第2話 神の盾 

満天の星空の元、巨大な紅蓮の炎が天を突く勢いで燃え上がっている。周りの木々にはランプがくくりつけられ、ハーモニカやギターの明るい舞踊曲が流れている。そして人々は、お酒や収穫出来たものを惜しげもなく出し合い、皆笑って話に花を咲かせ、中には音楽に合わせて踊っている者やおどける者もいた。シェルティアは茫然と立っていると、後ろから肩を軽く叩かれた。振り返ると、シェルティアは驚いた。

「シェル! どうしたのよ、せっかくの豊穣祭なのに浮かない顔しちゃって!」

 楽しそうに語りかけて来たのは、焚火の明かりで顔を照らされたアリーであった。

「ほらほら、もっと楽しまなきゃ! 葡萄ジュースも貰って来たよ!」

アリーは木製のカップをシェルティアの目の前に出す。

「あ、ありがとう」カップをシェルティアは受け取ると、アリーはシェルティアの手を取った。

「さ、あっちで皆待ってるよ! 乾杯まだだったでしょ?」

アリーが指差す先には、父と母、そして、

「エリ、ユリア、ジュディーに…ラナまで…!」

今まで奉公の為に村を去った友人たちも、笑顔で手を振っていた。

「皆、待たせてごめん! さ、行こ! シェルティア!」

アリーはそう言うと、シェルティアに向かってウィンクした。シェルティアは思わず笑顔になる。

「うん!」

そして、アリーの手を握り返して、両親と友人たちの元へ駆けて行った。



 ―ガタン、と一際大きく馬車が揺れたところで、シェルティアは目が覚めた。今までのは全部夢だったのか、とひどく落胆する。

 村を出たあと、シェルティアは荷台の奥に行ってうずくまり、そのまま眠ってしまっていた。一体どのくらい眠っていたのだろうか、外はもう夕焼けで、空が橙色に染まっていた。ふと、軍人たちの話し声が聞こえて来た。

「今日はどこまで行くんだ?」

「次の街までだとよ。早く着いて欲しいもんだぜ」

「全くだ。…で、お前夜はどうするんだ? 女を買うのか?」

「ああ、当然だろ? 女と酒くらいしか、こんな田舎には楽しみがねえからな」

「それもそうだ」

軍人の男二人はそこで笑った。何と下劣な輩なのだろう、と思わずシェルティアは罵りたくなる。帝国の男というのは皆こんな輩なのかと、今から不安になった。

 行軍は日が沈むまで続いた。途中道案内の立て札があり、そこには〝国境に一番近い街・ミゼル〟とあった。

ミゼルに入ると、街にいる人々は慌てて道を開け、深々と頭を下げる。帝国から役人が来たときのことをシェルティアは思い出す。人々は敬意からではなく、恐怖から頭を下げている。それはクランヒルでもミゼルでも、変わりはなかった。

 ミゼルの道は鱗石で舗装されており、赤レンガ造りの家々とガス灯が立ち並ぶ。クランヒルよりも遥かに文化も技術も進んでいた。同じカリアス王国とは思えない程である。そして行軍は、街の中でも一際大きな建物の前で止まった。その建物だけは白壁であり、扉には彫刻が施されて金のランプまであり、まるで城のようであった。

「おい小娘、降りろ。ここが我々の泊る宿だ」疲れて不機嫌そうな軍人がシェルティアを呼んだ。シェルティアは長時間同じ姿勢でいた為に、少し立ちくらみを覚えながらも、荷物を持って馬車を降りた。宿の前には大勢の男女と、口髭を固めた太った中年の男が頭を下げて待っていた。

「突然の来訪済まなかったな。部屋は全て空いているか?」

グノーは男に尋ねた。

「はい、勿論でございます。我が宿、ロイヤル・ゲルトは帝国の方専用の宿となっておりますので! 皆さまお疲れでございましょう。どうぞごゆるりとお寛ぎ下さい」

「うむ。出迎えご苦労であったな」

グノーはそう言うと懐から小袋を取り出し、中年の男に渡した。中年の男はこれまでにない笑みを見せ、ペコペコと頭を下げた。

「ありがとうございます! では、中へどうぞ」

男は一歩下がると、入口の扉の脇に控えていた従業員の男が扉を開ける。重い扉はゆっくりと開かれた。よく見ると扉の傍には冠を乗せた翼竜が世界を足で持つ紋章、帝国の国旗がはためいていた。帝国専用ということが一目で分かる代物である。

 グノーを先頭にぞろぞろと軍人達が宿の中へ入っていく。シェルティアはその列の最後尾について中に入ろうとする。だが、入口を目前に、大柄な男二人がシェルティアの前に立ち塞がった。

「え?」

シェルティアは突然のことに困惑する。

「お前のような薄汚い小娘がこの宿に何の用だ? ここは帝国の軍の方々や貴族の方しか入れない。今すぐ出て行け」

男の内の一人が低く言った。

「ちょ、ちょっと待って! 私…」

「ああ、その娘は一応軍の関係者だ。その身なりで分かりにくいかもしれんがな」

「そ、そうなのですか! し、失礼しました!」

さっきまで壁のようであった男達が小さくなったように見えて、シェルティアはぽかんとする。

「さ、どうぞ」

別の女の就業員に促され、やっとシェルティアは中に入ることが出来た。扉が閉まる直前に、後ろの方でクスクスと自分のことを笑っている者達が密かにいることに気が付き、顔から火が出そうになった。

 宿のエントランスはシャンデリアに螺旋階段などが備え付けられ、装飾品から階段の手すりまで全てが帝国の象徴の色である金と深紅で統一されていた。生まれて初めて見る豪華な場所というものに、シェルティアの目は眩みそうになる。その間にも軍人たちは広間へ通され、シェルティアもそれに合わせて付いて行く。

 広間には非常に長いテーブルと沢山の椅子があり、テーブルの上には金の食器が並んでいる。続々と軍人達が席に着くので、シェルティアは傍にある椅子に座った。そして、白い服を着た男達が大きなワゴンを押して、広間に入って来た。あの男たちは前に本で見た〝シェフ〟という者たちだ、ということをシェルティアは思い起こした。そのシェフたちによって目の前に食事が運ばれて来る。前菜に始まり、スープ、主菜に肉、魚、野菜が惜しげもなく使われており、祭りのときにしか飲めない葡萄ジュースや酒、果物も豊富にあった。そしてデザートにはクリームがどっさりと盛られたフルーツシャーベットやケーキが出る。もちろん、パンもあったがクローネ麦だけではなく様々な種類の麦のパンも並んでいた。このような豪華過ぎる食事は初めてで、シェルティアはおっかなびっくりしながら手を付ける。こんなおいしい料理は食べたことが無かった。だが、豪華な食事を目の前にしていると、村に残った父と母のことを思い出し、自分だけが贅沢をしていることに罪悪感があり、あまり喉を通らなかった。

 食事のあとはグノーから明朝六時に出発することが伝えられたあと、解散となった。シェルティアはどうしたものかときょろきょろとしているとグノーが近付いて来て、

「お前の部屋は用意してある。今、そこの従業員に案内するように言っておいた」

 と話した。その後グノーはシェルティアから離れると、真っ赤な口紅を付け、明るい茶色の髪を巻き、毛皮のコートに胸元が大きく開いた薄絹の紅いロングドレスという派手な女と共に腕を組んで去って行った。



 一人になったシェルティアは、グノーの言っていた従業員の女に、螺旋階段を上って部屋まで案内された。

「ここが貴方様のお部屋でございます。鍵をお渡ししておきますので、この宿を出る際に返却して下さいませ。それでは」

壮年の女の従業員は一礼すると、そそくさとその場を離れた。何となくそっけない態度だったのは、自分がみすぼらしい格好だったからだろう、とシェルティアは自分がはみ出してあることを実感する。

 鍵を開けて扉を開くと、シェルティアは目を丸くした。

「わあ…!」

思わず歓声を上げて、後ろ手で扉を閉める。シェルティアが案内された部屋は、華美な調度品の数々と純白でふかふかのベッドがあった。それだけでなく、部屋の中に更に扉がある。まるで家のようであった。何よりも、その部屋はシェルティアの家の中でも一番広いリビングよりも倍広い。クランヒルにいた頃は想像だにしなかった場所である。―そう考えると、シェルティアは複雑な気持ちになった。

 部屋の扉の先に何があるのか見てみると、そこには大理石で出来た風呂場があった。たっぷりと湯が張った浴槽も純白で、金色のガス灯に照らされて輝いて見える。だがそれよりも気になったのは、浴槽の隣にあるひょろ長いパイプの頭に円形で、表面に細かい穴がある物体であった。一体これは何に使うものなのか、とシェルティアは頭を捻った。とにかく汚れを洗い落としたいと浴槽を見て思い、風呂場の前にある脱衣所で服を脱いで髪留めを取り、風呂場へと入る。

 早速謎のパイプに手を伸ばしたが、うんともすんとも言わない。ふとパイプの横に目をやると、ハンドルのようなものがあった。何気なくそのハンドルを右に回した瞬間、

「きゃっ!?」

頭上から冷たい雨が降って来た。目を細めて見上げると、それは謎のパイプの先から出ていた。体全体が濡れて行くと、そこでシェルティアはこれが体を洗う為の水を出す道具なのだと理解する。村にいた頃は井戸から汲んで来た水を一生懸命浴槽に溜めて火を焚き、その湯をかけて流していた。村の外には、こんな便利な物があったのである。ハンドルを左に回すとお湯が出て、傷に染みる。シェルティアは更に何とも言えない衝撃を覚えたのであった。雨を出すパイプの他にも、薄めたものではない、しっかりとした何種類もある良い匂いの石鹸水に広い浴槽。どれもが初めてのことであり結局シェルティアは落ち着いて風呂に入れなかった。清潔感のあるタオルで体と髪を拭いて乾かしたあとは、服を着て傷に家から持って来た包帯を巻く。傷は大分治ってはきたが、痕が残りそうであった。そのあとは早々に眠ることにし、部屋のガス灯のスイッチを消すと部屋は真っ暗になる。シェルティアはふかふかのベッドに潜り込み、沈んだ。

 外は街灯で明るく、賑やかな男女の声が聞こえて来た。きっと軍の兵士達が街に繰り出しているのだろう。ミゼルは帝国軍が支えている街とも言える。だが、シェルティアにはそれが不幸でもないが、幸でもない気がした。豪華な食事に便利な生活―この街はクランヒルとは真逆であり、どうもシェルティアにはそれが馴染めない。不便であっても家族と友人と、村の人々と助け合い、広い空と麦畑がある。ただそれだけで良かった。そして、ネメシスはそれを奪って行った。怒りが湧いてシェルティアは跳ね起き、枕を思いっ切り殴った。拳が枕に沈んだあとは、ぼんやりとした虚無感だけが残った。



「お客様、失礼致します」

ノック音と共に柔らかな女の声が聞こえ、シェルティアは目を覚ました。体を起こして扉まで駆け寄り開けると、若い女の従業員が立っていた。

「おはようございます。グノー少佐からお客様をお呼びになるように言付かっております。一階の広間に朝食の御用意がありますので、そちらへお越し下さい」

「あ、はい…ありがとうございます。あ、あの…」

「何でございましょうか?」

「あのお風呂場にある雨を出すパイプ…あれは何と言うんですか?」

 シェルティアは思い切って従業員に尋ねた。すると女は一瞬、僅かに顔を緩ませたあと、直前の真顔に戻し、「あれはシャワーというものでございます」と答えた。

「そ、そうですか、ありがとうございます。仕度が整ったら一階へ行きます」

「承知いたしました。失礼致します」

女はそう言って扉を閉めたあと、堪えていた笑い声を漏らした。そしてそれはシェルティアの耳にも入り、また顔から火が出そうになる。今頃女は心の中で、〝シャワーも知らないなんて〟とバカにしているだろう。ますます、クランヒルに帰りたくなった。

 仕度を整えて昨日夕食が出された広間へ向かうと、ずらりと軍人達が微動だにせず座っていた。シェルティアが来ても視線を移すものは誰一人としていなかった。その重々しい空気に気圧されつつ、シェルティアは空いている席に座る。これで空いている席はグノーの席だけとなった。シェルティアが席に着いた数分後にグノーが現れ、兵士たちは一斉に立ち上がる。シェルティアは周りの空気に呑まれ、遅れて立ち上がった。グノーは自分の席の前へ辿り着くと、皆の顔を見回したあとに口を開く。

「皆、今日は帝都へ帰還する日だ。軍本部とアイギスには既に帰還の旨を電文により通達してある。帝都へ帰り着くまで気を引き締めておくように」

「はっ!」軍人たちは返事をし、その声がシェルティアの腹の底にまで響いた。昨晩、街で浮かれていた軍人たちとは違うと感じたが、これはあくまで上官の前だけの格好であるということにすぐに気が付いた。グノーが席に着くと、皆は一拍置いて席に着く。そして黙々と朝食を食べ始めた。

 いよいよ帝都に向かうのかと思うと、シェルティアは気が重くなる。どんどん自分のいた世界が遠ざかり、そこで置いて行かれる恐怖の念が生まれて来る。昨日と同じく、豪華な食事は殆ど喉を通らなかった。



