第四章 巣立ち
獣の正体
ずっと遠くの席から、舞台を眺めているような気分だった。
ふと気づくと、白い毛だらけの自分の前足が見える。その下は真っ暗で、顔を上げて辺りを見回しても何も見えない。
闇しかない。闇の中に居る筈で、照明もないのに、自分の姿だけははっきりと見える。片手をあげて自分の肉球をしげしげとみつめながら、エーリャは首をかしげた。
「エーリャだ……」
その手のひらをにぎにぎと開いたり閉じたりすると、それに合わせて爪も出たり入ったりする。
くるっと一周周ってみると視界に何かうつり込んだので首をひねると、とてもふわふわしてそうな長いものが見えた。
座ってみると、それがより近くなる。白い地に黒の斑紋の模様がついている、尻尾だった。
それをじっと見下ろして、エーリャは目を瞬かせた。
「あれって、エーリャ……?」
ふとつぶやくと、視界の端に白いものが映り込む。大きなイルビスがエーリャと左右対称になるようにゆったりと横たわっている。
エーリャは、そのイルビスをじっと見つめた。
「わたしは、エーリャ、なの……?」
エーリャは問いかけたが、目の前のイルビスはうんともすんとも言わずにエーリャを見つめ返すだけ。
それでも、なぜか確信が持てた。
自分は確かに死んだはずだ。でも、いまはエーリャになっている。というより、エーリャとして生まれた。
なぜかはわからないが生まれる前のこと、死ぬまでのことを唐突に思い出した。いや、気づいたと言ったほうが正しい。
ずっと同じ夢を見ていた。でもこれは夢じゃない。ずっと前に、あった出来事。エーリャになる前の自分の姿だ。
エーリャは望だ。望は、エーリャとして生まれた。
「生まれ変わったのかな。それともこれって、どっかの獣に乗り移っちゃってた、とか?」
願望が強すぎて霊魂が暴走したのだろうか。そんな突飛な発想が思い浮かぶが、どうもそうとは思えない。
エーリャはエーリャとして生まれた。望の記憶なんて一切なかった。
それをなぜか今唐突に思い出した、というより、それを知った、と言ったほうが正しい。誰かに小さなころの話を聞かせてもらうように、自分のことだけど、その実感はない感覚。
エーリャにとっての前世なのだろうけれど、望としての感覚はおぼろげなのでどうもしっくりこない。
エーリャはエーリャだ。でも、望であったもの、だ。
「叶ってたんだ」
願いはかなっていた。
望は、願っていたあこがれの対象に生まれることができた。
ただ、体はそれでも、魂は望のままだった。
なんだか可笑しくなって、望は笑った。
イルビスに生まれた自分は、人間に生まれたかった、なんて考えていた。
あの頃と全く真逆だ。笑ってしまう。
結局のところ、何に生まれたところで望は望だったのだろう。
でも今の望と、エーリャは、違う。
同じ心を持っていても、違う答えを見つけた。
四足を踏ん張って立ち上がると、目の前の大きな獣に近づいた。
立った自分と殆ど目線が同じ高さにある額に己の額を擦り付けて、エーリャはぐるぐると鳴いた。
「生んでくれてありがとう。かあさん」
眦から一つ、雫がこぼれた。
その瞬間すべての闇が晴れ、世界は真っ白な光に包まれた。
*****
パチッと何かが弾ける音がした。
ぐるぐるという音がやみ、微睡から目が覚める。
視界の向こうでは橙色の炎がゆらゆらと揺れては、時折弾ける。とても暖かくて、静かだ。
薄ぼやけた世界をぼんやりと見つめながら、この居心地の良さに再びうとうとと瞼が重くなった。眠りを促すように額から背を滑る感触が心地いい。
どこかで、同じようなことがあった気がする。
「おはよう、かわいい子。よく眠れたかな? まだ眠る?」
その一言で、薄らぎかけていた意識が一瞬で覚醒した。
考えるよりも早くその場から飛びのいたエーリャは、声のしたほうを向きながら毛を逆立てた。
「どうしたの。そんなに怖がらないで。こっちへおいで」
穏やかな微笑を浮かべた青年は座ったまま両手を広げて、指で手招きしてくる。もう片方の手には木製の櫛を持っている。
「なに、持ってるの……イリヤ」
「ああ、これ? 約束したでしょう。エーリャの毛皮を沢山梳かしてうんと綺麗にしてあげるって」
そんな約束した覚えは――あったような、ないような。
まだ事態を把握しきれていないエーリャは落ち着かずにたたらを踏んだ。その踏み心地がまた柔らかくて違和感を覚え下を見ると、見事な模様で織られた絨毯が敷かれていた。
慌ててあたりを見回してみると、どう見ても洞窟や河原ではない、どこかの、それこそ外国の民族が住む家のような部屋だった。
見上げた先にひどく小さな窓が一つ、壁には何か色々な生き物や人が描かれた大きなタペストリーがかかっている。
木製の小さな机に、暖炉に、重厚な織物の幕がかかった
落ち着かなく辺りを見回して、最後にイリヤに目をとめた。
エーリャに見つめられて微笑み返す彼は顔色もよく、うっすらと生えていたほんのちょっとの髭もなくなり、小ざっぱりとしている。
くるくるとうねる柔らかそうな栗毛は後ろにひとまとめにして、白い詰襟に黒く裾の長い前開きの上着を羽織ってベルトで止めていた。
目を白黒させるエーリャとは違い、あぐらをかいて落ち着いた様子だ。
「ここ、どこ……?」
「
「えっ」
イリヤの家ということは、人里だ。
一瞬にして血の気が引いたエーリャは耳をぱたりと寝かせて、恐る恐るイリヤを見上げる。
「なんでエーリャ……、ここにいるの。もしかしてイリヤ、あのとき言ってたこと……」
