すきじゃない
ニンゲンの味はわからない。
近づいてはならないと、言いつけられていたから。
「なに、いってるの。へんなこといわないで……エーリャはそんな、そんなこと」
『くうつもりだったのか』
否定しながらも頭の中で、ヤキムの言葉が反芻される。
そんなつもりはない。エーリャはそんなことしない。
エーリャはそんなこと、望んでいない。
「たべない! へんなこといわないで!」
「エーリャ……でも、ぼくは」
「やめてよ! エーリャ、は……」
エーリャはイリヤを食べ物だなんて思っていない。それなのに、ヤキムもイリヤもそう思っている。エーリャがイリヤを食べ物として見ていると思っている。
そのやるせなさに苛立って、地面の砂利をガリガリ掻いてやり過ごそうとする。
どうしてわかってくれないのだろう、みんな。
結局エーリャのことを解ってくれない。ヤキムも、イリヤでさえも。
苛々して頭の中で何かが焦げ付きそうだ。
「エーリャ、聞いて。ぼくはきみになら食べられてもいいと思ってる。このままここに居てもきみを追い詰めるだけだ。それならぼくは、」
「やめてっていってるでしょ! ききたくないよ!」
「エーリャ……」
「うるさい!」
なにかが焼ききれそうになりそれを思わず振り払った瞬間、がりっと鈍い音が聞こえた。ふわりと立ち上るのは、甘い香りに混じる鈍色のにおい。
顔を上げると、イリヤの首から頬にかけて引き裂いたような赤い三本線が走っていた。ふつふつと湧くようににじみ出てきた赤いものが一筋、頬を流れ顎を伝い、滴り落ちる。
「あ……」
とうとうやってしまった。
イリヤにつけた傷を見つけた瞬間、エーリャはそう思った。
どこかで恐れていたことだった。いつか自分はイリヤを傷つけてしまうんじゃないか。根拠はなくとも、そうしたくないと望んではいても、その怖れだけはなくならなかった。
だから、とうとう、結局、やってしまった。絶対にいやだと、そう念じていたのにもかかわらず。
「ご、めん……なさい」
白々しい。
咄嗟に出た謝罪のなんと軽いことか。ここまで深くえぐっておいて、なにがごめんなさいだ。何が食べたくないだ。
どんなに逃げて、否定して、誤魔化したところで結局自分は獣だ。獣に過ぎない。
たった一瞬でそれを証明してみせたのだから。こんなことしたくなかったからと言ったところで、だからどうだというのだろう。したくなくとも、したのだ。
エーリャはイリヤに獣の持つ爪を使って傷つけた。もう何一つ言い訳は通用しない。
「イリヤ……エーリャは、」
何も言えない。エーリャはなんだ。エーリャは一体なんだ。
血が怖い。悲鳴が怖い。だから狩をしたくない。ひとりぼっちがいやで、でもヤキムに否定されて切り捨てた。イリヤしかいないと言いながらイリヤを切りつける。
もういったい自分がどうしたいのかわからない。
爪があって、牙があって、毛皮があって、尻尾があって、それでも何もかもが怖くて臆病で逃げてばかりのエーリャは、どこへ行けばいい。
どこにもない。エーリャはどこへも行けない。
「エーリャ」
体中の力が抜けそうになった瞬間、イリヤの腕がエーリャを包み込んだ。
血を拭わぬままに抱き寄せて、ゆっくりと頬ずりした。
「大丈夫だよ、エーリャ。なにもこわいことなんてない。こんな傷、痛くないよ。エーリャに食べられたって痛くない。ぼくは平気だ。本当に平気なんだよ。喜んで食べられるし、悲鳴なんて上げる筈がない。きみの血肉になって生きられると思うと感動で打ち震えそうなくらいだ……」
エーリャの毛皮にイリヤの血が刷り込まれるように滲み、血の香しい香りが立ち上る。
ごくりとつばを飲み込むエーリャの喉を慰撫するようにさすりながら、イリヤは満足そうに微笑んだ。
「ぼくは何も怖くない。辛くない。痛くない。だからエーリャは安心してぼくをお腹いっぱい食べるといい。ひとりぼっちになんてならないよ。むしろこのほうがずっと、何よりも近く、一緒に居られるじゃないか。きみが死ぬまで、死んでも、ずーっと一緒だ」
相手の悲鳴が嫌だった。
力いっぱい抵抗されて、血が迸り、それを押さえつけるのが嫌だった。
ちっとも楽しくない。命を奪うその行為は、とても恐ろしい。
けれど相手がそれを拒まないとしたら。望んで命を差し出すというのなら。
それならエーリャは、食べられるのだろうか。
考えもしなかったことを今イリヤが身を以て突きつけてくる。嘘やごまかしだとは到底思えない。
イリヤは、心底そう信じ切っているように陶然としている。
「なぜ、イリヤ……」
「なにが?」
「なぜこわくないの」
エーリャは怖い。
痛いのも嫌だ。死ぬのも嫌だ。どちらも辛くて怖いから。
それが平気だなんて、どうしたって思えない。
けれど、思えばイリヤはずっとそうだった。どんな状況でも、怖れなど何もないようにいつも微笑んでいた。
「怖れる必要がないからだよ。これが最善だと思えば、そうしたくなる。自分が望んだことなのに何を怖れることがあるの? 最良の結果に導くためならぼくはなんでもするしなんでもしたい。それを叶えることがぼくの最大の喜びだから」
