第三章 激昂
いきて
血が沸騰し、頭の後ろから煮えたぎる衝動が突き上げた。
意思なく動く獣の肉体と剥き出しの本能が身の内からがなり立てる。
イリヤの一言で抑えていた餓えを一気に引きずり出されたように感じた。
強張る四肢に合わせ爪が足元の砂利をえぐり、勝手にぱかりと開いた口が香しい香りに向かって振り下ろされる。
牙がその柔肌につきたてられるその瞬間、こみあげてくる情動がエーリャの思考を真っ赤に染め上げた。
「いいかげんにしろッ」
イリヤの眼前で音を立てて牙が閉じた。
全身全霊で力を込めて己に抗うエーリャは歯を食いしばったままじりじりと後退し、地面に爪を立てて荒れ狂う衝動を押し殺す。
「エーリャ、は……イリヤを、たべ、ない!
バツン、と何かが弾ける音が頭の中に響く。
その直後、歯を食いしばっても抑えがたかった餓えと凶暴な本能が驚くほどあっさりと引いていった。エーリャは今までのものを振り払うように二度三度と頭を振りたくる。
呆気にとられ目を見開くイリヤを睨みつけ、咆哮した。
「エーリャはイリヤのモノじゃない。エーリャはエーリャだ。めいれいなんてしんでもきかない。にどとエーリャにめいれいするなッ」
頭のもやが晴れたら、先ほどとは別の種類の衝動が突き上げてくる。
腹の奥底から湧いてくるようなこれは、怒りだ。どこまでも自分を侮るイリヤに対しての怒りがエーリャの中に渦巻き増幅していく。
ただ、ただ腹が立って仕方がない。
こんな気持ちはヤキムにも抱いたことがなかった。
「しにたがりのイリヤ。よわむしはおまえだ。にげるためにエーリャをりようするのはやめろ! にげるならじぶんのちからでにげろ! じぶんのしまつくらい、じぶんでつけろ!」
今までにないくらい大きな声を張り上げ、イリヤを怒鳴りつけた。
ほかの獣が聞きつけるかもなどと考える余裕もなく、エーリャは興奮していた。
何かが引っかかっていた。
でもやっとわかった。
イリヤはエーリャに自分の死を押し付けようとしている。自死をせずエーリャに拾わせたくせに、そのエーリャに自分を食い殺させようと仕向けていた。
そうまでして死を望んでいながら、その死をエーリャに背負わせようとしている。
だからエーリャは、イリヤがエーリャのことを微塵も好きではなかったのだと、悟った。
好きな相手に自分の死を背負わせようとすることがあっていいのか、いけないことなのか、エーリャにはわからない。
ただ、エーリャはいやだ。イリヤに死んでほしくない。生きていてほしい。殺したくない。ただ、心から笑っていてほしい。
そう望んでいるだけなのに、イリヤはエーリャのそんな気持ちを聞くつもりも、受け入れるつもりも毛頭なかったということだ。
イリヤはエーリャを好きじゃない。少なくとも、イリヤの好きとエーリャの好きは違う。悲しいくらいにずれている。
「エーリャは、イリヤにいきていてほしい。だからたべない。ころさない。イリヤがしにたくても、エーリャはイリヤにいきてって、いいたい。なんどだって」
「ぼくの望みを無視しても、自分の望みを優先するの? ぼくのことをすきだと言ってくれたきみが……?」
悲しそうに柳眉を下げるイリヤの眼差しがエーリャを責める。
イリヤにこんな顔をされるとエーリャはいつも悲しくなった。笑ってほしくて必死になった。
でも今は心が凪いだように動かない。
イリヤが悲しくとも、イリヤとエーリャは違う。同じ心になど、望んだってなれないのだ。そういうふりはできたとしても。
「そうだよ。エーリャはイリヤがすき。でもいきて。つらくても、くるしくても、しにたくても、いきて。にげてもいいから、いきてイリヤ」
「生きる価値なんてないんだよぼくには!」
イリヤの虚飾が剥がれ落ちる。髪を振り乱し、吐きだした激昂を押さえつけるように額を覆う。
イリヤは精気のない青白い顔ながら、その手のひらの隙間からぎらぎらとした執念を込めてエーリャを睨みつけた。
「落ちこぼれてはぐれた獣のくせにいっぱしの人間のような口をきくなきみは。ならこれは答えられるか。
……ぼくは母を殺した。実の母を殺した。邪魔だったから。それだけ。だがそれゆえか腹違いの兄に疎まれ居場所を失くした。かつてのきみのようにね」
澱んだ瞳がエーリャを捉える。
立ち尽くす獣を見つめたまま、イリヤは、くつくつと笑い出した。
「……どうかな。血を分けた家族を殺し疎まれた僕は生きる価値がある? どこにも居場所などないのに意味などあるのかな。そうまで生にしがみついて何を得る。
きみにはわかるのかな、ニンゲンに生まれたかった、誇り高き、
びゅう、と凍てつく風が洞窟内に吹き荒れる。
エーリャの毛並みやイリヤの髪をかき乱しては傍らをすり抜けていく。よく見るとイリヤの体は小刻みに震えていた。
きっとここが限界なのだろう。体も、心も。
エーリャは一歩、イリヤに近づいた。
「なぜころしたの」
「じゃまだったから」
「なぜじゃまだったの」
イリヤは答えない。
エーリャはイリヤに触れそうなほどに体を伸ばして、じっと彼を見つめた。
