イリヤとリヒテル

 兄に案内するからと部屋を出て、イリヤに付き添われながら城の中を歩く。

 全体的に窓が少ないので薄暗く、途中通った廊下や階段は石の煉瓦で覆われ、一人か二人通れる程度の幅しかなかった。

 その中をゆったりと歩いていると、時折すれ違う人にひどく驚かれたり怯えられたり、ひどいときには回れ右で逃げてしまう人間もいた。

 エーリャが放し飼いみたいに縄もつけていないから怖がっているんじゃないの、とイリヤに聞くと、イリヤはおかしそうに笑って首を横に振った。


「違うよ。ぼくを怖れているのさ。母殺しの厄介者が、とうとう獣を従えて皆殺しにやってきたってね」

「エーリャはイリヤの家来じゃないけど!」

「そうだね」


 イリヤはなんてことないように笑っているが、そんな風に自身のことを言うあたり、イリヤにとってこの城はそんなに居心地の良い場所ではなかったのかもしれない。

 そういう環境の中で自身を大事にしてくれた兄を慕うのも当然の話だ。

 自身の兄の話をする時のイリヤは、最初のころからどんな時も優しい目をしていたから。


「さて、こっちだエーリャ」


 イリヤに誘われて大きな両開きの木製のドアの隙間を抜けると、そこは屋外だった。

 ドアを抜けてすぐに石の短い階段があり、その先には城壁に覆われた小さな中庭が広がっている。壁側にほんの少し木があるのみで、庭というにはやや殺風景な場所だ。

 うっすらと雪化粧に覆われたそこをゆっくりと進んでいくと、中央にある円状のベンチのようなところに座る人影を見つけた。


「それがおまえの言っていた獣か」


 イリヤよりやや低い落ち着きのある声だが、まるで外国語のようでエーリャの耳にはなにを言っているかは理解できていない。

 エーリャはイリヤの後ろから頭だけ覗かせてみた。

 でかい。

 イリヤよりも頭一つ分高い、熊のように大きないかめしい男がエーリャを見下ろしていた。その圧倒的な体格と風貌に気おされ、エーリャは思わず頭を引っ込めて身を縮ませる。


「そうだよ。ほら、エーリャ。怖くないから出ておいで」


 イリヤに後ろ手でぽんぽんと促されてそろそろと前に踏み出すと、男がのっそりと立ち上がった。

 立ち上がるとますます威圧感が凄い。毛皮の四角い帽子をかぶり、顔の下半分は見事な髭で覆われている。黒の詰襟にこげ茶の上着を羽織り、下も同じような色の下ばきと靴を履いている。

 現実逃避なのか、こんなの引っ張ったらイリヤの腕がすっぽ抜けてしまうんじゃないのか、とエーリャはふと思った。

 戦々恐々としながらも硬直するエーリャの前に移動した男は、ゆったりとした動作で跪いた。


「エーリャ、じっとしていてね」


 イリヤの声が頭上から降ってきて、えっと返す間もなく跪いた男が手を伸ばしてきた。

 手まで大きい。どうでもいいことを考えている間にその手のひらがふわりと触れるか触れないかのところでエーリャの額に降りた。

 刹那、きいんと耳鳴りが響く。


「どうだろうか、獣のお嬢さん。おれの言葉がわかるか」

「……わか、る」


 不思議なことに、耳鳴りのあと、男の言葉がわかるようになった。

 摩訶不思議だがそんなことは今さらだ。

 まあいっか、と顔を上げると、男と目が合う。イリヤと同じ色の瞳が、エーリャを映していた。


「おれはイーリャの兄で、リヒテルという。リヒテル・アレクサンドロヴィチ・ケィウ。この城の主で、この城山の領主だ」

「……エーリャ。ただのエーリャだよ」

「そうか。よろしくな、エーリャ」


 目尻を緩ませたリヒテルが、エーリャの頭を思いのほか優しい手つきで撫でつける。大きくて、とても暖かく感じた。


「美しいな。まるで雪の妖精だ」

「そうでしょう。ぼくもはじめて見たときは心を奪われました」


 二人にじっと見つめられるとなんだか気恥ずかしくて、エーリャは首をすくませる。

 リヒテルはそんなエーリャを見下ろしながら、ふと、浮かべていた笑みを消した。エーリャを見るようで別のどこかを見つめながら、ぽつりと呟く。


「おれは、おまえに尋ねたな。なぜあんなことをしたかと」

「それは……」

「わかっている。当主の命を狙うものなどお前が私刑にせずとも俺が罰さねばならん。そうなれば掟に従いケィウの籍ははく奪の上処刑。山に野晒しにされ墓もたてられずにいたことだろう。当然、一族の墓になどまかり間違っても入れられまい」


