第三章 答え

恥知らずのイルビス

 イリヤの瞳はいつもそう。どこか別のところを見て笑ってる。

 何の混じり気もない光を帯びて、ただひとつのものだけを見つめている。

 そしてそれはエーリャではない。

 エーリャを見ていない瞳の中で、エーリャはいつだって何も知らずに夢心地でいた。


「ぼくは嘘なんか言わないよ。本当のことしか言わない」

「うそ……うそ、うそ、うそ!」


 嘘だ。全部が嘘だ。

 エーリャにかけてくれた優しい言葉も、綺麗な言葉も、甘い言葉も、すべてが嘘だった。

 ここにきてなお否定されることが辛くて、それでも肯定されないことにまだ期待をかける自分がいて、矛盾する思いに引きちぎられそうになる。

 心を見せないイリヤが悲しい。本当はずっと、最初からそうだったことに今気づいて、なおさら悲しい。

 どうして。

 どうして。

 どうして。

 どうしたら、いい。


「本当だって。ぜんぶ、ほんとう。エーリャが好きだし、ずっと一緒に居たいし、きみにぼくを食べてもらいたい。嘘をつく必要がないんだよ。全部本心なんだからね」


 のうのうと浮ついた言葉を並べ立てるイリヤは微塵も動揺していない。

 エーリャの取り乱した様子すら歯牙にもかけていないのか、表情すら変わらない。にこにこ笑って離れたところからエーリャを眺める。

 立膝に腕を乗せて頭を寄りかからせ、イリヤは嘯く。


「エーリャ、知ってる? この山はね、ぼくら地元の人間からは神聖な山とされていて、限られた者しか入れない決まりがあるんだ。神様の眠る山だという言い伝えがあってさ。……ね、その神様って誰だと思う?」

「……しら、ない」

「女神ヴェーレスだよ。ペルンと喧嘩したもう片方の神様。言い伝えによると、ヴェーレスは熊のような白い獣の姿をしているらしい。似たような生きものがこの山に居るのは、エーリャにもわかるよね」


 イルビスだ。

 イリヤが何を話しはじめたのかエーリャにはわからなかったが、それでもその言い伝えが何を指し示しているかはわかった。


「ぞくたちの祖先はきみ達を怖れ敬い、この山を不可侵の領域とした。でも信奉するのは天神ペルン。一部の狂信者たちは、ペルンと敵対した神の末裔であるきみ達を敵視し、山狩りをしたんだ」

「な、なにそれ」

「きみ達が狩りをするように、人がきみ達を狩ったってこと。捕まえて、殺して、血を啜り、肉を食べ、残った皮や骨は敷物や靴、服、加工品にして大いに利用した。

 一時は特産品としても取り扱ったようだよ。白地に美しい斑紋が広がる珍しい毛皮は高値で売れたようだ」


 当時を夢想するように語るイリヤの表情は、おぞましい内容を話しているとは思えないほどに穏やかだ。

 自分がエーリャの仲間を狩ったニンゲンたちの末の子供だという認識も罪悪感も、そのほかの感情さえ一切伺えない。ただあるがままに他人事のように、エーリャに話して聞かせるだけ。


「い、いま……は……」


 どうしてそんな話を聞かせるかというと、考えるところひとつしかない。イリヤが望む本当のものは。

 知らず喉を震わせたエーリャを笑うように、イリヤの目尻がジワリと弧を描いた。


「ああ。昔の話だよ。今はそんなことはしていない。同じ神の仔として尊重すべし、と教えられているけれど、本当のところはどうだろうね。調子に乗ってありったけ狩って、山の均衡が保てずに痛い目にあったんだろうね。

 ぼくたちはこの山の直下に住まう民だから。山の恩恵も弊害も、そこに居る限り逃れることはできない」

「エーリャたちは……ニンゲンに、ちかづくなって、いわれる」

「きみ達の間ではそうなんだ。それはそうだろうね……過去の文献から、きみ達は家畜も盗む害獣だった、なんて書かれていたけれど、いまはそんなこと起こったことないものね」