苦悩に歪むその顔を。
「かあさんをころしても、じぶんをころしても、まもりたいものがあったんだねイリヤ」
強張るイリヤの体を温めるように、エーリャはイリヤの膝にそっと額を摺り寄せた。
「そうまでもしてまもりたかったのは……おにいちゃん? きらわれても、まもりたかったんだね」
「知った風な口をきくなッ」
イリヤの手が、エーリャの喉笛を捕まえた。死を目前にした男のものとは思えない力を込めて締め上げる。
エーリャは逃げなかった。
「なにが守りたいだ。なにも守れなかったさ! 兄のあの絶望しきった顔! ぼくがそうさせた。ただ、ああすればすべてが丸くおさまると思っただけなのに……。だったらもういなくなるしかないだろ、このぼくが」
万力の力を喉にこめられながらも、エーリャはイリヤを見つめ返す。
「じゃあ、どうして、あそこにいたの」
イリヤは河に流されてきたのだろう。ずぶぬれになった体のまま倒れていた。
エーリャのお気に入りの場所は河の傍に近い。けれど、すぐそばではない。そんなに近くに居たら落ち着けないし、濡れてしまうかもしれないから。ある程度離れているのは当たり前だ。
そこにイリヤがいた。自力で川から這い上がらなければたどり着けない場所だった。
「どうしてあそこにいたの。かわはひろくて、まんなかにいけばいくほどふかい。エーリャだってなんどもおぼれそうになった。がんばってきしまでおよがなきゃいけないくらい、ながれがつよいんだよ」
頑張って泳がなければ、必死にならなければ、岸までたどり着けずに流され続ける。それこそ死ぬまで。
イリヤは、それに逆らって泳ぎつづけたのだろう。もがくように無我夢中になりながら、岸までたどり着いた。
「あのままながされていればエーリャはイリヤをみつけられなかった。イリヤのちからで、イリヤはいまここにいるんだよ」
「やめろ!」
「じぶんでしななかったのは、でもエーリャにたべられようとしたのは、ひとりぼっちでしにたくないからでしょ。ひとりぼっちで、しんでいくのが、いやだったからでしょ」
一人で死ぬより、誰かに殺されることを望んだイリヤ。エーリャに食べられておわりにしようとしたイリヤ。
ただ一人、誰にも知られずに逝くことを望まず、エーリャをけしかけた。それが人ではない、獣であっても、イリヤはその獣に縋った。
エーリャは、その獣が自分であったことを心底嬉しく思った。自分がイリヤを見つけたことを、数少ない誇りに思えた。
「エーリャだってこわかった。ずっとこわかった。ひとりぼっちだとおもってた。ずっとひとりでいきて、ひとりぼっちでしんじゃうんだって、おもってたよ!」
それが嫌だった。一匹では広すぎる洞窟の隅っこで、体を丸めて震えていた。
身を寄せ合う相手も居ないことが怖かった。一人で明日を迎えることが怖かった。
いっそ知らない間に死んでいたらいい、なんて思うこともあった。
でも。
「……でもちがう。エーリャはそういう、ぜんぶが、ひとりぼっちが、ずっとつづくのがただこわくて、そうやっていきていくのがいやだったんだよ。いきるのがこわかったんだよ。
イリヤもいっしょだよ! エーリャとおなじおくびょうもの! しにたがりなんじゃない、いきていくのがこわくてたまらないおくびょうものだ!」
喉を締め上げていたイリヤの手がぶるぶると震え、力が弱まっていく。
止まらない震えを抑えるようにもう片方の手できつく握りしめながら、イリヤは目をそらした。
「……お前と、一緒に……するな」
もう少しの力も籠っていない手から逃れようともせず、エーリャは懸命に声を上げた。
「いきてイリヤ。こわくたって、エーリャはイリヤのそばにいるから。かあさんをころして、にいさんにきらわれて、しんじゃいたくなっても、エーリャはイリヤからはなれない。どこまでだっていっしょだよ。イリヤがこわくなくなるまでエーリャがそばにいてあげる。さむいときはいっしょにねてあげる。おなかがすいたらいっしょにごはんをたべよう。
どこまでだって、エーリャがイリヤをのせてはしるよ!」
イリヤの新緑の瞳から、透明な雫が零れ落ちる。
とめどなく流れ落ちるそれを拭いもせずに、イリヤは弱弱しくもエーリャを睨み返し、震える声で答えた。
「だったら……ぼくを裏切ったら、きみを殺して、ぼくも死ぬ」
エーリャは、イリヤのそれを舌でなめとる。
そっと頬ずりをして、イリヤの体を囲むように、大きな尻尾で包み込んだ。
「いいよ。そうしたら、しぬときもひとりじゃないもんね」
もしもエーリャがイリヤを裏切ったとしたら、今度こそイリヤは何一つ振り返ることなく自死を選ぶだろう。そしてエーリャはそれを知っているから、死んだってイリヤを裏切らない。
エーリャの体にもたれるように身を寄せたイリヤは微かに笑って囁いた。
「きみは、ばかだ」
エーリャは憤慨する振りをして、尻尾でイリヤを叩いた。
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