『必ずきみ達を狩ってやる。きみのお兄さんも、母親も、余すことなく捕えて、生きたまま皮をはいでやる』
空恐ろしいことを告げていたイリヤの言葉が脳裏によみがえる。
エーリャが寝ている間にイリヤがそれを実行していたとしたら、手遅れどころの話じゃない。
泣きそうな気分でイリヤを見つめるエーリャを見下ろしたイリヤは、邪気のない笑顔でにっこりとほほ笑み返した。
「エーリャはあのあと倒れちゃって目を覚まさなかったから、ぼくがきみを運んだんだ。きみってば三日間もずーっと寝てるんだもの。起きないんじゃないかとひやひやしてそんなことしてる暇もなかったよ」
それより、とイリヤが手招きしてくる。とりあえず最悪の事態にはなっていなかったことにほっと安心したエーリャはとことこと無防備に近寄る。
そのまま抱き寄せられ、あぐらの上に上半身を預けさせるように誘導された。
櫛を取りだし再び梳きはじめたイリヤに、まあいいか、とエーリャも身をゆだねる。じんわりと伝わる体温が落ちつく。
いやに上機嫌な様子でゆったりとわき腹のあたりに櫛を滑らせながら、何気なくイリヤが問いかける。
「そんなことより気になってたんだけど、きみ、だれ?」
えっと思う間もなくイリヤの上体が倒れてきて、エーリャの体を抑え込む。
前足もいつの間にか掴まれているので身動きが取れない。イリヤは眼球がくっつきそうなほどにエーリャに顔を近づけてきた。
「おかしいね。なんか、ちがうんだよね。なにかあった? 確かにエーリャのはずなんだけど、今は人並みに精神の枝が増えてる。ぼくの神術も勝手に解いたし、きみ、ほんとは何者?」
言っていることの半分も理解できなかったが、何が言いたいのかは見当がついた。
「夢を見た気がする」
「夢?」
「エーリャが、生まれる前のできごと。あんまり覚えてないけど、人間だった」
細かくは思い出せない。自分がなんという名前だったかも忘れた。
でも、辛く、さみしい夢だった。思い出すと胸がきりきり締め付けられる。
へたりと耳を垂らしたエーリャを観察するように暫く見つめていたイリヤは、あっそう、とあっさりエーリャの戒めをとく。
「信じてくれるの?」
「信じる信じないというより、もともときみは獣として規格外だったから。野生の動物は一度暗示をかければぼくには逆らえないのに、きみは従順というより懐く程度の刷り込みしかできなかったし」
何事もなかったかのように櫛を滑らせながら、イリヤはエーリャの額を指の背でなぞるように撫でる。
「人はね、動物とは違って念入りにしないと従属させるような強い暗示はかけられないんだ。精神の構造が複雑化してるから。きみも似たような感じだったけど、今はもっと人に近い」
「その……力で、エーリャに命令できたの?」
「まあね。今はちょっと難しいけど、時間をかければできないことはないかな」
むうーと眉間にしわを寄せると、イリヤは笑ってそこをもみほぐした。
「もうしないよ。しようとしてもきみはすぐに跳ね返すだろう。あのときぼくの術を弾いたように」
「……知らないよ?」
「したのさ。きみはもう言いなりの獣ではない。誰にも支配できない。ぼくにもね」
まるで讃えるように言うのでびっくりして見上げると、それを肯定するかのような笑みを返される。
それがくすぐったくて、面映ゆくて、でも嬉しくて、エーリャの尻尾がびたんびたんと床を打つ。
イリヤはエーリャの外見に対して散々美辞麗句を言ったけれど、初めて本当の意味で褒められたような気がした。
飛び上がって跳ね回りたくなるくらい嬉しい。でも、こうして優しく撫でられるのもすごく久しぶりな気がするので、このままでいたい。
体中をむずむずさせながら我慢していたその時、イリヤの上体がエーリャに覆いかぶさる。そのまま、エーリャの体をぎゅっと抱き込んだ。
「よかった。きみが生きていてくれて。あんなに無茶をしてまで、ぼくのことを守ったから。女の子が体にいっぱい傷をつけて、綺麗な毛並みが真っ赤になるまで戦って……」
「イリヤ……」
イリヤの声は震えていた。少し苦しくなるくらいに力を込めて抱きしめられたけれど、その苦しさが嬉しい。今までこんなに力いっぱい抱きしめてもらったこともなかったから。
今こうしていられることがとても嬉しくて――。
「え? なんで傷が治ってるの?」
それこそ沢山、ものすごい力で引っかかれたり噛まれたりして死ぬほど痛い目にあった。あれだけの傷が三日で治るなんて、いくらなんでも早すぎる。
思えば体のどこにも異常は感じられないし、むしろ元気溌剌な気分だ。
不可解な状況にはてなを飛ばすエーリャに、イリヤは朗らかな声で告げた。
「ああ、ぼくが治したから」
「え……だって、あし、とかおなか、とか」
イリヤも重傷を負っていて、だからこそ下山できなくて、色々苦労して、色々、色々あって。呆然とするエーリャの心情を知ってか知らずか、イリヤは茶目っ気たっぷりに舌を出して見せた。
「ごめん。本当は神術を使えば歩ける程度には治せたんだ。でも最初はきみをうまいこといいくる、説得したくて」
いま言いくるめたいって言おうとしたいま言いくるめたいって言おうとした。
一気に体中の毛皮を膨らませて、エーリャは吠えた。
「イリヤーッ!」
当の本人は、逆立ってふわふわになったエーリャの腹に顔をうずめ、どこ吹く風で頬ずりしていた。
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