが、自分で持っていくことに決めた。

 トレイを持ってそっと部屋から女子宿舎の廊下に出る。廊下はしんと静かであった。自分の歩く音だけが石造りの廊下に響く。宿舎の扉から出て、東の塔にある食堂を目指した。道中何人か団員とすれ違い、唯一私服姿のシェルティアを不思議そうな目で見る。居心地の悪い思いをするが、これも自業自得であった。早足で食堂に向かい、扉の前に着いてようやくほっと出来た。ゆっくり扉を開いて中に入ると、いつもは人でごった返している食堂のテーブルには人が一人もいない。騒がしい声の代わりに、カチャカチャと食器を洗う音だけが聞こえて来た。シェルティアはいつも食事を貰うカウンターの前まで行く。

「すみません、食器を返しに来ました」

調理場に向かって呼びかけると、奥から顔を出したのはヘザーであった。

「あらあら、自分で返しに来たのかい?」

ヘザーの顔を見て、シェルティアは怒られるだろうかと身構える。

「遅れてすみません、ご飯おいしかったです。ご馳走様でした」

シェルティアが恐る恐る言うと、ヘザーは意外にも笑顔を見せた。

「そうかい、ちゃんと食べたようで良かったよ」

その言葉にシェルティアはほっとした。だが、次にヘザーの表情は曇ったものになる。

「…あんたの話は隊長さんやアンネッタちゃんから聞いたよ。…どうだい、少しあたしと話をしないかい? 団員皆の悩みを聞くこともあたしの務めさ」

「え…でもお仕事が…」

「今は皿洗いだけだから大丈夫だよ! 何か飲み物でも出そうかね。何かリクエストはあるかい?」

「…じゃあ、ミルクティーをお願いします」

「分かったよ。そこら辺の椅子に先に掛けていて」

ヘザーは奥に引っ込んだ。ヘザーの厚意に戸惑いながらもシェルティアは言われた通りにする。本当にそこら辺にある椅子に座った。

 食堂は赤レンガ造りで、壁にはタイルのモザイク画がある。桃や葡萄、花や木など、牧歌的なデザインである。

「はいよ、お待たせ」

モザイク画を見つめていると、大きな体を揺らしてヘザーがやって来た。トレイにはミルクティーと、小皿にクリームとイチゴジャムが添えられたスコーンが載っている。紅茶もスコーンも、良い香りがした。ふと、この匂いに懐かしさを感じる。

「このスコーン…もしかしてクローネ麦で作ったものですか?」

「そうだよ。クローネ麦はどんな料理にも合う万能で美味しい麦さ。あんたの村ではこれを作っていたんだろう?」

「はい」

シェルティアは何だか自分のことを褒められているようで嬉しく感じた。

「クローネ麦じゃないと、やっぱりパンもスコーンもクッキーもおいしくないんだよ。あんたたちのような人々が一生懸命作ってくれているお陰さ。はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

シェルティアの目の前にミルクティーとスコーンが出された。ヘザーはシェルティアの向かい側に座る。椅子が大きくギシリと音を立てた。

少し冷ましたあとミルクティーを一口啜ると、程良い甘さと強過ぎない香りがし、それがとても優しい味であった。ミルクティーはクランヒルにいた頃は中々飲めないものであった。

「あんたも大変な想いをしたんだねえ…いや、ここにいる子たちは皆、辛い思いをしているんだけどね。…心に傷一つない人間なんていやしないさ。でもあんたはそんな傷を抱えて踏ん張っている。それはとても立派なことだよ」

ヘザーの言葉にシェルティアは大きくかぶりを振った。

「私は…全然そんなんじゃありません。ネメシスを倒そうって決めた筈なのに、ネメシスを目の前にして取り乱してしまいました。凄く、情けないです…」

シェルティアは俯いた。ヘザーは眉を八の字にし、口を一文字に結んですぐには何も言わなかった。食器を洗う音だけが響き、ミルクティーは湯気を上げて少しずつ冷めていく。暫くしてヘザーは口を開いた。

「あんたはいつまで自分を責め続けるつもりだい?」

「え…?」

シェルティアは顔を上げた。ヘザーは少し怒っているような表情をしている。

「あんたみたいな子は、すぐに自分を責めたがる。反省をすることは大いに結構。でもえそればっかりだと、前には決して進めないんだよ。あんたがそうやって自分を責めて立ち止まっている間に、ここの子たちは戦いに出ている。それでもあんたは、自分をまだ責め続けて、それで満足しているのかい?」

「…っ、違います! 私はそんなことしたくない!」

シェルティアは立ち上がり、叫んだ。

 自分は確かに自分を責めていた。だが、ずっと立ち止まっていたいわけではない。自分も前へ進みたい―そんな思いから出た叫びであった。その様子を見たヘザーは笑顔になる。

「ようやく少し前の勢いが戻ったようだね。ここで話す前のあんたは、まるでこの世の終わりのような顔をしていたからさ」

「私…そんな顔してたんですか?」

シェルティアは尋ねると、ヘザーは頷いた。

「ああ、それだけ辛い思いをしたんだろうね。かわいそうに…。この発破で何も返さなかったらいよいよどうしようかと思ったけど、その様子なら大丈夫そうだ。あんたはやっぱり立派だよ」

ヘザーに言われ、そんなことは無い、とシェルティアは言いかけたが慌てて引っ込めた。「…ありがとうございます。ヘザーさん」

「いいや、あたしは何もしてないよ。ちょっと言葉をかけただけ。さ、ミルクティーを冷めない内に飲みな。スコーンもあったかい内にね」

「…はい!」

シェルティアはミルクティーを何口か啜ったあと、スコーンにクリームとジャムを塗って食べた。その味は故郷を思い出して切なくなった。



 食堂を後にし、ヘザーに勇気づけられて少し元気が出た。だが、まだ不安は残っている。このまま戦線に復帰したとしても、また錯乱しないか、除隊となってここを追い出された場合はどうするべきなのか。またシェルティアはため息をついた。

自室に戻ると、手持ち無沙汰になる。そのとき、本棚に数十冊の本が入っているのが目に留まる。読書でもしようとシェルティアは本棚を覗いた。恋愛小説や、魔法使いが主役のおとぎ話などもある。残念ながらどれもシェルティアの興味を引く物は無かった。だが、その中に一冊、薬草に関する本があった。村にいた頃は貸本屋から薬草学の本を借り、病気や怪我を治す為に役立てようと勉強をしていた。懐かしく思いながらその本をシェルティアは手に取る。開いてみると、今まで自分が呼んでいたどの本よりも情報量が多かった。思わず食い入るようにシェルティアは読み始める。新しい知識を得る楽しさが甦る。

(そうだ、もしここを追い出されるようなことがあれば、薬屋さんの奉公に出て、薬学を学ぼう。そしていつか薬師になろう。そうすれば村にいる家族の免税も続き、自分も人の役に立てるんだ) ―シェルティアはそう考えた。

 鐘が十二回鳴る。正午になったのだと、シェルティアは本から顔を離した。まだ一時間程しか経っていないと思っていたが、そのくらい長い間自分は熱中していたらしい。もうアンネッタは訓練を終えた頃だろうか。そのとき、扉をノックする音が聞こえたので、シェルティアは扉を開く。そこにはトレイを器用に二つ持ったアンネッタがいた。

「あっ、シェルちゃん! 良かった元気そうで!」

アンネッタが入ると、両手がふさがっているアンネッタの代わりに扉を閉めた。アンネッタはトレイをシェルティアと自分の机の上に置いた。

「わざわざごめんね、アンネッタ」

「ううん、大丈夫。それよりもシェルちゃん、夜中にうなされていたから心配で…大丈夫なの?」

「うん、大丈夫…」

うなされていたのは、きっとあの悪夢のせいなのだろう。

「そっか、良かった! …あれ、その本は?」

アンネッタはシェルティアの机の上に置かれている薬草学の本を見つけた。

「あ! ごめんね勝手に読んじゃって…」

シェルティアは返そうと差し出したが、アンネッタは首を横に振った。

「気にしないで。それ、叔母さんから役立つかもしれないって貰ったものなんだけど、もう読み切っちゃったから。シェルちゃんも薬草学に興味があるの?」

 アンネッタの問い掛けにシェルティアは頷くと、薬草学を学び始めたきっかけと、ここを追い出されたら薬屋さんに奉公に行き、薬師を目指すことを話した。すると、アンネッタは悲しそうな表情になる。

「私は…シェルちゃんが除隊になったら嫌だな…だってせっかく出来たルームメイトで、友達でもあるのに…」

「…そうね、私も出来れば除隊にはなりたくない…。まだアンネッタに何の恩返しもしていないし、ネメシスの被害も減らしたい…」

シェルティアの言葉にアンネッタははっとする。

「シェルちゃん…そっか、シェルちゃんの想いが聞けて良かった。本当に辞めちゃうのかなって少し不安になっちゃって…ごめんね、シェルちゃんを困らせること言っちゃって」

「こっちこそ色々迷惑かけた上に、不安にさせちゃってごめん。…さ、ご飯食べようか! アンネッタもお腹減ったでしょ?」

「うん。もうお腹ペコペコ!」

アンネッタは微笑み、それを見たシェルティアもほっとした。それから二人はトレイの上にある食事を食べ始める。

「そういえば、今度から私、食堂に行って食べるよ」

「え? …大丈夫なの?」

「大丈夫。いつまでもアンネッタにこれ以上迷惑掛けられない。それと今朝、朝食のトレイを返しに行ったときにヘザーさんとお話ししたんだけど…ヘザーさんから元気を貰えたんだ。いつまでも取り乱したことを気にして、人目を気にしていたら駄目だって思った。だから…」

「そっか、そしたらスタンリーも喜ぶと思うよ。スタンリーも凄く心配してたから」

「じゃあスタンリーにも謝らないとね」

シェルティアが苦笑すると、アンネッタもつられて笑った。



 それからシェルティアは自室と食堂、風呂場と洗濯場を行き来するだけの生活を暫く送った。食堂に行ったときはメリッサの姿も見た。きっとメリッサは今回の件で自分をお笑い草にしているのだろう。だが、そうしたければそうするがいい、とシェルティアは気にしないことにした。暇なときはアンネッタに頼んで図書室から借りて来てもらった薬草学の本を読み耽った。やはり、学ぶことは楽しかった。