 イリヤは、ただ、邪魔だったからと言っていた。でも、違うのだろうか。

 エーリャが見上げると、うすら寒い笑みで空を見上げるイリヤの横顔が見えた。


「言ったでしょう。邪魔だったからです。あれも、もちろん、このぼくも」


 イリヤの言葉で目を見開いたリヒテルが勢いよく立ちあがる。

 恐ろしい形相でイリヤを睨みつけたその様子に、イリヤが殴られる、とエーリャが身を起こしたその瞬間、リヒテルはイリヤの体をその腕の中にしっかりと抱きしめて嗚咽した。


「すまない……。おれがふがいないばかりに、おまえから母を奪い、ケィウの名まで失わせた……!」

「兄上はなにも悪くありません。ぼくは、ただ、あなたを哀しませるのがいやで」

「おまえを失ってもおれはかなしい。かなしいんだイーリャ……!」


 イルビスをも一発でのしてしまいそうな大男が声を張り上げながら号泣している。

 尽きることなくぼろぼろと涙をこぼして、大事そうに自分の弟を抱きしめていた。


「おまえはいつもおれを慕ってくれたのに、それなのにおれはおまえを……!」


 だらんと垂れていたイリヤの手のひらが震えたのを、エーリャは見逃さなかった。

 その手のひらに何かを促すように、額を押し付ける。

 イリヤは、ゆっくりと、リヒテルの背に手を回し抱きしめ返した。


「こんなぼくでも、まだ、あなたの弟でいることを望んでもいいのですか」


 震えるイリヤの声に応えるように、リヒテルは腕に力を込めた。


「当たり前だろう! どこにいたって、どんなときも、おまえはおれのたったひとりの、かけがえのない弟だ!」


 リヒテルは、まるで天に誓うように大きな声を張り上げた。

 ちらほらと雪が舞い降りるまで、二人の兄弟は別れを惜しむように抱きしめあっていた。




 リヒテルの涙が落ち着いた頃二人は離れ、リヒテルが座っていたところに並んで腰を下ろした。

 エーリャはイリヤの右側の足元に座り頭をイリヤの膝の上にのせている。

 まるで泣きはらしたように目の周りを赤くさせたイリヤの顔をじっと見つめていると、隠すようにイリヤの手のひらが覆いかぶさった。

 リヒテルはそんなやりとりを穏やかな表情で眺めながらも、ふと、悲しげに眉根を寄せる。


「……やはり、弟であるおまえの罪はおれの罪と同義。おれも責任を取って公の座を辞して……」

「いけません。あなたはこの城に必要な方だ」


 イリヤはリヒテルの言葉を冷たくはねのけた。

 けれど、リヒテルは余計に苦渋を募らせるようにうめいて身を乗り出す。


「おまえだってそうだろう!」

「そう言ってくれるのは兄さんだけです。ぼくはもともと厄介者で通ってましたから。あれと一緒で。だからいなくなれば喜びこそすれ、惜しむものなどいませんよ」


 二人の話に耳を傾けながら、エーリャは胸がつきんと痛むのを感じた。

 イリヤはこうして自分を平気で貶める。

 嘆くでもなく恥じるでもなく、事実として受け入れているのだろう。そしてきっと、彼がそう思うように仕向けた誰かがいた。そういう環境に彼はいた。

 それがなんだか悲しくて、やるせなくなる。

 自分をそういうものだと受け入れるまでに、彼はどれだけ傷付いたのだろう。


 リヒテルもそう感じたのだろう。

 イリヤの手を取って握り、言い聞かせるように首を横に振った。


「イーリャ。おまえはいつもそういうが、おまえが知らずとも、おまえを想うものは居た。そんな風に言うな。おまえがいなくなれば、悲しむものはおれだけではないのだ。それを、そんな風に切り捨ててやるな」

「そんな、つもりでは……」


 たくさん、自分を否定されると、次第にそれを否定するよりも受け入れるほうが楽だという錯覚を起こす。

 自分はそういうものだ。自分はこうだから、こうされる、こういわれる。だから仕方ない。本当のことなんだから何を言われても仕方ない。

 たとえそれが事実であろうがなかろうが、そう自分で認めてしまえば、抗うよりもずっと少ない傷で済む。

 それでも、そんなものは自分で自分に遅行性の毒を刷り込んでいるようなものだ。

 次第に内側から心を蝕み、もう立て直すこともできなくなるくらいにぼろぼろに崩れていく。


 エーリャの夢の中で見た自分は、そうやって自分を殺した。イリヤにはそうなってほしくはない。

 だからエーリャも、リヒテルの言うとおりだと同意するようにこくこくと頷く。

 リヒテルはそんなエーリャを見て嬉しそうに微笑みかけ、戸惑いを見せる弟の頭を引き寄せ、ややわざとらしく乱暴にかき回した。


「おまえは小さなころから敏い子だったから、きっとそんなおまえに甘えて愚かな言葉を吐く者もいただろう。だが、そんなものこそもう捨てていけ。これからは、自分にとって本当に大事なものだけを抱いて生きていけ。おまえは賢いから、それができるはずだ」


 イリヤは、ぼさぼさの頭のまま俯く。

 ややあってから、ほんのわずかに頷いたイリヤに、リヒテルは満足そうに最後の問いかけをした。


「よし。じゃあイーリャ。おまえにとって一番大事なものは、なんだ?」


 エーリャは心の中で、それはリヒテルだろうと確信した。

 いつだってイリヤの行動のその先にはこの人が繋がっていたのだから。

 きっとイリヤにとって、こんなに想ってくれる兄こそが一筋の光だったのかもしれない。だからこそそれを守るためになんでもした。


 ほかのだれを差し置いても、大事ななにかを求める心は理屈じゃない。

 親が子供を守るように。子が親を慕うように。生きるためにほかの何かを殺して食べるように。生きるために、なにかを守るために死にそうになるまで戦うように。

 みんな、そういうものだ、としかいえない。

 だからエーリャも、兄を一番に思うイリヤの心を否定したくはない。それも含めたイリヤが好きだから。

 寂しくないとは言わないけれど、仕方ないから二番目で甘んじてあげる。

 そんな思いで目を閉じたエーリャの額を、イリヤの指が優しく撫ぜた。


「この子です、兄上。ぼくにとって、世界でいちばんかわいくて、大事な子。

 ぼくはエーリャのために、エーリャとともに、なにがあっても生きていきたい。

 ずっと、いつか、素敵な死に場所を見つけたそのあとも」


 エーリャの胸の内側で、痛いくらいの喜びが爆発する。

 あんまり痛くて、出ないはずの涙が出そうなくらい、とてもとても痛かった。

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