シェルティアの剣

鐘方天音

第1話 血と涙

 クローネ山脈から吹き下りて来る冷たく乾燥した風〝クローネ風〟が吹く頃に収穫できるクローネ麦の穂を、燃えるような黄金色の麦畑の中で一人の少女が黙々と刈り取り作業をしていた。少女の名はシェルティア。銀の長い髪に、緑がかった青色の瞳。シェルティアの父と母も麦畑に埋もれながら刈り取り作業をしている。ここ小国カリアスの東の山間に位置する小さな村・クランヒルでは、この麦の収穫量で一年の食い扶持が決まるのであった。

 時代は今、カリアス王国の南に面する超大国・ミネア帝国が次々と周辺諸国を植民地化して領土を拡大させ、今や世界一とも言える国家を築き上げていた。その帝国の領土化に置かれた国の税の取り立ては厳しく、クランヒルのような農村は作物を税として納めなければならない。それは豊作・凶作に関係なく収穫量の三分の一と決められており、民を苦しめていた。シェルティア達もそんな境遇に不満を持ちながらも、じっと堪えて税を納めていた。

「おーい、シェル!」

鈴を転がした様な声が背後から聞こえてきたので、シェルティアは垂れていた髪をかき上げ、顔を上げて振り向いた。胡桃色の髪に、頬にそばかすのある愛らしい顔立ちの少女が、麦の穂が積もっている籠を片手に千切れんばかりに手を振っていた。

「アリー!」

シェルティアは顔を綻ばせて、幼馴染で親友のアリーの元へ駆け寄った。

「そっちも豊作ね! おととし、昨年に続いて不作だったから心配だったけど…」

アリーはシェルティアの家の麦畑を見て嬉しそうに言った。アリーの言葉にシェルティアは胸にチクリとしたものを感じたが、何とか笑顔を崩さないように努める。

「アリーの家はどうだったの?」

「ご覧のとおり、豊作よ! 父さんも喜んでいたわ!」

「そう、じゃあ…!」

良い知らせにシェルティアはほっとしたが、それは一瞬だけであった。アリーは首を小さく横に振る。

「この量だけじゃ、一年だけじゃどうにもならない。…大丈夫よ、奉公先はあの帝都なのよ? あたし凄く楽しみにしてるんだ!」

「……そう…」

シェルティアはまた胸に痛みを覚えた。

 アリーは母親を小さい頃に病気で亡くし、父親と二人きりであった。税は十歳以上の子供からかかり、十六歳のアリーにも納税の義務があった。だが、父親と二人だけで税を納めるのにはかなり無理があった。それに追い打ちをかけるように、おととし、昨年と凶作が続き、アリーの家は納税が不可能になりつつあった。そこで税を逃れるためにあるのが〝奉公制度〟である。帝国の貴族の家へ奉公に行けば、一人分納税が免除されるのである。その為納税に行き詰まった家は、若い子供を奉公に出して、一人分の税を無くすことで税の負担を軽くした。そしてアリーもまた、その奉公制度を利用することにしたのである。

そうやってクランヒルのシェルティアの友人たちは次々と村を離れ、帝国本土へ奉公に向かった。とうとう友人はアリー一人となったところで、アリーもまた一ヶ月あとには奉公に出ることとなり、シェルティアの友人は村から全員いなくなることになる。そしてシェルティア自身も、いつかは奉公に出るときを覚悟しなければならない状況であった。

奉公は無期限である為、家族とは永遠に離れることと等しかった。さらに、奉公先に向かった人は貴族に粗末な食事と環境だけで重労働を強いられ、奴隷も同然の立場であると聞いた。その生活を想像しただけでも背筋が寒くなる。アリーもきっとこのことは知っているだろう。

「…あと一か月もあるじゃない? まだ一カ月一緒にいられるんだから、ね。…あ、収穫の最中だったわね! 邪魔してごめんね!」

「そんな…私は全然構わないよ」

シェルティアはかぶりを振った。

「ううん、税を納めるのと、これから食べていくのには麦の収穫は大切よ。それじゃああたしもまだ作業があるから…あ、そうだ! 明日は貸本屋が来るのよね? あたしも行くから、そのときにゆっくりお話しましょ!」

「…うん、じゃあまた明日ね」

シェルティアはアリーと互いに手を振って別れた。その後は悲しさを紛らわすために、シェルティアはひたすら穂を刈り取り続けた。



 その日の晩、シェルティアの家は収穫を祝って食事はいつもよりも豪勢であった。

収穫した麦を使った様々な料理に、卵を産ませる為に育てている山鶏の一匹をさばいてローストし、その中に野菜を詰めたものも出た。こんなご馳走を食べられるのは今日の様に初めて収穫を迎えられた日か、村人総出で豊作を祈る〝豊穣祭〟のときのみである。父もこの日だけ、大事に取っておいた葡萄酒のコルクを開けて、家族みんなが豊作を祝った。

「シェル、昼間にアリーと会ったの?」

母のエレノアはローストチキンの野菜詰めを、ナイフで切り分けながら尋ねる。

「うん、アリーの家の畑も豊作だったそうよ。アリーも今頃お父さんと一緒に、美味しいご飯を食べているんじゃないかな」

「そうだと良いわね…。実はこの間、アリーのお父さんと話したんだけど、アリーが奉公に行くと決めた日からあまり食欲がないそうよ…。アリーが奉公に行ったあとが心配ね…私達が支えてあげないとね、あなた」

「…ああ、そうだな」

母の言葉に対して父、ジュストは低く、短く答えたあと葡萄酒を一口流し込んだ。

 アリーは自分の意志で奉公に行くことに決めた。アリーの父は止めたかったが、止められなかった。税を納められずに強制労働を家族でするか、娘を奉公に出して税を納めるか。この村、否、小さな村や町は皆その二択しかなかった。それ以外は自害か餓死、または浮浪者になるしか未来がない。

母は以前シェルティアの前で泣いたことがあった。母の妹、つまりシェルティアの叔母も奉公に行き、奉公先で過労死したという報せが届いたあとのことであった。そしてシェルティアも、一番の親友であるアリーが奉公に行くと聞いたとき、この時代を、帝国を憎まずにはいられなかった。