 そして自室謹慎最終日の夜、寝る準備をしていると扉をノックする音が聞こえた。扉に近いシェルティアが応対する。

「どちら様ですか?」

「シェルティア・スノウズに通達に来た者です」

きびきびとした女の声が返って来た。通達、その単語にシェルティアはどきりとする。ゆっくりと扉を開けると、黄色い腕章を着けた眼鏡の女が立っていた。確か初めての朝礼のあとに、自分を呼び出した女と同一人物であった。

「シェルティア・スノウズね? 通達の前に新しい制服を渡しておきます」

 女の手には皺一つない新しい制服があった。シェルティアは女から制服を受け取る。そこに赤い腕章は付いていなかった。

「団長からの伝言です。明日朝七時の朝礼のあとに、団長室に来るようにとのこと。以上です」

 女はシェルティアの返事を聞く前に、部屋の前から去って行った。シェルティアは扉を閉めた。

「制服貰えたの? じゃあ除隊は無いんだね!」

アンネッタは嬉しそうに近寄って来た。

「うん。でも腕章は無いんだよね。どういうことなんだろう…」

「うーん、それは私にも分からないなあ…。まさか、配属先が変わるってこと…なのかな」

 アンネッタの言葉にシェルティアは軽い衝撃を受けた。せっかく討伐隊に入れたというのに、それは帳消しになってしまうのか。ネメシスを打つ機会をやっと得たというのに。ふとそこでシェルティアは、ある事に気が付いた。

 ――私は、何の為に戦うのだろう?―― 

何も言葉を発さず立ったままのシェルティアを見たアンネッタは、自分がまずいことを言ってしまったのだと思い、慌てて言葉を続ける。

「あっ、でもミスか何かで腕章が届いていないってことかも! だから大丈夫だよ! それに除隊の可能性はないんだから」

アンネッタも言葉に、シェルティアはゆっくりと頷いた。

「そうよね。少し心配し過ぎたかも。…じゃあ明日からまた団員としての生活が始まるのよね。早く寝ないと」シェルティアは笑顔を作って見せると、アンネッタは少々ほっとしたような様子を見せた。

 ガス灯を消し、シェルティアたちはベッドに潜り込んだ。だが、中々シェルティアは寝付けない。先程気が付いた、〝自分は何の為に戦うのか〟という疑問がずっと引っ掛かっていた。〝村の人々の仇を取る為〟真っ先に浮かんだ答えはそれである。だが、それだけでは何かが足りないような気がした。第一、自分はグノー少佐に流されるままにここまでやって来た。明確な自分の〝戦いへの意志〟も持たぬまま、今まで戦ってきたのだ。自分が戦う理由は何か。延々と考えたが結局答えは出ないまま、シェルティアは眠りに落ちた。



 翌朝、鐘の音と共にシェルティアは目を覚まし、いつものようにアンネッタを起こした。よく眠れなかったのか、何度も欠伸が漏れ出てしまう。その後は久し振りに制服に袖を通した。やはり、私服とは違い身も心も引き締まる。

 身支度を済ませると、三日振りの訓練場に出た。腕章は無いが、今のところは討伐隊のままである為、討伐隊の列に加わる。皆の視線が痛かったが、これもまた自分への戒めであると、ゲオルギウスの話が終わるまで何とか耐え抜いた。解散になった後は朝食の前に団長室へと向かう。一体何を言い渡されるのか、気が気ではない。団長室の扉の前に着くと、深く息を吐いてから扉をノックした。

「シェルティア・スノウズです」

「入って来たまえ」

シェルティアが名乗ると、落ち着いたゲオルギウスの声が返って来た。失礼します、と言って中に入る。中には肘掛付きの椅子に座るゲオルギウス、その傍に立ったままのレイナ。そして、ソファーにはアシュレイではなく研究班班長のケヴィンが、この中で一人だけ朗らかな笑顔を浮かべて座っていた。ゲオルギウスの前に行くと、ゲオルギウスは椅子から立ち上がり、シェルティアを見据えた。

「シェルティア・スノウズ。今回の呼び出しは君の今後を伝える為だ」

ゲオルギウスの言葉にシェルティアは身を固くし、固唾を呑んだ。

「アシュレイたちからの報告で、我々は君に配慮が足らなかったことを思い知った。君は惨劇を目の当たりにして心の傷が癒えぬままここに連れて来られたのだろう? 我々はもっと君のことを考えるべきであった。本当にすまない」

ゲオルギウスはそこで頭を下げた。思いもよらないゲオルギウスの言動に、シェルティアはまた驚かされる。

「い、いえ。こちらこそ皆さんに迷惑をおかけして本当に申し訳ないと思っています。私自身も、自分を過信していました。ネメシスを目の前にしても大丈夫、と…。その結果がこれです。謝らなければいけないのは私の方です」

シェルティアが言うと、ゲオルギウスは頭を上げた。

「…きっと君は強いのだろう。だが、君も一人の人間。恐怖を感じたり取り乱したりするのは当然だ。君はずっとそれを押さえ続けてきた結果、錯乱にまで至った。君の剣の腕の素晴らしさは誰もが認めている。だが、今度戦いに出たとき、ネメシスを目の前にして冷静でいられる自信はあるか?」

ゲオルギウスの眼差しは鋭くなった。まるで自分を射抜くかのような視線に、シェルティアは委縮する。

「…ありません」

少し声が震えてしまった。

「…分かった。では君に改めて今後のことを通達する。今日から一ヶ月間、君には研究班に所属してもらう。研究班はネメシスの死骸を取り扱っている。そこでネメシスと触れ、慣れることでネメシスを前にしても戦えるようになってもらう。もし一ヶ月後も今と変わらぬ状況であれば…君には除隊してもらう」

ゲオルギウスの言葉にシェルティアは大きな衝撃を受けた。除隊―その言葉が現実のものとなってしまうかもしれない。

「君への通たちは以上だ。ケヴィン、シェルティアを頼む」

「分かったよ。さて、仮ではあるがこれが今の君の腕章だ」

ケヴィンはいつの間にかシェルティアの隣に立ち、緑色の腕章を差し出していた。シェルティアは茫然としながらもそれを受け取り、腕に通した。

「では、これから仲間たちにも紹介しよう。それでは失礼するよ」

ケヴィンが踵を返したことに少し遅れて気が付いたシェルティアは、ケヴィンについて行く。

「失礼します…」

力のない声で言うと、扉を閉めた。



 東の塔から研究班の施設がある地下室へ行くことが出来る。石造りの建物は秋という季節も相まって、地上よりも寒く暗い。

「実はゲオルギウス…団長からは前もって話を聞いていたんだ。皆にはもう話してあるよ。畑が違って戸惑うこともあるかもしれないが…大丈夫、皆良い子たちばかりさ」

 ケヴィンの声が空間に響く。シェルティアははあ、と気の抜けた返事をした。階段を下り切ると、長い廊下に出た。いくつもの扉が並んでおり、『解剖室』や『薬品室』などの板が下がっていた。暗い為か、ガス灯が常に付いている状態でぼんやりと明るい。ケヴィンとシェルティアは廊下の突き当たりにある、何の板も下がっていない部屋に入った。

「皆、今日から暫く仲間になるシェルティア・スノウズ君を連れて来たよ」

ケヴィンに部屋の中にいる者たちは全員注目する。部屋では本を手にしている者が多く。他にはボードゲームをしている者、居眠りから覚めた者もいた。まるで緊張感というものが無く、討伐隊とは本当に畑違いなのだとシェルティアは実感する。ネメシスと戦う同じアイギスなのかと、呆れてしまった。

「さて、君の方からも自己紹介を頼むよ」

ケヴィンに促され、シェルティアは皆の顔を見回す。

「今日から皆さんのお世話になるシェルティア・スノウズです。よろしくお願いします」

 紋切り型の挨拶をした直後、突然皆からわっと歓声が上がり、拍手が起こった。思わぬ歓迎にシェルティアは目を丸くした。一体どういうことなのかと、シェルティアはケヴィンを見る。

「…皆、数日前に久々にネメシスの検体を手にして、研究を進めることが出来たんだ。その検体というのが、君が倒したネメシスというわけさ。だから君は彼らにプレゼントをしてくれたようなものなんだよ」

「それで…」

自分が歓迎されている理由が分かった。

「君も知っての通り、大抵のネメシスは討伐後には焼かれちゃうから、検体は中々手に入らないんだ。皆久々の検体で大いに研究が出来たというわけさ」

「はあ…」

アンネッタから、研究班は変わり者が多いとは聞いていたが、ここまでとは思わなかった。

「さて、暫くシェルティア君のお手伝いをしてくれる人を選ぶとしよう。…そうだなト二ー君、君が彼女の手助けをしてあげてくれ」

「は、はい!」

ケヴィンに指名された少年は立ち上がった。赤毛にそばかすのある青い瞳の少年は、この中ではまともそうで、かつ気弱そうに見えた。

「では各自、ネメシス結晶の解析、及び体細胞の分析を進めてくれ。シェルティア君とト二ー君は僕について来てくれ」

「はい」

ケヴィンは踵を返し、歩いて行く。シェルティアはト二―が追い付くのを待ってからケヴィンに続いた。廊下に出たケヴィンが立ち止まったのは『保管室』と書かれた板が下がった扉の前。その文字を見ただけで、シェルティアは嫌な予感しかしなかった。

「さて…ここに入るのは僕たち変人以外は勇気のある者だけだ。これから君が見る物は、君が乗り越えなくてはならない存在だ。少々荒治療になってしまうが、これしか方法が思い付かない」

「…ネメシスがいるんですか?」

不安に駆られ、思わずシェルティアは尋ねた。ケヴィンはにこやかな笑みだけを返すと、何も言わずに扉を開けた。待って、という言葉はシェルティアの喉からは出てくれなかった。