 ミゼルを出発し、帝都に近付くにつれて道は砂利道から石畳で舗装された道へと変わって行った。遠くからはガタゴトという、馬車とは違う大きな音が聞こえて来る。その音が蒸気機関車の音であるとシェルティアが知ったのは、行軍より数十キロメートル離れた線路を、黒煙を吐く巨大な鉄の体躯が行軍の横を素早く走り去って行ったのを見たからであった。

 新聞でしか見たことのないその機関車を生で見たとき、シェルティアは圧倒されはすれど、感激の気持ちは無かった。むしろこの巨大な鉄の塊が、馬よりも速く走ることに一種の恐怖さえ感じた。

故国であるカリアス王国を出て、行軍はミネア帝国へと既に入っていた。いくつかの街を通り過ぎる度に、人々の歓声やミネア帝国の国旗を目にする。それだけでよそ者の気分になったが、奉公に行った村の友人たちも同じ気持を味わっていたのだと思うと、自分一人だけが塞ぎこんではいけない、と何とか奮い立たせる。

「あと少しで帝都か…やっと一息つけるな」

街道を進んでいると、軍人たちのそんな声が聞こえて来た。シェルティアは幌から空を見上げる。燃え上がる様な夕焼けの空であった。

 さらに街道を進んで行くと、馬車や人の往来が増える。それに比例して蒸気機関車の音や人々の声が次第に大きくなって行った。そして、セレノ川支流の橋を超えた大門の先がミネア帝国首都・セントミンスターであった。帝都に入った瞬間に、シェルティアの耳の中は音で一杯になる。人々が行き交う度になる靴の音、商いの声、別の馬車の音、そこかしこで聞こえる楽器の音色。街並みを覗くと、豪奢な赤や白の石造りの家々、金色のガス灯とそれに垂れ下がるミネア帝国の国旗。空白を無くすように様々な色が街を彩っていた。誰も彼もがシェルティアのようなみすぼらしい格好はしていない。シェルティアにはあまりに豊かで、窮屈な場所であった。

 行軍は大通りを一旦抜けて少し細い道に入ったあと、また大通りへと出る。そして、鉄の門がある建物の前で行軍も、シェルティアの乗っている幌馬車も止まった。

「おい、降りろ」

一人の兵士が無愛想にシェルティアに言う。シェルティアは荷物を持つと荷台から降りた。グノーは側近の兵士を連れてシェルティアに近付く。

「ここがネメシス討伐専門機関のアイギス本部だ」

グノーに説明され、シェルティアは建物を見上げる。荘厳で重厚な、二つの塔がある石造りの城のような外観。外にあるポールには旗が掲げられ、翼竜と二本の剣が交わる盾の紋章―それがアイギスの旗であった。

 翼竜は太古にこの世界に君臨し、やがて滅んだ生き物とされている。そして翼竜は強さ、権力の象徴となり、主に帝国のあらゆる紋章に用いられていた。シェルティアは反帝国感情からその翼竜を見る度に抵抗感があった。

「ここは元帝国騎士団の兵舎だった。私も若い頃はここで訓練したものだ。さて、これから団長に挨拶に行く。付いて来たまえ」

グノーはそう言うとシェルティアを一瞥したあとに歩き出した。門番の兵士にグノーが来訪した旨を伝えると、鉄の門は開かれた。門番が着ているのは帝国軍の物よりも簡素なデザインの、藍色の制服である。大通りから離れた場所に本部があることといい、古い兵舎を宛がわれていることといい、アイギスの帝国からの扱われ方は一目瞭然である。早々にアイギスという組織にシェルティアは不安を覚えた

 正面の扉から中へ入ると、エントランスホールへ出る。エントランスからは正面と左右に通路が分かれており、グノーは正面へ進んだ。途中何人か制服を着た人間とすれ違い、シェルティアを見たが、グノーに対して萎縮したり、敬礼をしたりする者は一人もいなかった。その様子にシェルティアは良い意味での違和感を覚える。帝国軍に属する組織ならば、グノーに敬礼しなければいけないだろう。そんなシェルティアの考えを見透かしているかのように、グノーは口を開いた。

「このアイギスは軍とは独立した組織だ。だから帝国軍のように性別や身分、出身に関係なく素質あるものならば誰でも入団することが出来る。君が女性であるにも拘らず入団できるのは、そういった理由からだ」

「…そうですか」

少しはアイギスの事情が分かった。今思えばすれ違ったアイギスの団員達のグノーに対する視線はどこか険しいものに見えたような気がする。

 足音が響き渡る石の廊下を進んで突き当たりまで行くと、大きな扉があった。グノーの側近が扉をノックし、名乗ると男の声が返って来る。扉を開けて中に入ると、大柄で落ち着いた雰囲気のある、栗色の髪をオールバックにした、深い緑の瞳の男が立っていた。そして男の隣には、亜麻色の瞳に金の髪を後ろで纏めた、凛とした顔立ちの女も立っていた。部屋の中は机と椅子、棚にソファー、そして壁には暖炉とアイギスの団旗だけという、シンプルな内装であった。

「お待ちしておりました。グノー少佐」

男と女はグノーに向かって敬礼をした。グノーと側近も敬礼を返す。

「久し振りだな、ゲオルギウス殿。副団長も相変わらず麗しい」

「滅相もございません」

グノーに副団長と呼ばれた女は、無表情で返した。目の前にいる女性が〝副団長〟という高い地位に就いていることにシェルティアは内心驚く。男尊女卑が強い傾向にある帝国では、まず考えられないことであった

「彼女が一晩で二体のネメシスを討伐したシェルティア・スノウズだ。彼女の実力は未知数だが…きっとアイギスの力となってくれるだろう」

グノーが紹介すると、男と副団長の女はシェルティアに視線を向ける。シェルティアは軽く一礼した。男はその様子を見て微笑む。

「お心遣い感謝いたします、少佐殿。こちらは人員不足が悩みでしたので、大変助かります。彼女は責任を持って我々がお預かりします」

「うむ、そちらの助けになればこちらも遠征の甲斐があった。では、我々は本部へ戻ることにしよう」

「もう行かれるのですか? ご足労いただいたのでお茶でも…」

「いや、君たちにも仕事があるだろう。長居しては邪魔をしてしまう」

「そんな、お邪魔などとんでもない! ですがそちらもお忙しい身。無理に引き止めることは出来ませんね」

「ああ、お互い様ということだ。それでは失礼するよ」グノーはそこで踵を返し、側近と共に出て行った。部屋にはシェルティアだけが残される。

「さて、改めて初めまして、だな。私はアイギス団長、ゲオルギウス・バッツドルフだ。こちらが副団長のレイナ・テイラー君。これからよろしく頼む」

栗色の髪の男、ゲオルギウスはグノーに対するよりも柔らかな口調でシェルティアに自己紹介をする。

「こ、こちらこそよろしくお願いします」

慌ててシェルティアも返した。ここで下手な態度を取れば追い出され、自分も家族も路頭に迷うことになる。せっかく奉公ではない免税の権利を得たのだから、と気を引き締めた。

「…君のことはグノー少佐からの電文で知っている。辛い目に、遭ったな…。我々の力が及ばなかったばかりに…申し訳ない」

「……いえ、団長さんは悪くありません。悪いのは、ネメシスです」

ゲオルギウスの言葉で、シェルティアの中にまた無念や悔しさの念が込み上げて来る。その気持ちを目の前の男にぶつけたいのを堪えて、シェルティアは呟くように言った。

「こう言うと言い訳にしか…いや、言い訳をさせてくれ。このアイギスは設立されてから間もない上、人員が常に不足している状態だ。ミネア帝国内のネメシス討伐が精一杯で、国外に手が回らないというのが現状だ。私の力が足りないばかりに、きみや君のご家族、そして村の悲劇を止められなかった。どうか許して欲しい…。そしてその悲劇を減らすためにも、我々に君の力を貸して貰いたい」

ゲオルギウスはそこで頭を下げた。シェルティアは面食らう。団長自らが自分に対して頭を下げたのである。グノーよりも紳士的な態度だとは思ったが、ここまでするとは思わなかった。

「いえ、こちらこそお役に立てるかどうかは分かりませんが、全力で頑張らせていただきます」

シェルティアが言うと、ゲオルギウスは頭を上げた。

「ありがとう。君の勇気に心から感謝するよ」

ゲオルギウスは微笑んだあと、引き締まった顔に戻る。

「…話は変わるが、君は剣や銃を持ったことはあるかね?」

ゲオルギウスの質問にシェルティアはかぶりを振る。

「いいえ。私はただの農民です。山鶏やガチョウなどをさばいたことはありますが…」

「では、逃げることをせずにネメシスと戦ったのは本当か?」

「…はい。家族を守りたい一心で、肉切り包丁で…」

「そうか。咄嗟の判断とはいえ、二体も仕留めるとは…。…今までの我々の経験では一体のネメシスを討伐するのに最低三人は必要とし、討伐後は良くて怪我、最悪では死という結果だ。それ程ネメシスは強大な相手であり、わざわざ討伐を願い出るという危険を冒す者はいない。加えて帝国内ではネメシスの出没頻度が低い。…これが人員不足の原因の一つでもある。君の活躍には期待しているよ」

「ありがとうございます。…ご期待に添えられるよう、頑張ります」

 シェルティアの言葉を聞いたゲオルギウスは頷いた。

「では、今日は長旅の疲れをゆっくりと取ってもらおう。明日はちょっとした試験と座学を君に行ってもらう。副団長、宿舎へ案内してやってくれ」

「了解しました」

レイナは視線でシェルティアに、付いて来るように、と訴えると、シェルティアもそれに無言で答える形で付いて行く。部屋を出る前にゲオルギウスに一礼したあと、団長室を出た。



「驚いたでしょう? 一団長が個人に頭を下げるということが」

レイナは宿舎へ向かう途中、シェルティアにそう語りかけて来た。

「あ、は、はい。とても腰の低い方でびっくりしています」

「そうでしょう。団長は高名な帝国貴族でありながら、全ての民を平等に見ている。この帝国では稀有な存在ね。このアイギスも団長が七年前に設立した組織なの。団長は元々帝国軍に従軍していて、それなりの地位もあった。でもあるとき、遠征の途中でネメシスの襲撃に遭い、部下の大半を失ってしまったの。それが、アイギス設立のきっかけだった。団長はそれからネメシス討伐専門組織の重要性を必死に訴えかけたけど、団長も言っていたようにこの帝国内でネメシスの被害は少ない。それに今帝国は、海を隔てた南方、東方諸国へ進攻しようとしている。だから誰も耳を貸さなかった。でもある日、転機が訪れた。第四皇女様の行幸が決定し、団長も皇女様の護衛に就くことになったの。その行幸の帰りに一行がネメシスに襲われて…団長は皇女様をネメシスから守り抜いた。そのことに感激した皇女様が団長に話を聞き、団長の願い…ネメシス討伐専門組織の設立を後押しし、アイギスが設立されたのよ」

「素晴らしい方なんですね、団長さんは。…あの、失礼ですが副団長はどうしてアイギスに?」

 今度はシェルティアがレイナに尋ねる。

「私は…家が代々軍人の家系なの。でも女である私は帝国軍に入れない。そのせいで家では疎外感があってね…そんなときにアイギスの話を聞いて、〝私にもできることがある〟と思った。そしてすぐに、家族の説得を振り切ってアイギスに入ったのよ」

「そうなんですか…。アイギスに入って良かったと思っていますか?」

「勿論よ。今やアイギスは私にとっての生き甲斐だわ。辛いことも多くあるけれど…ネメシスから人々を守るという使命を果たせることが、何よりも嬉しいの」

 大理石の巨大な柱と柱の間から外が見渡せる回廊にレイナとシェルティアは差し掛かる。そこには剣を片手に、訓練に励む団員達の姿があった。

「ここは訓練場よ。こことは別に屋内にも訓練場があるわ。女子宿舎はこの回廊を抜けた先よ」

 レイナはシェルティアにそう説明しながら進む。剣を振るう団員の姿を見ながら、自分も明日、今まで握ったことが無い剣を握るのだと思うと、不思議な気分になった。

 柱廊の先にある重厚な木の扉を開けると、扉がずらりと一直線に並ぶ場所に出た。

「ここが女子宿舎…あなたがこれから生活する場所よ。部屋は二人一組の一部屋。これから貴方の部屋とルームメイトを紹介するわ」

レイナの声が石の廊下に響き渡った。他人との共同生活は初めてのシェルティアにとって、同居人はどのような人物なのかが非常に気になった。やはり、田舎者だと馬鹿にされるのだろうか、と不安と緊張が入り混じる。

「アンネッタ、いる? 今日からあなたと同室になる子を連れて来たわ」

 レイナはノックをしたあとに、部屋の中にいる人間に呼びかけた。中から「はい」という軽快で可愛らしい声が返ってきた。その直後に部屋の扉が開かれる。

 中から出て来たのは小柄な少女であった。焦げ茶色の長い髪を後ろで三つ編みに束ね、その先には薄桃色のリボンがくくりつけられてある。ぱっちりとした澄んだ青の瞳に、声と同様に可愛らしい顔立ちである。制服ではなく、ブラウスにスカートという私服であった。一見きつそうな性格には見えないので、シェルティアはひとまず安心した。