「…エレノア、アリーの家のことを心配する気持ちも分かるが、今日は年に一度の天の恵みを頂く日だ。日頃の悩みは今だけ忘れよう」

グラスの中にある葡萄酒を一気に飲み干したあと、父は静かに言った。母もシェルティアも、いつもはこんなに喋らない父の言葉にはっとする。

「そ、そうね、ごめんなさい。まだ料理は沢山あるからどんどん食べてね! 今日が終わるとあと半年後の豊穣祭の日までご馳走は食べられないんだから」

「うん……」

シェルティアも今だけは辛いことを忘れようと、焼き立てのパンを一口齧った。香ばしい麦の香りと味が口一杯に広がり、それを楽しんだあとは辛さと共に胃に流し込んだ。

「シェル、あなたまた寝る前に本を読むの?」

夕飯を終えて家族で他愛もない話をしたあと、部屋に戻ろうとするシェルティアに母は声をかけた。

「うん、明日は本土から貸本屋さんが来るからそれまでに読み切っておこうと思って」

「読書も良いけど、明日も早いんだから夜更かししちゃ駄目よ?」

「分かってるよ。おやすみなさい」

「火には気を付けるのよ? …おやすみなさい」

母の言葉を聞いたあと、シェルティアは自室に入った。

 ランプの芯にマッチで火を付けたあと、シェルティアはまず新聞から目を通す。

月に一度、帝国本土からやってくる貸本屋は安値で新聞も貸し出していた。新聞はこの村では読めないので、特に人気があった。月に一度なので古い情報ではあるが、それでも情報を得られること自体がありがたかった。


【ネメシス、帝国北部で被害拡大中】


 そんな見出しが毎月のように目に付いた。〝ネメシス〟は人畜問わず襲う、人と獣を合わせたような、太古から存在する怪物のことである。こうして新聞のお陰でネメシスのことは断片的に知っているが、シェルティアは実際に見たことがないので今一つ恐ろしさが伝わって来なかった。幸い、今の今までにネメシスはクランヒルに現れたことがない。それよりも恐ろしいのは、税を取り立てに来る役人の方であった。ネメシスの関連記事を読み流し、次の記事に目を通す。


【マリアス王国に皇帝陛下自ら行幸、国民は皇帝の御姿にただ平伏するのみ】

【エランド王国の民の一部が反乱 帝国軍は速やかにこれを鎮撫】


 ―新聞に出て来た国名全てが、ミネア帝国の領土である。エランド王国のように反乱を起こしても、帝国軍の規模と強さには敵わない。帝国領土の民が不満を募らせても、諦めているのは帝国軍の存在がある為であった。

あとは帝国の都合のいい情報ばかりなので、シェルティアは早々に新聞を畳み、読みかけの本を開いた。

シェルティアが読み進めているのは、薬草学の本である。この村にはまともな医者はいない。その為村人は病気を治すには山を降りて大きな街へ行くか、民間療法しかない。だが、当然全ての病気がそれだけで完治する筈もなく、医者へ行くお金を持った村人はほぼいないので、病気で亡くなる人も大勢いた。アリーの母親も、良い治療法がなかったが為に亡くなってしまった。それを知っているシェルティアはせめて身近にある薬草で、それぞれの病気に効く薬がないかを勉強していた。

「ルルリの花は、煎じると熱を冷ます効果がある…と」

シェルティアは本に書かれていることを羊皮紙にペンで書き写しながら知識を増やしていく。シェルティアが本を借りる目的は殆ど勉強の為であった。他にも天文学や錬金術などの本を書き写した紙の束がどっさりある。両親は、「うちにはそんなことを学んでも何の意味もない」と呆れられていたが、シェルティアは知識が一つ増えていくことがただ楽しかった。しかし、最近は収穫の時期を迎えた為朝も早く、夕方まで働き通しなので中々勉強に集中できず、途中でひどい眠気に襲われることもしばしばである。今日もシェルティアはペンを止めてうとうとし始めた。

(明日は本を返さなきゃいけないから…頑張らないと) 

何とか踏ん張ってペンを握り直し、最後のページを書き写す。文章の最後にコンマを置いたところで、やっと本の内容全てを書き写した。これで無事に本を返せると思うと一気に力が抜けて、シェルティアはぐったりとする。何とか最後の力を振り絞って紙を束ね、本を閉じると、火事にならないようにランプの火を消し、それからは糸が切れたように机に突っ伏して眠ってしまった。



 ―グルル…グルル…。

 遠くから獣の唸り声がした。もしかして狼が出たのかと思ったが、狼よりも気味の悪い―まるで人の声も混ざっているかのような声である。そのとき、

「きゃあああーっ!!」

突然絹を裂いたような母の悲鳴が聞こえ、シェルティアは一気に覚醒する。体を起こすと、嫌な予感と恐怖が混ざり合った気分のまま、慌てて両親の寝室へ向かった。

「お父さん、お母さん!」

「シェル! 来るんじゃない!」

シェルティアが扉を開けたのと同時に、父の叫び声がシェルティアの声と重なる。次の瞬間、シェルティアは寝間着姿の父と母の傍にいるモノを見た瞬間に、凍り付いた。

 体は二足歩行の熊だが、その頭部は恐怖で固まったままのような毛が全くない、人間の顔が二つくっついた怪物である。この気味が悪い生物を見たシェルティアの脳裏には〝ネメシス〟という、怪物の総称が浮かんだ。

「ひ…ひいっ…!」

母は目で見て分かる程に震えていた。ネメシスの横にあるベッドは手にある鋭利な爪でやったものなのかえぐられ、引き裂かれていた。シェルティアが固まったまま周囲を観察していたそのとき、ネメシスの頭部にある複数の目が同時にシェルティアの方を向き、恨めしそうに睨めつける。その目と自分の目が合った瞬間、シェルティアは全身の肌が粟立つのを感じた。ネメシスがゆっくりと体をこっちに向けたときには、シェルティアは走り出していた。そして獲物を定めたかのように、ネメシスはシェルティアを追う。