「…っ!」

扉を開けた先にあったのは、傷だらけで全く動かないネメシスであった。しかも、それはあの自分が倒した狼のネメシスである。またシェルティアの脳裏にあの日の夜の光景が浮かび、くらりとする。ト二ーは慌ててシェルティアを支えた。

「…やっぱりそう反応するだろうねえ。だがこのネメシスは君が倒した個体だ。さあ、詳しい説明をするから中に入ろうか」

「う…私…は…」

シェルティアは少しずつ後ずさる。一刻も早くネメシスから目を逸らそうとした。だが、

「逃げては駄目だ!!」

ケヴィンが声を張り上げた。今まで穏やかな印象を持っていたシェルティアはその怒声に驚く。ケヴィン自身も険しい顔つきをしていた。

「君はこいつらを倒す為にここに入ったのだろう? …もしまだアイギスにいたいのならば、逃げてはいけない。君はこいつらと、自分の傷ついた過去と向き合わなければならないんだ」

 自分の傷ついた過去―あの日の晩に起こったこととその結果。それまで自分はそれを抑え込んで来た。やはりそれは、向き合っていなかったのだろうか、とシェルティアは自問する。そしてアイギスにいたいのか、という問いに対しては〝イエス〟であった。自分には友人も仲間もいる。アイギスを追い出されたら両親が困ってしまう。そしてネメシスと戦いたい。そこでふと、また〝なぜ自分はネメシスと戦うのか〟という問いが浮かんで来た。その思考に滑り込むように、ケヴィンはまた声をかけて来る。

「さて…ここに入る決心はついたかな?」

口調は穏やかなものに戻っていた。

「…はい」

自然とシェルティアはそう答えていた。まだ抵抗する気持ちはあるが、口ではそう出てしまったのだ。ケヴィンはいつもの笑顔になる。

「では、行こうか」

ケヴィンは部屋の中に入った。

「気分が悪くなったらすぐに言ってくれ。無理はしなくていいからね」

隣のトニーがそう声をかけてくれた。

「ありがとう…」

頷きながらシェルティアは礼を言った。それにしてもどうして〝はい〟と答えてしまったのか、自分でも分からない。考えれば考える程、自分への問いが増していくような気がした。

 全身に力を込めて保管室の中に入る。つんとした薬品の匂いが部屋の空気に満ちている。大の上にあるネメシスの死骸だけでなく、左右にある棚には薬品漬けの瓶の中にネメシスの内臓が入っているものがぎっちりと並び、その棚の上には、人の頭部と猫の身体が合わさったネメシスが丸々その形のまま置かれていた。思わずそいつと目が合ってしまったシェルティアは全身に寒気が走り、

「きゃあーっ!?」

と叫んでしまった。なぜネメシスがあのような形で置かれているのか。

「あれはネメシスの剝製なんだよ。勿論ネメシス結晶は抜いてあるから二度と動きはしない。あとは他の動物達がされているような剝製と同じ手法で作られてある」

 シェルティアの思考を読み取ったかのように、ケヴィンが答えた。

「何で…そんなものを…」

シェルティアは理解できない、といわんばかりに尋ねた。

「ネメシスがどんな存在なのかをはっきり認識しておく為さ。どんな相手が人間や家畜を襲っているのか…その恐ろしさを知識だけでなく、目にも焼き付かせなければいけないということさ。敵を知らなければ、何も出来ない」

理由を語るケヴィンの口調には熱がこもっていた。前線に立ってはいないが、研究班も共に戦っているということを認識したシェルティアは、研究班をどこか下で見てしまっていたことを恥じた。

「…さて、改めてネメシスの抗議を始めようか。入団したときにも一応説明はしたけれども、あれだけではとても不十分だと僕も思ったからね」

ケヴィンは狼のネメシスが横たわる台の傍に立つ。シェルティアとトニーはケヴィンと向かい合うように立った。生気を失ったネメシスの目を見るとやはりぞっとしたが、ケヴィンの想いを聞いてからは逃げてはいけない、と何とか踏ん張る。

「まずは、ネメシスがネメシスたる所以(ゆえん)を話そう」

ケヴィンは真剣な顔つきになる。

「ネメシスは最初に発見されたのは始めの説明でも言った通り、エランダ王国南部の森林地帯と言われている。最初に発見した人はさぞかし恐ろしい思いをしただろう。あんな化け物今までに見たことが無い、とね。それからネメシスの目撃数は急激に増加し、ネメシスに襲われ、食われる人の数も比例して増加した。未知の怪物に当時の人々は戦慄し、〝これは争いばかりをしている人間への罰なのではないか〟と考えるようになった。そしてその〝罰〟という意味を持つ〝ネメシス〟と人々は怪物のことをそう呼ぶようになった。ネメシスの発生起源は不明だ。なぜあんな怪物が生まれたのか、未だに分かっていない。だが、ネメシスの弱点が判明し、討伐と同時に研究が進んだことで分かったことがある。ネメシスがなぜあのような姿をしているのか…それは、人間や動物たちを捕食し、それを取り込んだ末にああいう形体になったと考えられている」

 ケヴィンの説明にシェルティアは息を呑んだ。目の前に横たわるこのネメシスの顔も、元は誰かの顔だったのだろうか。

「…シェルティア君は〝細胞〟という言葉を知っているかい?」

ケヴィンはそう訊いて来た。

「はい、本で読んだことがあります。…断片的にですけど…」

「そうか。細胞は我々人間、そして動植物全ての生命力の基だ。そしてネメシスもまた、同じ細胞で出来た生物だ。ただ我々と決定的に違うのは、ネメシスの細胞は分裂するたびに別の個体を生みだし、そして捕食したものの細胞を吸収するということだ。ネメシスが人間や動物を襲うのは、さらに個体を増やす為ではないかという、一つの仮説も出来た」

「…そのネメシスが自分たちを増やそうとしている理由は何ですか?」

今度はシェルティアが尋ねた。すると、ケヴィンは首を横に振る。

「それもまた不明なんだ。さらに不可解なことに、共食いをするネメシスの存在も確認されている。彼らの行動原理は彼らにしか分からないだろうね。…尤も、ネメシスの知能はそれほど高くないとされている。相手に知性が無い以上、意志疎通は不可能だ。だからネメシスの被害を無くすには、地道な討伐しか今のところ手が無いというのが現状だ。それと……ネメシスに食われた人は、今の話から見ると、ネメシスに取り込まれたままということになる。その人々が人らしく死を迎えさせ、供養する為にもぜひネメシスを討伐して欲しいと思っている」

ケヴィンはシェルティアを見て微笑んだ。ケヴィンと目が合ったシェルティアは、そこで〝ネメシスと戦う〟意味の一つを掴んだ気がした。

「…ふむ、今見ている限りでは、前よりもシェルティア君は強くなっているね」

「え?」

「目の前のネメシスを見ても動じなくなっているじゃないか」

「あ……」

シェルティアはケヴィンの話の間、恐怖が湧かなかったことに気が付いた。今改めて自分が滅茶苦茶に倒したネメシスを見ても、あの日の晩は自然と浮かんでは来なかった。

「良かったな、シェルティア」

隣にいたトニーも嬉しそうに笑った。

「でも、まだまだ完全にネメシスに対して冷静さを保つためには時間が必要だろう。では、ト二ー、後は君に任せたよ。僕もやるべきことが山ほどあるからね」

「えっ!? そう言われましても…」

「なあに、研究班の仕事を見学したり、とにかく彼女がネメシスに慣れるようにしたりしてくれればいいのさ。そんな難しいことではないよ。それでは僕は執務室に戻るよ」

「そんなあ…」

ト二―の言い分も聞かずに、ケヴィンはそのまま保管室を出て行った。後に残されたシェルティアとトニーの間には沈黙が降りる。ト二ーは〝困った〟という表情のまま固まっている。シェルティアはそんなト二ーが気の毒になり、自分から声をかけることにした。

「…ごめんね、迷惑かけちゃって。ト二ーも忙しいんでしょ?」

「え!? いや、そんなことは全然…それに迷惑なんてとんでもない! 少しでも君がネメシスを克服できるように協力させてもらうよ」

「ありがとう。改めて自己紹介させてもらうわね。私はシェルティア・スノウズ。会あす王国のクランヒルという村の出身なの」

「僕はトニー・カーズ。フィニア王国出身なんだ。カリアスから来た人とはここでは初めて会うよ」

「私も! そっか、少し親近感が湧いたよ」

 フィニア王国はカリアス王国より北部に位置する、大陸最北端の国である。この二国は境界戦役より以前から友好国であり、戦火を交えたことは一度もなかった。戦役のときには帝国に対して共同戦線を張った程である。だが、それでも帝国の軍事力には敵わず、二カ国とも帝国領となってしまった。

「君とは仲良くなれそうで良かったよ。そうだな…まずは研究班の施設を案内するよ」

「うん、よろしくね」

ト二ーと打ち解けたシェルティアは、研究班に配属されてからやっと自然と笑うことが出来ていた。

 それからトニーに連れられ、シェルティアは研究班の各部屋を巡る。『実験室』と書かれた板が下がっている部屋の前に来ると、トニーは険しい顔つきになった。

「ここに入るときは、安易に皆に話しかけないように注意してくれ。下手に話しかけると噛み付かれるよ。それか、無視される。皆実験に夢中だからね」

「わ…分かった」

トニーに念を押されたあと、シェルティアは実験室の中に入った。

実験室では大勢の男女がレンズの入った筒を覗いたり、ネメシス結晶をガラス製のカップに水を入れ、熱して記録を採ったり、ネメシスの体毛であろうものを様々な薬品に漬けたりしていた。誰も声を発することなく、黙々と実験に取りかかっている。トニーに言われなくとも、話しかけ辛い雰囲気であった。

「僕も大抵はここにいるから、用があるときは僕に話しかけるようにしてくれ」

 ト二ーが小声で言うと、シェルティアは頷いた。二人はそっと実験室を後にした。

 次に来たのは資料室である。中に入ると、棚には膨大な量の、紐で綴られた書類が詰まっていた。部屋の中には数人が資料を探しては取って、閲覧している。誰一人としてシェルティア達に目を向ける者はいない。