「副団長、ご苦労様です!」

少女はレイナに向かって朗らかな笑みを浮かべ、敬礼した。

「アンネッタ、この子が昨日話したルームメイトのシェルティア・スノウズよ。ここの施設のことは、あなたがいろいろと教えてあげてちょうだい」

「了解しました!」

「じゃあ私は仕事に戻るわね。あとはよろしく頼むわよ」

「はい!」

レイナはそこでシェルティア達に背を向けて去って行った。

「さ、入って入って!」

アンネッタは嬉しそうにシェルティアを呼び、シェルティアは部屋の中に入った。部屋の中には二段ベッドと、奥に二人分の机、クローゼットに小さなドレッサーと照明だけの、簡素で清潔な部屋であった。だがアンネッタの趣味なのか、ドレッサーにはリボンの付いたレースが掛けられてあったり、カーテンはピンク地に花をちりばめたデザインのものであったりと、ちらほらと乙女らしさが垣間見えた。

「えーっと、初めまして! ルームメイトのアンネッタ・シプレです。今まで一人部屋も同然だったから、お友達が増えてとっても嬉しいの! これからよろしくね」

 アンネッタは人懐こい笑みで自己紹介をする。どうやら優しくて明るい娘のようなので、シェルティアはやっと心底安心した。

「私はシェルティア・スノウズ。こちらこそよろしくね」シェルティアは村を出てからそこで初めて笑顔になった。すると、アンネッタはじっと目を輝かせてシェルティアを見つめる。

「どうしたの?」

小首を傾げてシェルティアは尋ねた。

「その髪…とっても綺麗ね! こんな綺麗な銀の髪、初めて見たわ! 月光をそのまま髪にしたみたい!」

まるで詩人のような表現を交えながら、アンネッタはシェルティアの髪を褒めた。髪のことを褒められたのは幼い頃以来なので、シェルティアはこそばゆさを感じる。この髪の色は、母・エレノアから受け継いだものであった。

「ありがとう。そう言うアンネッタだって可愛いじゃない」

「そんなことないよ! あ、立ち話も何だから椅子に座って話さない?」

 アンネッタの提案でシェルティアは荷物を置き、机に収まっていた椅子を引っ張り出して向かい合う形で座った。

「あの、事前に話を聞いたよ。その…なんていえばいいのか分からないけれど…」

 アンネッタはそう切り出すと、曇った表情で口を噤んだ。恐らくシェルティアの村の惨事についてどう触れて良いのか分からず、言葉を探しているのだろう。

「気にしないで。…あれは本当に…不運としか言いようがなかった。さっき団長から聞いたけど、団長もネメシスに大切な人たちの命を奪われたって…ここにはそんな人も大勢いるんでしょう? だから、私ばかり悲しんでる場合じゃないって分かったの。だから、村のことは気にしないで」

シェルティアは半分、自分にそう言い聞かせて納得するようにした。

「うう…ごめんなさい。本当はお互いの出身のことについて話そうとしたんだけど、シェルティアちゃんの村は大変なことになって、だから触れちゃいけないと思ったんだけど…」

 アンネッタは顔を俯かせた。シェルティアはアンネッタがそのように切り出した理由が分かった。

「そういうことだったんだ。アンネッタはどこの出身なの? ここは色んなところから人が来ているって聞いたけど…」

シェルティアの質問にアンネッタは顔を上げた。

「私はミネア帝国。帝国の南西部にあるオーディルっていう街で生まれ育ったの」

「そこは…どんな所なの?」

ずっと山間の村で暮らしていたシェルティアにとって、平地の、それも都会の生活というもののイメージが今一つ湧かなかった。

「んー、帝都からかなり離れているから結構田舎だよ? 静かでのどかで…時々蒸気機関車の音が聞こえて来るの。駅があるからね。その環境のせいか、貴族の静養地になっているんだ」

「蒸気機関車が停まるなら全然田舎じゃないよ。私の村は鳥と風の音と…時折狩りをする銃声しかしなかったから…本当の田舎ってこういう所を言うんだよ」

 村のことを思い出しながら語ると、シェルティアは胸の奥がきゅっとするのを感じた。もう戻っては来ない村の風景が、悲しく見えて来た。一方アンネッタは、感動した表情になっている。

「素敵な所ね…。本当の静かな場所って言うのはそういう所を言うんだろうな…」

「そうね…」

アンネッタの言葉に、シェルティアは短く答えるので精一杯であった。シェルティアの表情に気が付いたアンネッタは慌てて話題を変える。

「そ、そうだ、シェルティアちゃんは今まで剣の経験はあるの?」

 アンネッタの質問にシェルティアははっとして、またアンネッタに気を使わせてしまったと気付く。いい加減村のことは整理しておかなければと、自分を叱咤する。そして、表情を穏やかなものに戻した。

「ううん、せいぜい麦を刈る鎌か、鳥をさばく肉切り包丁しか刃物は持ったことは無いよ。だから、自分がネメシスを倒せて、ここにいるのが不思議で…」

「確かにその細腕は剣を握るようには見えないね。私も殆ど剣は持ったことはないんだ」

「え、じゃあどうしてアイギスに?」

「私…自分の家の近所でネメシスに襲われた人たちを見てから、どうしてもネメシスの被害を減らしたくて…でも、試験に合格したのはギリギリ。剣じゃなくて医術の知識を買われて入ったから、殆ど救護要員なの」

「…アンネッタは偉いわね。人々の為に自分が出来ることをしようとしている…それは中々出来ることじゃないよ」

 シェルティアが言うと、アンネッタは大きくかぶりを振った。

「ううん、私なんて…皆の役に立てなくていつも補佐ばかり。ネメシスと真正面から戦う人たちは凄いよ…」

「アンネッタは自分の使命をしっかり果たしているから、そんなこと気にすることないよ」

「…ありがとう、シェルティアちゃん」アンネッタは少し間を置くと、はにかんだ。

「シェルでいいよ」

「え?」

「私の呼び方。村では皆からそう呼ばれていたの」

「そっか。じゃあこれからそう呼ばせてもらうね、シェルちゃん!」

 アンネッタとシェルティアは互いに笑いあった。同居人と早速打ち解けたことでシェルティアの緊張は緩んだ。これで暫くは孤独感に悩まされることはなさそうであった。



 午後六時を告げる鐘の音が聞こえ、シェルティアはアンネッタに案内される形で夕飯をとる為に食堂へと向かった。

「食堂はこっちとは反対の場所にあるの。入って来るときに二つの大きな塔が見えたでしょ? その内の右側…東の塔の一階にあるの。そっちの塔には雨が降ったときの為の屋内訓練所に武器庫もあるよ。それは階段を上がらないといけないけどね。西側の塔は大広間や会議室があるよ。あ、あとどちらの塔にも娯楽室があって、地下には研究施設もあるんだ」

「地下もあるんだ。…研究施設って、一体何を研究しているの?」

「錬金術もそうだけど…主にネメシスの研究かな。ネメシスの死骸を研究班に討伐隊が持って帰って、ネメシスの弱点や体の構造なんかを研究してるみたい。ネメシスの弱点を突き止めたのも研究班の成果なんだよ」

「そう…でもその人たちは大変よね。気味悪いネメシスを扱わなきゃいけないんだから…」

「うーん、そうでもないかも…あの人たちは好きこのんで自らネメシスの研究に携わっている感じかな。ちなみにその研究班の人たちもに後方支援として戦いに出されることがあるんだ。ここはいつも人員不足だからねー」

アンネッタは嘆くように、最後はため息をついた。

 アンネッタと話をしている内に、賑やかな声がする食堂へと着いた。食事が出されるカウンターには男女の長い列ができ、テーブルには食事をしながら談笑する、主に若い男女が大勢いた。皆私服姿であり、ほっとしているような雰囲気と、食事の良い香りが漂っている。

「食事を貰うときはここにあるトレイを持ってあの列に並ぶんだ。行こう!」

 アンネッタに言われ、シェルティアも皆に倣って列に並んだ。

「はい次! 後が詰まっているから早くお行き!」

奥から威勢の良い中年の女の声が聞こえて来た。

「あれが食堂の料理長で、皆から〝食堂の主〟って言われているヘザーおばさんよ。少しでも残したらすっごく怒られるから気を付けてね。でも、ヘザーおばさんの料理凄く美味しいから、そんな心配ないと思うけど」

尋ねるまでもなくアンネッタが説明をし、シェルティアは苦笑した。昔、隣の隣に住んでいたおばさんを思い出したからである。そのおばさんもよく、食べ物で遊んでいる子供を見ると烈火の如く怒っていた。お陰で食べ物のありがたみを身に染みて感じることが出来たものであった。

 列はどんどん進み、シェルティアは食事を貰う為にトレイをカウンターの上に置いた。

「はい次! …おや、見たことのない顔だね」ヘザーはシェルティアが新顔だということに気が付いた。

「あ、今日からここでお世話になるシェルティア・スノウズです。よろしくお願いします」

 シェルティアが挨拶をすると、ヘザーが微笑んだ。

「そうかい、ここの仕事は大変だから、いっぱい食べて頑張るんだよ!」

「はい!」

ヘザーの迫力に押される形でシェルティアも勢い良く返事をした。夕食のパンとスープ、サラダにフライされたジャガイモと魚が皿に盛られたものをトレイに載せ、急いで列から離れた。先に食事を貰い、席についていたアンネッタの元へ行く。自分の為に向かい側の席をアンネッタは空けておいてくれた。

「ヘザーさんって良い人ね」

席に着きながらシェルティアはアンネッタに言った。

「うん。食事時じゃないときにここに来ると、温かいミルクや紅茶を出して、相談にも乗ってくれるの。食事のとき以外は優しい人で、皆のお母さんみたいな存在だよ」

 アンネッタの言葉にシェルティアは納得する。あの恰幅の良さと、大きく構えた雰囲気はまさしく母のような存在感があった。

「あら? アンネッタじゃない」

二人が食事に手を付けようとしたとき、少女の声が聞こえて来た。声をかけられた方を向くと、波立つ長いプラチナブロンドの髪に、新緑のような瑞々しい緑の瞳の、美しい少女がいた。フリルのブラウスに、絹のブラウンのスカートというこの大勢の人間がいる中で、一際上品さがある出で立ちであった。少女の背後には三名の少女が控えており、その少女たちを率いる女王のような印象をシェルティアは持った。

「そっちの銀髪の娘は初めて見る顔ね。新入りさん?」

続けて少女はアンネッタに尋ねる。

「うん、今日から入ったんだ。名前はシェルティア、シェルちゃんだよ」

「…シェルティア・スノウズです。よろしくお願いします」

シェルティアは立って自己紹介をした。

「私はメリッサ・ラヴェル。ところで…今日ここに来たってことは、もしかして噂になっているネメシスを二体討伐したって人間はあなたのことかしら?」

 メリッサの話を聞いて、シェルティアは目を丸くした。そんなことがもうアンネッタ以外にも伝わっていたのかと驚く。だが、いつまでも固まっている訳にはいかないのでシェルティアは小さく頷いた。すると、メリッサの目付きがやや鋭いものとなった。

「そう…凄い腕を持っているのね。あなた出身は?」

「え? カリアス王国の…クランヒルという村です」

メリッサの態度が不機嫌なものに変わったことを察し、疑問に思いながらも答える。

「ふーん、全然知らないわ。地図でも見たことが無いし。ま、よろしくね」

 メリッサはそれだけ言うと、シェルティアの後ろの空いている席に座った。シェルティアはなぜメリッサの態度が刺々しいものに変わったのか分からないまま、自分も席に座る。すると、アンネッタが身を乗り出した。

「メリッサちゃんはエランド王国の元貴族の娘さんなの。それからアイギスに入って、討伐隊の中でもエースなんだけど…シェルちゃんが剣術も習ったことが無いのに、ネメシスを倒せたのがちょっと気に入らないみたい…」

小声でアンネッタはシェルティアに教えた。それを聞いてシェルティアもメリッサの態度の変わりように納得する。田舎のどこの馬の骨とも知れない娘に、あっさりネメシスを討伐されて元貴族としても、エースとしてもプライドを傷付けられたということである。シェルティアにはメリッサのその自負が理解できなかった。

「…分かった。それより早く食べよう? せっかくのご飯が冷めちゃう」

 シェルティアが言うとアンネッタも頷いて、椅子に座り直した。それから二人は食事に手を付け始めた。

「それにしても、ここはいつも混んでいて嫌ねえ。泥臭い田舎の人間もいるから、こっちにまで臭いのが移っちゃいそう」

メリッサはあからさまにシェルティアに聞こえるような声で話す。取り巻きの少女たちはクスクス笑った。アンネッタは気まずい表情をしたが、シェルティアは気にしないようにした。だが、メリッサの話はまだ続く。

「全く、田舎者は大人しく帝国に搾取されながら農業でもしていればいいのに、アイギスはそんな田舎者まで受け入れちゃうんだもの。そこだけは本当につくづく嫌になっちゃう」