 今ならわかる。

 ニンゲンに近づくな、は山を下りるなと同義だったのだ。

 狩りつくされたイルビスたちはニンゲンの手も届かない上へ上へと逃れ、それ以降近づくまいと居場所を定めた。

 下に行く方が食べ物も獲物も豊富だったのにそうしようとしなかったイルビスたちの過去を思うと、こんなところでへらへらしていた自分がいよいよ馬鹿らしく思えてくる。

 エーリャはイルビスたちを寒く険しい山の頂へと追いやったニンゲンたちの末裔を拾い上げ、愚かにも慕い、尽くした。これほど滑稽な話があるだろうか。

 ヤキムが自分を憐れむように見た意味がやっとわかった。

 恥知らずのイルビス。

 それが今のエーリャだ。


「エーリャはしらなかった……」

「そうだろうね、可哀想なエーリャ。憎むべき人間を拾い、せっせと尽くして、懐いて、懐柔されて。しらなかったんだからきみはわるくないよ」


 白々しいイリヤの声が洞窟内に響き渡る。

 枯れ木を足していない火の元は燻り、冷えはじめた洞窟内でイリヤの青白い肌とエーリャがつけた生傷だけがぼんやりと浮かんでいるように見えた。

 幽鬼のように嗤い、エーリャを観察するニンゲン。


「きみが好きだよ、エーリャ。単純で、騙しやすくて、人の言葉にすぐ惑わされて、簡単に言いくるめられる。ぼくはきみみたいな素直で騙しやすい、笑えないくらい馬鹿な子が、見てるだけで苛々するほどだいすき」

「イリヤ……」


 どうして。

 そんな風に思っていたなんて、どうして、気づけなかったんだろう。


「ずっと一緒にいるって言ったのも本当。その艶だけはいい若い毛皮を丁寧に手入れして、完璧な状態に仕上げるつもりだったんだ。きみの毛皮にはそれだけの価値があると思ったから」


 もうやめてほしい。嘘だと言って、誤魔化してほしい。

 それでもイリヤは、エーリャがそう思っていることにすら気づいているだろうに、せせら笑って言い続ける。


「最初はきみを言いくるめていい状態で持っていこうと考えた。一人で運ぶのは現実的な話じゃないし、殺すと価値が下がるから。

 ……ああ、そうだ。無知なきみにいいことを教えてあげる。毛皮ってね、生きたまま剥いだ方が剥がしやすいんだ。殺してから時間が立つと腐るし、固まるし、それだけ加工しづらくなるからね」

「もういい」

「でもほら、そもそもそういう状況じゃなくなってしまったしね。この雪では山を下りることはできない。だったらきみが自ら行くようにしたらいいかなって。きみもお腹が膨れるし、どっちにとってもいいことだらけだと思うんだけどなあ」

「もういいよ! やめてよ!」


 甘い言葉と同じだけ甘い声で吐きだされる言葉は、エーリャの体に毒のようにじわりじわりと滲んでくる。

 嗤いながらそれを刷り込んで、苦しむさまを眺めてまた笑う。同じ顔で、同じ表情で、同じにおいなのに、まるで別人にしか感じられない。

 イリヤはずっとこんな自分を隠してきたのだろうか。エーリャはそれを見つけられなかった。

 いや、見ようとはしなかった。見ていられないし、見ていたくない。腹の底から吐き気がこみ上げるのに、出すものが何もない。堂々巡りで、耐えられない。

 それでもイリヤは許してくれない。


「いいから聞きなよ」


 嗤うのをやめたイリヤは、杖で体を支えながらゆっくりとその場に立ち上がった。

 怯え耳を縮ませ尻尾をそろりと巻き込んだ獣の姿を頭上から見下ろして、容赦なく嘲りを叩きつける。


「どうしようもない甘ったれで、獣になりきれず、人間にまで騙される。ぼくが導かずとも君の末路なんてどの道を選ぼうとも似たようなものだったんじゃないかな。何にもできずに独りで野垂れ死に。わかりきっている答えだよね。

 全部自分で引き寄せた結果がこれなのに、なぜ何一つ予想もしなかったの? こうなるように自分で手繰り寄せておいて悲劇ぶっているさまを見てると滑稽にしか思えないんだよ。

 何もしなかったきみに、嘆く意味なんて、本当にあるの?」

「そんな……そんなこといわれても、エーリャわかんないよ! みんなよりよわくてちっちゃくて、ずっとばかにされてきたよ! なんにもできないたくたたずで、それなのに、エーリャはどうしたらよかったの!

 イリヤにはエーリャのきもちなんてわからないよ!」


 は、とイリヤの乾いた笑いが聞こえた。


「戦うための牙と爪、一人で眠っても凍えない強い毛皮に、どんな険しい斜面も駆け上がれる強靭な四肢をもっているのに、ないものを数えて生きるのはさぞや辛かっただろうね。これからも辛いだろうと思う。変わる気がないなら、生きていたって仕方なくない?

