決別と餓え

 腹の底から湧きあがるものに任せて四肢に力を込め、エーリャは四足で地面を突っ張った。これ以上抵抗されるとは想定していなかったのか、ヤキムの反応が一瞬遅れる。その隙をついてエーリャはヤキムの下から抜け出し、牙をむいた。

 いままでヤキムに何度やられても大した抵抗を示さなかったエーリャが、初めて本気で敵意を示した瞬間だった。


「イリヤにてをだしたら、ヤキムでもゆるさない」

「ゆるさないならどうする! おれよりよわいくせにつよがってんじゃねえよ!」


 一変して眼光を鋭くさせ繰り出してきたヤキムの爪をからくも避けたエーリャは、身を低くしてヤキムから距離をとった。

 びりびりと感じる緊張に毛羽立つほど毛が膨れ上がり、すかさずエーリャはヤキムにとびかかった。絡み合うようにもんどりうちながらお互いに相手を狙って爪を叩きつけ牙で狙い、激しく転がり傷を作っていく。

 エーリャは俊敏で小回りが利くがヤキムへの攻撃は当たっても大した損傷にはならずに、逆にその攻撃の際に何度も打ち据えられた。

 始まる前から勝敗が決まっていたようなもので、戦いに慣れきっているヤキムがまぐれであってもエーリャにやられることなどありえない。せいぜいかすり傷を作るのが精いっぱいで、ヤキムの攻撃を避けることすらギリギリのエーリャは既に満身創痍だった。

 それでもエーリャには退く気が起こらず、ただ激情に任せるままヤキムに向かっていた。


「おまえがおれにかてるわけないだろ!」


 ふらついたエーリャの隙にすかさずヤキムが首元に噛みつき地面に抑え込む。


 エーリャはヤキムには勝てない。

 そんなことはわかっている。全部、本当は全部、わかっている。わかっているからなんなのだ。どうしたってエーリャはイリヤを――。


「イリヤはヤキムにころさせない! そんなことするヤキムなんかだいきらいだ! ぜったいにゆるさない……ぜったいに、エーリャはヤキムをゆるさない! しんでも!」

「エーリャ!」


 ヤキムの牙がエーリャの喉に食い込む。

 エーリャの白い毛皮に赤い色が滲み、興奮して荒くなった二匹の呼吸が入り混じるように森の中に掻き消えていく。

 暫しのこう着状態のあと引いたのは、兄のほうだった。


「……もういい。かってにしろ、ばか」


 ヤキムは、言うが早いか振り返りもせず瞬く間に走り去っていってしまった。


 エーリャは地に伏せたまましばらく乱れた呼吸が収まるまでそこに留まり、落ちついてからゆっくりと立ち上がった。

 あちこちが痛んで、動くたびに体がきしむようだ。

 何より痛いのは首の傷だ。体中にも切り傷はあるけれど、首に食い込んだ牙の感触が今でも残っている気がする。

 今まで何度喧嘩したって、ヤキムがエーリャに対して本気で牙を突き立てることなどなかったのに。それをエーリャが、そうさせた。あのヤキムにそうさせてしまった。


「う……」


 悲しい。

 母に追い出されスエニクとヤキムにもおいていかれたあのときよりも、ずっとずっと今のほうが、悲しい。

 きっともうエーリャがヤキムに会うことはないだろう。彼はもうエーリャを見放した。エーリャがそうさせた。そしてもう二度と、二匹の生がかみ合うことはない。こんな最低な別れで終わりだ。

 ヤキムがイリヤを襲うことは結果的に食い止めることができたのに、ちっとも嬉しくなかった。失ったものが大きく、虚しさと惨めさしか残らない。

 全身の傷が責めるように疼きだす。それに耐えながら、エーリャは元来た道を戻っていった。




 エーリャが何の成果もなくボロボロのままで洞窟に帰ると、出迎えたイリヤは驚いたような顔をして慌てて立ち上がろうとした。

 エーリャはイリヤが立ち上がる前に駆け寄ってそれを押しとどめた。


「エーリャ。どうしたのその傷。なにがあったの」

「なんにもないよ。ちょっと、あの、おちただけ」

「落ちた? 落ちたって上から? どうしてそんなことに」


 うまい言い訳が思い浮かばず咄嗟に口に出した言葉に余計にくいつかれてしまう。エーリャが、イリヤが納得できるような話をでっちあげるなど、どだい無理な話なのだ。

 それでもヤキムと喧嘩して負かされて今生の別れになりました、なんて言いたくない。

 エーリャがよわっちいのなんてイリヤは知っているから取り繕う必要はないけれど、それとはまた違う意味で言いたくなかった。


「あの、エーリャ……へいき! こんなのへっちゃらだし、すぐなおるし」

「エーリャ……」


 これ以上は言いたくないとそっぽを向くエーリャに向かってイリヤが手を伸ばす。そのまま優しく抱き寄せられて、傷に触らないように撫でられた。


「あちこち傷だらけだし、自慢の毛皮は土と血で汚れてるし、一番大事にしてる尻尾までぼさぼさだ。随分転げまわったみたいだね」


 ころげまわった。沢山傷付いて、傷つけて、色んなものをぼろぼろにして、放り出した。ヤキムを丸ごと否定して、イリヤをとった。

 そんな自分にイライラして、イリヤの優しさまでもが無性に触れてほしくないところを刺激しているような気がして、エーリャは尻尾で地面を叩いた。


「わるい? どーせエーリャはイルビスらしくなくて、よわっちくて、かあさんみたいにきれいなけがわじゃなくて、それから」


 それから、とにかく、こんなに惨めなイルビスはほかに居ない。きっとそう。

 卑屈な心が毛皮の内側から身を焦がすような気がしてくる。

 じっとしていられない衝動を抑えるためか爪をむき出しにして耐えるエーリャの前足を、イリヤの温かい掌がそっと包み込んだ。


「わるくないよ。エーリャはなんにもわるくない。どんなエーリャでもエーリャはエーリャだよ。ぼくの、可愛い、ぼくだけのエーリャだ。わるいことなんてひとつもないよ……」