「やめろ! やめてくれ!」

父の悲鳴に振り向くことなく、ネメシスは重い足音を立てて走り出した。

――助けて! 助けて! 助けて!――

心の中で叫びながらひたすら家の中をシェルティアは駆ける。背後からは圧倒的な存在感が近付いて来ているのが分かった。

『ウウ...グルル...』       

 ネメシスの唸り声が更に恐怖と焦燥感を駆り立てる。

闇の中をがむしゃらに走り、辿り着いたのは台所であった。台所からは外に出られると、シェルティアは手探りで扉に触れようとする。だが、ネメシスがシェルティアを追い詰める方が先であった。

「ひっ…!」

シェルティアの目の前にはまるで品定めをするようにネメシスが立ち止まり、舐め回すようにシェルティアの頭からつま先までを見る。

『フーッ、フーッ…!』

唸り声から荒い吐息に変わったネメシスの息は生臭い。シェルティアは頭が真っ白になり、動けなくなった。そんなシェルティアの反応を楽しむかのようにネメシスはじっくり、ゆっくりとシェルティアに近付き、シェルティアはじりじりと後ろに下がる。

だが、背中が流し台に当たったところでシェルティアは逃げ場を失った事に気が付く。

「や…いや…!」

もう逃げることも出来ない。体をさらに流し台にくっつけるが、シェルティアは〝もう殺される〟という直感が働いていた。ネメシスは一歩一歩近づく。

『グルルル…』

「やだ…やめて…!」

言っても通じない相手だと分かりながらシェルティアは抵抗する。

 ―コツン。腕を動かしたそのとき、何か硬いものが当たった感触があった。びくりとしながら思わず視線をそちらに移してしまう。それは鮮やかな赤と渋みのある茶色の混ざった、香辛料の瓶であった。いくらおぞましい姿をしていても、目をやられては何も出来ないだろう―そんな考えが咄嗟に浮かび、シェルティアは貴重な香辛料の瓶を躊躇うことなく開け、ネメシスの顔めがけて思いっきり振るった。

『クギャアアア!!』

香辛料が四つもある目に入ったネメシスは、シェルティアの思惑通り激痛で暴れる。体をあちこちぶつけ、テーブルがひっくり返り、食器棚にぶつかった瞬間に皿が次々と割れる。逃げ出すならば今の内であった。

 だが、まだ家の中には父と母がいる。このあと視界を取り戻したネメシスは怒り狂ってその矛先を父と母に向けるかもしれない。自分一人で逃げる訳にはいかなかった。

 シェルティアは周囲を見回すと、長く大きな肉切り包丁を見つけた。普段は肉などめったに食べられない為、棚の奥に隠してある。だが今日は山鶏をさばいたので、偶然にも洗ったものがそこにあった。この幸運に感謝しながらシェルティアは包丁を手に取って構える。

ネメシスはまだ顔を手で押さえて悲鳴を上げていた。シェルティアはネメシスに気付かれないように、そっと息を殺して近付く。ネメシスの生臭い息が分かる距離まで来たとき、

「この…化け物!」

と叫び、胸に向かってネメシスを突き刺した。

『ギャアアアア!!』

先程よりもさらに大きく甲高い声をネメシスは上げた。シェルティアは包丁を胸から抜くと、すぐに傍から離れた。

『アア…アア…』

ネメシスは手で胸を押さえた。その動作にシェルティアはどきりとする。その動きはまるで人間そのもので、自分は人殺しをしてしまったのではないかという感覚に襲われた。

ネメシスの頭部にある人間の顔も、完全に白目を向いて、苦痛で顔を歪めているように見えた。

 ネメシスは暫くふらふらとあちこちを歩いたあと、どさり、と倒れる。そして、ピクリとも動かなくなった。床にはじわじわと血が広がっていった。シェルティアもまた膝から崩れ落ち、包丁を落とす。呼吸が荒く、定まらない。シェルティアの中に安堵は無く、むしろ目の前の存在と自分がしたことの行為に恐怖していた。

「シェル! …これは…!?」

寝室から父と母が駆けつけて来た。娘の姿を見て安心するのも束の間、自分たちを襲った怪物が娘の前で倒れているという状況に驚愕する。娘の傍には血に染まった肉切り包丁が落ちていた。

「シェル…この怪物は…」

「シェル!」

父が問い詰める前に、母は娘を抱きしめた。

「良かった! 良かった…! 無事で…!」

母は涙声で震えていた。その温もりがシェルティアの恐怖をじわりと溶かしていく。気持ちが昂り、ボロボロと涙がこぼれ、溢れる。

「うう…っ、お母さん…私、怪物が怖かった…! でも…でもその怪物、死ぬ間際に人間のように見えて…私…!」

それからは言葉が出ず、母の胸に顔を埋めて泣いた。

「シェル…すまない、俺達が非力だったばかりにお前に怖い思いをさせてしまった…。外にはまだこんな怪物がいる。さっき唸り声が外から聞こえて来た。…俺たちの力では、奴らには勝てない」

「え…?」

シェルティアは父の声を聞いて、母から離れた。この恐ろしい怪物はまだ村の中にいるのだ。そして、村の人々が襲われている可能性も高い。シェルティアの脳裏にはアリーの笑顔が浮かんだ。

「助けに…行かなきゃ…!」

シェルティアは焦燥感に駆られて立ち上がった。その手を母が取って引き止める。

「駄目! 危ないに決まっているわ!」

母は懇願するような目でシェルティアを見上げた。横にいた父もかぶりを振る。

「そうだ、今外に出たとしてもむざむざと殺されるだけだ! これがネメシスなんだろう!? こいつらは何十、何百人という数の人の命を奪って来たんだ!」

「じゃあ…村の人々が殺されるのを黙って見ていればいいの!?」

「…悔しいが、非力な俺たちにはそうすることしか…!」

「そんな…」

「きゃあああ!」

シェルティア達が無念に思う中、外から悲鳴が聞こえて来た。

「お、お隣のカミルさんの声…!」

母は声を震わせて呟いた。

「さっきはドミニアさんの家族の悲鳴も聞こえた…」

父も母に続いて呟く。自分がネメシスに追いかけられ、対峙している間にもう何人もネメシスに襲われていたのだ。次々と村の人々が襲われているという事実に愕然とするのと同時に、これ以上犠牲者を出したくないという気持ちも湧いてくる。それはそこに倒れているネメシスを殺すことが出来たという経験から来る、根拠のない自信でもあった。

