咎人の願い

 思えば最初からおかしな話だったのだ。

 腹部からも出血していたのに、それを治療道具なしでふさぐなどという話。その上で骨折だけは治せないなんて都合がよすぎる。

 どうしてこんな簡単なことに気付かなかったのだろう。イリヤの言う術のせいでそれがわからないようになっていたのか。

 いや、違う。

 生来の深く考えない呑気な性分が、ああそれは大変だーとそれだけで済ませてしまったのだ。ヤキムがエーリャをしつこいくらいに馬鹿馬鹿連呼していた理由がいまわかった気がした。


「エーリャ、機嫌なおしてよ」

「知らない! イリヤのうそつき!」

「いやだな。まったく治せないなんて一言も言わなかったじゃない。治せるとも言わなかっただけで」


 飄々と言ってのけるさまがいっそ清々しく感じる。

 エーリャはイリヤを優しいと思い込んでいたけれど、妙に頭がすっきりしている今ならはっきりとわかる。

 実際のイリヤは優しいというより、うさんくさい。意地が悪い。屈折していてひねくれている。

 どうも夢を見てから色々と見えてくる。これも夢で見た何かの影響なのだろうか。

 ふと、夢の内容を思い起こそうとして、余計なことに気づいた。

 自分はイリヤに、いやなことを言ってしまったのかもしれない、と。


「どうしたの、急におとなしくなって」

「エーリャ、イリヤにひどいこと、言った……」


 思い浮かぶのは、夢の中で追い立てられて逃げ場も道も失くした自分の姿。

 もういやだとそれだけを叫んでいた。もうそれしか残っていなかった。

 もしもイリヤがそれと同じ気持ちだったなら、自分はどれだけ残酷なことを彼にもとめたのだろうか。

 しょげた耳ごと、イリヤの手のひらが包み込んで揉みこむように撫でた。


「ひどいこと、ってなに?」

「生きて、って……言ったこと。イリヤの気持ち無視して、押しつけた」


 あの時は夢中でそうとしか思えなかった。そればかりを願っていた。

 でも夢の中の自分は違う。

 そんなこと微塵も望めなかった。その言葉を一番忌避していた。

 薄っぺらで、底が浅くて、悲しくなるほど軽率な、偽善に満ちた言葉にしか思えなかった。そんな言葉を軽々しく吐く人間を嫌悪して、軽蔑していた。

 それなのに自分がそれを言うなんて、どれだけ虫がいいんだろう。

 その気持ちを否定するつもりはなくとも、言わなくてもよかったはずだ。そんな簡単に言えるような言葉でなくても、もっと別の言葉を尽くせたはずだ。

 心底能天気な自分が腹立たしい。恥ずかしい。

 結局エーリャはイリヤの痛みなど、爪の先ほども理解していなかった。


 自身への失望と罪悪感に落ち込み切ったエーリャの耳を、こら、とイリヤが軽く引っ張る。


「なに勝手に人の心情決めつけて落ち込んでんの。そんなの能天気で呑気なエーリャらしくないよ」

「ふたこと多くない?」


 能天気で呑気は今はいらない気がする。

 どよんと澱んだエーリャの顔をマッサージするように、イリヤの指が優しくもみほぐしていく。


「まあ確かに腹は立ったよ。勝手なこと言うな、って」


 やっぱり。

 顔をそらそうとすると、両頬を挟まれて強引にあげさせられる。そこには嘲笑でも苦笑でもなく、はにかむようなイリヤの微笑があった。


「でもきみが傍にいるって言ってくれたから、じゃあもう少しだけ生きてみようかなって。そう思えた。いや、観念した、かな」