「ここが案内の最後だ。研究班はどう?」

「同じアイギスでも、静かな所ね。それと、私が歓迎されているようで良かった」

シェルティアは苦笑した。

「何たって検体提供者だからね。それにここの人たちはよっぽどのことが無い限りは邪険に扱わないよ。それは所属している僕が保証する」

「そうね。…でも一ヶ月後までにここでネメシスに対して冷静でいられないと、ここにすら居られなくなるな…」

「そうなのかい!? …じゃあ僕も何とか出来得る限り協力するよ! シェルティアもここに居たいんだろう?」

ト二ーの問い掛けに対し、シェルティアは頷く形で答えた。

「それじゃあこの資料室もその助けにはなるかな? ここには今までに研究してきた成果が詰まっているんだ。ネメシス…敵を知れば慣れることも出来るかもしれない」

「うん…何とか頑張ってみる」

「じゃあ、この棚から…」

「ああトニー、ここにいたのね」

眼鏡をかけた小柄な少女がト二ーの名を呼んだ。

「どうしたんだい?」

「ちょっとネメシス結晶の分析のデータがかなり膨大になりそうだから、手伝って欲しいと思ったの」

それから少女はシェルティアを見ると、「お邪魔だったかしら?」と加えた。

「いや、案内は終わったから大丈夫なんだけど…シェルティアはどうする?」

「私はここでネメシスについて調べてみる。気にしないで行って来て」

「そうかい? じゃあ僕は実験室にいるから」

「悪いわね」

少女は申し訳なさそうに言うと、ト二ーと共に資料室を出て行った。

 シェルティアはト二ーに言った通り、棚にある冊子を手に取って見る。表紙には『ネメシス実験結果報告書⑯』とある。棚を見る限り、このような報告書は百を超えているのだろう。シェルティアは空いている椅子に腰をかけて冊子を開いた。専門用語が多用されていたので内容はよく読み込めなかったが、ネメシスの解剖結果がスケッチされたものを見た瞬間にシェルティアは驚いた。だが、驚いただけで、瞼にあの日の晩は浮かんで来なかった。やはり最初に保管室でネメシスの死骸を見たのが効いているのかもしれない。それにしても生々しいスケッチで、実物を見ていると一瞬錯覚させるような絵である。これを描いた人はどんな気分で、どんな気持ちで描いたのだろうと、想像をめぐらせた。

 内容は分からないまでも、とにかくネメシスについて知ろうとあれこれ冊子を見ている内に、正午の鐘が鳴った。

「シェルティア、いるかい?」

鐘が鳴った数分後にトニーが現れた。シェルティアはちょうど冊子を棚にしまっているところであった。気が付けば資料室には自分一人である。

「ト二ー、実験は終わったの?」

「ああ。と言ってもお昼休憩の為に一区切り付けただけなんだけどね。ところで、お昼一緒にどうかな? 友達にも君のことを紹介したいんだ」

「もちろん。友達が増えるなら嬉しい」

「じゃあ行こうか。実はもう廊下に出ると、数人の男女がいた。その中にはト二ーを呼び出した少女もいた。

「紹介しながら食堂へ向かおう」

ト二ーの言葉にシェルティアは笑顔で頷いた。

 


 ト二ーの友人たちと雑談をしながら、食事を貰う列にシェルティアはついた。自分が食事を貰う番になると、ヘザーは腕章を見ておや、という表情をした。

「シェルティア、あんた研究班に配属が変わったのかい?」

「はい、団長の意向で…」

それからシェルティアは後がつっかえないように手短に、事情を話した。すると、ヘザーは笑顔になり、

「そうかい。頑張るんだよ! はい、次!」

といつもの調子で配膳を再開した。ト二―と友人たちも食事を貰ったところで空いている席を探していると、

「シェルちゃーん!」聞き慣れた声が遠くからした。アンネッタが手を振っている、

「そうだ、私も友達を紹介するね。…ちょうど席もたくさん空いているし」

 ト二ーたちに言うと、ト二ーたちも承諾してくれた。シェルティアは早足でアンネッタの元へ行く。

「おっ、大所帯だな。ん? その腕章は…」

アンネッタが座っていた席の向かいには、スタンリーもいた。

「研究班の皆よ。私、今日から一ヶ月間研究班に配属されることになったの」

 シェルティアが話すと、アンネッタとスタンリーは驚きの声を上げた。予想通りの反応にシェルティアは思わず笑いながら、事情を説明した。その後はアンネッタもスタンリーも納得した表情になる。

「研究班の皆に紹介するね。…皆、こちらが討伐隊のアンネッタとスタンリー。アンネッタは剣士で救護係、スタンリーは銃士なの」

シェルティアが紹介すると、研究班の皆は〝これが討伐隊か〟という風な声を漏らした。次にシェルティアは研究班の友人たちを紹介する。互いに顔と名前を知ったところで、席について食事に手を付け始める。

「それにしても研究班の人間と知り合いになるなんて、思いもよらなかったな」

 スタンリーはどこか感慨深そうに言った。アンネッタも何度も首を縦に振る。

「うんうん。でも仲間が増えたのは嬉しいよね。シェルちゃんには戻って来てもらいたいけど、シェルちゃんが一時的に研究班に配属されなかったら無かった縁だもんね!」

 アンネッタが研究班の友人たちに笑顔を向けると、ト二ーを始めとした男子諸君は顔を赤らめた。やはりアンネッタは男子に人気があるらしい。

 それからはシェルティア、アンネッタとスタンリーが話を進めるが、研究班の友人たちはあまり自分の方から口を開こうとはしなかった。ネメシスの研究となると饒舌になるが、畑違いの人間たちの前では無口になるらしい。それを見抜いたスタンリーは積極的に研究班に話しかけ、場を盛り上げる。すると、徐々に皆は打ち解けていき、その場は次第に賑やかなものとなった。シェルティアも久し振りに大いに笑った。



「じゃあな! また飯でも食おうぜ!」

食事が終わると、シェルティアら研究班と、スタンリーとアンネッタは別れた。すっかり皆友人同士である。良い気分でシェルティアはト二ーたちと共に地下へと向かう。

「何というか…別に悪くは思っていないんだけど、近寄りがたいイメージのあった討伐隊の人たちと仲良くなれて良かったよ」

道中トニーは、シェルティアにそう言った。

「向こうもそう思っていたと思うよ。特にスタンリーなんかは、学術的なものとは縁が無さそうだから。でも、一度話して見ると畑は違ってもやっぱり同じ人間で、ここの仲間だって言うことが分かるものなのよ。…勿論、分かりあえない人間もいるけど」

 シェルティアは自然とメリッサの顔を思い浮かべていた。

「そういえばこのあと僕は実験室に戻るけど…シェルティアはどうする?」

「私は…保管室に行ってみる」

「えっ!?」

シェルティアの答えに、トニーは目を大きく見開いた。

「大丈夫かい? その…あそこは…」

「大丈夫。ネメシスを克服するには、ネメシスと向き合わなきゃいけないから」

 シェルティアは半ば自分に言い聞かせるように言った。シェルティアの表情を見たトニーは察したように頷く。

「分かった。でも無理はしないでくれよ」

「うん、ありがとう」

シェルティアは心配してくれるト二ーに向かって微笑んだ。保管室の隣にある執務室にシェルティアの目は行った。扉の前には『入室厳禁』の札が掛かっている。

「班長、今は忙しいの?」

何気なくシェルティアはト二ーに訊いた。

「いや、班長の執務室は大抵そうなっているよ。班長の仕事も、研究者としての仕事も独りで静かにやりたいらしい」

「へえ…」ト二ーの説明に納得すると、シェルティアはそのまま執務室の前を通り過ぎた。

「じゃあ僕たちは実験に戻るよ」

「うん、頑張ってね」

シェルティアはト二ーたちと保管室の前で別れた。

 シェルティアは保管室の中へと入る。また真っ先にネメシスの死骸が目に入ってどきりとした。〝大丈夫だ、これは死んでいる〟と自分に言い聞かせながらシェルティアは保管室内を見て回る。薬品漬けの瓶にはネメシスの目玉や内臓などが保存されており、グロテスク極まりない。だが、シェルティアは村での生活で鳥をさばく様子を見ていたせいか、それ自体は何とも思わない。むしろネメシスは人間や獣と同じように内臓を有しているのだと理解出来た。違う所は細胞とネメシス結晶、そして体の一部だけでも増殖するという点である。シェルティアは一通り棚を見ると、台に横たわる狼のネメシスを見つめた。

「…あんたたちはどこから生まれて来たの?」

気が付けばシェルティアはそう呟いていた。

「何の為に、どうやって生まれて来たの? なぜ、人間や家畜を襲うの?」

さらに呟きは続き、声は大きくなる。

「…あんた達が生まれて来なければ…生まれて来なければ…!」

そこでネメシスの目を見た瞬間に、シェルティアはまたあの日の夜の光景が甦る。慌ててその光景を振り払い、速くなった鼓動と、荒くなった呼吸を何とか鎮めようと目を瞑ってしゃがみこむ。シェルティアはなんとか別にことを考えて落ち着こうと思考を巡らす。すると、先程ケヴィンに言われた言葉が頭の中で再生される。

『ネメシスに食われた人たちを供養する為にも、アイギスは戦っているんだ』

 ―そうだ、亡くなった人たちの為にも戦わなければいけないのだ。自分の過去にばかり囚われてはならない。むしろ村の人の為にも、〝供養〟という意味で戦わなければならないのだ―

 そう考えるとシェルティアは徐々に落ち着いて来た。〝自分はなぜ戦うのか〟という問いにも、答えが少しだけ形になってきているような気がした。



 そしてそれから数日間、シェルティアは何とかネメシスの前で冷静になろうと、積極的に保管室や資料室、そして実験室の見学をするようにした。ただ見ているだけなのは申し訳ないので、実験が終わると進んで実験道具を洗ったり、運んだりするようになった。

