ヤキムとスエニク

 狭くなった川幅を渡る獣たちの体は遠目から見ても大きい。母よりも大きいかもしれない。

 数匹が順番待ちをするように、一番幅が細くなっているところを見定めて対岸をうろついている。雪煙をあげて急停止したエーリャはそれを見てグルウルと唸った。


「どうしよう。イリヤがあぶない」

「またニンゲンかよ。あいつらがあんなところにいるからおまえをよびにいこうとしたのに、まさかもどるつもりだったのか」

「もどるよ! イリヤがたべられちゃう!」


 踵を返そうとしたエーリャの行く手にヤキムが立ちはだかる。


「おまえもだろ。なきむしエーリャ。おれよりよわいおまえがいってもくわれておわりだ」

「エーリャがたべられてもイリヤはたすける」

「なんでそこまでするんだよ!」


 ヤキムは牙をむき出しにしてエーリャを恫喝した。鼻面に皺をよせ威圧する兄を、エーリャは静かに見つめ返す。


「イリヤにいきてほしいから。エーリャがヤキムをすきなのとおなじくらい、イリヤがすき。だからいきてほしい」


 途端にヤキムが大きく吠えて、あたりにけたたましい鳴き声がこだました。


「おまえほんといつもずるいよな! それいえばおれがだまるとおもいやがって!」

「なにいってんの」


 突然意味がわからないことを言い出され困惑するエーリャをしり目に、ヤキムは尻尾をぶんぶんと振り回す。憤懣やるかたない思いをあてつけるように足元の雪をガリガリと掘って、鼻面を突っ込んだ。


「……おまえ、ほんと、ばか。もうおれはなにもしてやれないぞ」

「ヤキム……」


 ヤキムはいつもエーリャをいじめた。けれどいじめたぶんだけ色んなことをしてくれた。

 でももう、エーリャにそれは必要ない。だから、本当にこれが最後だろう。もう二度と一緒に走ることも、転げまわることもない。

 エーリャはぐっと歯を食いしばった。もうヤキムを心配させちゃいけない。


「エーリャはもうだいじょうぶ。だからしんぱいしないで」


 あの時のことがふと思い浮かんだ。母に洞窟から追い出されたとき。

 エーリャはヤキムにおいていかれたと思った。とうとう家族にも見捨てられたと思った。

 でもそうではなくて、ヤキムは、エーリャを連れ出してくれたのだ。狭い洞窟の中から、どこまでも思いっきり走り回ることのできる世界に。

 だから今度はエーリャが見せてあげなければいけない。エーリャがどこまでも走って行ける後姿を。ヤキムが最初に、エーリャに見せてくれたように。


 ぐっと四肢に力を籠め、エーリャは跳躍した。

 雪にうずまったままのヤキムを飛び越え、その向こうへと軽やかに着地する。


「ヤキム! あの、げ……」

「なにやってんの、おまえら」


 エーリャの言葉を遮って、茂みの向こうから新たな獣がやってきた。

 ヤキムよりも体格はやや小さめだが引き締まった体格をしている。

 聞きなれた声にヤキムも驚いて顔を上げると、見知った顔が三つ巴のように揃った。


「スエニク……てめー、いままでどこに……」

「す、スエニク、あの……」

「あれ、あいつらこっちきそうじゃん。なー、あいつらってくったらうまいのかな」


 驚くエーリャとヤキムが視界に入っていないのか、崖下を見つめスエニクは呟いた。特に恐れる様子もなくしげしげと眺め、舌なめずりをする。


「うーん、つよいのかな。おれいってみるー。じゃーげんきでな、エーリャ、ヤキム」

「おいまてスエニクっ」


 呆気にとられている間にスエニクは消えてしまった。

 小さいころからスエニクはきままで、だれの言うことも聞かず、とぼけている割に母にも喧嘩を仕掛けるほど好戦的な一面があった。

 上下の差をわきまえているヤキムとも、端から戦う選択肢を持たないエーリャとも違い、考える前に動いているのがスエニクだった。

 そしてまた今も、ふらりとあらわれたかと思えば行ってしまった。あの言いようだともしかしたらあの獣たちにちょっかいをかけに行くのかもしれない。

 止めなければ、とエーリャが動こうとした瞬間、ヤキムが体を起こしそれを遮る。


「おまえはいくところがあるんだろ」

「でも、スエニクが……」

「いいさ。てきとうにからかってやばくなったらにげる。おれたちがあんなかわもすぐとびこえられないような、にぶいやつらにおいつかれるわけないだろ」


 そう言って、ヤキムはエーリャをじっと見つめてくる。

 ヤキムが何を見たいのかわかったエーリャは、背を向けた。


「エーリャ、ヤキムよりもりっぱなイルビスになるね!」

「ばーか」


 エーリャは走った。

 足跡ひとつない真っ新な雪の上を、全力で駆け抜けた。




 ぐうんと背筋を張って、前足を伸ばす。考えなくても体が勝手に動き、雪の上を滑るように駆け回れる。

 思いっきり走るなんて小さいころ以来だ。大きくなるにつれて、ナワバリやら、外敵やら、危ない場所などと色々なものを知ったり見たりして、怖れるものが多くなり思いっきり走ることもなくなった。どこかで心に歯止めをかけて、ここまででいいやと立ち止まっていた。

