死んでも

 ほっと気が抜けたところで、エーリャの耳が遠くで嘶く凶暴な咆哮を捉えてわずかに揺れた。

 エーリャの推測通り、こちらに向かってきている獣がいる。

 あの唸り声は忘れられない。間違いなくやつらのものだ。恐らくは洞窟の外に出るようになっていたイリヤに目をつけた獣がいたのだろう。

 ぶるりと大きく毛皮を震わせ、エーリャは四足を踏ん張って立ち上がった。


「ほら、いくよ! はやくにげなきゃおいつかれちゃう」

「でもぼくはこの足では……」


 投げ出されたままの右足を苦々しく見つめるイリヤ。

 エーリャは傍らに投げ出されたままの杖代わりに使っていた棒を咥え、イリヤに差し出すとぐっと体をかがめてみせた。


「のって。イリヤのぶんもエーリャがはしる。ぜったいにイリヤはたべさせない」


 エーリャに渡された杖を使いながら遠慮がちに跨るイリヤをせかすように、エーリャは体を起こす。

 下から突き上げられ自然と前傾姿勢になったイリヤが咄嗟にエーリャの腹に手を回すと、エーリャはびっくりしたように体をくねらせた。


「うひゃ、おなかはやめてなんかやだうひゃあ! くび、くびのよこつかんでっ」

「あ、ごめん」


 イリヤの遠慮がちな手つきで横腹を触られるとくすぐったくて体から力が抜ける。

 尻尾をバタバタさせて懇願すると、イリヤはエーリャの指示を心得たように首の付け根あたりにある長い毛の部分にちょうど良く掴まってくれた。


「いーい、しっかりつかまっててねっ」


 ぐっと前傾姿勢になりためたあと、気合を入れて地面を蹴った。

 洞窟の出口直前で思いっきり跳躍する。純白に染められた世界は眩しかった。

 たっぷりと積もった雪に着地するや減速することなくエーリャは走りだす。そのまま、水に雪が溶かされて薄くなっている川沿いギリギリのところを狙って全速力で駆けた。

 背にしがみつくイリヤの重みや、ぬくもりを感じながら、エーリャはなぜだか無性にうれしくなってくる。

 人を乗せて走るなんて初めてだ。イリヤだってイルビスに乗るなんてきっと初めてだろう。それでもこうして必死に掴まってくれている。落ちまいと体を預けて、エーリャにしがみついてくれている。

 やっと、やっとイリヤと一緒にこの洞窟を出ることができた。何かを捨てたり、見送ったりするためではなく、前に進むために。

 それが嬉しい。

 一人で走るよりも全力が出せないのに、それでも手足は力を振り絞るように動いた。一人じゃないからこそ前に進む力が湧いてくる。

 沸き立つ心のまま、快哉を叫ぶ代わりにとーんと跳んだ。


「イリヤーッ」

「な……にッ」


 エーリャにしがみつくので精一杯のイリヤは返事をするのも難しい。

 そんなイリヤの苦労を知らず、飛ぶように走りながらエーリャは吠えた。


「もしどうしてもしにたくなったら、いってね! エーリャがイリヤのいきたいところまでのせていってあげるよ! イリヤのしにたいところで、エーリャがしなせてあげる!」


 イリヤには生きていてほしい。

 生きるとは答えてくれなかった彼はまだ、そうは思えないのだろうとエーリャは考える。

 それでも、もしも、彼が心底望むことなら、エーリャだって叶えてあげたい。

 心の中に死しかないのだとしたら、それもかなえてあげたい。

 どうせ死ぬなら望んだ場所で死んだっていいだろう。そしてそれはきっと、あの洞窟の中ではなかったはずだ。

 イリヤが望むならエーリャはどこまでだって走って行ける。

 たとえそれが、天敵ニンゲンだらけの山の下であったとしても。


 しばらく走っていると、後ろから追い立てるような咆哮が河原一帯に響き渡った。

 一瞬だけ後ろを見ると、一匹の獣が猛然と雪煙をあげて追いかけてくる。エーリャが見た数匹のうちの一頭だろう。

 ヤキムとスエニクはどうなったのか、エーリャの脳裏に恐れが忍び寄る。

 それでも止まれない。振り切らなくてはいけない。残りある力を振り絞って先を急ぐ。

 ごうごうとうねりを上げて波打つ川の傍らをただひたすらに走り続けたおかげか、後ろから聞こえる咆哮が遠ざかっていくように感じる。

 ほっと気を抜きかけたその時、イリヤの切羽詰まった声がエーリャの耳を打った。


「エーリャ! 前だっ」


 斜め前方から飛び出してきた大きな影に、エーリャの体はほとんど無意識に反応していた。イリヤを背に負ったまま一気に跳躍し、それを飛び越える。

 しかしイリヤは違った。

 獣の想像を超えた跳躍に、痩せ衰えた体が上手く反応することもできず、着地の瞬間にその衝撃に耐えきれず勢い余ってエーリャの背中から投げ出されてしまった。


「イリヤッ」


 幸い、イリヤの投げ出された場所は川の中ではなく、たっぷりと降り積もった雪の上だった。衝撃は吸収されたのか、すぐにイリヤが身を起こす。

 それを見たエーリャはほっとしてすぐに駆け寄った。

 けれどもう、足を止めた彼らが再び走り出す猶予は与えてはもらえなかった。


 エーリャの背後に、二頭の獣が忍び寄る。両端から囲むようにエーリャたちの前に立ち、グルグルと上機嫌に唸った。

 エーリャは同じイルビスとなら意思疎通はできるが、ほかの獣と話したことはない。ただ、話せなくとも、この二匹が絶対にエーリャたちを逃す気がないということだけはわかる。