 研究班の手伝いにも慣れたとある日、シェルティアはト二ーと二人きりで実験室の掃除をすることになった。それぞれ別の箇所を黙々とやっていたが、シェルティアはふと、ト二ーに色々と聞いてみたくなり、箒を手にしたままト二ーの傍へ行く。

「ねえトニー、訊いても良い?」

「何だい?」

トニーは窓拭きの手を止めてシェルティアを見た。

「ト二ーはどうしてアイギスに入ったの?」

シェルティアが尋ねると、ト二ーはきょとんとした表情になる。

「どうしてそんなことを?」

「私…アイギスに入ってから初陣でネメシスを倒して、錯乱して…落ち着いたあとにふと考えたの。〝自分は何の為に戦うのだろう〟って。自分は最初、ネメシスに殺された友達や村の人々の仇を取る為に、復習の為に戦っていた。…でもその結果、ネメシスを前に錯乱して頭がぐちゃぐちゃになった。それから班長の話を聞いて思ったの。復讐心に駆られるだけじゃ、冷静にネメシスと戦えないって。だから、自分なりの〝戦う意味〟が必要だと思った。そうでないと、この先戦えないって…。そのためにも、色んな人の話を聞きたいと思ったの」

 シェルティアの話を聞いたあと、ト二ーは緩んだ表情を引き締めて、じっとシェルティアを見つめる。

「…僕は帝都より南東の村に住んでいた。そこでは牛と羊を育てていて…父さんと母さん、そして弟がいて、ごく普通の幸せな生活をしていた。でもある日、突然ネメシスに襲われて…大切な家族と家畜を失った」

ト二ーは苦しそうに顔を歪め、シェルティアははっとする。

「…っ! ごめんなさい、無神経なことを…」

「いや、良いんだ。…それから路頭に迷っていたところへアイギスの話を聞いて、入団を決意したんだ。でも…僕に剣の才能は無かった。その代わりに牧場での知識が認められて研究班に配属が決まった。それから僕は決意したんだ。剣で戦えなくともネメシスを研究することでその弱点や正体を暴いて、ネメシスを滅ぼすことに貢献しよう、って。それが僕なりの復讐であり、戦いへの意志でもあるんだ」

「…話を聞かせてくれてありがとう。ト二ーも戦っているのよね。…ううん、アイギスの皆が戦っている」

「そう、そういうことなんだ。それにシェルティアだって、今も戦っている」

「え?」

「頑張ってネメシスを克服しようとしているだろう? それもまた、シェルティアの戦いだと僕は思うよ」

「ト二ー…ありがとう」

シェルティアはトニーの言葉を聞いて、どこか胸のつかえ―戦えない自分の弱さを嘆く感情が取れた気がした。



 その日の夜は、久し振りに夢を見た。場所はクランヒルの道の真ん中。銀の光を放つ満月の夜である。自分の手にはアゼルソード、目の前には狼のネメシス。シェルティアはネメシスを見ると、動けなくなった。

 ―ああ、このままでは殺されてしまう―そう思っていても、まるで石膏で全身を固められたかのように少しも動けない。ネメシスは体勢を低くし、唸っている。

『シェル! お願い、戦って!』

背後から懐かしく温かい、でも今はどこか張り詰めた調子の声が聞こえて来た。首は自然と動き、声の主を見る。そこには懇願するような表情をした母がいた。

「お母さん!」

シェルティアは思わず駆け寄りたくなったが、足が動いてくれない。すると今度は、

『戦うんだ、シェル!』

父も必死の形相でシェルティアに向かって叫んだ。

「お父さん! …どうして…そんなこと言うの…?」

『シェル! 戦って! 戦えるのは、あなたしかいないの!』

アリーも両親の隣に立ち、そう叫ぶ。

「アリー! アリーまで…。どうして? 私は戦えない…だって、体が動かないよ…」

 シェルティアは俯いた。

『剣を手にしているのはあなたしかいないの! 戦えるのはあなただけなのよ!』

 母が再び叫ぶ。その言葉が胸に痛みを与える。

「私は…ネメシスを前に冷静でいられなかった…私は戦えない…」

『何を言っているんだ! お前は、ネメシスと戦う決意をしたんじゃないのか?』

 父は言い聞かせるように言った。その言葉はシェルティアをはっとさせる。

「決意…」

『大丈夫、戦う決意をしたシェルなら戦えるよ。お願い…私たちを守って…』

「守る…」

アリーの言葉でシェルティアは、大切なものに気が付く。

『そう、あなたが戦えば、ネメシスから人々を守れるわ…だから、戦うのよ!』

 母は優しく、力強くシェルティアに言った。シェルティアは剣を握る手に力を込める。

「人々を…ネメシスから人々を守る…」

その言葉を反芻し、胸に刻みつける。シェルティアは剣を構えた。

『そうだ、戦うんだ!』

『戦って! シェル!』

父とアリーが叫ぶ。その言葉に後押しされるように、シェルティアはネメシスに向かって行った。ネメシスは低くしていた体をその場で跳躍させ、シェルティアへと飛びかかる。

「はああああ!!」

シェルティアは体を低くして、ネメシスの爪をかわすと、胸に向かって突き刺す。ネメシスは断末魔の叫び声を上げて、そのまま絶命した。シェルティアはネメシスから剣を引き抜くと、不思議とネメシスの体は灰となって、強く吹いた夜風に乗って消えた。そしてその直後、満月は太陽に、空は蒼穹に、周囲の風景は黄金色の麦畑に変わった。



 もうすっかりと保管室のネメシスに慣れてしまった。二日前に実験の為に狼のネメシスは持ち去られたが、剝製になったネメシスや、資料室にあるネメシスの絵を見ても動じなくなった。そして研究班の手伝いもすっかりと慣れてしまい、ト二ーとその友人たちとも打ち解けていた。

 今日も皆は実験に打ち込んでいるので、シェルティアは邪魔をしないように保管室に移動した。猫の姿をしたネメシスが鋭い人間の眼差しでシェルティアを見下ろしている。それと目が合うと、シェルティアはそれを睨み返した。

「私は、あんたたちなんかに負けない…!」

「その意気だ」

突然入口から男の声がしたので、シェルティアはびっくりして扉の方を見る。そこにはネメシスの剝製に負けぬ程鋭い眼光を持ったビリーが立っていた。

「教官!」

なぜここに?という言葉は驚きで飲み込んでしまった。

「ここ暫く、密かにお前の行動を観察させてもらった。大分立ち直ったようだな。…それに、入団時とは良い意味で顔付きが違う。何か、信念を持ったような表情だ」

「そ、そうですか?」

「ああ。…シェルティア・スノウズ、貴殿に通達する。明日付で討伐隊への復帰を命ずる」

「えっ!?」

再び唐突なビリーの言葉にシェルティアは戸惑いと不安を覚える。

「ま、待って下さい! 私はまだ…その、ネメシスを前にして冷静にしていられる自信がありません…」

シェルティアは率直に自分の気持ちをビリーに伝える。

「…そのときは、自分が掲げた信念を思い出すんだ。昔のことに囚われずに、ただ前を向くんだ」

「…前を……」

「…明日、朝礼後に団長室に来るように。ケヴィンにもこの事は伝わっている。以上だ」

「あ…」

シェルティアの返す言葉を聞かずに、ビリーはそのまま保管室を出て行った。残されたシェルティアは、まだ戸惑いの気持ちが収まらない。研究班に配属されてからまだ二週間しか経っていない。それなのにもう討伐隊に復帰して良いのだろうか。また錯乱して皆に迷惑をかけるのではないだろうか―一人佇んだまま、シェルティアは考え続けた。



 昼食の前に実験室を覗きに行くと、皆一斉にシェルティアを見た。

「シェルティア! もう討伐隊に戻っちゃうのか!?」

開口一番に叫び、シェルティアの前に駆け寄って来たのは研究班ではもう相棒とも言えるト二ーであった。

「うん、私もあまりに突然のことでびっくりしているんだけど…」

シェルティアがそう言うと、その場は一斉にざわついた。

「まだ二週間しか経っていないのに…」

「せっかく友達になれたのに…」

そんな声があちこちから上がった。シェルティアもその声と同じ思いである。何を言っていいのか分からずに黙っていると。実験室に沈んだ空気が満ちていることが分かった。シェルティアは苦しい反面、自分のことをこんなに研究班の皆は大事に想っていてくれていたのだと、嬉しい気持ちもあった。

「…皆、アイギスを辞めるんじゃないんだ。所属するところは違っても、シェルティアは僕たちの大事で、かけがえのない仲間だ。そうだろう?」

意外にも皆にそう声をかけたのはト二ーであった。皆ははっとし、中には頷く者もいた。ト二ーはシェルティアを見て「そうだろう?」と問いかける。

「ええ、勿論よ。もっと皆と仕事をしたかったけど…。やっぱり私は剣で戦わなければいけないと思ったの。でも、ネメシスと戦っているのは皆も一緒。皆、アイギスの一員だよ。だから、いつでも心は皆と一つ。私たちは仲間であることに変わりは無いわ」

 シェルティアが皆にそう呼び掛けると、少し遅れて賛同する声が次々と上がった。それを見たシェルティアは思わず涙が出そうになったが、何とか堪え、皆を心配させまいと笑顔を保つことに努めた。



 夕刻になると、食堂の一角を貸し切って研究班の皆がシェルティアの送別会兼壮行会を開いてくれることになった。その場には研究班転属初日以来、姿を見なかったケヴィンもいた。

「…では、シェルティア・スノウズ殿の前途を祝して…乾杯!」

「乾杯!」

ケヴィンが音頭を取ると、乾杯の直後にカップが軽くぶつかる音が賑やかに響いた。酒は飲めないので、紅茶や水、ミルクなどで乾杯をする。会の主役であるシェルティアはあちこちから杯を求められて忙しかった。

「なかなか人を褒めないビリーが、シェルティア君を褒めていたよ。『この間は言った新人の初陣では死者こそでなかったものの、皆負傷した。負傷せず一人で数体も倒したのはスノウズが初めてだ』ってね」