 少女たちはまたクスクスと笑った。最初は聞き流そうとしていたシェルティアも、今の言葉は聞き捨てならなかった。ガタンと音を立ててシェルティアは立ち上がる。

「…今の言葉、取り消しなさいよ」

シェルティアは背後にいるメリッサを睨んだメリッサも振り向いて立ち上がる。

「あら、聞こえていたの? でも今のは私たちの話で、あなたには関係ないじゃない。それとも田舎者だから気にして―」

メリッサは最後まで言えなかった。シェルティアが右手の手の平で勢い良くメリッサの頬を打ったのである。騒がしかった食堂が一斉に静まり返った。

「っ、何すんのよ!」

メリッサは睨み返す。それに対してシェルティアはメリッサの前で睨んだまま、仁王立ちになる。

「私の悪口ならいくら言っても構わない! でも、税を納める為に頑張っている、あんたが言う泥臭い田舎者だという人々を侮辱するのは許せない! あんたが食べているパンは、魚は、ジャガイモは、一体誰が作っていると思っているの!? その人たちの苦労も苦悩も知らないくせに、勝手なことばかり言うんじゃないわよ!」

シェルティアは腹の底から叫んだ。

「何ですって!? この…汚い手で触るんじゃないわよ!」

一方メリッサはいよいよ怒りを爆発させ、手を上げる。その手はシェルティアの左頬を打った。シェルティアは負けじとまたメリッサに平手を食らわせようとしたそのとき、

「何の騒ぎだ!」

男の声が食堂内に響き、思わずシェルティアはそのまま固まる。同じくメリッサも静止した。暫くして二人の間に、一人の長身の男が立った。切れ長の淡いブルーの目、深い紺の髪のその男は、立っているだけで威厳というものが感じられた。メリッサは男の顔を見るなりさっと顔の色を赤から青に変えた。

「ア…アシュレイ隊長!」

メリッサは上ずった声で男の名を呼んだメリッサの様子と言葉から、シェルティアは男の正体を知ることが出来た。

「久し振りにここで食事をしようと来てみれば、一体何の騒ぎだ? 誰か説明をしてくれ。…ん?君は…もしかすると今日入団して来たという人物か?」

 アシュレイはシェルティアを見ると、そう声をかけて来た。

「はい、シェルティア・スノウズです」

シェルティアはアシュレイに向かって名乗った。アシュレイはその後で、シェルティアとメリッサの顔を交互に見ると、事態を看取した表情になる。

「その赤くなった頬を見ると、ここで暴力沙汰があったのは確かだな。シェルティアは入ったばかりだから分からないだろうがメリッサ、公共の場で仲間同士の暴力を起こすと、どういうことになるか知っているな?」

アシュレイが問うと、メリッサは一瞬体を震わせた。

「はい…心得ております…」

弱々しくメリッサは答えた。

「本来ならば二人とも懲罰房行きか自室謹慎だ。だが…シェルティアは入ったばかりで右も左も分からず、まだこの場所に馴染んでいないだろう。今回だけは見逃すことにしよう」

「ありがとうございます!」

メリッサは安堵しながら言った。アシュレイはシェルティアを再度見る。

「シェルティア、勢いがあるのは良いことだが、仲間に暴力を振るってはいけない。かけがえのない仲間なのだからな」諭すように言われたシェルティアは、反論やメリッサに対する怒りをぐっと飲み込んだ。

「はい、肝に銘じておきます」

アシュレイを見据えて答えると、アシュレイは頷く形で返し、その場を離れた。

 食堂は再びがやがやと騒がしくなり始める。メリッサはきっ、とシェルティアを睨むと、トレイを持って取り巻きの少女と共にシェルティアから離れて行った。

 シェルティアも昂った感情を落ち着かせながら席に着く。そのまま無言で夕食に手を付けた。パンもスープもフライもおいしいのだが、気持ちが落ち着かないせいで味わうことは出来なかった。



 自室へ戻る途中、アンネッタは、用事があるから先に戻っていてくれと言って、シェルティアと一旦別れた。シェルティアは一人で部屋に帰る。暗い室内をガス灯に火を入れて明るくした。すると、シェルティアの机の上に藍色の制服が畳んで置かれていた。アイギスの制服である。シェルティアはそれを広げて体に当ててみる。袖も裾もほぼぴったりであった。だが、入団初日からあんな騒ぎを起こしてしまい、この制服を着ることは無いのではないかと今更不安になる。だが、メリッサの言動は許せず、自分の主張を曲げるつもりはなかった。

「あ、制服届いたんだね!」

そう言いながらアンネッタは入って来た。手には氷袋を持っている。

「はい、これ。頬を冷やすと良いよ」

その氷袋をアンネッタはシェルティアに差し出した。シェルティアは制服を机の上に置き、代わりに微笑んでその氷袋を受け取った。

「ありがとうアンネッタ。わざわざごめんなさい」

「気にしないで。それより、まさか隊長があんなところにいるとは思わなかったなあ…」

 アンネッタの言葉にシェルティアはぎくりとする。

「あの…さっきの男の人はどこの隊長なの?」

鼓動が速くなるのを感じながら、シェルティアは尋ねる。

「私も所属する…と言ってもアイギスは二つの部隊と一つの班、それと文官の人しかいないんだけど、その内前線に立ってネメシスと戦う討伐隊の隊長だよ。名前はアシュレイ・バルフォア。アイギスでは一番ネメシスを討伐している人で…剣の腕は誰も隊長には及ばない。だから隊長っていう役目なんだけどね」

「そう…」

シェルティアはそこでため息をついた。それを見たアンネッタは一瞬まずい、といった表情をしたあと、笑顔になる。

「大丈夫だよ、隊長は心の広い人だし、さっきも見逃すって言ってくれたから! すぐ追い出すとかアイギスはそんなことしないから!」

「…ありがとうアンネッタ。アンネッタには迷惑ばかりかけているね…」

「全然そんなことないよ! だって友達兼仲間だし! それにこれからこっちも迷惑かけるかもしれないから、そのときはよろしくね」

アンネッタの言葉に、シェルティアは深く頷いた。メリッサに叩かれた頬を氷袋で冷やしながらシェルティアは、アンネッタとアリーの姿を思わず重ねてしまった。



 翌朝、鐘の音と共にシェルティアは目を覚ました。〝高い所は苦手〟というアンネッタは二段ベッドの下に、そしてシェルティアは上で寝ることになった。階段を降りると、アンネッタは横を向いてすやすやと眠っている。シェルティアは申し訳なく思いながらも、アンネッタを揺り起こした。

「んー…まだ早いよー…」

身じろぎしながらもごもごとアンネッタは言った。

「あの鐘は起床の為の鐘じゃないの?」

シェルティアは確認する為に訊いた。すると、アンネッタは跳ね起きる。

「えっ、もう鐘鳴ったの!?」

あちこち髪をハネさせたアンネッタは大きな眼を瞬かせて叫んだ。シェルティアは頷く。

「そっか、良かったあー…。また朝礼ギリギリになるところだったよ。ありがとう、シェルちゃん」

「どういたしまして。早起きは慣れているから」

「じゃあ、これから私が起きないときはシェルちゃんが起こしてね! 私、朝って苦手なんだよー…」

「分かった。朝は任せて」

 二人は起きて髪を整えたあと、制服に着替える。慣れない革のベルトに手こずりながらもシェルティアは何とか袖を通せた。

「わー、シェルちゃん似合うよ! 何か印象が少し変わって…かっこよくなった感じ!」

 アンネッタは感激の声を上げた。シェルティアはアンネッタの率直な感想に照れてしまう。自分は〝着られている〟という感覚があった。

 鐘が鳴ってから三十分後に朝礼が始まる。その前に洗顔や歯磨きを済ませてしまわねばならない。その為女子宿舎の洗面所は毎朝混み合っていた。人を掻き分け視線に急かされながら、シェルティアとアンネッタは洗顔と歯磨きを終える。その後は朝礼がある訓練場へと向かった。       

雲一つない空の下、訓練場には左から討伐隊、調査隊、研究班がずらりと整列する。各部隊は腕章の色が違い、討伐隊は赤、調査隊は青、研究班は緑である。所属が決まっていないシェルティアはとりあえずアンネッタと共に討伐隊の列へと並んだ。アイギスの総員数は約八百人。組織としてはかなり少ない人員である。この人数ならば帝国国内だけで手一杯というのも頷けた。

 中央の台に団長のゲオルギウスが登壇すると、全員一斉に敬礼をした。シェルティアもアンネッタに教わった通り、左手で敬礼をする。ゲオルギウスが返礼をすると、敬礼を止める。朝礼といっても、ゲオルギウスが話すだけであり、討伐などで人員が一人でも欠けている場合は行わないと、これもアンネッタから教わった。ゲオルギウスは息を吸うと、全員に声が届くように腹から声を出して話し始める。

「アイギスの団員諸君、おはよう。今日もまた平穏な朝を迎え、皆の顔を見れたことを嬉しく思う。だが、こうしている間にもまたネメシスの被害者は出ているかもしれない。我々は今日も気を引き締めて、ネメシス出没の際はいつでも動けるように万全の態勢でいなければならない。訓練の間も決して気を緩めることのないように。以上! 解散!」

 ゲオルギウスはそこで話を終えて敬礼する。皆もまた一斉に敬礼をした。ゲオルギウスが降壇すると、文字通りの解散である。皆散り散りになり、朝食を終えてから各々訓練や任務に当たる。シェルティアもアンネッタと共に訓練場を去ろうとしたそのとき、

「シェルティア・スノウズ!」

と名前を呼ばれたので振り向いた。眼鏡をかけた黒髪の女がこちらへ歩み寄ってきたので、シェルティアも足を止める。

「あなたがシェルティアね?

」女は確認するように問う。女の腕章は黄色―文官の者である。

「はい、そうです」

「団長からの伝言です。朝食のあと、西塔三階にある会議室に来なさい。そこで簡単な座学のあと、あなたをどこへ配属するのかをテストします。伝達は以上です」

「分かりました」

シェルティアがそういう前に、女はもう踵を返していた。かなりそっけない態度だが、悪意は感じられなかった。本当に仕事をこなしているだけと言った感じである。

「そっか、どの部隊に配属されるか決まるんだね。同じ討伐隊になれると良いね!」

 傍で話を聞いていたアンネッタがそう話しかける。シェルティアは頷いた。シェルティア自身も昨晩眠りに就く前に、村の人々の命を奪ったネメシスに鉄槌を下したいと思っていた。その為には是が非でも討伐隊に入りたかった。



 食堂に行くとやはり混雑していた。昨晩と光景が違うところは、皆藍色の制服を着ているということである。アイギスでは朝礼から午後五時の鐘が鳴るまでは制服の着用が義務付けられている。シェルティアはアンネッタと一緒に昨日と同じく列に並ぶ。すると、席に着いていた何人かがシェルティアを指差したり、見たりしながらひそひそと話しているのが目に入った。恐らく昨日のここでの騒動のことだろう。見る限り銀の髪をした者はシェルティア一人しかいないので、余計に目立っていた。シェルティアは内心ため息をつきつつも、相手にしないようにした。列が進み、シェルティアが食事を貰う番となった。

「はい次! あら、あんたは昨日の…」

ヘザーはシェルティアに気が付いた。

「おはようございます。あの、ヘザーさん、昨日はすみませんでした」

 シェルティアは開口一番に謝る。すると、ヘザーは顔を綻ばせた。

「良いんだよ! ここでの喧嘩なんて珍しくもなんともない! むしろあたしはあんたの言葉が嬉しかったよ。食べ物を大切にしてくれているってことが分かったからね。じゃあ、きょうもしっかり食べて頑張るんだよ!」

「はい!」

シェルティアも笑顔で答えた。トレイに食事が載せられると前へ進み、アンネッタと向かい合うように席に着いた。

「ヘザーさん、怒っていないみたいで安心した」

シェルティアはフォークでスクランブルエッグをつつきながらアンネッタに話す。

「ヘザーさんは食べ物に関するとき以外は優しいからね。全然気にしていないと思うよ」

 アンネッタも笑った。ふとシェルティアは周りを見回す。見たところメリッサはいないようであった。

「メリッサちゃんのこと気にしているの?」

アンネッタはシェルティアの心を読んだかのような質問をした。

「うん。…ああいうタイプの輩はまた絡んでくるかもしれないから。村にも、小さい頃だけどそういう男の子達がいたのよ。一度手酷い目に遭わせてから来なくなったけど」

「ダ、駄目だよ!? 暴力沙汰は! 昨日はシェルちゃんが入ったばかりだから見逃してくれたけど、もう正式な団員だから今度こそ罰を受けちゃうかもしれないよ!?」

「大丈夫、もうそんなことはしないから。私もここを追い出されると困るしね」

 シェルティアが言うと、アンネッタはほっとした表情になった。シェルティアも今言ったようにするつもりだが、メリッサがどのように出てくるかは分からない。十分気を付けなければ、と心の中で自分に言い聞かせた。



 朝食が終わってアンネッタと別れると、シェルティアは幅の広い螺旋階段を上って三階の会議室を目指す。〝会議室〟と書かれた板がぶら下がっていたので、迷うことなく辿り着いた。ノックをして扉を開ける。

