幕間

懊悩する城山の主

 リヒテルがイリヤを見守り続けている間に、彼はどんどん成長していった。

 神の加護を授かっていることがわかり、神術に励みめきめきと頭角を現し、一六になるころには城の最高位の神官にまで上り詰めていた。

 ネリーは息子の目覚ましい成長に増長し、城の主のように傲慢に振る舞い始める。


 城の中の勢力図が均衡を崩し始めたころ、唐突に、あっけなくも、父が亡くなった。兼ねてより心の臓を悪くしていた末の発作による病死と診断された。

 壮大な葬儀を終えた後は公の名を継ぐ儀式と、悲しむ暇もなくさまざまな手続きや義務に忙殺されていく。


 ありとあらゆることをめまぐるしくもどうにかこうにか片付けつづけ、やっと一息ついたところで、ネリーとイリヤのことをふと思い出した。

 忙しさにかまけてあの二人を気にかける時間さえ惜しんでいたことに気づき、思いつきのまま深夜だというのにネリーのもとへと向かう。

 扉の前までたどり着いたところで辺りの静寂に気づき、今さら深夜だということに思い至ったリヒテルは、扉を叩く姿勢のままこの手を打ちつけるかどうか逡巡した。

 と、その時、扉の向こうからひそやかなささめきが聞こえてくる。


「……ねえお願いよイリヤ。この栄養剤をリヒテルに飲ませてあげてほしいの。心配なのよ。父親を亡くして悲しむ時間も与えられずに働きづめ。もうここ何日も顔を見ていないわ。仕事で顔を突き合わせるあなたならできるでしょう」


 嘆くようなネリーの声がリヒテルの耳にも届く。

 そんなに心配をかけていたとは思いもしなかった。

 忙しさにかまけ二人のことを一瞬でも忘れていた自分が腹立たしくなる。本当なら、夫を亡くしたネリーも、リヒテルと同じく父を亡くしたイリヤも同じだけの、いやそれ以上の痛みを抱えているだろうに。

 自身を気遣うネリーの言葉に、今まで、もう気持ちが離れきっていると思い込んでいたのは自分だけだったのだと、かすかな希望が輝きを取り戻し始める。

 ともあれこのまま盗み聞きをするのはよくないことだ。

 二人と話して、まとまった時間をとってどこかで父の死を偲ぼう、そう提案しようとリヒテルが思いついたとき、場違いなほど明るいイリヤの笑い声が聞こえた。


「ぬけぬけとまあ、よくそのようなことが言えますね。使用人を買収しその栄養剤を父の食事に混ぜて病死させたのはあなたでしょうに。随分と大それたことをする。その上義理とはいえその息子まで手をかけようなどと、我が母ながら末恐ろしい人だ」


 扉を叩こうとしたリヒテルの手が、すんでのところで止まる。耳を疑うような話にまさか、と疑う余裕も与えずに二人は内緒話を続ける。


「まあ、母に向かってなんということを言うのイリヤ」

「そういえば、先日までいた使用人を見かけませんね。また解雇したんですか? それともその栄養剤で永遠の休暇でも与えたのかな」

「イリヤ!」


 聞くにおぞましい話が扉を通してリヒテルを惑わしてくる。

 まさか、という思いと、しかし父は随分短期間で体調を崩していた、という考えが拮抗する。

 いやに楽しげなイリヤの声が、今ここにある現実味を失わせてくる。


「ぼくに嘘は通じませんよ母上。あなたに唆されて底の浅い計画に手を貸すほど低能だと思われていたなんて心外だな」

「……母親を疑うというの?」

「疑うもなにも、事実でしょう。この問答も引き延ばしてなんの意味があるんです? さっさと認めてくださいよ。余計な手間をかけさせないでください」


 イリヤはどこか楽しそうに、けれど冷ややかな声で淡々と追及していた。

 暫しの沈黙のあと、がたり、と椅子を引くような音が聞こえ、ダメ押しのようなイリヤの声が聞こえてきた。


「そんなずさんな計画には乗れない、と言っているのです。本当にその気があるのなら正直に話してください。検討の余地はありますよ」


 一枚の扉を隔てた闇の中で、宙に浮いたままのリヒテルの手が震えた。


 まさか。

 今度こそ、まさか、という思いだった。

 どうして。

 まさか、イリヤまでもが。


 その先を聞きたくないと頭のどこかで自分が叫んでいるというのに、どうしたことか扉の前から足が動かない。置物のように直立したリヒテルを置いてきぼりにしたまま、ネリーの憐れみを誘うような声がする。


「ああ……イリヤ。わたくしはおまえが心配なのよ。わたくしの出自はさんざん話して聞かせたでしょう。おまえに同じような思いはさせたくないのよ。このままではリヒテルはすぐに妻を持ち子をもうけるでしょう。そうなったら危ういのはおまえの立場だけではないの。わたしたち親子そろって消されるかもしれない!」