「私…黙って見過ごすことなんてできない! 刺し違えてでもネメシスを止める!」

「シェルティア!」

父はこれまでになく、凄むように怒鳴った。初めて見る父の鬼気迫る表情に気圧されながらも、シェルティアは肉切り包丁を手に取った。自分の手首を握る母の力が強まり、痛くなる。

「駄目よ! シェル! せっかく助かった命なのよ!?」

「助かったからって…自分たちだけが生き残っても何の意味もない!」

 シェルティアの心はもう、ネメシスを倒す、という一点しかなかった。外にいるネメシスはいつまたここに現れるか分からない。家族を守る為にも、シェルティアはネメシスに立ち向かわなければならないのだと決心した。母の手を思い切り振り払うと、シェルティアはそのまま扉へ向かう。

「シェル!」

「お父さん、お母さん、ごめんなさい…でも私、この村を守りたい!」

 扉を思い切り開けると、シェルティアは後ろを振り返ることなく走り出した。



 今晩はほぼ満ちた月が出ている為、ランプがなくても月光で視界は確保できた。冷たく乾いた微風がシェルティアの頬を掠め、僅かに身を震わせる。村は静かではあるが、その空気は確かに不穏なものであった。

「うわああああっ!」

周囲に気を張りながら歩いていると、シェルティアの前方から男の悲鳴が聞こえて来た。前方、村の南の方はシェルティアの自宅がある場所よりも家が固まっている。悲鳴を上げた男も、その集落の人なのだろう。シェルティアは前に進んだ。

 南の集落―クランヒルの中でも中心部である所に辿り着くと、シェルティアは息が止まりそうになった。木造の家屋があちこち壊され、道端には人の死体があちこちにある。どの遺体にも爪や牙でえぐられた跡があり、中には手足が無い、内臓が出ている遺体もある。血の匂いも強い。シェルティアは喉の奥から酸っぱいものがこみ上げ、耐えようとしたが、結局戻してしまった。

「うっ…うう…」

再びシェルティアの眼もとには涙が溜まり、こぼれ落ちる。それは吐いたときに出る生理的な涙なのか、悲しみの涙なのかはシェルティアにも分からなかった。

 外にある井戸を借りて口の中をすすいだあと、シェルティアはなんとか前に進む。集落の中も入り口と同様に、息絶えた人々と壊された家が並んでいた。殺された人々の中には小さな子供や赤ちゃんまでもがおり、ネメシスに対してはらわたが煮えくり返りそうになる。

 ―ガツ、ゴリッ、ガリッ―村の通りを暫く歩いていると、骨を砕くような音がした。

(間違いない、奴はこの近くにいる!)

 近くにいると分かった途端に、初めてネメシスと出会った瞬間を思い出し、〝ネメシスを倒す〟という思いが萎えてしまいそうになる。

 ―ガツ、ガツ、ガツ―だが、今耳に聞こえる音が人の骨を砕く音であると考えた瞬間に、やはりネメシスは許せないと思い直す。シェルティアはそっと、音がする家に忍び寄る。

 ―ガリッ…ウウ…―途中、骨を砕く音から、獣と人の声が混ざり合った唸り声に変わった。

(まさか…気付かれたの?) 

そう思った瞬間に、シェルティアの鼓動は速まる。そして、その予想を見透かしているかのように、ネメシスの唸り声は徐々にシェルティアに近付きつつあった。シェルティアは包丁を構えて、ネメシスが現れるのを待つ。足音が大きくなり、半壊した家の中からネメシスが出て来た。

「ひっ!?」

シェルティアの前に現れたのは、体は狼、頭部はやはり全ての毛がない人間の頭であった。先程倒したネメシスと違うのは、四足歩行で狼らしいのと、頭部にある人間の表情は口元を真っ赤にしたまま、下卑た笑みを浮かべていたのである。笑顔は時として、恐怖を与えるものであった。ネメシスはシェルティアの姿を見た瞬間に、姿勢を低くした。その目は〝今からお前を食ってやる〟といわんばかりである。来る、とシェルティアが思ったのと同時に、ネメシスは助走もなく、その場から大きく跳躍する。シェルティアはさっとかわす。ネメシスは着地した直後にシェルティアを見た。シェルティアは姿勢を立て直して、ネメシスが背後から来ないように位置を維持する。

 シェルティアは当然、人とも獣とも戦ったことがない。村人が畑を荒らす獣を倒した話は何度も聞いたことがあるが、それは〝倒した〟という結果だけを聞いたのみである。今シェルティアがネメシスと戦うその動きは、本能に任せたものであった。

(…新聞や本で、ネメシスの唯一の弱点は胸部にあるコアって見たことがある…その部分を狙えるとしたら…!)

ぎゅっと包丁を握りしめ、そのタイミングを待つ。

『ウウ…ググ…』

ネメシスはシェルティアを正面から再び狙う。シェルティアもそのつもりであった。ネメシスはまた後ろ足をバネのようにして高く飛び上がった。ネメシスの単純な行動に感謝する。シェルティアも真正面からネメシスに向かうとネメシスの真下をくぐり抜けるように身を屈め、包丁を無防備になった胸部目掛けて刺した。

『クギャア!』

シェルティアの頭上から血が降りかかるのと同時に、ネメシスもつんざくような悲鳴を上げてシェルティアを飛び越した。今度は着地に失敗し、ぐらりと地面に倒れた。

「や…ったの…?」

服の袖で血を拭いながら、血を流したまま動かなくなったネメシスを振り返った。通りには静寂が戻り、シェルティアには自分の息使いだけが耳に入る。じっとネメシスを見つめ、本当に死んだのかを確かめる為に一歩ネメシスに近付く。