「失礼します」

シェルティアは中に入った。会議室は長机が正方形になるように配置されており、椅子もたくさんあった。そしてその中には二人の男だけしかいなかった。一人は眼鏡をかけたロマンスグレーの髪の、ひょろ長い体に白衣を着た男、もう一人は口髭をはやした、黒い髪を短く切り揃えた強面の中年の男である。二人ともシェルティアが入って来たのを見る。

「おっ、君がシェルティア・スノウズ君かい?」

白衣の男の方がにこやかに話しかけて来た。

「はい。よろしくお願いします」

「僕は研究班班長のケヴィン・クラート。こっちの彼は新人指導役のビリー・シモンズだ。僕が座学の担当で、ビリーは剣術のテストを担当する。まずは僕の座学からだ。そこに紙とペンがあるだろう? その席に座ってくれたまえ」

 シェルティアはケヴィンの言う通りに座った。ビリーの方は黒板がある方から壁際に移動し、ケヴィンが壇上に立った。

「さて、楽しいお勉強を始めようか。まずはこのアイギスについてだ」

ケヴィンはそう言うと黒板にあるチョークを手に取ってアイギスの組織図を書き始めた。シェルティアはペンにインクを付けて、その黒板に書かれてあるものを写していく。まるで学校というものに来た気がして、少しワクワクした。ケヴィンはチョークを置いて話を始める。

「アイギスは団長を中心に三つの部隊と、事務係が存在する。もちろんこれは前々から聞いているかもしれないけどね。ネメシス出没の伝達を受けてネメシスを討伐する〝討伐隊〟。これはアイギスの核とも言える部隊だ。そして二つ目は〝調査隊〟。これは文字通り帝国内を中心に巡回したり、住民の話を聞いたりして調査に当たる部隊だ。三つ目は僕が率いている〝研究班〟。討伐隊が持ち帰ったネメシスの死骸…我々は検体と呼んでいるが、その検体を解剖し、分析してネメシスの弱点を探し出すことをしている。これら三つの内二つの部隊、研究班と調査隊は討伐隊の後方支援に当たり、実際に現場に行くことも珍しくない。何せ人数が少ないからね。時には戦ったりもする。だからこのアイギスにいる団員たちの個人差はあるものの、基礎的な戦闘技術は身についている。それに団長のように帝国軍からここへ流れて来た人も少なくないのだ。だから君がどの部隊に配属されようとも、最低でも一回は剣を振るい、銃の引き金を引かなければならない。アイギスについてはこのくらいかな。何か質問は?」

「いえ、ありません」

シェルティアは首を横に振って答えた。一回は剣を振らなくてはいけないと聞いたが、目の前にいるケヴィンはとてもそんな風には見えなかった。剣というよりは、メスが似合いそうな人物である。

「では次に、本題とも言えるネメシスについて学ぼう。ビリー、悪いがカーテンを閉めるのを手伝ってくれないかい? 幻燈機を使って説明をしよう」

「分かりました」

ビリーは低い声でそう答えた。窓のカーテンが光を遮り、室内は一気に暗くなる。ケヴィンは黒板の上に吊られている白い幕を下ろした。この幕に幻燈機の画像や映像を投影して映し出すのである。三本の長い脚が付いた黒色の四角い箱に、レンズが付けられている。この小さい箱から様々な画が出て来るのは、シェルティアにとって信じ難かった。

「さて、幻燈機のスイッチを入れるよ」

ケヴィンの合図と共に、白い幕には人の頭と獣が融合したおぞましい生物―ネメシスが現れた。四足歩行のものから二足歩行、そして鳥の身体に翼を持ったネメシスもいた。それらを見た瞬間に、シェルティアは寒気が走り、鼓動が速くなる。浅くなりそうな息を抑えつつ、〝大丈夫、これはただの写真だ〟と自分に言い聞かせた。

「ご覧のネメシスは、とてもこの世のものとは思えない生物だ。古来より存在した、人間の天敵だ。だが、徐々に数は減少し、一度は絶滅したかに思われていた。しかし、そのネメシスは三百年前の境界戦役末期に再び、突然急増した。最初に発見されたのはエランダ王国の森林地帯だったと言われている。それから日を経るにつれ似たような生物の目撃が相次ぎ、戦争の最中でネメシスの犠牲者もひっそりと増加していった。彼らは見た目だけでなく、身体構造もこの世のものとは思えない程だ。頭を刎ねても手足を切っても、一時的には動けなくなるが、死んではいない。暫く経つとまた新たに生えて来る。まるでトカゲの尻尾のようにね。そんな彼らの唯一の弱点は、胸部にあるコア…通称ネメシス結晶というものを破壊することだ」

 そこで幻燈機は画像を切り替え、無色透明のまるで宝石のような結晶の画像が出て来た。「これがネメシス結晶だ。この結晶を色々解析してみたが、この世のどの鉱物共成分が一致せず、今のところ謎のままなんだ。そもそもなぜ、どのようにして彼らが生まれたのかも謎だ。一方でネメシスは生きている間は体毛一つからでも分裂し、結晶もそのときに生成され、増加していると考えられている。そして捕食対象である人や動物を食らい、さらに力を増強させている。だからネメシスを討伐したあとは死骸を捕食して分裂を繰り返さないように火で焼き、燃やしきってしまわねばならない。ちなみにこの結晶は高温の熱に弱いんだ」

 ここまでの説明を受けて、シェルティアは気分が悪くなりそうであった。村が襲われたあの夜のことを思い出してしまう。

「さて、座学はここまでかな。ここまでに質問はあるかい?」

「…いいえ、ありません」

シェルティアは何とか声を出して答えた。ケヴィンは頷き、そこで幻燈機も切られた。ビリーとケヴィンがカーテンを開けると、日光が室内に溢れ出す。その眩しさにシェルティアは目を細めた。

「いやー、それにしても最後まで画像から目を逸らさず、途中でトイレに駆け込むことが無い子は久し振りだなあ! 素晴らしい精神力だよ」

ケヴィンは笑顔でシェルティアを褒め称える。

「いえ…ネメシスの画像を見たときは気分が悪くなりました。私は…全然強くなんかありません」

シェルティアは正直に話す。するとケヴィンは分かっている、という風に小刻みに首を縦に動かした。

「そうか…でも君なら大丈夫だと僕は思っている。それに辛いときは、仲間とその気持ちを分かち合うのも自分の心を慰める一つの手段だ。誰も彼もが皆、強いわけではないのだから、無理をして気丈に振る舞わなくても大丈夫なのだよ」

「…はい」

ケヴィンの言葉は傷付いていたシェルティアの心に深く沁みた。自分には新たな友人や仲間もおり、一人ではないのだと改めて実感する。

「それでは、次は実技テストだ。ビリー、後は任せたよ」

「分かりました。スノウズ、私に付いて来い。まずは武器庫に向かう」

「はい!」

シェルティアは先程までメモしていた羊皮紙を畳んでポケットに入れた。部屋を去る際、ケヴィンはにこやかに手を振っていた。



 シェルティアはビリーと共に移動し、東の塔にある武器庫に入った。ビリーは鍵を開けて鉄の扉を開く。武器庫と言うだけあって、盗難などが無いように厳重に武器が保管されている。中は剣や銃を始めとして、斧や鉄球、短剣に槍やシェルティアの身の丈の二倍はある大剣まで壁に掛けられていた。

「よし、訓練場へ向かうぞ」

シェルティアが珍しがって武器類を見ている間に、ビリーは剣と防具を二人分持っていた。さっさと歩いて行ってしまうビリーをシェルティアは慌てて追いかける。

 外の訓練場へと出ると、木の人形相手に斬りかかったり、仲間同士で様々な武器の稽古をし、刃と刃がぶつかりあう音、そして向こうでは時折銃声も聞こえて来た。ビリーとシェルティアは訓練の邪魔にならないよう、隅の方へ行く。

「まずは防具の付け方だ。ネメシスとの戦いは身のこなしの早さが優先される為、胸当てと手甲のみとなる。まずは私が付けるから見ていろ」

 シェルティアはビリーに近付いて、防具の付け方を見る。胸当ても手甲も、ベルトを体に通し、留め金で最後に固定するという簡単なものであった。ビリーには銀色の胸当てと手甲がはめられている。

「では、やってみろ」

ビリーに言われ、シェルティアは胸当てから体に付け始める。装着自体は難しいものではなかったが、予想していたよりも重いのに驚かされた。手甲も同じである。

「うむ、初めてにしては中々手際が良いな。それが実戦でも使用される防具の重みだ。戦闘のときはそれが自分の身を守るものとなる。逆に言えばその防具のみが自分の身を守ってくれるものであり、本当に自分を守れるのは自分の力だけだ。では、剣を振るう前に手足を回したり伸ばしたりして、体を痛めないようにしろ」

ビリーは淡々とシェルティアに言った。体をほぐす運動を始めるが、防具の重さのせいでどの動きも緩慢なものとなる。それでもシェルティアは目一杯手足を伸ばし、手首と足首を回して怪我をしないように体操をした。

「…よし、次はこの訓練場の周りを十周走れ」

ビリーはまたも淡々と指令を告げる。シェルティアはこんな防具を付けたまま走る自信が無く、目で訴えたがビリーの鋭い眼光は全くそれを受け付けようとしなかった。シェルティアは黙って走り出す。

 走って見るとやはり、重い。一歩進むのが普段走るよりも倍疲れている気がした。二週目に入っただけでかなり息が上がる。ふと歩いてしまおうかとも考えたが、門番の見張りのようなビリーの眼差しがそれを許さなかった。シェルティアは走っている最中に〝いっそのこと、肥料袋を持って走っている〟と考えを転換させることにした。

「そこまで!」

ビリーは声を上げて、シェルティアは走りを歩みに切り替える。ビリーのところにまで行くときには全身が熱く、肺が痛い。汗が額から頬に伝う。荒い呼吸が整うのを待ってから、ビリーは口を開いた。

「次は、実際に剣を握ってみることにしよう。この鞘から剣を抜け」

ビリーは鉄樹で出来た鞘をシェルティアの前に突き出した。柄はレイピアのような、丸みのある形である。シェルティアは初めて剣を握る緊張や興奮を抑える為に一度深呼吸したあと、柄を握って鞘から抜いた。

 青色が混ざった鈍色の刀身のその剣は、独特な形状であった。柄の付近は分厚く広い幅を持っており、剣先に向かうにつれて薄く、尖ったものになっていった。外見はクレイモアが一番近かった。

「それはアゼルソードと呼ばれる、刀鍛冶のエドゥアルド・アゼルが開発した剣だ。この他にも槍、斧、鎌なども存在するが、基本はこの片手剣を使う。ネメシスと戦うときは動きの素早さを優先する為に盾は使わない。この剣一本で攻撃と防御を二つこなすことになる。そしてその独特な形状は戦況に応じて打撃・斬撃・刺突の三つの攻撃を行う為のものだ。この剣の使い方に決まった型は無い。剣と自分が一体になるように経験を積んで、使いこなしていく」

 ビリーの説明を聞きながら、シェルティアは剣をまじまじと見つめた。説明を聞く限りでは、扱いが難しそうな剣である。だが、心のどこかで〝自分はこの剣を使いこなし、ネメシスを倒して見せる〟という強い意欲もあった。

「では、まずは素振りだ。自由に自分で剣を振ってみろ」

「はい」

シェルティアはビリーから少し離れる。まずはどのような体勢で素振りをするかである。剣の重さは、村で使っていた鍬と同じくらいである。鍬と剣を一緒にしてはいけないのだろうが、村では父から腰を痛めないように、右足を前に出し、左で支えてバランスを取るようにと教わった。シェルティアはそのような体勢にしてみる。ふとここでシェルティアは、あることに気が付いた。

「あの…質問をしても良いですか?」

「何だ?」

「皆さんはこの剣を片手で使っているんですか? それとも両手で?」

「男女差など個人差はあるが、アゼルソードは比較的軽量な剣だ。片手で扱う者が多い」

「そうですか…ありがとうございます」

シェルティアは試しに片手で剣を持ってみた。だが、どうもしっくりこない。そこで両手で持ってみることにした。するとやはり落ち着く。どの部隊に配属されても、剣を持つときはこのスタイルにすることに決めた。

 そこからは両手を振り上げ、斜めに斬ってみたり、真っ直ぐ縦に斬ったり、横に薙いだりもしてみる。そうしている内に時間は刻々と過ぎて行った。ビリーは未だに何も言わず、ただシェルティアを観察しているだけである。息も上がり始め、一体いつになったらこの素振りは終わるのだろうかと、少々辟易してきた。そしてそれから更に時間が経ったあと、

「素振り止め!」

ビリーの声が上がった。シェルティアは息を切らしながら、剣を下に降ろす。

「よし…ではこれから実際に〝斬る〟ということをやる。少しここで待っていろ」

 そう言ってビリーは暫く訓練場をあとにし、また戻ってきた。片腕には人の形をした木の人形が抱えられている。ビリーはその人形をシェルティアの前に立たせた。

「…今からこの人形を斬り倒してもらう。やり方は自由だ。自分が思い描いた通りに剣を振るえ。ただし…半端な気持ちではこの人形を斬り倒すことは出来ない」

 ビリーの言葉にシェルティアは深く頷き、返事をした。剣を両手で握り、構える。目の前にいる堅い木の塊はシェルティアを攻撃することもなければ、逃げることもしない。何の感情も湧かないのである。だが、ネメシスと対峙するときにはそうもいかない。嫌悪、恐怖、憎しみなど、様々な想いを抱くことになる。そんな中で冷静にかつ勇敢に戦う為にも、感情は必要なのだ。シェルティアは木の人形をあの日の夜に遭遇したネメシスに見立ててみることにする。