イリヤは、優しい。
優しいけれど、どこかずっと別のところでは、凍りつくほど冷たい何かを持っている。そんなイリヤに気づかないふりをしてきたけれど、やっぱり気のせいじゃなかった。
イリヤがエーリャの全てを解っているわけではないように、エーリャの知らないイリヤがいる。
多分それは、大きくて、とても冷たいもの。触れても溶けない、大きななにか。
「エーリャは……エーリャが、イリヤをたべることがいいこと、って、おもえないよ」
「そうかな? きみがぼくを食べたら、色んなことを克服できるかもしれないよ。血を怖れなくなれば、狩りができるようになるかもしれない。沢山食べて、お腹いっぱいになれて、体も大きくなって、立派なイルビスになれる。いいこと尽くしだと思わない?」
「でもたべたらイリヤはなくなっちゃうでしょ!」
簡単なことだ。失えないから今こうしているのに、イリヤはエーリャにそれを自分で失くせと言う。
どうしてそう望まれるのか心底わからない。イリヤを食べたらイリヤはいなくなってしまう。エーリャは結局、最後にひとりぼっちになるだけだ。なんの意味もない。
なのにどうしてそれを解ってくれない。
イリヤはただ笑って、そんなエーリャの思いを、いなすだけだ。
「なくならないって言ったでしょ。きみの血肉になってずっと一緒に居るんだ。ぼくはきみと一つになって、望んでいた獣になって、自由に野山を走り回る。それって夢のようだよ。いいや、夢が叶うんだ。エーリャにそれを、かなえてほしい。ただそれだけ」
なにかがおかしい。
でもその何かがわからない。イリヤはエーリャが拒否できない言葉を並べ立ててくる。そうしたほうがいいのかもしれないと思いそうになる自分を叱咤したくても、否定する言葉が浮かばない。
イリヤのために何もできなかったエーリャが、今ここにきて、できることがあるなら。イリヤがそれを望むなら。浮ついた大義名分に頷きそうになる。
イリヤは微笑みながら、手招きしてそれを待っているようだ。
いつものように、あの甘い蜜を掲げて。
「ああ、そうだ。どうせなら、もう一つエーリャにお願いしたいことがある」
エーリャの毛皮をかき乱すように指に巻きつけては、綺麗に撫でつけるを繰り返しながら、今思い出したとばかりに呟いた。
もう彼の中ではエーリャがイリヤを食べることで決定している。
それはもう前提の話で、イリヤはついでとばかりにエーリャを置いてけぼりのままおねだりしてみせた。
「ぼくを食べたあとにね、頭は残しておいてほしい。頭だけならきみも身軽に運べるでしょう? それを持って、山を下りて、ぼくの兄に渡してほしいんだけど……やってくれるよね? エーリャ」
エーリャは断らない。
断れないと、イリヤは信じて疑わない。それを、もう彼自身が絶対にやらせるつもりでいるからだ。
ここまできてようやくエーリャの中で何かが見えた気がした。
イリヤの望みはエーリャに食べてもらうこと。
違う。そんなことじゃない。
イリヤの望みはもっと別のところにあった。
「イリヤ……」
「うん?」
「エーリャのこと、すき?」
何度も尋ねたこの言葉を、またイリヤに投げかける。
そう問いかけるとイリヤはいつも優しく微笑んで、エーリャの頭を撫でながら、肯定するようにうんうんと頷く。
「すきだよエーリャ。たとえぼくが死んでもね」
イリヤはいつもエーリャに優しくしてくれる。大事にしてくれるし、甘い言葉をくれるし、いつだって受け入れてくれる。
エーリャのことが好きだからだと思っていた。エーリャがイリヤを好きなように、イリヤもエーリャのことを好きだから、おなじ思いを持って、おなじ気もちだから、それを返してくれるのだと思っていた。
でも違う。
イリヤは、エーリャのことを何とも思っていない。
道端の石ころよりも。
「イリヤはエーリャをすきじゃない」
「すきだよ」
「すきじゃないッ」
足を踏ん張りイリヤの戒めから抜け出し、エーリャは後退してイリヤから距離をとる。
身の内から湧き出る、言葉にならない思いが四肢が震えてくる。気を抜けばどこからか一気に崩れてしまいそうだった。
それでも必死の思いで体を支えて、不思議そうに自分を眺めるイリヤを睨みつけた。
「イリヤはエーリャをすきじゃない。イリヤはエーリャにたべられたいんじゃない。イリヤは、エーリャを……」
ここで言葉にしたら、すべてが元の木阿弥だ。
今度こそすべて失うだろう。
それなのに、もう駄目だとわかっていた。
もうここまでだ。エーリャはこの先には行けない。
だから、無機質なイリヤの瞳をまっすぐに見据え、それを告げた。
「エーリャをやまのしたにつれだして、なにがしたいの。イリヤ」
『おまえをいいようにいいくるめてりようするきなんだろう』
ヤキムの言うとおりだ。
イリヤはエーリャを使おうとしている。
だっていつも、たき火に放り投げる枝を見る目と同じ目で、エーリャを見ていたのだから。
イリヤはエーリャを見つめて、うっとりと微笑んだ。
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