『グ…グ…』

小さな唸り声を上げた為、シェルティアはすぐに離れた。そしてネメシスはふらふらと立ち上がり、首を後ろに回す。その顔の口角がさらに上がっているように見えた。

 次の瞬間、シェルティアは走り出す。そしてネメシスは形勢逆転のこの機を狙っていたかのようにシェルティアを追い駆ける。暫く走ると、ネメシスの声が段々と近付いて来ていることに気が付く。後ろを振り返ったそのとき、ネメシスはまさにシェルティアに飛びかかろうとしていた。

「きゃあっ!!」

シェルティアは横に倒れるようにネメシスを避ける。そのとき、ネメシスのまるで短剣の様な爪が、シェルティアの腕を掠めた。

「っ…!」

袖が避け、血が流れ、痛む。あと少し遅ければこの腕は無かったかもしれなかった。

 方向を変えてシェルティアは走る。走る速度はネメシスの方が上であり、今度追い付かれれば命は無いかもしれない。ネメシスをまく為に、シェルティアは近くの民家の中に入る。ネメシスもシェルティアを追った。

 入った家の中にもむごたらしい死体があった。だが、今はそれを気に留めている余裕はない。自分が助かる為にも、この家の人々の仇を取る為にも、ネメシスを倒さなければならなかった。

 適当に物をひっくり返して、その騒がしい物音で自分の足音を消すようにシェルティアは隠れる場所を探す。ネメシスの唸り声はすぐ傍であった。すると、偶然にも地下へ続く扉が開いているのをシェルティアは発見する。その前には、地下へと続く扉に手を伸ばしたまま息絶えている老いた男性の死体があった。きっとここへ逃げ込む直前に、あのネメシスに殺されたのだろう。

(…ごめんなさい…) 

シェルティアは心の中でその男性と家族に謝ると、梯子を下りて地下へ逃げ、扉を閉めた。地下は意外にも広く、保存食用の麦やワイン、そして農具などの物が置かれていた。

『ウウ…ウウ…』

頭上からはネメシスの声が聞こえて来る。トタトタとあちこちを歩き回るような音が行ったり来たりしている。自分を探しているのだ、と思いながらシェルティアはどうすればあのネメシスに勝てるのかを考える。そして、今までのネメシスの行動を思い出す。

(…ネメシスは耳が良い…きっと鼻も利く…何か弱点は…。……そういえば、ネメシスはわざわざ攻撃するとき、こちらに体を向けた…。もしかして、目はそんなに良くないのかな…。だったら!)

 シェルティアはこの中にランプとマッチが無いかを探す。地下は暗いので、昼までも明かりは必要な筈である。祈るような気持ちでシェルティアは探した。

(…あった!)

雑然とした物の中に、机と、その上にあるランプを見つけた。机の引き出しを調べると、マッチもある。シェルティアはまたもやこの家人に感謝しなければならなかった。マッチを擦ってランプに火を付ける。その火を見て、ネメシスも自分と同じであることを祈るしかなかった。暫くして床にランプを置き、シェルティアは闇深い物陰に隠れる。何度か深呼吸したあと、

「ネメシス! 私はここよ! 来てみなさいよ!」

と声を震わせながらも叫んだ。 すると、地下への扉を突き破ってネメシスが降りて来た。ネメシスは床に置いてあるランプの方へと近付く。そして、左右をきょろきょろと見ることはするが、その場から動こうとしない。

(やっぱり…! 暗い所から明るい所へ出ると目が眩むんだ!) 

シェルティアは自分の読みが当たったことにほっとしつつも、これから決着を付ける為に息を殺してそろりとネメシスに背後から近づく。ネメシスが自分の背後に何かを察知したのと同時に、シェルティアは包丁を背中に向けて振り下ろした。

『ウギャアア!!』

ネメシスは再び悲鳴を上げる。ネメシスを刺したシェルティアは、初めて山鶏をさばいたときのことを不意に思い出した。

『ウウウ! ウウ…!』

シェルティアは包丁をネメシスの身体から抜くと、一度目に攻撃したのとは比べ物にならない程の血が溢れ出た。ネメシスはその場に倒れ込むと、四肢をばたつかせ、苦痛に悶えて暴れた。それでも頭部の人間の表情は気味の悪い笑顔のままである。まるで効いていないように感じて、シェルティアは更にネメシスから離れ、固唾を呑んで様子を見る。暫くして手足をばたつかせる動きは緩慢になっていき、やがて止まった。今度こそネメシスは死んだのである。



 酷くくらくらする―静寂の夜道を歩きながらシェルティアはそう感じていた。腕の傷も痛むが、それよりも形容しがたい疲労感が体を重たくしていた。今のところネメシスの声も、村人の悲鳴も聞こえないが、今ネメシスに襲われれば今度こそ命は無いだろう。だが、そんなことを考える余裕はシェルティアには無かった。

「お父さんとお母さん、無事かな…」

ふらふらと歩いてぽつりと呟き、ただひたすら家を目指す。刈り取られた麦畑をいくつも通り過ぎ、右手にある包丁はまだ生温い血を、シェルティアが一歩一歩進む度に一滴ずつ落とす。今は悲しみも怒りも、恐怖もない。先程のネメシスとの戦いでそれらを全て吐き出してしまったかのようであった。

「…シェル! その血は!? 大丈夫なの!?」 

やっと家に辿り着いて台所の扉を開けると、シェルティアの帰りを待っていた父と母が血相を変えて飛んで来た。

「大丈夫、これはネメシスの血だから。それよりも…村が…」

 シェルティアは父と母の無事を確認すると、虚脱感は限界を迎えた。くらりと目の前が暗くなり、意識は遠のいていった。

「シェル!!」

父は慌ててシェルティアを抱き起し、母はシェルティアの腕を見て小さな悲鳴を上げた。

「この子、怪我を…! すぐに手当てしないと! あなたはこの子をベッドに運んでちょうだい!」

「ああ…。エレノア、この包丁の血を見ると…どうやらシェルはもう一体のネメシスを倒したようだ。この子は剣など握ったことすらないのに…」

シェルティアを抱きかかえながら父は母に言う。このとき父と母は、心のどこかで不吉なものを感じていた。


 周りがなんとなく明るい、と思いながらシェルティアは閉じていた目をそっと開いた。外から小鳥のさえずりが聞こえ、金色の太陽の光が窓から差し込んでいる。いつもと変わらない朝だ、とシェルティアは安心した。だが、そのとき左腕が痛んだ。