 じりじりと寄ってくる二頭の獣相手に毛を逆立ててエーリャは威嚇したが、まったく効果はなく、遊ぶように近づくふりや威嚇の咆哮を浴びせられる。

 背後にいるイリヤだけは守らなければいけない。

 震えそうになる手足を押し込め、エーリャは覚悟を決めた。


「いって、イリヤ」

「エーリャ……?」

「エーリャがくいとめるから、さきにいってて」


 こわい。

 エーリャよりも一回りもふたまわりも大きい獣を二匹も相手にするなんて、ヤキムに一度でも勝てなかったエーリャができるわけがない。

 でも逃げられない。逃げるわけにはいかない。エーリャは、しんでもイリヤを守ると決めたのだから。

 エーリャの意思を察したのか、場の空気が一気に殺気立ち始める。

 威嚇のためか恫喝か、峡谷に響き渡るような獣たちの咆哮がこだまする。


 対峙する獣たちの目がぎらぎらとした光を放ち、エーリャに狙いを定めた。

 緊張でひりつくエーリャの後ろから聞こえたのは、場違いなほどに静かな声。


「エーリャ、ぼくをおいていけばいい」


 ああ、やっぱり。

 心のどこかでわかっていたように、イリヤの言葉がすとんと落ちる。

 結局、エーリャがなにを言っても無駄だったのか。イリヤには届かなかったのか。

 イリヤにとって、エーリャは最後まで、ただ利用するためだけにいた存在だったのか。

 やるせなさと悔しさに、膝が震えた。


「いや」

「エーリャ、もうぼくは……」

「いや!」


 どんな言葉を尽くしても。

 エーリャの言葉がイリヤに届かなくても。

 エーリャの心が、イリヤに届かなかったとしても。

 それでもどうしたって心の奥底から願わずにはいられない。望まずにはいられない。

 イリヤにまた笑ってほしい。それがエーリャに向けた笑顔じゃなくても。


 ――イリヤ。

 今度こそ本当に、笑ってほしい。


 こみあげる思いをかみ殺して、イリヤを狙うすべてのものに牙をむいた。


「イリヤをねらうものはエーリャがみんなころす。しんでも、ころす!」


 力強く雪を蹴りあげた。

 イルビスの瞬発力に後れを取った片方の獣に振りかぶり、無防備に晒された顔に向かって思いきり爪を振り下ろす。真っ新な雪の上に鮮血が飛び散り、獣の悲鳴がこだました。

 激昂したもう一方の獣がエーリャに跳びかかり、傷をつけられたもう一方の獣も怒りの声を上げて突進した。


 そのあとはもう、血みどろのもつれ合いだった。

 お互いに罵り合い爪を振りかぶり、牙をたて、血が飛び散るたびに興奮は高まり、また爪で切裂く。

 二対一でも、エーリャはよく戦った。自身が負う傷にかまわず相手に向かっていくため、相手が怯み、受けたぶんの傷を返した。


 それでも、体格が違う。

 体力も、攻撃力も、すべてにおいて劣っている。

 エーリャの白い毛皮は自らが流した血により徐々に赤く染まっていった。

 もう、万に一つの勝機もない。二匹の獣は、次第に疲弊し始めたエーリャを遠巻きに河の淵へと追い詰めながら交互に攪乱するように攻撃をしかけ、確実にエーリャの残り少ない体力を奪っていく。

 終わりが近づいていた。

 暫しのにらみ合いが続きこう着状態が続いたあと、エーリャの後ろ脚が河の流れにとられ体が傾いた。

 その隙を二匹は見逃さない。一斉に跳びかかってくる影を見下ろして、エーリャはしっかりとそれを睨みつけた。

 たとえ死んでも、道連れにしてやる。


「だめだ。それはあげられない。ぼくの命も」


 すべての音が消える。イリヤの声だけがエーリャの耳に届いた。

 直後、劈くような轟きが鳴り響き、エーリャの足元が一度だけぐらりと揺れる。

 思わず体を強張らせたエーリャだったが、何の痛みも衝撃も襲ってこない。


 自分に跳びかかってきたあの獣は一体どうしたのか。

 エーリャが恐る恐る目を開けると、そこには、ぐったりと横たわる二体の大きな獣の姿だった。目を限界まで広げ、口を開き舌をだらしなく垂らしたまま微動だにしない。

 まるで跳びかかった状態で死んだかのようなその姿を見たエーリャは戦き、すぐに目をそらした。


 死んだ?

 なぜ。

 いや、それよりもイリヤは。

 一瞬の逡巡の後すぐにあたりを見回すと、雪の中に立ち尽くすイリヤの姿を見つけた。


 ――イリヤは、いきてる。


 心の底から安堵したエーリャは、自身が負った傷も忘れてイリヤのもとにかけよった。


「イリヤ! だいじょうぶ? あいつらになにかされた? どこもいたくない?」


 イリヤは駆け寄るエーリャを迎え入れるようにその場に膝をつき、両手を広げた。

 体のあちこちについた痛々しい傷の一つ一つを見下ろしながら、ふっと諦めたようにエーリャに微笑みかける。


「くだらない……」

「え?」

「死ぬ気が完全に失せたよ。きみのせいだ」


 傷には触れないよう、赤く染まったエーリャの毛皮を慰撫する。

 ぽかんと呆けるエーリャの額に唇をそっと押しつけて、イリヤは祈るように目を閉じた。


「ぼくの負けだエーリャ。ともに生きよう。この先もずっと、一緒に」


驚くほど晴れやかに、イリヤは笑った。

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