シェルティアの正面に座るケヴィンが、目を細めて言った。

「そうなんですか? ここの人たちは精鋭ばかりなので、そんなことは珍しくないと…」

 シェルティアは少々驚きつつ返す。

「いや、アイギスは君のように、何の訓練も受けていない人材も受け入れているから、精鋭とも呼べないんだ。勿論討伐隊はその中でも精鋭が揃ったところなんだけどね。特別に軍にも、帝国の騎士団にも入っていないシェルティア君がネメシスを何体も倒したことは、異例中の異例ということさ。それは君が誇って良いことだよ」

ケヴィンからもビリーからも褒められ、褒められ慣れていないシェルティアは嬉しく感じつつも、どう反応して良いか分からなかった。とりあえず、ケヴィンに向かってはにかんでおいた。

「…うん、シェルティアはやっぱり討伐隊にいるべきなんだと思う。シェルティアは、ネメシスから人々を守る力を持っているんだよ」

ケヴィンに続いて隣にいるト二ーも、噛みしめるように言って来た。シェルティアはト二ーの方を見る。

「…だからさ、討伐隊に戻っても頑張ってくれよ。…あ、でも時々で良いから、研究班の方にも遊びに来てくれよ!」

「うん、必ずそうする」それからシェルティアとトニーは笑い合った。と思ったがその後、ト二ーは真顔になって少し顔を赤らめさせる。突然黙ってしまったト二ーがシェルティアは心配になった。

「どうしたの? 具合でも悪いの?」

シェルティアが訊くと、ト二ーは大きくかぶりを振った。

「い、いや何でもないよ、大丈夫だ。それよりも僕、君にその、言いたいことが…」

 ト二ーの声は段々と小さくなっていく。シェルティアが小首を傾げると、ト二―は決意したようにシェルティアを見る。

「その、僕は……」

「おーい、シェルティア! ヘザーさんがお前の為にアップルパイ焼いてくれたぞー!」

 ト二ーの声は仲間の声にかき消された。

「本当!? 嬉しい!」

シェルティアもそちらの方へ気が行ってしまい、ト二ーはそれっきり言葉の続きを言おうとはしなかった。



「何なの? あのバカ騒ぎは」

アンネッタとスタンリーはシェルティア達の方を観察しながら食事をしていると、メリッサが珍しく取り巻きを連れずにやって来た。スタンリーは明らさまに嫌そうな顔をすると、メリッサから目を逸らした。

「あ…シェルちゃんが明日から討伐隊へ復帰するの。だから研究班の皆で送別会をやっているの」

スタンリーとは対照的に、アンネッタはにこやかに答えた。

「まさか…たった二週間で復帰!? …また現場に戻って、錯乱なんかしないでしょうね」

 メリッサは驚きと棘を込めて言った。

「大丈夫よ。最近のシェルちゃん、顔付きがこう…前とは違うもの。今度は大丈夫だと私も思う」

「それに、シェルの剣の腕は一流だ。シェルは討伐隊に必要な人材なんだよ。お前が思っている以上に、シェルは強いぜ」

スタンリーは言い返すようにメリッサを睨み、また視線を逸らして食べ始めた。メリッサは一瞬スタンリーを睨み返したが、すぐに銀の髪に薔薇のバレッタを付けた後ろ姿を眺めた。

「ふーん…。本当に使い物になるのかしらね」

一人呟くとメリッサはアンネッタ達から離れていき、取り巻きの少女達が待つ席へと戻って行った。



 翌朝、朝礼が終わるとシェルティアはすぐに団長室へと向かった。室内にはアシュレイとケヴィンもいる。相変わらず緊張する場所だが、今日は特に討伐隊に復帰するということもあり、更に緊張していた。緑の腕章を外し、ゲオルギウスに渡す。ようやく馴染み始めて来た腕章を見ると、名残惜しい気持ちが湧いた。

「シェルティア・スノウズ。貴殿を本日から討伐隊へ復帰することを命ずる」

 迫力のある声でゲオルギウスは宣言した。そして横にいるレイナから赤い腕章を受け取ると、シェルティアに差し出した。シェルティアはそれを両手で受け取る。

「ありがとうございます」

何と言えば良いのか分からず、とりあえずそれだけをシェルティアは口にした。

「…ふむ。ケヴィンやビリーが言った通り、どこか顔付きが違うな。この二週間で何か心境の変化があったのなら、是非教えて欲しい」

引き締まった顔を少し緩ませて、ゲオルギウスは訊いて来た。シェルティアは少し考えをまとめたあと、口を開く。

「私は村を出たとき、家族の為の免税と、ネメシスへの復讐の気持ちを持ってここに入団しました。ですが、それはその場に流された感情で、確固たる戦いへの意志を持っていなかったんです。自分が戦う意味を、仲間の話を聞いて徐々に私は見出していきました」

「では、君にとってここで戦う意味とは?」

「…ネメシスから大切な人々を守り、ネメシスをこの世から滅ぼすことです」

 その場はしんと静まり返った。シェルティアとゲオルギウスは互いの目を見たまま微動だにせず、シェルティアはゲオルギウスの言葉を待った。

「…それが君の戦う意味…戦いへの意志か。願わくばその意志を変わらずに持ち続けてもらいたい」

「…はい!」

シェルティアは腹の底から声を出した。

「アシュレイ、後はお前に任せた。ケヴィンも下がって良い」

「はっ!」

アシュレイとケヴィンは声を揃えて返事をすると、踵を返した。シェルティアも一礼すると、団長室を後にした。



 シェルティアは歩きながら腕章を付けた。最初とはどこか違う、晴れやかな気持ちで腕章を見つめた。

「今日から体を慣らしていくぞ。稽古は俺が付けよう」

ケヴィンよりも後ろを歩き、シェルティアに歩調を合わせたアシュレイはそう言った。

「えっ!? 隊長がですか!?」

思わぬ言葉に思わずシェルティアは叫んでしまった。

「ああ。調査隊から今のところネメシスの目撃情報も無い。書類仕事にも飽きて来たところだ。それに…まだ直接お前の剣の腕を見たことが無いからな」

「は、はあ…」

隊長自らが指導してくれるのは有難いことだが、自分だけ贔屓されていると思われないか心配であった。これ以上、皆の心象を悪くしたくは無い。

「…安心しろ。俺が直接指導をした隊員は何人もいる。贔屓などではないさ」

「そ、そうですか…」

シェルティアの心を読み取ったかのように、アシュレイが付け加えた。シェルティアは少しだけほっとする。

「僕もシェルティア君の剣を見たかったなあ。だが、生憎研究結果報告が詰まっていて、執務室から出られないんだ」

ケヴィンは後ろを向いてそう言った。

「本当に班長はお忙しそうですね。…二週間、本当にありがとうございました」

 シェルティアは足を止めるとケヴィンに一礼した。

「いや、僕は何もしていないよ。早く討伐隊に戻れたのは君自身の力と、研究班の仲間たちのお陰だ。これからも頑張って、もっと検体を持って来てくれ」

 ケヴィンの励ましとちょっとしたジョークにシェルティアは思わず笑ってしまった。ケヴィンはいつもの笑顔でシェルティアを見る。

「それでは僕はこれで。アシュレイ君、シェルティア君、命を大事に、頑張ってくれよ」

「はい!」

「班長もご自愛下さい」

シェルティアとアシュレイが答えると、ケヴィンは頷いてそのまま階段を下りて行った。シェルティアはアシュレイと共に討伐隊の待機室を目指す。


 扉の前でシェルティアは緊張した。いざ戻って来てみると、皆にどんな顔をして会えば良いのか分からない。固まったシェルティアに気が付いたアシュレイはシェルティアを見る。

「…自分の気持ちを素直に伝えるんだ。そうすれば皆も分かってくれるだろう」

 アシュレイの言葉にシェルティアは頷いた。そして、アシュレイに続いて待機室に入る。待機室の中にいた隊員たちは二人を見ると、それまで騒いでいた声が一瞬で静まった。

「皆、前日話した通りシェルティア・スノウズ隊員が復帰した。また共に戦う仲間として、手を取り合っていって欲しい」

アシュレイは皆に呼びかけたあと、シェルティアを見た。シェルティアは皆に何を言うべきか、皆の顔を見るとすぐに分かった。息を一つ吸い込むと、ぐっと全身に力を込める。

「…っ、皆さん、先日はお騒がせし、ご迷惑をおかけしたこと、本当にすみませんでした! これからは皆さんの足を引っ張らないように日々精進し、心を入れ替えて頑張りたいと思います! どうかよろしくお願いします!」

そこでシェルティアは力を抜いた。自分が皆に伝えたいことは、もう伝えた。後は皆がどう受け取ってくれるかである。何も反応が無いことに、シェルティアは胃の奥が痛くなった。やはり自分は受け入れてはくれないのかと不安になる。

 ―しかし、その直後に割れんばかりの拍手が鳴り響いた。一部を除いて。

「お帰りなさい!」

「また頑張れよ!」

などという声があちこちと上がる。シェルティアは心から安堵し、引きつった顔が緩んだ。そして、アンネッタが前へと進み出る。

「はい! これシェルちゃんの装備! …皆心配してたんだよ」

アンネッタは最後は小さく言った。アンネッタから装備を受け取り礼を言うと、目尻に涙が溜まり始めたので、慌てて手で拭った。ちょうどそのときに、訓練の開始を告げる鐘が鳴る。

「…よし、皆訓練場に出ろ。今日は俺も出るぞ」

アシュレイの発言に皆はどよめいた。そんな中シェルティアは慌てて装備を身に付ける。懐かしい重さであった。

 訓練場に出るとシェルティアはまず体操や走り込みをする。これだけでも二週間のブランクというものを感じた。アシュレイはじっとシェルティアを見ている。

「よし、次は素振りをしてみろ」アシュレイの指示が出ると、シェルティアは言われた通りにする。両手で剣を構え、縦に横にと振ってみる。

「素質は確かにある。だが、隙が多い。周りにも注意を向けて剣を振るうんだ」

「はい!」

 本当にアシュレイはシェルティアに付き添って、一から応用までもを教えてくれた。そして一番重要なのは臨機応変に機転を利かせることであり、剣術の型だけに囚われてはいけないということであった。一つ一つ知識と技術が吸収されていくのを感じながら、シェルティアは訓練をこなしていく。気が付くと、正午を報せる鐘の音が鳴った。