「夢じゃなかったんだ…」

弱々しくシェルティアは呟いた。現実だと分かった瞬間に、昨晩の恐怖や悲しみ、怒りが湧き上がって来る。どうしようもない感情に襲われたそのとき、部屋の扉が開いた。

「シェル! 起きたのね、良かった…」母は柔らかな笑みを浮かべる。だが、その顔の色は蒼白であった。

「ごめんなさいね、ご飯、これしかないんだけど…」

母は一切れのパンが載った皿と水が入ったグラスをベッドの横にある棚の上に置いた。

「お父さんは…?」

「今、外に出ているわ」

「…村の人たちは?」

シェルティアがそう尋ねると、母は口を噤んでしまった。そして、シェルティアから顔を背ける。シェルティアはそこからすべてを察し、ベッドから起き上がった。

「…シェル!? どこに行くの!?」

母の声を聞き流して、シェルティアは自室からリビングを抜けて外へ出た。

 いつもはもう畑仕事をしている人々の姿がない。ただ鳥の声が聞こえるのみで、今この空気に生気というものは感じられなかった。シェルティアはそんな空気を拒否するようにかぶりを大きく振ると、アリーの家がある方向へと走って行った。

 道端に人の死体こそなかったが、血の痕や半壊した家が村の風景を変えていた。それでもシェルティアはまだ、親友が生きていることを諦めてはいなかった。その途中、家の中から出て来る人影があった。シェルティアは足を止め、誰が生き残っているのかとじっと目を凝らす。

「…シェル!」

「お父さん!?」

朝日を受けて出て来たのは父であった。

「こんな所で何を…?」

「生き残っている人がいないかを探していたんだ。だが…」

「…っ、アリーは!?」

シェルティアの問いに父は小さく首を横に振った。シェルティアの胸に冷たいものが走る。そして、アリーの家に向かって走った。

 何度も来たアリーの家の壁は壊されて、中が見えていた。額に冷や汗が滲むのを感じながら、壊れた壁から中へ入る。仄かに血と、肉が腐った臭いがして、シェルティアは思わず口と鼻を片手で覆った。

 小さな家の中で、アリーとアリーの父親はすぐに見つかった。床に横たえてある二人の遺体に、血が点々と残るシーツが掛かっている。恐らくは父が施したものであろう。シェルティアはしゃがんで、二人の内の小さな体の方のシーツを、震える手でめくった。―顔の一部がえぐられ、目が閉じられている息のないアリーが目の前にいた。シェルティアに途方もない悲しみが覆いかぶさる。

「うああああーっ!!」

シェルティアは絶叫するように泣いた。親友のこんな姿は見たくなかった。あとひと月でも良いからずっと一緒にいて、最後は笑顔で別れたかった。ネメシスさえ来なければ―シェルティアはただひたすら声を上げて泣くことしかできなかった。



 シェルティアの慟哭を聞きつけてやって来た父は、シェルティアの肩を抱いて落ち着くまで傍にいた。そしてシェルティアは何とか涙を拭うと、アリーの上にシーツを被せ直して、アリーの家を父と共に後にした。

「…家の中にいたネメシスは何とか運んで焼いた。本当におぞましいものだな、アレは…」

 自宅方面に向かって歩きながら、父はシェルティアにそう話した。

「南の方の…村長さん達がいる方は…?」

「いや、まだ見ていない。だが生存者がいるなら、今の俺たちのように捜し回っているはずだ

ろう…。最悪な予測が当たってしまうかもしれない。…ああ、この村はこれから一体どうすれば…」父はこれまでにない、疲れて掠れた声で言った。父の友人もきっと亡くなったのだろう。そして母の友人や、近所の人も―ネメシスは何もかもを奪って行った。

「私は昨日、南の方の集落へ行った。でも…生きている人は見なかった…」

「そうか…」

二人の父娘はやりきれない想いのまま、誰もいなくなった道を歩く。自宅前に着くと、母が二人を待っていた。

「お帰りなさい。…どうだった?」

母の問いにシェルティアは顔を伏せ、父は首を横に振った。

「そう……」

母も短く答える。あまりの惨状に、誰もが言葉に出来なかった。

「とにかく一旦家の中に入って…ん?」

「どうしたの?」

「何か…複数の足音と、馬が歩く音がしないか?」

「えっ!?」

父の思わぬ言葉に、シェルティアも母も耳を澄ませる。そう言われると、確かに足音が南の集落方面から聞こえて来た。僅かな期待を胸にシェルティアは道の真ん中に飛び出し、父と母もシェルティアの後を追う。暫くして、遠目から足音の主の姿が見えた。二頭の馬が引く馬車が三台、そしてそれに寄り添うように歩く漆黒に銀のラインが袖に入った軍服の軍人たち。

「帝国軍だ…! 何でこんな所に…?」

父は驚きながら呟く。帝国軍人というものをシェルティアはこの目で初めて見た。このタイミングで帝国軍人が来るなど、悪いことの連続にしか思えない。軍人たちは真っ直ぐこちらに向かってくるので、シェルティアたちは真ん中から避ける。やがて目の前に軍人達がやってくると、

「全員、止まれ!」

一人の男の号令と共に、きっちりと足を止めた。一体何の用があるのかと、シェルティアは息を呑んだ。

「そこの者たち、この村の生き残りか?」

若い軍人の一人が威圧するように父に尋ねる。

「は、はい、そうでございます…。あの、なぜこのような辺境の村に帝国軍の方が?」

「黙れ。こちらの質問以外は口にするな!」

軍人は黒い軍帽の下にある鋭い眼光で父を睨んだ。

「おい、よせ。私たちの方から話しかけたのだ。私が直接話をしよう」

 先頭の馬車から、経た年月がすぐに分かる男の声が聞こえて来た。その声がした瞬間に、軍人たちの威圧感が少なくなった。

「はっ、失礼致しました!」

 そこへ馬車の扉が開き、髭をたくわえた老いた男と、お付きの者らしき男が降りて来た。髭の男の軍服の胸には煌びやかな階級章や勲章が付いており、一目で地位のある人間であると分かる。