 イリヤの言葉はいつも甘い。甘くて、甘くて、一度味わえば病み付きになって、そのあとは何度でも啜りたくなる。

 もしもイリヤから離れたとして、この甘い蜜の味に慣れきったエーリャがはたしてその先耐えられるだろうか。


 孤独な穴の中にいる自分を想像してゾッとした。

 ヤキムさえも失ったエーリャにはもう何もない。イリヤ以外は。もうエーリャはイリヤを失えないのだ。

 選択肢などとうの昔に潰えていた。エーリャはイリヤを選んでしまった。知らず知らずのうちに、自分でその道に足をかけていた。

 後ろはもうない。


「……え、エーリャ、イリヤと、いく」


 呆然としながらも、エーリャははっきりと告げた。


「エーリャ……ほんとう?」

「うん……」


 前足を包み込むイリヤの手のひらに力がこもり、強く握り込まれる。もう後にも先にも引けない。


「嬉しいな……これからはずっと一緒だ」


 喜んだように抱き込んでくるイリヤに身を任せながら、エーリャはゆっくりと目を閉じる。

 瞼の向こう側に居たヤキムもまた、背を向け闇の中へ去っていった。



*****



 物事はそう都合よくはいかないものだ。

 わるいことのあとにはいいことがある。いいことのあとには、わるいことが待っている。


 イリヤとエーリャがこの地を立つことが決まってすぐあとに、雪が降った。

 季節は都合よくエーリャたちを待ってはくれなかった。イリヤの言っていた冬がとうとうやってきたのだ。

 一度降り出すとあとはもうあっという間で、一晩のうちにあたり一帯埋もれるほどの雪が積もった。


 こうなるともうイリヤが外へ出ることすら難しい。

 エーリャはイリヤが凍死しないようことさら密着して過ごし、火を燃やすための薪を掘り出してはせっせと運ぶ。

 食べ物は備蓄があったがそれを消費するわけにもいかずエーリャが川に入って魚を獲り、足を延ばしてほかの食べ物を探しに行ったが、魚は軒並み小さく雪に覆われた世界で採れる食べ物など皆無に等しかった。

 このままではエーリャはともかくイリヤが飢え死にする。


 散々悩んで獲物を狩ることに決めたエーリャだったが、そんなに都合よくうまくいくはずもなかった。今まで狩を避けて生きてきたのだ。それが今さらになってうまくできる筈もない。

 雪が降って外に出てくる生きものの数も減ったのに、そんな状況下でエーリャが狩れるものなどひとつもなかった。ただやみくもに走り回り、体力を消耗してはお腹を空かせてイリヤの下に帰るだけの日々。

 そのうち備蓄の食料もなくなりはじめ、本格的な飢餓感をエーリャは感じ始めた。


 好き嫌いをしていた昔の状況とはわけが違う。小さなころはなんだかんだで兄や母に食べ物を分けてもらったり、無理やり食べさせられて空腹をやり過ごしたことが何度もあった。

 けれどもう頼る相手がいない。イリヤは移動するのにも困難な状態、ヤキムとは決別し頼れる相手は自分しかいない。

 なのになにも食べるものがない。なにも得られない。

 今までのツケが一気に押し寄せてきたのだ。ヤキムが言っていたのはこのことだったのだろう。エーリャはわかっていたつもりだったけれど、どう見ても見通しが甘すぎた。それを背負いきれずにイリヤにまでしわ寄せがきている始末だ。


 今イリヤを支えて洞窟を出たところで、夜までに下山できるかどうかもわからない。できなかったら毛皮を持つエーリャはともかくイリヤは凍死するだろう。

 エーリャがもっと早くに決めていればこんなことにはならなかったかもしれない。

 やることなすことすべてが裏目に出て、着実にエーリャを追い込みに来ている。


 飢餓と焦りだけがつのり、それでもエーリャはわずかに獲れた食べ物をイリヤに差し出す。イリヤが遠慮しようとも、自分はその場でもう食べたと嘘をついてでも食べさせた。

 全てはイリヤを失えないという思いからきている。

 どうしてもイリヤだけは守りたかった。どれだけ先延ばしにして、末路が同じになろうとも。




「もういいよ、エーリャ」


 その日も何も獲れなかった。

 河の水が増して足を取られるのでそう深いところまでは行けず、浅瀬では大した魚は獲れない。木の実の残りも殆どなく、獲物など夢のまた夢。

 それでも毎日探しに行くので体力を消耗し、どんどん痩せていき、代わりに飢餓感だけが身の内で膨れ上がっていく。

 イリヤを少しでも暖めようとそばに侍り静かに寄り添うエーリャを見下ろし、イリヤが言った。


「もういいよ。今までありがとう」

「なに……?」


 イリヤが何を言っているのかわからずエーリャが首をかしげると、両頬を包まれ顔を上げさせられる。

 微笑むイリヤは新緑の瞳のなかにエーリャを閉じ込めて、告げた。


「僕を食べて、エーリャ」


 優しく囁きかけるその声は、いつもと何ら変わりなかった。

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