 馬鹿なことを。

 なんと愚かな考えを息子に吹き込んでいるのか。

 もしかしたらネリーは今まで、リヒテルの見ていないところでイリヤにあらゆる妄言を囁いていたのかもしれない。自身が城の者にそうされていたように。

 一度疑心を持ってしまえば、リヒテルが何を言おうと無駄だった。他人を疑い、穿ち、邪推し、そんな自身の疑念に振り回されてネリーは歪んでいった。

 よもやまさか自分の息子にも同じようなことをしていたと誰が思おうか。それを見逃していた自分自身に反吐が出そうだ。

 今すぐこの扉を叩き中に入って、そんなことはないと、お前たちは何があってもおれが守ってやると、そう言ってやればいい。

 解っているのに、体が動かない。まるでその先を望むように息をひそめ、願う心とは裏腹にイリヤの言葉を待った。


「そうですね。兄上はともかく、重臣の方々はぼくたちを疎んでおられるようだから、その可能性も大いにあり得るでしょう……」


 嘘だ。

 嘘だ、と思いたい。

 父が死に、慌ただしくも跡を継ぎ右も左もわからぬ息子を懸命に支え、助けてくれた老臣たちのことを思う。

 彼らはただの若僧でしかない自分にも父のころと変わりない忠誠を捧げ、それでもいつでもリヒテルの考えを尊重してくれていた。

 いや、父の息子だったからなのだろうか。後継ぎだったから、なのか。

 リヒテルに対する態度は知っていても、イリヤやネリーに対する時の顔など知らない。見たこともない。確信を持って違う、と言えるだけの材料をリヒテルは持っていない。


 まるでネリーの言葉に毒されているのは自分のようだ。

 焦点の定まらない暗闇の中で、もはや自分が立っているのかどうかも疑わしい。足元がぐらつき、穴の中に放り出されたように心許なかった。

 どうにかこうにか踵で踏ん張り自分を支えているリヒテルにダメ押しをするように、イリヤの忍び笑いがじわじわと足元から侵食し、最後の一言で爪を突き立てた。


「邪魔なものは消してしまいましょうか。協力しますよ、母上」


 ネリーが快哉の声を上げる。

 リヒテルは茫然自失になりながら、ふらふらとした足取りでその場を去った。自分の気配に気づいている者がいたことなど、考えもせずに。




 自室に帰ると、煽るように酒を飲んだ。

 酩酊する頭の中で、あれはもしや夢だったのか、と考える。

 夢だったらどんなにいいか。魔のものに憑かれたように恐ろしい言葉を平然と口走るネリー。それを世間話でもするかのように受け入れたイリヤ。

 あれは自分の知っているネリーとイリヤじゃない。それとも彼らはリヒテルの前で演技をしていたのだろうか。

 一体いつから?

 幼子が大の男を無垢な演技で騙しとおせるわけがない。ネリーがリヒテルを友と呼んだのは偽りの言葉だったのか。


 もう誰を信じたらいいのかもわからない。全てが歪みきっている。

 空になった酒瓶を放り投げ、リヒテルは椅子の上で憔悴したように額を覆った。


 違う。

 歪んでいたのは自分だ。

 始まりはネリーと出会ってから。あの頃は彼女の境遇を憐れんではいなかったか。次は彼女が継母となったとき。少なくとも自分と彼女が離れることはなくなったと安堵してはいなかったか。

 イリヤが生まれ、歪んだネリーを救えなかった自分を誤魔化すようにイリヤにばかり目を向けていた。

 父を亡くした今はどうだ。やっと目の上のこぶがなくなり、ネリーも自分のものにできる、優秀な弟の影に怯える必要もなくなったと心のどこかで諸手を上げて喜んでいたのは誰だ。

 忙しさを理由に彼らから目をそらしながらも、頭の中は自分にとって都合のいい妄想で埋め尽くされていた。これでやっとすべてのことを清算できると思い込んでいた。


 愚かだ。目も当てられない。

 自分の歪みがネリーとイリヤを巻き込み、飲み込んだのだ。彼らをあんな風にしてしまったのはリヒテル自身だ。

 扉の向こうから聞こえたのはリヒテルが作り上げた歪みが悲鳴を上げる音だ。父が飲み込まれたように、自分の番がやってきたにすぎないのだろう。


「ふ……」


 知らず、笑いがこみあげてくる。

 それで彼らは幸せになれるのだろうか。段々と作り笑いしか浮かべなくなったイリヤが、歪んだ笑みしか貼り付けられなくなったネリーが、本当の微笑みを取り戻すことができるのだろうか。

 リヒテルという歪みを失くしてしまえば、すべてを正すことができるのだろうか。


 そうだったらどんなにいいか。

 自分は、あの二人のはにかんだ微笑を何より愛していたのに、今はもう、どう取り戻せばいいかもわからない。


 瞼を覆う手のひらの隙間から温い涙が零れ落ちる。

 結局リヒテルはいつも、答えを出せずに明日を迎えるしかない。

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