幕間

覚る城山の主

 ネリーとイリヤが望むならば、それがどんなことであろうとリヒテルが拒む理由はない。それが、リヒテルが出した結論だった。

 倫理的に間違った行いであろうと、もっとまともな方法が他にあろうと、もう自分の行いでこれ以上二人をゆがめてしまうことの方が恐ろしくてたまらない。

 それならば死であろうがなんだろうが、彼らが本当の望むものを受け入れたほうがいい。




 諦めにも似た享受を抱きながら、リヒテルはイリヤの訪いを待ち続けた。

 しかし三日たっても何の音沙汰もない。これは様子がおかしいと思い始めたとき、ネリーが服毒自殺を図ったと知らされた。


「ネリー!」


 全速力で城の中を駆けネリーの部屋へと向かった。

 走ったところで何になる。頭のどこかで冷静な自分が囁く。

 それでも、信じられない。信じたくない。どうしてこうなってしまったのか。

 わからないことだらけのまま、彼女の部屋の扉を押し破るように開けた。


「兄上……」


 寝台の傍らにはイリヤが跪いていた。

 寝台の上には、顔色の悪い女が目を閉じたまま眠っている。


「ネリーは……」

「ぼくが朝訪ねたときにはもう……」


 嘘だ。

 そんなわけがない。ネリーが死を選ぶはずがない。

 あれほど生への執着が強かった女が、服毒自殺をするなんて考えられない。それでも、彼女はピクリとも動かない。

 それ以上近づいて確認するのが恐ろしくて、リヒテルは扉の入り口で立ちすくんだままイリヤを見下ろした。

 涙にぬれた瞳のまま自分を見上げる弟は、悲しげに柳眉を寄せる。


「母は父を亡くしてから錯乱することが多くなったのです。おかしな妄言を吐いたり、かと思えば急に消沈して会話も困難なほどに取り乱したり……」

「いや、そんな。嘘だ。ネリーは……」


 ネリーはリヒテルを亡き者にしようとしていた。

 おかしな妄言? 本当にそうだったのだろうか。あれは、夫を亡くしたのちの重圧に耐えかねての妄言だったのか。

 だったらイリヤはただ調子を合わせていただけだったのか。

 わけがわからない。

 混乱するリヒテルをよそに、立ち上がったイリヤがリヒテルに近づいてくる。

 無意識に半歩後退したと同時に、イリヤが両手でリヒテルの手を包み込んだ。


「母は父のいない城で過ごすことに耐えきれなかったのです。だから、きっと父のあとを追ったのでしょう……」

「ネリーが……?」

「ええ……きっとこれでよかったのです。哀しいけれど、もうあの人が哀れな言葉を紡がずに済むと思えば」


 本当に?

 これが最良の結果だったのか。

 ネリーはリヒテルの死を望んでいたのではなかったのか。あれは錯乱による世迷言だったのか。本当の望みは夫のあとを追うことだった。

 本当に?


 突然、なぜか幼いころの彼女の微笑が脳裏をよぎった。


 子供のころから、まだ宿ってもいない我が子のことを瞳を輝かせて語っていた彼女が、最後の最後に男を選ぶだろうか。

 大事な我が子を、置いて逝くだろうか。何が何でも、たとえほかの誰かを犠牲にしたとしても、守り抜くのではないか。誰かを殺したとしても。


 全身から力が抜けて、リヒテルはその場に膝をついた。


「兄上! 大丈夫ですか、兄上!しっかり……!」


 イリヤが慌てたように顔を覗き込んでくる。

 呆然とその瞳を見つめる。

 イリヤの目には、焦燥しか見当たらない。リヒテルの異変を必死に察知しようとまっすぐに見つめ返してくる。

 その中には、一片の悪意も、邪心も見当たらない。見当たらないのだ。


「イリヤ……」


 嘘だ。

 どうして。

 なぜおまえが。


 目の前が真っ暗になる。

 霞む意識の中で、懸命に声を張り上げて自分を呼ぶ弟の声を聴いた。




 目が覚めると、見慣れた天井が目に入った。

 あまり記憶がはっきりしないが、あのあと気を失って自室に運ばれたらしい。


 手を動かそうとすると動かせず、見ると誰かの両手に握り込まれている。

 その人物は椅子に腰を掛けたまま寝台の上に体を半分預けるようにして、リヒテルの手を握ったまま眠っていた。

 いつかのとき、縋るように握りしめてきたあのぬくもりと全く同じ温度で、男にしては華奢な指がリヒテルの無骨な手を握り込んでいる。

 もう片方の開いている手の方で、眠る弟の頬にかかる髪を避けてやりながら、リヒテルは思考を巡らせる。


 イリヤの真意はなんだ。

 何を望んでいる。


 小さなころは手に取るように解ったのに、今はもう触れていても何も感じ取れない。

 弟は変わってしまったと思っていた。けれど変わっていなかったとしたら。

 あの頃から、小さなイリヤはずっと、小さなイリヤのままだったとしたら。小さなイリヤは、その心のままに、なにを思って生きてきたのか。

 リヒテルは弟の頭を、あの頃と同じように、そっと優しく撫でた。



*****



 リヒテルは弟の誘いを受け、息抜きと視察の名目で共に山へと向かうことにした。

 女神の末裔が住まうというこの山に立ち入ることができるのはごくわずか、限られた者だけだ。

 城では誰が聞いているかわからない。限られた人数での登山である今しかまともに二人きりになる機会は得られないだろう。


 決死の決意だった。

 もうどっちに転んでも構わない。

 ただ、今度こそ本当に、彼の真意が知りたい。


 リヒテルの中に残っているのはもう、ただそれだけだ。

 何を思おうが、望もうが、イリヤの願いをかなえてやりたい。

 もう弟を救う手だてはそれしかない。あの城に縛られ続けた弟を救う機会はもう、今しかない。今を逃したらもう終わりだ。

 幼いころ、自分に縋ってくれたあのイリヤを取り戻したい。自分にできることがあるなら、今度こそ救ってやりたい。


 そんな思いでイリヤの誘いに乗った。

 どんなたくらみがあろうが、或いはなかろうが、もうどうでもいい。決着をつけるなら今しかない。




 崖から落ちかけた体と入れ替えるように引っ張られる。

 離れたぬくもりに手を伸ばした先で、弟がはにかんだ微笑を浮かべていた。

 迷いなく自分をかばった弟は声なく別れを告げ、崖下の濁流うねる河へとまっさかさまに落ちていく。


 リヒテルはやっと理解した。

 弟の言う邪魔なものの正体を。

 ただひたすらに、なにを想っていたのかを。

 最後に見たイリヤの笑顔は、昔のネリーにそっくりだった。

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