 ――親友とその家族、そして村の人々の命を奪い、血に濡れ、血の匂いを纏わり付かせてさまよう怪物。それと目が合うと、ぞくりと寒気が走る。ネメシスはシェルティアに狙いを定めて牙と爪を向け、飛びかかって来る。シェルティアは恐怖を振り払ってネメシスへと向かう。

「うあああああ!!」

腹の底から声を出し、ネメシスに下から上へと斬りかかる。ネメシスの身体には大きな傷が付いた。だが、ネメシスはそれだけで倒れることは無い。地面に着地すると、体勢を立て直す。シェルティアも剣を構え直す。この化け物はまず、動きを封じる為に手足を斬った方が良いだろう。シェルティアはそう判断し、ネメシスよりも先に動いて前足の一本を切り裂く。

『ギャアアア!!』

人の顔から苦痛に悶える声が出た。そして、恨めしそうにシェルティアを見る。シェルティアはネメシスと距離を取り、ネメシスの様子を窺う。ネメシスはふらつきながらも立ち上がった。体勢を低くして構える。シェルティアも決着を付けようと剣をネメシスに向ける。ネメシスは低く唸ったあとに飛びかかって来た。

「うおおおお!!」

シェルティアは頭から食われることも覚悟し、ネメシスに向かう。ネメシスの爪を剣の柄に近い部分で弾くと、そのまま胸に向かって剣を突き刺した――。

 ミシミシという音がしたあとに、木の人形は地面に倒れた。それを見たシェルティアは我に返る今倒したのはネメシスではなく木の人形であり、人形の左足と右手が斬り落とされ、胸には剣と同じ大きさの穴が開いていた。

「そこまで!」

ビリーはシェルティアにそう告げ、隣に来た。

「スノウズ、何を考えながらこの人形を倒した?」

ビリーは問う。特に怒っている様子ではなく、純粋に訊きたいといった調子である。

「え…と…」

シェルティアはそこで自分の息が荒く、心臓の鼓動が耳に響いていることに気が付いた。息を整え、改めてビリーの質問に答える。

「村を襲ったあのときを…ネメシスを思い出していました。あのときは肉切り包丁でしたけど、自分の目の前は完全にあの日の夜になっていて、気が付いたら…」

「…分かった。ではこれでテストを終了する」

「えっ!?」

ビリーの言葉はシェルティアにとって思いがけないものであった。これらは今までウォーミングアップに過ぎず、今からが本当の実技試験だとばかり思っていた。

「テストというものは、本人が意識していないときこそ、素の本人の姿を見ることが出来る。防具の付け方から今までがテストだった。では、今から結果を報告する為に団長室へ向かう。剣を鞘に納めて、付いて来い」

ビリーはそう言ってシェルティアに鞘を渡した。

「は、はい!」

鞘を受け取ったシェルティアは剣を収めると、またさっさと歩いて行ってしまうビリーの後を慌てて追い駆けた。



 団長室に入ったシェルティアは、ビリーと団長が相談している間、団長室の皮張りのソファーに座って待たなければならなかった。その間に、今までの行動を省みる。ビリーに対して失礼な行動はしていなかったか、真剣に臨んでいたか、剣の使い方はどうであったか。思い起こしはするが、戦いは素人のシェルティアにとってどれが良くて、どれが悪かったのかはさっぱり分からなかった。自分はネメシスを倒すと誓った。だから何としてでも討伐隊に入りたい。だが、一体どうなるのか―シェルティアは緊張で身を強張らせた。そして数十分後にビリーとレイナ、そしてゲオルギウスが入って来る。シェルティアは思わず立ち上がった。

「やあ待たせたね。では、君の配属先を発表するよ」

ゲオルギウスは緊張しているシェルティアを見て、微笑み、柔らかな声色で話しかける。だが、次の瞬間にその精悍な顔つきは、引き締まったものへと変わる。

「シェルティア・スノウズ。本日から貴殿をアイギス討伐隊への配属を命じる。貴殿のその剣は、ネメシスから民を守る為の剣だ」

そしてゲオルギウスはレイナから、赤い布を受け取る。それをゲオルギウスはシェルティアの目の前に出す。二本の剣が交わり、翼竜が描かれた紋章がある赤い腕章―討伐隊の証であった。

「では、これを」

「はい! ありがたく頂戴いたします!」

シェルティアはゲオルギウスからその腕章を受け取った。遂に、念願であった討伐隊に入隊出来たのだ。嬉しさを抑え、思わず笑ってしまいそうなのをシェルティアは必死に耐えた。

「これからも頑張ってくれたまえ。そして、二つ、守って欲しいことがある」

 ゲオルギウスはじっとシェルティアの顔を見つめた。

「何でしょうか…?」

シェルティアはその視線に重いものを感じた。

「まず一つ目、何よりも自分の命を大切にすること。決して命を投げ打つような真似はしないでくれ。生きて勝つことが、本当の勝利だ。…そして二つ目。仲間を大切にすること。君も含めアイギスの団員は、常に死と隣合わせだ。その苦境を乗り越えるには、何よりも仲間の力が心強いものとなる。自分の命と同じように、仲間の命も大切だということを心に留めておいてくれ」

「…分かりました」

 ゲオルギウスの言葉はよく聞くようなものだが、重みがまるで違った。それはゲオルギウスが沢山の仲間や部下の死を見届けて来たからなのだろう。そして不意に、昨晩出会ったアシュレイの顔を思い出す。アシュレイが〝仲間を大切にするように〟と少し切なそうに言ったのは、きっとゲオルギウスと同じ理由なのだろう。

「…私からの命令は以上だ。討伐隊の待機室は東の塔の三階だ。何か質問はあるかい?」

「はい、あの…私のどの部分を見て討伐隊に配属しようと思ったのですか?」

 シェルティアは恐る恐るゲオルギウスに訊いた。ゲオルギウスは顎に手を添えると、ビリーの方を見る。

「ふむ、それについては実際に見ていたビリーが説明した方が良いだろう」

 ゲオルギウスの言葉にビリーは頷き、一歩前に出た。

「私が特に重要視したのは、いかに自分の力だけで考えて剣を振るうかということだ。お前は自分なりに剣の構え方を見つけ、ただの木の人形をしっかりとネメシスに見立てて斬っていた。現場では臨機応変な対応・思考が求められる。加えて、初めてだというのに剣の筋は悪くない。木の人形を倒す時間は今までのものと比べると早い方であった。剣の扱い方についてはこれから磨いていくことになるだろう。そのような希望的観測も含めてお前を討伐隊に配属した。説明は以上だ」

ビリーは一歩下がった。

「相変わらずの軍人口調だな」

ゲオルギウスは苦笑する。

「長年軍にいましたからね。むしろ団長の方が変わり過ぎなのでは?」

「それはそうかもしれないな。さて、討伐隊に配属された理由は納得できたかな?」

「はい、ありがとうございます」

「隊長のアシュレイにはもう報せてある。今から挨拶に行くと良い」

「分かりました。それでは失礼します!」

「君の活躍には期待しているよ」

ゲオルギウスはそこで敬礼をし、レイナとビリーもそれに続く。シェルティアも敬礼を返し、踵を返して団長室をあとにした。

「…団長、一つ気になることがあるのですが」

シェルティアの足音が聞こえなくなったあとにレイナは口を開いた。

「彼女は少々血の気が多いようにも感じます。昨晩のメリッサとの喧嘩といい、ネメシスに対する力の入れ様といい…頭に血が上って周りが見えなくならないか心配です」

「ふむ…確かにそうだが、アシュレイが何とか監督してくれるだろう」

ゲオルギウスはレイナに対して微笑んで見せた。一方レイナは、そんな呑気な上司に憚ることなくため息をついたのであった。

 


 赤い腕章を左腕に着けると、いよいよアイギスの一員になれたのだと実感し、さっきまで抑えていた笑顔がついこぼれ出てしまう。すれ違う団員からは奇妙なものを見る視線を向けられたが、気にも留めなかった。広い螺旋階段を上り三階に辿り着くと、『討伐隊待機室』の板が下がっていた。浮かれる気持ちを抑え、入口の扉をノックする。

「誰だ?」

中からは昨日食堂で出会った青年、アシュレイの声がした。

「本日から討伐隊配属になりました、シェルティア・スノウズです!」

「分かった。入ってくれ」

「失礼します」

シェルティアが扉を開けて入ると、中にいた団員達が一斉に声を上げた。思ってもみなかった反応に、シェルティアは戸惑う。扉の傍に立っていた隊長のアシュレイは皆の方を見た。

「訓練に出ている者は後から紹介するが、今ここにいる皆への紹介を先にしよう。今日から我々討伐隊の一員になるシェルティア・スノウズだ」

「よろしくお願いします」

シェルティアは皆の顔を見回して挨拶をした。机と椅子にガス灯のみだけの広い部屋には性別も年齢もバラバラな面子であった。皆は好奇の目でシェルティアを見て、部屋の隅にいたメリッサだけが睨んでいた。一方友人のアンネッタは嬉しそうな笑顔を浮かべている。

「分からないことがあれば皆に聞いてくれ。そして皆も快く教えるように」

 アシュレイはそこで待機室を去った。シェルティアは真っ先にアンネッタの元へと向かった。

「良かったシェルちゃん! 討伐隊に入れて!」

アンネッタが言うと、シェルティアも笑顔で頷いた。すると、

「アンネッタ、だから言っただろ? 俺は絶対彼女が討伐隊になるって」

 浅黒い肌に髪も黒い、真昼の太陽のような金色の瞳を持つ青年が笑顔で話しかけて来た。歳はアンネッタやシェルティアよりもいくつか上に見える。

「わ、私も最初からそう思っていたよ!」

アンネッタは頬を膨らませた。

「あの、あなたは?」

シェルティアは青年に名を尋ねる。青年は白い歯を出して笑った。

「俺はスタンリー・オッドネルド。歳は十九。生まれはマリアス王国だ、よろしくな!」

 握手の為に手を出したスタンリーに対し、シェルティアもよろしくお願いします、と言って手を差し出した。アンネッタを挟んで握手をする。

 マリアス王国は帝国本国の南部にあるスール洋に面した国であり、カリアスのちょうど真南に位置する。エランダ王国が誇り高い貴族と敏腕な商人の国とするならば、マリアス王国は海運業と漁師、そして陽気な国だと言われている。マリアス王国は男も女も大胆で陽気だと、以前本で読んだことがあったが、本当にそうらしい。少なくともスタンリーに接して思った。

「それにしても、本当に綺麗な銀の髪だな。訓練場にいてもすぐ分かったよ。まあたとえ髪の色が違っても、分かったと思うけどな」

「あの…見ていたんですか? さっきのテスト…」

「ああ。ここにいる部屋の連中と、同じ場所で訓練していた奴らも注目していたよ。凄い気迫だったな」

 皆に見られていたという事実を知ったシェルティアは恥ずかしさで顔が赤くなる。

「いやいや、恥ずかしいことじゃない。良い意味であんたに注目していたんだ。アシュレイ隊長も感心していたぜ」

「そ、そうですか…」

シェルティアはそれでも恥ずかしかった。大勢の人間に注目されるなど、生まれて初めてである。

「そうそう、あと敬語は使わなくていいぜ! ここでは皆平等だから、隊長や教官以外は皆気軽な話し方だ。俺もアンネッタに倣ってシェルって呼ばせてもらう」

「分かりまし…じゃなくて、分かった。よろしくね、スタンリー」

早くも仲間が増えたことにシェルティアは安堵を覚えた。

「そうだシェルちゃん。スタンリーはこの部隊でも貴重な銃士なんだよ」アンネッタが言った。

「銃士ってことは…銃を使うの?」

シェルティアはスタンリーに尋ねる。

「ああ。もちろん剣も使うけど、俺は銃の方がしっくり来るんだ。銃だと空を飛ぶネメシスにも対抗出来るしな。銃を使うのは部隊の中で大体五十人程か。空中の敵に対しては銃を使って、地上の敵には剣を使う…いわば遊撃的な役割なんだ、ここの銃士ってのは」

「器用なのね、スタンリーって」

シェルティアは世辞ではなく、心からそう思い言葉にした。銃などおっかなくて、自分はとても扱えそうにない。今使われている銃というものは、銃身が長く、パーカッションと言う部分を叩いて点火し、鉛の玉を発射する様式である〝ドラグーン銃〟とも呼ばれ、火を吹く竜をイメージしてそう呼ばれている。帝国統治の以前の〝境界戦役〟と呼ばれる国家間の戦乱の時代は弓矢が主流であった。ドラグーン銃は帝国統治時代に入ってから急速に産業や技術が発展してから普及した。軍事用から狩猟まで用途は様々だが、構造が複雑で扱いも手入れも難しい。だが、剣よりも多様性と攻撃力がある為、武器の主流は銃となり、軍では剣はただの飾りとなりつつあった。