 安心して。毛皮の敷物になってもきみは何一つ変わらないよ。怖がる必要なんてない。どこまでいっても、きみはきみのままなのだから、エーリャ」


 切りつけられる言葉から身を守るすべを持たないエーリャは、何も言えずに目をそらす。

 自分よりも弱いはずの手負いのニンゲンに見下ろされ、尻尾を巻いて縮こまるその姿に獣の矜持などあろうはずもなかった。

 こんなに言われても、まだ、どうしたらいいのかわからない。


「ぼくの言葉が煩わしいなら、エーリャ。相手を黙らせるのに簡単で確実な方法がある。殺せばいいんだよ。その爪で切裂いて、押さえつけて、ありったけの力を込めて喉笛に噛みついてやればいい。呆気ないくらい簡単に死ぬよ、人間なんて」


 ままならぬ足を引きずり、一歩一歩ゆっくりとイリヤが近づく。退くことも行くこともできない獣は弱弱しく喉を鳴らして威嚇した。


「いや……いやだよ、そんなこと、エーリャはしたくない……だって、エーリャはイリヤのことを」


 イリヤのことがまだ、いまだって、すきなのに。

 飲み込んだ言葉すらわかっているように、イリヤはエーリャに微笑みかけて、エーリャの前で腰を下ろした。杖を放り出し、手の届く距離で腕を広げる。


「なにも怖くない。怖いものなんてなにもないんだよ、エーリャ。きみの目の前にいる人間はきみよりもずっと弱くて卑小な生き物だ。罪悪感を覚える必要もないほど価値が低い存在だ。殺せば全部解決するよ。そういうものだ」


 そんなことない。

 そう言いたいけれど、きっとイリヤは聞き入れない。エーリャのちっぽけな言葉など、イリヤにとっては聞く価値もないのだ。


「どうして……? イリヤは、ほんとうは、しにたいの?」

「きみになら食べられたいと思っているのも本当だよ。でも、そうだね……」


 怯えるエーリャの心を解きほぐそうとするかのように頭を撫でるイリヤの目が、楽しそうに弧を描いた。


「ここで、ぼくを見逃したとしようか。

 ぼくが一人で山を下りたら、人を集めて、山にはたくさんの白い獣がいたと話そう。少しくらいなら狩ってもいいかもしれないと唆し、放っておくと危険なくらいに獰猛で野蛮だったとみんなに聞かせようかな。

 きみ達を狩る大義名分ができたらたくさんの人間が山に押し寄せる。あとは過去の再来だよ。きみ達の大量殺りくが始まる。寂しくないようにみーんなまとめて毛皮にしてあげる。

 祭りの日には首に巻いて、体に巻きつけて、靴にして穿いて、毛皮のじゅうたんの上で薄汚れて擦り切れるまで踊ろうかな。とっておいた君たちの肉を食べながら骨を火にくべて、ああ素敵な一日だったと笑うんだ。

 どう、名案でしょう」

「イリヤ!」


 衝動のままに体が動き、気づけばイリヤの肩に爪をかけ押し倒していた。制御できない力が爪にも加わり、イリヤの肩に血が滲む。

 それでも彼は顔色を変えず、激昂し興奮し始めた獣を静かな瞳で迎え入れた。


「どうして……っ」

「そうしたいからだよ。そうしたくなったから。理由なんてない。でもそうすると決めたら、必ずやってやる。ぼくは嘘をつかないから」


 ぞっとするほど冷たい瞳がエーリャを映す。

 エーリャにもイリヤが嘘をついていないとわかっていた。きっとイリヤは宣言通りに事を成すだろう。エーリャが、ここでイリヤを――。


「ぼくをここで殺さないならそうする。いま、決めた。

 必ずきみ達を狩ってやる。きみのお兄さんも、母親も、余すことなく捕えて、生きたまま皮をはいでやる。目をえぐり舌を抜き、一本残らず牙をもいでやる。絶対にだ。

 それまできみは尻尾を巻いて、震えながら怯えているがいい。臆病者の、よわむしエーリャ。きみのせいでみんな死ぬんだ」


 どうして。

 どうしてイリヤは、こうなってしまったんだろう。

 エーリャが弱かったように、イリヤも弱かったのだろうか。


 煮えたぎる情動の傍らで、凍りつくような哀しみが胸をさす。

 かなしくてかなしくて、エーリャはイリヤを食べることに決めた。


「イリヤは、エーリャのこと、まだ……すき?」

「すきだよエーリャ。さあ、たべて」


 屈託のない微笑に応えるように、エーリャはイリヤに牙を寄せた。

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