 照れをごまかすように、ちゅっとエーリャの鼻さきに口付けを落とす。慈しむように向けられる新緑の色の瞳の中に、嘘やごまかしは見当たらない。

 その瞳を見つめて、エーリャの中にすとん、と何かが下りた。


「エーリャも、だったのかも」

「ん?」

「エーリャも、イリヤがいなきゃ、きっととっくの昔に死んでた」


 思い返せば、色んなものを引きずっていた気がする。

 ひとりぼっちが怖かったのは、独りの恐ろしさを知っていたからだ。

 血を見るのが嫌だったのは、それが最後に見たものだったかだ。

 狩りが嫌だったのは、散々心の中でいやだと叫んだのに、誰も聞かずに笑いながらなぶられたからだ。


 エーリャの中にずっとあの頃の自分はいた。

 いや、今もきっと、いる。

 それでも夢の自分と同じように死なずに済んだのは、イリヤと出会ったから。イリヤが、嘘でも、利用するためでも、エーリャの傍に居てくれたから。

 だから頑張れた。どんなことにもめげずにいられた。

 イリヤがいたからこそ、立ち向かって、戦えた。イリヤがいなければきっと本当に野垂れ死にしていたことだろう。

 眩い奇跡の上に、今エーリャはこうして立っていられる。

 あの時は手も伸ばせなかった光を、今度こそエーリャは掴むことができた。

 エーリャは、万感の思いでイリヤを見上げた。


「エーリャがイリヤを見つけたと思ってたけど、違うね。イリヤがエーリャを、見つけてくれたんだね。ありがとう、イリヤ」


 見上げるエーリャの顔を救い上げ、イリヤは嬉しそうに額を寄せた。


「どういたしまして。こちらこそありがとう。ぼくのかわいいエーリャイルビス


 うりうりと額を擦り付けながら、笑いあう。

 イリヤがこんな風に、無防備な顔で笑うのも初めてだ。


 よかった。

 こわくて、つらくて、いたくて、最後は死ぬかと思ったけれど、死ぬほど頑張ってよかった。イリヤの笑顔が見られて本当によかった。


「ぼくのおかげなら、嘘ついたことも結果としては正解だったでしょ」

「それとこれとはベツ!」


 シャアッとエーリャは威嚇して見せた。もちろん、怒っているわけがない。




 暖炉の炎が踊るように揺らめくのを見つめながら、エーリャが傍らにぴったりとくっついて座るイリヤに問いかけた。


「イリヤはどうして、あそこにいたの?」


 エーリャのいたところは山の中腹あたりだが、それでもだいぶ標高は高い方だ。

 あちこち急斜面や人の足では歩行が困難な岩場がそこかしこにあり、そうそうあんなところまで昇ってくる人間なんていなかった。

 けれどイリヤは川に流されてあの場所に倒れていた。ということは、もっと上の方まで昇っていたのだろう。

 なぜ、一人川に流されたのだろう。

 今までずっと、聞くに聞けなかったことを聞いてみたかった。きっと今のイリヤなら、ごまかしたりはぐらかしたりしないだろうと思えたから。

 そしてエーリャの望みどおり、イリヤは穏やかな表情で答えてくれた。


「崖の傍で、兄が落ちそうになったから咄嗟に手を伸ばして引っ張ったんだ。そしたらそのままぐるっと周って自分が落ちた」

「よく生きてたね」


 エーリャの耳の裏を優しく掻きながら、イリヤはどこか遠くを見つめるように視線をさまよわせる。


「兄は小さいころからぼくをかわいがり、守り、たくさん遊んでくれた。いつも、どんなときも一緒だった。剣の稽古をつけてくれたし、本も読んでくれたし、小さいころは毎晩同じ寝台で眠った」