「スタンリーはどこで銃の使い方を教わったの?」

銃に興味が湧いたシェルティアはさらに質問する。

「俺の家は漁で生計を立てて、俺も漁に出ていたんだ。そのとき網に群がろうとする海鳥を威嚇する為に空砲で銃を撃っていたんだ。…俺の住む漁村の近くでネメシスの被害にあった漁師仲間がいてな…両親を説得してアイギスに入ったんだ」

「そう…」

スタンリーもやはりネメシスの被害に、間接的にだが遭っていると知ったシェルティアは胸が痛む。ここはきっと、そんな傷を持った人ばかりが集まっているのだ。シェルティアの表情を見たスタンリーは、慌てて笑顔になる。

「すまん、余計なこと喋っちまったな。ああそうだ、カリアス王国って北の方にあるんだろ? やっぱり冬は寒いのか? 雪が多く積もったりするのか?」

スタンリーは村のことを考えさせないように気を遣って話題を変えた。シェルティアも暗い表情を何とか明るいものにしようとする。

「うん。私のいた村は山間にあったから、腰が埋まるくらい積もるのよ」

「そりゃスゲーな!」

「うん、カリアス王国のことってよく知らないから、もっと話聞きたいな」

 スタンリーにアンネッタも加わる。それからシェルティアとスタンリーは互いの国の話で盛り上がり、アンネッタは楽しそうに聞いていた。

 暫くして、時刻を報せる鐘の音とは違う、低くてけたたましい鐘の音がカンカンと聞こえて来た。

「この鐘の音は?」

シェルティアは二人に尋ねる。

「訓練交代の時間だよ。訓練場はそんなに広くないから、時間を分けて使っているの。今度は私たちの番」

アンネッタが答えた。確かに待機室にいる仲間は防具を付け始め、次々と部屋をあとにしている。スタンリーとアンネッタも防具を付け始めた。

「では、行くわよ」

ツンとすました声でメリッサが取り巻きの少女たちに言うのが聞こえた。メリッサはシェルティアには目もくれず、気取った足取りで部屋を出て行った。

「準備できたよ、行こうシェルちゃん」

アンネッタは剣を、スタンリーは剣を腰に差し、銃を担いでいた。シェルティアは頷き、三人で訓練場に向かった。


「じゃあ私は別の場所で訓練するから、またお昼にね」

「俺も向こうの射撃場だ。じゃあまたあとでな」

「うん、二人とも怪我には気を付けてね」アンネッタとスタンリーはそれぞれ別の場所へと向かい、シェルティアは一人になった。

「…一人になったけど、稽古ってどうすればいいんだろう…」

シェルティアは一人呟く。すると、背後に気配を感じた。

「シェルティア・スノウズか?」

振り向いてみると、そこには自分と同じか、少し上くらいの年の少年が立っていた。栗色の髪に深い緑の瞳、意志が強そうな目鼻立ちをしている。腕には赤い腕章があり、自分と同じ部隊だということは分かった。

「はい、そうですけど…」

「隊長の命令で暫くお前の教練を担当することになった、ジュード・バッツドルフだ」

「あれ、その名前って団長と同じ…」

シェルティアが指摘した途端、ジュードは不機嫌そうに顔を歪めた。

「そうだ、俺は団長の甥だ。だが、そんなこと今はどうでも良いだろう。さっさと訓練を始めるぞ」

そう言ってジュードは大股で歩いて行く。団長の甥であることが彼の機嫌を損ねるものなのだろうか、と考えながらシェルティアはジュードの後を追った。

「…ではまずは、戦いの基本中の基本、防御の体勢からだ。まずは剣を構えてみろ」

 シェルティアはそこで、先程の実技試験と同じ剣の構え方をした。

「両手で握るのか。防御には長けているが、その分動作はやや遅くなる。その点には注意しろ」

 態度はそっけないが、教えていることはしっかりとしている。剣の素人のシェルティアにも分かりやすくジュードは説明してくれた。ジュードは剣を抜いて、場面ごとにどのように防御すべきかを教えてくれる。ジュードは片手で、シェルティアは両手で剣を扱うという差異はあるが、全く支障はなかった。

「次は攻撃だ。攻撃は最初の一手が肝心なんだ。それで次の攻撃方法や防御が決まる。相手はネメシスなので、攻撃はより素早く、より強い一撃が必要とされる。ネメシスとの戦いは短期決戦だ。長期戦になるとこちらの体力が持たなくなり不利となる」

「…分かった。最初はまずどうやって攻撃をすればいいの?」

時間が経つにつれ、シェルティアはジュードに臆することなく話しかけることが出来た。分からないことがあればジュードは的確に答えてくれる。さすがは団長の甥であるとシェルティアは感心したが、それは口に出さないでおくことにした。そしてジュードと剣の基礎を学んでいる中で、シェルティアに目を付けている者がいた。だが、シェルティアはそれに気が付くことなく熱中していた。

「基礎はこういったところだ。だが、実際に動いてみないと分からないだろう?」

「うん、まだしっかり呑み込めていない感じだから不安で…」

「これで分かった気になっていたのなら、初陣で死ぬ確率は高い。今から模擬刀を持って、実戦的な動きに移る。少し待っていてくれ」

ジュードがそう言って踵を返そうとしたそのとき、

「ジュード、待ってくれない? 実践の稽古なら私が相手するわ」

メリッサが例によって取り巻きの少女たちを引き連れてそう声をかけて来た。春の花がほころんだようなその美しい笑顔の中に微かに敵意が込められているのを、シェルティアは感じ取った。

「シェルティアの教練担当は俺だ。お前は自分の鍛錬に励めばいい」

ジュードは木で鼻を括ったようにメリッサの申し出を断る。だがメリッサも、そこで退く気配はない。

「実は、そろそろ他の人とも剣の稽古をしてみたいと思っていたの。私の経験にも、彼女の経験にもなることは悪いことじゃないわよね?」

メリッサの言うことは尤もであり、ジュードはすぐに反論の言葉が出なかった。そして、シェルティアを見る。

「シェルティア、お前はどうする?」

「…分かった。実践の相手が来てくれて丁度良かった」

ここで断ればメリッサはきっと腰抜けだと馬鹿にするだろう。シェルティアはメリッサの申し出を承諾した。

「ありがとうシェルティア。では、この模擬刀を…」

このことを想定していたのか、メリッサは既に模擬刀を持っていた。刃のない剣をシェルティアは受け取る。

「ジュード、審判をお願いしてもいいかしら?」メリッサはジュードを見る。

「分かった。その前に互いの剣を確認させてもらう」ジュードはシェルティアとメリッサ、双方の剣を近寄って見た。

「…よし、刃は無いな。規定通り、喉と頭部への直接的攻撃は禁止する。では互いに構えろ」

 ジュードの言葉に従い、シェルティアはメリッサと距離を取り構える。シェルティアが両手で持ち剣先を下にするのに対し、メリッサは片手で顔の前に剣を持っていき、構えた。

「…始め!」

ジュードが合図をする。まずはメリッサの動きを窺う。こちらを睨んだままじっと動こうとしない。恐らくカウンターで斬り返すつもりなのだろう。だが、ジュードに先程肝心なのは最初の一手である、と教えられた。最初にこちらが優位に立てば、相手のカウンターは崩せるはずである。シェルティアは駆け出し、メリッサに向かって剣をしたから振り上げる。メリッサは剣身でそれを受け止めると、その力の反動を利用してシェルティアの右脇腹に向かって剣を流す。やはりカウンターで来た、とシェルティアは左から素早く薙いで、右をガードしようとする。だが、そこで思いがけないことが起こった。右に流すと思われたメリッサの剣は切っ先を素早く変えたのである。そして突きの体勢に入り、次の瞬間にはシェルティアの腹に剣先が刺さった。

「ぐっ!?」

ガードする暇もなく、シェルティアの腹に重い痛みが走る。そしてそのまま後ろに倒れた。剣もその衝撃で手から離れる。

「待て!」

ジュードがストップをかけてシェルティアの元へ駆け寄った。

「シェルティア、大丈夫か?」

ジュードに聞かれたが、腹の痛みですぐに答えられなかった。

「…私の勝ち、で良いのよね?」

少し間を置いて、メリッサはそう言って来た。その声にシェルティアの闘争心には火が付く。

「まだよ!」

剣を拾い上げ、ふらりと立ち上がって構える。メリッサは余裕の笑顔を見せていた。

「素晴らしい精神力ね。ジュード、またお願い」

「…双方異存はないな?」

ジュードはやや不安そうに尋ねた。シェルティアもメリッサも頷く。

「…では、始め!」

二度目のジュードの合図が上がった。

 それから何度もシェルティアは攻撃を先に仕掛けたが、メリッサは先のさらに先を読んでいるかのようにシェルティアの腕、肩、脇腹を斬り付けた。まるで流水のような動きの剣に翻弄され、一度もメリッサに剣を当てることは出来なかった。体力が限界に達し、シェルティアは両膝をついた。取り巻きの少女たちは敗者を嘲笑い、メリッサは冷たくシェルティアを見下ろす。

「どうするの? まだやる?」

メリッサは呆れたように訊いて来た。〝これ以上やっても同じだ〟といわんばかりの口調である。悔しいが、このままでは全くメリッサに敵わないとシェルティアは認めざるを得なかった。

「…降参、します」

両手の拳を強く握りしめて、シェルティアは絞り出すように言った。その言葉を待っていた。という風にメリッサは笑顔になる。

「そう、分かったわ。ありがとうシェルティア。いい鍛錬になったわ」

そこでメリッサは踵を返し、取り巻きの少女と共に向こうへ行った。シェルティアはメリッサに対する以上に、自分の力の無さに腹が立ち、この感情をどうすればいいのか分からなかった。



「おいおい、いくら何でも性格悪過ぎないか?」

 昼食の席で、シェルティアがメリッサとの対決を話した後のスタンリーの第一声がそれであった。

「今日剣を教わったばっかりで、そこまですることないよなあ」

「…きっと仕返しする機会を狙っていたのよ。でも、あの剣の強さは本物だった」

 苦々しく思いながらシェルティアは言った。まだ斬られる代わりに打たれた箇所が痛む。あの後ジュードに医務室に行くように勧められたが、断った。

「私も、そこまでしなくても、って思う…。メリッサちゃんの剣の腕は討伐隊でもトップクラスってことは、メリッサちゃん自身がよく知っているはずなのに…」

アンネッタは珍しく少々怒っているようであった。スタンリーもアンネッタも、メリッサが卑怯だと思っている。シェルティアも勿論そう思う部分はあったが、今は自分の力量不足を実感する想いの方が大きかった。

「ところで、ジュードの教え方はどうだったんだ?」

スタンリーは少々興味深そうに聞いて来た。

「とても的確な指導をしてくれたよ。口調は優しいものじゃないけど、私にも分かり易く教えてくれた」

「へえ、さすが副隊長って肩書きは伊達じゃないな。だがな、あいつの前で団長の話は禁句だぞ」

スタンリーは小声でそう教えた。

「そういえば、団長の名を出すと急に嫌そうな顔をしたけど、どうしてなの?」

「…ジュードは一部の人から、団長のコネで入ったと思われているのが嫌みたいなの。それで、団長のこともあまり好きじゃないみたいで…」

アンネッタが答えた。さっきの怒った表情から、同情したものへと表情が変わる。シェルティアもその言葉に納得した。

「ジュードも色々と大変なのね…。でも副隊長っていう地位は、本人の力で得たものでしょ?」

「そうだよ。アシュレイ隊長が直々に任命したの。隊長は貴族の出身ではないんだけど、自分の力だけで帝国軍の高い地位にまで登りつめた人だから、色眼鏡なんて全く使ってない。でも、それでも一部の人たちは気に食わないみたい」

 アンネッタの話を聞いて、初めて組織というものに属するシェルティアは組織の中にいることの大変さを思い知った。そして、メリッサという懸念材料も。

「ま、アイギスでも色々とあるもんなんだよ。でもそんなことは気にせず、シェルは自分の鍛錬に集中してればいいさ」

スタンリーの言葉に、シェルティアは大きく頷いた。



 メリッサに敗れた翌日から、シェルティアは訓練に熱を入れるようになった。基礎の動きをしっかりと固め、剣術だけでなく乗馬、銃の扱い方も学んだ。だが、やはりシェルティアに一番向いているのは剣であった。メリッサに負けた悔しさをシェルティアから感じ取ったジュードは、「敵はあくまでネメシスであることを忘れるな」と念押しするように言った。シェルティアもそこは弁えているつもりである。

 それから数日後、いつも通り訓練を始めようとした直前に、アシュレイが緊張した面持ちで待機室に入って来た。

「調査隊より緊急の通達だ。南東のカレンベリーの街近郊にある雑木林でネメシスが目撃された。鳥の身体を持ち、群れで行動するタイプだ。今から指名する隊員は直ちに出撃せよ!」

 アシュレイが出撃メンバーを指名したあと、出撃要員は一斉に立ち上がり、戦いの準備を始める。シェルティアも出撃メンバーであった。いよいよこのときが来たのだと、シェルティアは緊張する。