「…よし、今のはまだまだ基礎だが、覚えておけば実戦にも活かせる筈だ。午後は見てやれないが、今やったことを頭に入れて訓練に励むように」

「はいっ! ありがとうございました!」

アシュレイはシェルティアを見て微笑むと、踵を返した。シェルティアは汗だくになりながらも充実した気分に浸り、汗が引いてから待機室へ向かう。そのとき、シェルティアを追い越すようにメリッサといつもの取り巻きが傍を通った。すれ違う瞬間に、シェルティアはメリッサに今まで以上に凄い形相で睨まれた。シェルティアが見返す間もなく、メリッサたちは離れて行った。

「皆が私を心配していたって本当?」

食堂でシェルティアはアンネッタとスタンリーに尋ねる。そんな質問をしたのは、メリッサの視線が気になったからであった。

「うん、一部の人達がシェルちゃんのことを気に掛けているようなことを言ってたし…それに、ジュードも元教育係なだけあって、心配そうな表情をずっとしてた」

 アンネッタが答えた。

「そう…ジュードにもあとで個人的に謝りに行かなきゃ。…そういえばさっき、メリッサがいつも以上に睨んで来たのよ。私が戻って来たことがそんなに面白くないの?」

「あー、それは…」

アンネッタは気まずそうになる。シェルティアとスタンリーは小首を傾げる。

「何か知ってんのか? アンネッタ」

「うん…あのね、メリッサちゃんが面白くないのは、シェルちゃんが戻って来たことじゃなくて、シェルちゃんが隊長とずっと一緒にいたからだと思う。メリッサちゃん、きっと隊長のこと好きだから」

「本当かよ!?」

思わずスタンリーは叫んでしまい、周りの視線を集めた。シェルティアも肝を抜かされる。

「しーっ! 静かに!」

アンネッタはスタンリーに注意し、スタンリーはぐっと口を閉じた。

「今言ったことは絶対に他の人に言っちゃ駄目だよ! 特にスタンリー、気を付けてね!」

「お、おう…分かった」

 アンネッタの言葉は衝撃的だが、メリッサのあの目は嫉妬のものだということは納得できた。まだシェルティアは恋というものをしたことが無いが、好きな男性と長い時間一緒にいられることは辛いだろう。メリッサの場合、入団初日の喧嘩の件もあるため尚更憎たらしいのだろう。だが、そんなことは自分に関係のないことであり、アシュレイのことは頼れる隊長以外に何も思っていない。シェルティアにとってはいい迷惑であった。



 討伐隊復帰から三日後、シェルティアはかなり手に剣が馴染んで来る感触を実感していた。

「よし、っと…」

剣の素振りを終えて一息ついたところで、背後に複数の足音が近付いて来るのが分かった。振り向くと、取り巻きを率いたメリッサが射抜くような目でこちらを見つめている。またか、とシェルティアは辟易とした。

「何の用? 私、訓練で忙しいんだけど」

「ネメシスの前でみっともなく騒いで錯乱した腰抜けが、成長したのか見に来たのよ」

 そこで刃のない剣を、メリッサは差し出した。

「…私と刃を交える時間があるのなら、自分も訓練した方が良いんじゃない」

「フン、腰抜けに偉そうに言われたくないわ。それに、前にも言ったでしょう? これも立派な訓練よ」

メリッサの言い分にシェルティアはすぐには返せなかった。そして黙って剣を受け取る。

「合図はあなたがしてちょうだい」

メリッサが取り巻きの一人に命じると、はい、と一歩進み出た。シェルティアとメリッサは互いに距離を取る。前回と同じくシェルティアは両手、メリッサは片手で剣の柄を握り、構える。

「では…始め!」

合図の声がしたが、シェルティアもメリッサもすぐには動かなかった。お互いに牽制し、様子を窺う。

 前に戦ったとき、シェルティアはメリッサに剣を振るうも、メリッサはその反動を利用してシェルティアを完膚なきまでに叩きのめした。メリッサの剣を制するには反動を利用されないように力を適度に抜くか、逆に力で押し切るか―。シェルティアは最初の一手で迷う。それに対しメリッサは余裕のある表情である。メリッサには経験もそうだが、剣技も身に付けている。だから気持ちにも余裕が生じて次の一手が読めるのだ。そこまで考えてシェルティアは、あることに気が付く。自分の力どうこうではメリッサには勝てない。型にはまった剣術は逆に言えば枠に囚われ過ぎる面もあるのだということを。ならば自分は、メリッサの予想を上回ることをすれば良いのだ。シェルティアは駆け出し、剣先を下に向けたままメリッサに向かう。メリッサは防御と同時に反撃を出来るよう、剣を体から水平に構えた。

 最初の一手をシェルティアは振るう。やはりメリッサは刀身で受け止め、流そうとする。だが、シェルティアの狙いはそれであった。メリッサが剣に気を取られている隙に、メリッサの足を蹴り払った。

「なっ!?」

メリッサはバランスを崩し、シェルティアの行動に元々大きな目をさらに大きく見開く。メリッサが体勢を立て直す前に背面に剣を左手から右手に移動させ、その柄でメリッサの右肩を強く突いた。

「ぐっ! この!」

メリッサはシェルティアの腹を斬りつけようとするが、シェルティアは剣を下へと戻す動作に力を込めて、メリッサの脇腹に剣先をえぐりこませた。

「があっ!?」

メリッサは剣を落とし、がくりと地面に倒れ込んだ。シェルティアはメリッサと距離を取り、メリッサがどう動くのか警戒する。

「うう……」

メリッサは落ちた剣を拾うと、何とか起き上がる。だが、脇腹を押えたまますぐには動こうとしない。二人の間にはメリッサの小さな呻き声だけが聞こえるだけである。取り巻きの少女たちは息を呑んで様子をただ見ているだけであった。暫くしてシェルティアは剣を下ろし、ため息を吐いた。そのとき、

「ひ、卑怯者っ!!」

少女の一人が声を上げた。シェルティアは少女の方を見る。

「剣の戦いなのに体術を使うなんて! 卑怯だわ!」

そのあとで他の少女たちも次々と声を上げて卑怯だ、と叫んだ。シェルティアは剣先を少女三人に向ける。

「ここはアイギス。相手をするのはネメシスだよ。その訓練に体術を使ってはいけないというルールはなかった筈。どうしても私が気に入らないんだったら、あなた達の剣で叩きのめしてみてよ」

シェルティアの、アクアマリンのような瞳の奥にある殺意を感じ取った少女たちは、ひっ、と声を上げたあと、委縮して黙り込んだ。シェルティアは剣を下ろすと、未だ動かぬメリッサの前に、まだ警戒心は解かないまま近付く。

「…なぜ剣術にこだわるの? 私より先に入団したあんたなら知っているでしょう? ネメシスの前では決まった剣術は通用しないって。私たちはネメシスと戦っているのよ」

 シェルティアの言葉を聞いたメリッサは素早く顔を上げ、睨みつけた。

「…私は…私はネメシスとだけ戦いに来たんじゃない! 私はこの帝国とも戦いに来たのよ!」

 メリッサは叫んだ。その瞳が決意の眼差しに変わったことに、シェルティアははっとする。

「帝国が周辺諸国を統一したあと、エランダ王国の貴族たちは国や、国の貴族である誇りを捨て、帝国におもねることで貴族の地位を保つことに必死だった。でも我がラヴェル家は決して帝国に屈しなかった。そのせいで貴族の称号を剥奪され、家族はバラバラになったわ…。でも私は、それを誇りに思う! だから家の名に恥じぬようにネメシスだけでなく、人とも戦うことが私には必要なのよ!」

メリッサはそこでふっと笑った。

「まあ、あなたには分からないでしょうけれどね。失った名や地位に固執しているのも、バカバカしいと思っているんでしょ?」

 少し間を置いて、シェルティアはゆっくりとかぶりを振った。メリッサは意外だ、と驚いた表情になる。

「…それがあなたの戦う意味ならば、それで良いと私は思う」

シェルティアは手をメリッサの前に差し出した。メリッサはその手を無視し、剣を杖代わりにして立ち上がった。だが、その顔は笑っていた。

「…あなたも精々気を付けることね。ネメシスだけでなく、人間に」

背筋をしゃんと伸ばすと、メリッサはシェルティアに背を向けて歩き始めた。取り巻きの少女たちは慌ててメリッサの後を追う。シェルティアの目には、メリッサの背中がどこか寂しげに映った。



 出撃の報せが入ったのは、その翌日のことであった。場所は帝都郊外の東にある小さな街である。被害者は出ていないが、避難が住民のパニックによりなかなか進んでいない状況とのことであった。出撃するメンバーの中にはシェルティアも入っており、討伐隊に復帰後の初めての任務である。シェルティアは錯乱したときのことを思い出し、緊張した。防具を留める手が僅かに震える。

「大丈夫。シェルちゃんのことはしっかりサポートするから!」

「お前は前よりも確実に強くなっている。自身を持てよ!」

アンネッタとスタンリーから励ましを受け、そうだ、その通りだとシェルティアは落ち着こうとした。

 今回も乗って行く馬は白馬のメリーである。訓練の合間に時々馬小屋に顔を出してメリーと話をしながら撫でてやったり、ブラッシングをしたりしたので信頼関係は既に築かれていた。

「今回もよろしくね、メリー」

シェルティアが鞍を付けながら話しかけると、それに答えるかのようにメリーは鼻を鳴らした。メリーに乗り込み、アシュレイの合図で討伐隊は走り始める。アシュレイの配慮か、今回はアンネッタ、スタンリーの近くで行動をすることになった。シェルティアにとっても有難いことである。