 今は違う。

 めいっぱい、可能な限りの力を振り絞って全身で走り続けている。

 真っ新な雪をかぶった木々や枝を掻い潜り、日の光に煌めく眩しい雪の上を駆けあがる。四肢は雪に埋もれることなく体を運んでくれ、全身が風と一体になったかのように軽い。

 全力で走ることがこんなにも気持ちいいなんて、エーリャは知らなかった。何も考えずに山を駆け巡ることの楽しさを、知らなかった。真っ青な空の下、きんと冷やされた空気をめいっぱい吸う心地よさを、ずっと知らずにいた。

 下を見て、あらゆるものに怯え、穴の中で縮こまっていたエーリャにはわからないことが沢山あった。自分の体がこの山の中でどれだけ自由に動くことができるのか、ずっと知らなかった。


 エーリャの持つものすべてがそれを支えてくれる。

 そうなるように生まれてきた。

 ここで生きられるかたちで、エーリャは生まれてきた。


 どうしてエーリャは獣に生まれたのか、わからなかった。

 今ならわかる。ここで生きるために、この形で生まれてきた。こうやって生きるために、エーリャは獣として生まれた。

 それは、とても、とても、すごいことだ。

 エーリャは今生きるために必要なものを全部持って生まれてきた。それはきっと、エーリャが今まで数えてきた、エーリャが持っていないものよりも、何よりも大事なことだ。

 ないものなんて、いらない。ここにあるものが、エーリャに必要なすべてだ。


 それに気づいたとき、叫びだしたいくらい嬉しくなった。

 イリヤが言っていた、たくさんのものがなにかわかった気がしたから。

 イリヤにもそれを言いたい。エーリャがもっている沢山のものを、もっていてよかったと、イリヤに伝えたい。

 だってそれがあるから今走れている。イリヤのもとに、全力で走っていられるのだから。




 崖のわずかな段差を飛ぶように駆け下りて川沿いに走っていくと、見覚えのある洞穴が視界に入ってくる。待ちきれずにエーリャは吠えた。


「イリヤぁーッ」


 彼はまだいるだろうか。見捨てるように逃げたエーリャに失望しているだろうか。

 ふとそんな思いが去来する。

 怖気づき減速しそうな足を叱咤して、さらに加速した。

 少しでも早く、彼に会いたい。色んなことを伝えたい。

 飛び込むように洞窟をくぐり、力強く地面を踏みしめ静止した。


「イリヤッ」

「エーリャ……」


 彼は、エーリャと別れたその場所に座っていた。出てきたままの状態でいたかのように鎮火した焚火もそのままに、杖代わりの枯れ木も放り投げたままだ。

 ひどく驚いたように自分を見つめるイリヤの顔を覗き込み、エーリャは荒い息のまま吠えるように喋りはじめる。


「あのねっエーリャ、イリヤのいってたことわかったよ! あのね、エーリャね、あっまってそうじゃなくて、そうだ! こわいけものがこっちにくるかもしれないの! だからいっしょににげよう!」

「えっ、ちょっと、エーリャ」

「さっきみたからもうこっちにむかってるかも!はやくしないとすぐにこっちまでおいついてくる! イリヤたべられちゃうよっ、そのまえににげなきゃ!」

「エーリャ!」


 勢い込んだエーリャを抑えるように、イリヤの両手がエーリャの頬を挟んだ。


「いきなり戻ってきたと思えば、なにを言っているの? 怖い獣って?」

「きいろとくろの、えーりゃたちよりおっきくてつよいけもの」

野虎ツィーグルか……」


 エーリャの言うものに検討を付けたイリヤは眉をひそめたまま、思案するように黙り込んだ。

 エーリャは走ってきたのもあって気が昂ぶって仕方がなかったが、イリヤに顔を挟まれたままでいるので動けない。

 どうするんだと尻尾がうろつき焦れはじめたところで、イリヤが顔を上げた。不遜な微笑を湛えながら。


「それで? 好都合じゃないか。そいつらにぼくが食べられれば、きみは仲間を救えるよ。……あ、それともきみがぼくを食べる気になった? それで惜しくなったのかな」

「ちがうよ! エーリャは……」


 イリヤに生きていてほしいから。

 そう言おうとしたエーリャを、イリヤの澱んだ瞳がじっとりとねめつける。


「ちがうってなにが? 言ったよね。きみがここでぼくを食べるか、仲間が死ぬか。今度はこうだ。きみがたべるか、奴らが食べるか。さあどっち?」

「イリヤはたべさせない!」

「たべない選択肢はないよ。きみって本当におめでたいよね。出て行った間になにがあったの? けろっと戻ってきたかと思えば……。

 大体、逃げるなんて不可能だ。この足では雪の上を走るどころか歩くこともできないだろうね。獣の脳みそじゃそんなこともわからないのか」

「う……」


 口喧嘩でヤキムにも勝てなかったエーリャがイリヤに立ち向かえるはずもない。矢継ぎ早にぽんぽんと言葉で叩かれ返す言葉を見失い、エーリャは口を閉じた。

 どうやったらイリヤを説得できるのか、うまい言葉が一つも浮かんでこない。

 イリヤはここから動く気がなさそうで、でも早くしないと奴らがやってくる。もしも洞窟の出口をふさがれたらエーリャでもイリヤを逃がしてやることはできなくなる。


 こうなったらイリヤの纏っている服とやらを咥えて引きずっていくしかない。

 すっと目の座ったエーリャがイリヤの隙をつこうと姿勢を低くしたとき、イリヤが嘲笑うように口角をゆがめて笑う。


「エーリャ、忘れちゃったのかな。ぼくはきみに命令できるんだよ」


 エーリャの顔を引き寄せ、耳に口付けるように囁く。


「エーリャ。ぼくを喰え」


絶対不可避の命令が、エーリャの心を暗雲で覆い尽くしていった。

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