「今回は俺たちの出番が多そうだな。もしかしたらシェルたちの出番はねーかも」

 シェルティアの緊張をほぐす為か、スタンリーが笑顔でそう声をかけて来た。

「頼もしいわね。期待してる」

シェルティアも何とか笑顔で返した。スタンリーは軽くシェルティアの肩を叩いて先に待機室を出て行った。

「私も出来る限りサポートするね!」

口調は明るいが、やや顔が引きつっているアンネッタも話しかけて来た。二人の気遣いがシェルティアには嬉しかった。

「ありがとう。初陣だから、ヘマしないように頑張るよ」

アンネッタに言うと、アンネッタはうん、と頷いた。そして、アンネッタと共にシェルティアは待機室を出た。

 出撃命令を出されると、団員たちは訓練場の北にある馬小屋へ向かう。蒸気船や蒸気機関車で交通の便は発達したものの、未だに個人の移動手段は足か馬である。境界戦役から馬は速く、かつ長距離を走れるように品種改良されて長い足に引き締まった体をしていた。

 乗馬がまだ苦手なシェルティアは、一番穏やかな性格の白い馬をアンネッタに選んでもらった。鞍を付けているときに、ジュードがやって来る。

「シェルティア、本作戦では俺がサポートする。何かあったら俺に言え」

「分かった」

それだけ言うとジュードは踵を返した。続いてシェルティア手綱を付け、馬を小屋から出す。

「よろしくね、メリー」

メリーとは白い雌馬の名である。鼻筋を撫でてやると、返事をするかのようにブルルと鳴いた。



 馬に乗り込んだ討伐隊は、隊長のアシュレイを先頭に、副隊長のジュードを殿に約三十名の規模でネメシス発見現場へ向かう。南東には整備されたアリア街道があるが、そこは人通りが多い為通らない。草むらに入り、なるべく近道を進む。馬に乗って以来、初めての速さにシェルティアは気後れする。乗馬というよりは、馬にしがみついていると言った方が近い。だがメリーはとても賢い馬で、進むことにかまけてシェルティアを振り落とすということはしなかった。まるで気を遣ってくれているようである。

「シェルティア、作戦行動の基本は覚えているか?」

隣を走るジュードに訊かれる。

「うん。単独行動は原則禁止、分散は隊長の指示に従うこと。もし逸れたり、ネメシスを発見したりした場合は警告笛を吹くこと」シェルティアは何度も教えられたことを言う。

「よし」

警告笛は、人間のみに聞こえ、ネメシスには聞こえない低音を出すホイッスルのことである。数年前に調査隊が、ネメシスに共通して低い音が聞こえないことを発見し、作られたものである。この笛が唯一、ネメシスに気付かれることなく合図を送れるものとなった。

 乾いた冷たい風がシェルティアの頬を叩きつける。だが、それとは裏腹にシェルティアの手綱を握る手は汗ばんでいた。そのとき、

『キイイイ!』

甲高い、妙な鳴き声が前方からした。目の前には目撃現場となっている雑木林が広がっている。―ネメシスだ。そう思うとシェルティアは村が襲われた夜のことを思い出しそうになる。

「全員、止まれ!」

アシュレイの指示があり、馬列はゆっくりと止まった。

「ここから馬を降りて、雑木林の中に入る。気を引き締めてかかれ!」

「はい!」

全員一斉に答えた。

 列を成して討伐隊は草を掻き分けて雑木林を目指す。針葉樹と広葉樹が混ざり、赤く色付いた葉も見える。先程の鳴き声からネメシスは何も音を発しない。雑木林は不気味な程静かである。だが、形容しがたい嫌な気配は感じた。皆は鞘から剣を抜いて一歩一歩進んだ。

 昼間だというのに、雑木林は日が届かず寒くて暗い。そして鳥の鳴き声や獣が動く音も一切しなかった。隊員たちの足音だけが聞こえて来る。

「上だ!」

不意に誰かが叫んだ。シェルティアは上を見ると、巨大な鳥がこちらめがけて飛んで来た。防御するように剣を眼前に構える。首から下は完全な鳥だが、足が異様に巨大で、先にある鉤爪はより鋭く大きく、ナイフを付けているかのようである。首は女の顔に、醜く肥大した嘴が付いている。自分の家に現れた熊のようなネメシスと重なり、シェルティアの体は反射的に固まってしまう。

『キイイイ!』

嘴から発せられるその声は悪夢そのものである。そのとき、乾いた破裂音が空気を切り裂いた。そしてネメシスは羽や体から血を噴き出しホバリングしたあと、地面に落ちて行った。近くにいた者達がすかさず斬りかかる。

『キイイイ!!』

より一層耳をつんざくような声をネメシスは出す。やがてその声も聞こえなくなり、シェルティアはほっとした。

「よし、当たったな!」

シェルティアの近くにいたスタンリーが銃を担いだまま得意げな笑みを見せた。先程の大きな破裂音は銃声であり、空中にいたネメシスをスタンリーを含めた銃士五名が撃ち落としたのであった。だが、シェルティアが安心したのも束の間、木々の間から、

『キイイイ!』

あちこちで甲高い声が喧しく鳴り響く。あまりの煩さに皆は耳を塞いだ。木々がざわついたかと思うと、上空に今殺したネメシスと同じものが、空を埋めるように飛び回った。

「群れで襲ってくる気か…各員、二人一組になって散開!」

アシュレイの指示により皆は素早く列を崩し、木々の間へ散って行った。

「シェルティア! お前は俺と行動しろ!」

ジュードはシェルティアを呼び、シェルティアもジュードに付いて行く。頭上に注意しながら進んで行くと、少し開けた場所に出た。ジュードはそこで足を止める。

「ここで迎撃する。あの鉤爪には注意しろ」

「わ、分かった」

とシェルティアが返事をした次の瞬間、近くにあった木の上からネメシスが現れた。ジュードは鉤爪を受け止めて弾くと、その反動を利用して素早くネメシスの体を突いた。耳障りな断末魔の声が聞こえる。ジュードの技に見入る暇もなく、今度は二体同時に出現する。シェルティアは鉤爪を受け止められるように構えた。

『キイイ!』

案の定、鉤爪を突き出す形でネメシスは襲ってきた。刀身で受け止めるが、その力は思ったよりも強い。このままでは防御は可能だが、攻撃に転じることも出来ない。ネメシスとシェルティアの動きは膠着していた。シェルティアはどうしようかと考えていると、ネメシスの目がこちらをじろりと見た。まるで品定めするかのような黒く大きな瞳。その瞬間にシェルティアの肌はぞわりと粟立ち、言いようのない嫌悪感が湧き出る。

「くっ…このっ!」

シェルティアはその瞳から逃れたいがために、瞬発的に強い力を出した。その力は鉤爪を押しのけ、ネメシスと距離を取る。今と同じ手法では駄目だ。シェルティアは心を落ち着かせながら何とか考える。シェルティアは剣を片手に持ち替えて、ネメシスが来るのを待つ。ネメシスはまた鉤爪を前に突き出して襲ってくる。ネメシスの動きは単純そのものであった。鉤爪がシェルティアの頭部に向かおうとした直前、シェルティアは手甲でその鉤爪を受け止めた。顔と鉤爪との間はほんの数センチ。だがシェルティアは恐れることなく剣を構えると、ネメシスの胸部に向かって突き刺した。

『キイイイ!』

ネメシスは声を上げると、そのまま嘴から泡を吹き、目をひんむいてそのまま落ちた。暫く痙攣したあとに、ネメシスは動かなくなった。

 シェルティアはアイギスに入団してから初めてネメシスを討伐することが出来た。手甲には今の鉤爪の跡がくっきりと残っている。

「シェルティア、大丈夫か!?」

ジュードに背後から声を掛けられ、シェルティアは振り向く。ジュードの足元には最初に倒した一体の他に、二体の死骸が転がっていた。二体とも鉤爪の付いた両足を斬り落とされ、胸部から夥しい血が流れていた。

「こいつらは足の先以外は脆いことが分かった。次に来たときは鉤爪を受け止めるよりも先にかわし、足を狙え」

「…分かった」

自分は一体を倒すのが精一杯だったのに対して、ジュードは弱点を見破る余裕があった。これが経験の差なのである。だが、木々がまた動くのを見て、シェルティアに感心する余裕は無くなった。

「…来るぞ!」

ジュードが叫んだ直後に、ネメシスは再び二体同時に現れた。


 空を見上げると、黒煙があちこちに上がっている。討伐が完了した合図であった。そしてシェルティアとジュードも、動かなくなったネメシスを一か所に集めて火を点ける。ケヴィンが言っていたように、死骸は焼いてしまわないとまたネメシスが増えてしまうのである。今回ジュードは計五体、シェルティアは三体倒した。ジュード曰く、初陣にしては中々の成果だそうである。だが、シェルティアは喜べなかった。シェルティアの制服の肩口はネメシスの鉤爪によって引き裂かれていた。これがもし皮膚にまで達していれば、今頃痛みに苦しんでいただろう。改めてネメシスと戦うことの恐ろしさをシェルティアは思い知った。

 やがてネメシスの姿は炎の中で形を無くし、灰となった。近くにあった湿った落ち葉を灰の上に被せて火を消す。まだシェルティアの鼻にはネメシスを焼いた臭いが纏わり付いていた。

 ピーという高い音が聞こえる。隊長のアシュレイが討伐完了を判断し、帰投するよう呼びかける笛である。

「今回はどれだけ負傷者が出たんだろうな…」

ジュードはぽつりとそう呟いたあと、シェルティアを見た。

「馬のところに戻るぞ。しかし、無傷とはたいしたものだな」

「ううん、あと少し動きが遅かったら肩を抉り取られていたかもしれない。たまたま運が良かっただけ」

「まあそういう風に自分を過信しなければ大丈夫だろう。行くぞ」

「うん」

ジュードとシェルティアが動き出そうとしたそのとき、近くの茂みが大きな音を立てて揺れた。二人の間に再び緊張が走る。そして、茂みから四つ足の何かが現れた。

「…っ!?」

それは、ネメシスであった。それも、シェルティアの村を襲った四つ足のネメシスと同じ姿形をしている。頭部は薄気味悪い笑顔を浮かべた人の顔、体は狼―全く同じであった。

「イレギュラーか!? くそっ!」

ジュードは剣を抜いたあと、警告笛を鳴らす。ボーという腹の底に響くような低い音。

『ウウウ…』

こちらを窺うネメシスと目が合った瞬間、シェルティアの脳裏にあの日の夜がはっきりと甦る。――道端や半壊した家の中に転がる人々の無惨な死体、血の匂い、死への恐怖、ぐちゃぐちゃになった親友の遺体、悲しみ、怒り、嫌悪――それらがない交ぜになって一気にシェルティアに襲いかかって来る。もう、平常心を保つことは出来なくなっていた。

「うわああああ!!」

シェルティアは剣を鞘から抜くと、ネメシスに斬りかかる。ネメシスも体勢を低くすると、シェルティアに向かって飛びかかった。

「シェルティア! やめろ!」

ジュードは叫ぶ。だが、その声は全くシェルティアの心には届かなかった。ネメシスはシェルティアに噛みつこうとする。シェルティアは反射的に避けて、腰を中心に回転をし、ネメシスの胸を斬り付ける。ネメシスは叫び声を上げたが、シェルティアはお構いなしにその憎い顔を突き刺した。次は手足を斬り落とし、ネメシスの動きを止める。そしてトドメとして胸部に剣を突き立てる。断末魔の声を上げた後にネメシスは絶命した。だが、シェルティアはそこで手を止めず、何度も何度もネメシスの身体を貫く。

「シェルティア! もうそいつは死んでいる! シェルティア!」

ジュードの制止の声が虚しく響く。

「お前らが…お前たちさえいなければ! 村の人を返して! アリーを返して! 返せ…返せ、返せええ!!」

シェルティアは叫んだ。ネメシスの赤い血がシェルティアの制服にかかり、汚す。我を失ったと判断したジュードは、シェルティアを羽交い絞めにした。

「もうよせ! 落ち着け!」

「放してよ! こいつらは私の大切な人たちを奪った! 皆を殺した!」

半ば泣き叫びながらシェルティアは暴れた。ジュードはその力を押さえるのに必死である。

「どうした!?」

シェルティアの叫び声を聞き付けたアシュレイと討伐隊の面々がやって来た。その光景に、皆はぎょっとする。

「隊長! このイレギュラーが現れた瞬間、シェルティアが取り乱して…」

 ジュードはアシュレイに説明する。その間もシェルティアは放せ、と泣き叫ぶ。アシュレイはシェルティアの姿を見て暫し思案顔になったあと、シェルティアに近付く。そして、拳をシェルティアの鳩尾に殴りこませた。

「があっ!?」

シェルティアは痛みと目の前が光ったのを感じた直後に、意識を失った。力を無くしたシェルティアをジュードが支える。

「…このネメシスを回収したあと、帰投する。シェルティアは俺の馬に乗せよう。本部に着いたらアンネッタ、お前が傍にいてやってくれ」

「わ、分かりました!」

青ざめた表情でアンネッタはアシュレイに返した。シェルティアの剣先からは、まだネメシスの血が滴り落ちていた。

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