「私は帝国軍少佐・グノーだ。お前達がこの村唯一の生き残りのようだな…あちらの集落は酷い有様だった…」

「しょ、少佐様でいらっしゃいますか!? 少佐様がこんな何もない村になぜ…?」

「この国の北方にあるフィニア王国へ視察に赴く予定だったからだ。話は戻すが、この村で一体何があった? …いや、訊く程もない。恐らくネメシスだろう」

「はい、その通りでございます…!」

「そのネメシスはどうした?」

「…それは…」

父はグノーの質問に答えられない。まさかネメシスを倒したのが自分の娘などとは言えなかった。娘にむごいことをさせてしまったことを、言いたくはなかった。言いにくそうな父の表情を見て、シェルティアは口を開く。

「私が、二体のネメシスを倒しました」

「…何?」

グノーは驚き、目を見開いた。グノーの後ろで控えている軍人たちも僅かに表情を変えた。

「まさか、そんな…」

「本当です。家にある肉切り包丁で、ネメシスを倒しました。この左腕の怪我は、そのときに負ったものです。村を襲ったのは、熊と狼のネメシスでした」

「ふむ…」

シェルティアの言葉を聞いたグノーは少し考え込んだ後、シェルティアを見た。

「娘よ、お前はネメシスに復讐をしたいか?」

グノーの質問に、シェルティアは怒りで顔を歪ませる。

「当然です! 私の親友もその家族も…赤ちゃんも子供もお年寄りも、皆あいつらに殺されたんです! 殺しても殺し足りないくらいよ…!」

語尾の方はわなわなと声まで震えた。無残なアリーの遺体と、昨晩倒した二体のネメシスの顔が交互にシェルティアの脳裏に浮かんだ。

「そうか…。ならば帝国にネメシス討伐を専門とする機関〝アイギス〟というものがある。娘よ、名は?」

「…シェルティア・スノウズです」

「シェルティア、お前のその怒りを力に変えて、ネメシスを滅ぼすのにその力を使ってみぬか?」

「力…?」

「お、お待ち下さい!」

グノーとシェルティアの会話に慌てて父が割り込んだ。

「どうした、何か不満があるというのか?」

グノーはやや威圧するように父に訊いた。

「いえ、決して不満はございません! ですが、シェル…我が娘はネメシスを倒したとはいえど、戦いなど全くしたことがありません! そんな娘が戦うなど、できることがございましょうか!?」

「…要するに娘が心配なのだな? …戦の経験が無いと言ったが、このような地図にも載らぬような村ならば当り前だろう。しかし、その娘が帝国の軍人でさえ苦戦するネメシスを一晩で二体も倒したのだ。この娘には素質がある。戦士としての素質がな」

「で、ですが…!」

「それに、帝国軍少佐である私が誘いをかけたのだ。平民のお前が断れるわけがない。そして、たとえお前たち家族だけがこの村に留まったところで、税を払っていけるのか? …アイギスは帝国軍と同じ地位にある組織だ。シェルティアがアイギスに入れば、お前たちは税を免れることができ、名誉も手に入れることが出来る」

グノーの言い分に父も母も、そして話の中心であるシェルティアも何も言えなくなる。

そしてシェルティアは気付いた。この軍人に会ったときから、否、ネメシスがこの村を襲ったときから自分の運命は決まってしまっているのだということを。父も母も、娘をこれ以上危険な目に遭わせたくはない。だが、帝国という巨大で強大な力の前ではなす術もなかった。そしてグノーはそれを分かりきった上で、シェルティアにアイギスの話を出したのである。

「さて、どうする? シェルティアよ」沈黙の時間も惜しいという風に、グノーは再度尋ねる。

「……分かりました。私、アイギスに入ります」

シェルティアははっきりと口にした。

「シェル!」

母と父は声を揃えて思い留まるようにシェルティアの名を呼んだ。

「良い返事だ。おい、予定は変更だ。我々はこのまま帝都に引き返す。シェルティアも我々に付いて来い」

「い、今すぐにですか!?」

父はあまりにも急な別れに、血の気を無くした表情になる。

「そうだ。わざわざこの村に来ることなど、もう無いだろうからな。シェルティアよ、今すぐ仕度をして一番後ろの幌馬車の荷台に乗り込むと良い」

「…分かりました。仕度が終わるまで待っていただけますか?」

「ああ。そうだ、シェルティアの両親…お前たちはどうするのだ? このままこの村にいたとして、何の利益も無いだろう。娘の後を追って帝都に来る、という選択肢もお前たちにはあるのだ」

グノーの言葉を聞いたシェルティアは、両親の顔を見た。

「お父さん、お母さん、この少佐様の言う通りかもしれない。この村もまたいつネメシスに襲われるか分からないし、それにもう…誰もいない。だから…!」

 せめてそうすれば、父と母とは別れずに済むと思ったシェルティアは、懇願するように言った。だが、沈んだ表情のまま父はかぶりを振った。

「……それは、できない。この村の人々を弔うこともまだしていない。それに、俺たちはこの村が好きなんだ。そして、シェルティアがいつでも帰って来られるようにこの村を、俺たちは守りたいと思う」

「あなた…」

母は静かに涙を流す。

「お父さん……」

シェルティアは父の辛い決断を察し、そのまま何も言わずに家の中へと入った。



 仕度といっても、衣服そのものがあまりない為、シェルティアの荷物は小さな鞄一つに収まった。そのとき、母が朝食に、と置いていったパンと一杯の水が目に留まる。シェルティアは一切れのパンを齧って口に運んだ。もうこの故郷のパンも食べられないかもしれない―次に齧ったときは、涙で少ししょっぱいパンの味がした。