「エーリャとイリヤみたいだね」

「……ふふ。そうだね、その通りだ」


 見上げると、そこにはなんだか寂しそうな顔で微笑むイリヤの横顔が見えた。

 思わず身を寄せると、それに合わせて抱き寄せてくれる。


「この城山にはたくさんの記録があってね、きみ達の記録も、兄に読んでもらって知った」


 イリヤの生まれる前の過去の話だ。

 それでも、イリヤが呪詛のように紡ぎだしたおぞましい逸話を思い起こす。人は、自分の快楽のためならどんなおぞましいことも、悪辣なことも、笑ってやってのけるのだ。

 毛穴がひりつき、毛並みが逆立ってくる。

 それを宥めるようにイリヤの手のひらがゆっくりと撫でつけた。


「女神の末裔と記されたその動物に最初に興味を持ったのは兄だったんだ。

 獲って毛皮が欲しい、なんて思う人じゃないんだよ。どんな生き物なのか知りたい。崩落と再生の後に分かたれた同胞をこの目で見てみたい。

 夢見るようにそう言っていたから、ぼくもきみ達のことを記した伝承に夢中になった」


 どこにいるのか。どのあたりで見かけたのか。どういうやり方で彼らの元まで人が辿ることができたのか。様々な記録を読み込んで研究した、とイリヤは言った。

 きっと、その当時目的はどうあれイルビスを見つけるのに最適なやり方を、イリヤ達の祖先が残していたのだろう。


「本当はね、ぼくはイルビスなんてどうでもよかったのかもしれない。ただ、兄に見せてあげたかった。よくやったって笑って、褒めてもらいたかったんだろうな」


 エーリャの頭を撫でながら、当時の自分に思いをはせるように、小さく爆ぜる炎を見つめる。

 エーリャも想像した。

 小さなイリヤ。

 兄が大好きで、兄が好きなものも一緒に好きになって、夢中になって調べた。

 好かれたい相手に一生懸命になるのは人も獣も関係ないのかもしれない。


「それから大きくなって、父が亡くなり、そのあとすぐにぼくの母が死んだ。ぼくが殺したんだけどね。兄は哀しみ、すごく落ち込んでいた。だから言ったんだ。お山に行って、女神の末裔をひと目見に行こうって。見るだけならきっと女神にも許されるから、って」


 イリヤは淡々と己の行いを告げた。己の行為に微塵の躊躇も後悔も感じていないのだろう。

 それでも、迷いがないかに見えたイリヤの無表情が、ゆっくりと悲しみに染まっていく。


「兄は疲れていたんだろう。立て続けに父と母を亡くしたからだけじゃない。あの人はどんな相手にも分け隔てなく慈愛を注ぎ思いやる、素晴らしい人だった。だから、色んな人の心を全部背負おうとしてた。

 ぼくは自分のしたことに後悔はしていないけれど、それでも、ぼくのしたことがあのどうしようもなく優しいひとを追い詰めたんだ」


 イリヤは己のしたことを隠しはしなかったが、あえて告げもしなかった。

 それでも遅かれ早かれ、一族の長である彼の耳には入る。それもイリヤにとっては想定内のことで、それを解っていて山登りに兄を誘った。

 聞いているうちにエーリャはなにか引っかかるようなものを覚えて、思わずそれを口に出してしまった。


「どうしてそんな落ちてしまうようなところにいたの? イリヤはお兄さんを助けようとしたって言ったけど、普通に引っ張ったならそんな身代わりになるみたいに……」


 そこまで言ったところで、炎を見つめていたイリヤの瞳がエーリャに向いた。

 全てを悟っているかのような瞳で、何も言わずただ首を横に振る。黙り込んだエーリャを抱き寄せ額に頬ずりしながら、イリヤはひっそりと囁いた。


「ね。エーリャ。お願いがあるんだ。聞いてくれるかな」

「いいよ」

「ふふ、即答か。ありがたいね」


 イリヤは、エーリャに頬を寄せたまま、夢見るように目を閉じた。


「兄に、会ってやってほしい。……ぼくは、この世でいちばんうつくしい獣を、あの人に見せてあげたかった。ただ、それだけなんだ」


 エーリャは何も言わず、返事の代わりにイリヤの目尻をぺろりと舐めた。

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