街に向かう途中で避難をする人たちの列が見えた。避難誘導をしているのは調査隊である。人々は落ち着いていたが、その顔色はどこか青く見えた。あんな化け物と遭遇すれば、無理もない話である。

「全体、一旦止まれ!」

アシュレイの合図により列はゆっくりと止まって行く。何かと思い前方を見てみれば、アシュレイは調査隊の人間と話をしていた。暫くしてアシュレイは再び口を開く。

「街にはまだ住民が残っており、ネメシスが街のどこかに潜伏しているとのことだ。街に到着したら、散開して住民及びネメシスの策敵を行う!」

皆に伝達したあと、再び列は動き始めた。

 白い外壁の家が立ち並ぶ街に討伐隊は到着した。不気味なくらいに静かである。

「…街の人は全員逃げたの?」

シェルティアは独り呟く。その呟きにアンネッタは反応した。

「多分、まだいると思うよ。怖くて外に出られなかったり、ネメシスの恐ろしさがピンと来なくて逃げていなかったりっていう場合もこれまでに沢山あったの。やっぱり帝国内にネメシスの恐ろしさは浸透していないみたい…」

「そう……」

アイギスの人員不足の理由が窺い知れる話である。本当の恐怖は、実際に目にしないとその身で思い知ることは出来ないのだ。

「これより散開してネメシスの捜索及び住民の人命救助に当たる。ネメシスと遭遇した場合、必ず警告笛を鳴らすように!」

アシュレイの合図で一同は門から街の中へと入り、一人ずつバラけていく。

「おい、シェルティアは俺たちと探そうぜ」

スタンリーはシェルティアとアンネッタに呼びかける。アンネッタは頷いたが、シェルティアはかぶりを振った。

「…ごめん、私は一人で大丈夫。二人に頼っていたら、いつまでも自分の力で戦えない気がするの。だから、私に構わず二人とも散開して」

「なっ! でもお前は…」

「スタンリー、アンネッタ、私を…信じて」

二人の顔を見て力強くシェルティアは言った。それを見たスタンリーはふう、とため息を吐いた。

「アンネッタ、シェルティアを信じよう」

「えっ! でも…」

「シェルティアの意思を尊重しようぜ。シェルティアを信じるんだ」

「…分かった。でも、気を付けてね。何かあったらすぐに飛んで行くから!」

 アンネッタはシェルティアの手を握った。

「ありがとう。二人とも気を付けて」

「ああ、そっちよりも先に見つけ出して仕留めてやるよ!」

スタンリーはにっと笑った。それから三人は散開し、シェルティアは一人で歩き始めた。その一部始終をアシュレイは見ていたが、三人を止めることは無かった。



 シェルティアは息を潜め、なるべく足音や防具の音を立てずに歩く。既に剣は鞘から抜いており、いつでも戦えるように構えていた。街は閑散としており、一見人もネメシスも気配を感じられない。ふとこの様子が、ネメシスに村が襲われた番と似たような状況であるとシェルティアは気が付く。違いといえば、昼か夜の差である。―そう考えた瞬間に、村の光景がまたフラッシュバックした。シェルティアは足を止め、その光景を打ち消そうと全身に力を入れる。

(大丈夫、私には戦う意味がある) 

何度も言い聞かせる内に、目の前の村の凄惨な光景は消えていき、街の景色に戻った。シェルティアは歩みを再開する。

 家と家との間や、庭などを探したがネメシスも人も見つからない。途中で隊員とも鉢合わせ、小声で結果を言い合ったが、未だにネメシスは見つからなかった。もう逃げてしまったのではないかとも思ったが、ネメシスがいる可能性がある以上、そう考えるのは駄目だと思い直す。何としてでもネメシスを見つけようと、シェルティアはネメシスがいそうな場所を考えてみる。

 村が襲われた晩と初陣の場所に共通するのは、木々が生い茂った場所である。何もネメシスでなくとも、獣ならばそこに潜んで獲物を狙うだろう。シェルティアは木が密集した場所を探してみることにした。特に林を所有する大きな家の庭を見て回る。ふと、微かに物音が遠方から聞こえ、シェルティアは急いで向かう。家の陰に隠れて様子を窺うと、そこには信じられない光景があった。

『ウウウ…』

家の庭には、にやついた顔を頭に載せた狼のネメシス。そしてネメシスが狙っているのは、小さな女の子が一人いる三人の家族であった。父親は母親と娘の前に出て盾になっているが、顔と体は恐怖で固まっている。女の子は今にも泣き出しそうなのを堪えていた。

―助けなきゃ―シェルティアは剣を握る手に力を込めた。すると、またあのネメシスを見た瞬間に、フラッシュバックが起こる。鼓動が速くなり、息が荒くなる。また自分は初陣と同じことを繰り返してしまいそうになる。それでは駄目だと、なんとか落ち着こうとしたとき、頭の中で声がした。

『私は、大切な人々を守る為に戦う。それが、私が戦う意味です』

紛れもなくそれは、シェルティア自身の声であった。そうだ、私はやっと戦う意味を見つけたのだ。過去に囚われてはいけない―次の瞬間に、シェルティアは家の陰から飛び出した。

 ネメシスはシェルティアに気が付き、体をシェルティアの方へ向ける。シェルティアを敵と認識すると、駆け出した。ネメシスは飛び上がり、シェルティアの剣とネメシスの爪がぶつかり、シェルティアはそれを弾く。そして、メリッサがやっていたように弾いたその瞬間の反動を利用して、素早く腰を中心に回り、ネメシスの胴を斬り付けた。ネメシスは甲高い声を上げ、地面に落ちるがすぐに体勢を立て直す。シェルティアは反撃する隙を与えぬように、ネメシスの頭を刎ねた。いよいよネメシスは体だけをもんどりうつ。そこへシェルティアは止めとして、ネメシスの胸を思い切り貫いた。

『ギャアアア!!』

断末魔の声を上げたあと、それっきりネメシスはぴたりと動かなくなった。周囲には夥しい血の量が広がり、シェルティアの制服にも赤い染みが点々と付いている。全身汗をかき、呼吸が荒い。

「うわああああ!」

茫然とするシェルティアを現実に引き戻したのは、女の子の泣き声であった。家族の方を見ると、母親はその場にへたり込み、父親が妻を支える。女の子は母親の服の袖を強く握って引っ張ったまま泣いていた。シェルティアはその家族の元へと駆け寄る。

「お怪我はありませんか?」

シェルティアは父親に尋ねた。

「ええ、お陰様で…。あなたは一体…」

父親は力のない声で訊き返す。

「ネメシス討伐専門機関・アイギスの者です。どうしてまだここに?」

「ネメシスという化け物がどんなものか詳しく分からず、避難の準備に手間取っていたんです。そして外に出ようとしたらあの化け物に遭遇して…。一時は本当に駄目かと思いましたが、貴女のお陰で助かりました。本当にありがとうございます」

父親は頭を下げ、母親も無言ながら頭を下げた。

「いえ、当然のことをしたまでです」

シェルティアは背筋を伸ばして家族に言った。そのとき、低い音が耳に入って来る。

「何ですか? この音は…」

父親は再び不安な表情になる。

「ネメシスが見つかったことを知らせる音です。まだネメシスはこの街の中にいます。早く避難を!」

「は、はい! ほら立とう。早く街の外に出るんだ」

父親は妻を立たせて支えた。女の子はもう泣き止んでいた。

「本当に、ありがとうございました」

再度父親は礼を言い、通りへと向かう。女の子はすぐに両親には付いていかずに、じっとシェルティアを見つめていた。

「どうしたの?」

シェルティアは肩膝をついて女の子と視線を合わせる。

「ありがとう、おねえちゃん」

まだ涙が溜まっている目で女の子はそう言った。シェルティアは自然と笑顔になる。

「どういたしまして。さ、お父さんとお母さんと一緒に行こうね。逸れちゃ駄目だよ」

「うん!」

女の子は元気よく返事をして、シェルティアに手を振りながら両親の元へと駆けて行った。シェルティアも手を振り返した。

 家族の姿が見えなくなったあと、シェルティアは倒れているネメシスに火をつけて燃やしたあと、警告笛の音がした方向へと向かった。

 ネメシスを燃やした煙が消え、日が落ちかける直前に討伐隊は街を後にした。今回は負傷者こそ出たものの、隊員も住民も命を落とすことは無かった。スタンリーとアンネッタはシェルティアを心配していたが、シェルティアの晴れ晴れとした表情を見て心配が杞憂であることに気が付いた。

 


夕食と入浴を済ませ、後は寝るだけである。だが、シェルティアは就寝前に済ませておきたいことがあった。

「ねえアンネッタ、鋏って持ってる?」

シェルティアはアンネッタに尋ねる。

「うん、裁縫用のだけど…どうしたの?」

「その鋏で…私の髪を切って欲しいの」

シェルティアは手で肩より少し上を示した。

「え…ええーっ!? どうして!? そんなに綺麗な髪なのに勿体ないよ!」

「これから戦うときは短い方が良いし…それにこれはけじめであり、始まりの儀式でもあるの」

「始まり…?」

「そう、ネメシスとの戦いの始まり。戦いへの意思を明確にしてから戦ったのは今日が初めてだった。だから、今日が本当のネメシスとの戦いの始まりなのよ」

シェルティアはアンネッタに話しながら、昔母に言われたことを思い出した。

『女の人が髪を切るときは、物事のけじめをつけたり、これから何かを始めたりするときなのよ』

母の言ったことが当時幼かったシェルティアには分からなかったが、今ならばよく分かる。

「お願い。信頼できる友達であり、仲間であるアンネッタに切ってもらいたいの」

 シェルティアはアンネッタを見据えた。アンネッタの迷いで揺らいでいた瞳は、心が定まったものへと変わる。

「…分かった。でも、うまく出来るかどうか分からないけれど…大丈夫?」

アンネッタの言葉にシェルティアは大きく頷いた。シェルティアは椅子に座り、アンネッタは布切り鋏でシェルティアの髪を切っていく。はらりはらりと落ちるシェルティアの銀の髪は、今までのシェルティアの負の感情が落とされていくようであった。

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