 パンを水で流しこんだとき、扉をノックする音が聞こえた。

「シェル、ちょっといい?」

ノックをして来たのは母である。シェルティアが小さくうん、と答えると、母は入って来た。

「仕度はもう済んだの?」

「うん…」

「…ごめんなさい、私たちに力が無いばっかりに、あなたを危険な目に遭わせることになってしまって…。これでは奉公に出すのと同じだわ」

母は肩を震わせる。

「お母さんたちは悪くない! これは私の意志よ! …それに、帝国には逆らえないし、ネメシスに復讐したいのは私だけじゃないもの。…お父さんとお母さんの友達や村の人々の分も、ネメシスを倒してみせる!」

「…シェル!」

母はシェルティアを抱きしめ、すすり泣く。先程泣いたばかりのシェルティアも涙が出そうになるが、ここで自分も泣いてしまっては母をさらに心配させてしまうかもしれない。何とか涙を堪えた。

「あなたは昔っから我慢強い子で…食べ物が少なくても病気になっても、弱音を吐かなかったわね…。あなたのその強い所に私たちはいつも甘えて…また今もあなたに甘えてしまっているわ…本当にごめんなさい…!」

 シェルティアは母の胸の中で首を横に振った。家族が自分に甘えているなどとは毛頭思わず、ただ自分がやるべきことだと思い、グノーの誘いを受けたのである。

「私は全然そんなこと思ってない…! それよりも私はお父さんとお母さんの方が心配だよ!いつネメシスにまた襲われるか分からないのに…」

「私たちは大丈夫…シェルティアのようには戦えないけど、何としてでも生きて見せるわ。だから…心配しないで」

「お母さん…」

「そうそう、シェルに渡したいものがあったの」

母はそう言って、髪の後ろで留めている薔薇の銀細工が施されている髪飾りを外して手に取った。シェルティアは目を大きく見開く。

「これ…!」

「そう、お母さんのお母さん、そしてそのお母さんと、代々付けられていた髪飾りよ。あなたも良く知っているでしょう? …これを、私とお父さんだと思って持って行ってちょうだい」

「でもそれは、とっても大事なもので…!」

 シェルティアは幼い頃を思い出す。昔、母の髪飾りがまるでおとぎ話に出て来るお姫様が付けている物のようで、何度も付けたいとせがんだ。だが母は、『シェルが大人になったらね』と言い、決して付けさせてはくれなかった。こっそり付けようとしたところを見つかって、母に怒られたことも何度もあった。そしてその内にシェルティアには、いかにその髪飾りが大切なものなのかを次第に認識していくようになった。

「私たちに出来ることは、この髪飾りを贈ることくらい。それに…あなたより大切なものなんてないのよ? それを覚えておいてね」

母の言葉に、シェルティアは口をきつく結んで大きく頷いた。母は髪飾りをシェルティアの手にそっと握らせる。シェルティアはそれを、サイドの髪を後ろで纏めて、留めた。

「…うん、よく似合っているわ。とっても素敵よ、シェル。あなたももう立派な女性なのね…」

 母はそこで言葉を切って、今度は嗚咽を漏らした。シェルティアは母の手を取る。

「お母さん、ありがとう…ありがとう…!」

今度はシェルティアの方から母を抱きしめた。シェルティアの自室の外では、二人のやり取りを聞いていた父が、指で目頭を押さえていた。



「グノー少佐、なぜ突然初対面の、どこの馬の骨とも知れない娘をアイギスに入れようとしたのですか?」

グノーの補佐役である男は、シェルティアの支度を待っている間にそう尋ねた。

「アイギスは慢性的に人員不足だ。それに畳み掛けるようにネメシスの被害も増加している。あの娘はいずれ、この村では暮らせなくなり、奉公か娼婦になるしかないだろう。だが、娼婦になるには体が貧相だ。だからあの娘の良い利用方法はアイギスしかないと考えた。アイギスの団長ともそれで貸しが作れるからな。それだけだ。使えなければ奉公に出せば良いだけの話だ」

「はあ…」

補佐役の男はまだどこか腑に落ちない、という表情で答えた。果たしてあのような小柄な娘がネメシスを倒すことが出来るのだろうか、という疑問が残る。すると、家の扉が開き、シェルティアと父、そして母が出て来た。

「グノー少佐様…娘のこと、どうかよろしくお願いします」

父は目と鼻先を赤くしてそう言うと、頭を下げた。

「ああ分かっている。お前たちは税を一人分免れることが出来るのだ。これ以上幸せなことは無いだろう?」

「…はい…」

グノーは敢えて痛い所を付くように言うと、父は全身を震わせ、悔しさを隠して返事をした。自分の前では何も反論できない者を見る度に、グノーは快いものを感じていた。ふとシェルティアの方を見ると、どこか自分を睨んでいるように見えた。

「さあ、後ろの幌馬車に乗ってくれ。荷物があって少々窮屈かもしれないが、歩いて帝都まで行くよりもいいだろう」

「…分かりました」

シェルティアはグノーに対し何の感情も込めずに答えると、後ろを向いて父と母を見た。

「お父さん、お母さん、行ってきます」

「…行ってらっしゃい」

「身体には気を付けるのよ」

父と母は苦しさを堪えて笑顔でシェルティアに言った。シェルティアもそれに答えるように笑顔を作って見せる。

「うん、お父さんとお母さんも。今度この村に帰ってきたときは、立派になった姿を見せるからね!」

シェルティアはそう言うと振り返り、父と母の顔を見ないようにする。これ以上見ていると、泣きそうになってしまう。

「お願いします」

シェルティアはグノーにそう言うと、列の最後尾にある幌馬車に乗り込んだ。

「では出立する。全員、進め!」

軍人の一人が号令をかけると、馬車と軍人たちは足並みを揃えて歩き出した。

「シェル!!」

父と母は幌馬車が見えるとシェルティアの姿を見つけ、叫んだ。シェルティアは両親に対し、千切れんばかりの手を振った。段々とその姿が小さくなるにつれ、目の前が滲んで見えなくなっていった。

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