第三章 別離

再会

 エーリャ以外のイルビスがそこに居る。

 いや、違う。記憶よりもかなり体格がよくなっているけれど、この匂いと声には覚えがある。くすんだ青色の瞳をみとめて、エーリャははっと息をのんだ。


「エーリャか……エーリャ! おまえ、いままでどこに……」

「……ヤキム」


 大して成長していない自分と違って、ヤキムは見違えるように大きくなっていた。

 体幹がしっかりとしていて身のこなしも軽く、もうすっかり立派なイルビスそのものだ。茂みを一気に飛び越えてエーリャに近づいたヤキムは、忙しなくエーリャの周りを嗅ぎまわる。


「あれからおまえのにおいがやまのどこへいってもみつからなくて、あせったんだからな。いままでどこにいたんだ」

「……がけのしたの、かわのそばの、どうくつ」

「かわのそば? おまえ……しんじらんないほどばかだったんだな」

「ば、ばかじゃないよ!」


 小さなころ散々聞いた、呆れたような声をかけられ、エーリャはむきっと牙をむく。そんなエーリャのこけおどしなど効くはずもなく、間合いを詰められ額で額を小突かれた。


「ばかだからばかだってんだよ。ふつーあんなところにいくやつなんかいない。すこしおよげたところであめがふったらすぐのみこまれるぞ。いますぐばしょをかえろ、ばか」

「ううううう……」


 ヤキムの言いぶんはもっともな為、だからこそ頭ごなしに言われて腹立たしい。

 はいそうですねと返すのもいやで、ヤキムの心配そうな眼差しにも気づかずにエーリャは精一杯の力を込めて睨み返した。


「あ、あそこは、さかなもとれるし、だれもこないから、エーリャにはちょうどいいもん。あめがふったら、エーリャはあしがはやいから、にげられるし……」

「はあ? さかなって……おまえまだそんなこと……。だからそんなちびのままなのか。なにもかわってないな、おまえ」

「うー……」


 一を言えば十返される。口喧嘩でもヤキムにはまだ勝てない。

 気が立ってぶんぶんと尻尾が暴れまわるエーリャにかまわず、ヤキムは小突くようにエーリャに額を擦り付けた。


「なあ、おい、おまえやばいんだぞ。やまでとれるくいもんもだいぶへっただろ。それじゃうえじにするだけだ。わかってるんだろ」


 そんなことは自分が一番、いやになるくらいわかっている。

 わかっていることを突き詰められると、反発する気持ちしか湧いてこない。きっとそのまま言い返すだけではただやりこめられるだけだ。

 エーリャは鼻面にギュッと皺を寄せて渋い顔をしながら、視線をさまよわせ苦し紛れに言い返す。


「もういいよエーリャのことは! ヤキムはどうなの? なんでこんなところにいるの?」


 今まで一度も遭遇することもなかったのに、今になってどうして突然こんなところに現れたのか。それはエーリャだけではなくヤキムにも言えることだった。

 そもそもが、このあたり一帯にイルビスがいるわけがないのだ。それがわかっていたからエーリャはあの場所に落ち着いたのに。

 言葉に出してしまえば疑問が疑惑に変わり、つい疑わしげに見つめると今度はヤキムのほうが気まずそうに顔をそらす。


「そりゃおまえ……えものがにげるから、おいかけてったらいつのまにかこんなところまで」


 ぴんとくる。

 居心地の悪かった気分から一転むくむくと面白くなってきて、エーリャは尻尾も耳もぴんと張ってヤキムを見た。


「ばかだーっ。おいかけるのにむちゅうでまたまいごになったんだー! ヤキムってあいかわらずばかなんだねー!」

「うるせえよ! おまえにだけはいわれたくないっ」


 小さいころからヤキムはそうだった。

 一度何かに目を留めるとそれに追いつくか見失うまで追いかける癖がある。母に言いつけられても、エーリャが声をかけても、まるで聞こえてないかのようにいつもあちこち飛び出しては迷子になって、最後には迎えに行った母に首根っこを咥えられたまま戻ってきていた。

 大きくなってもその癖は変わっていなかったのだろう。だから獲物を追いかけるのに夢中になってこんなところまでやってきたのだ。

 何もかもが自分とは違い変わってしまった兄の変わらない一面を見つけて、からかいながらも心のどこかでほっとしてしまう。自分との違いを見せつけられてこれ以上惨めな思いをしたくなかっただけかもしれない。


「スエニク、は? げんき?」

「あー、いっかいあったけど、すぐにどっかいっちまったわ。あいつきままだから、すきにやってるんだろ」

「ふうん……あ……うん、そうなんだ」


 一瞬、母のことを聞こうかと思ったけれど、やめた。多分ヤキムも知らないだろうから。

 母はこの山の頂点に立つ獣として、広大なナワバリの中で生きている。例え子供だとしてもそこを侵すことはヤキムとてできないことだろうと、エーリャは考える。

 きっとエーリャが気にしなくても母は母のままに生きているに違いない。誰よりも強く、誰にも頼らずに、悠然と構えている。

 それがエーリャのなかにある母の姿だった。きっとそれはこの先ずっと会えなくても変わらないだろう。


「みんな、げんきなら……いいや」


 ここで別れれば、ヤキムとももう会うことはないだろう。前のエーリャだったなら縋りついて離れなかったかもしれない。

 今のエーリャはもうひとりぼっちじゃない。例えあとわずかの時間しか残されていなくとも、それでも、イリヤがいる。

 だから、むしろエーリャが縋ってこないことに不審を抱いたのはヤキムの方だった。妙に落ち着いた様子の妹を怪訝な眼差しで見つめ、そこでようやく気が付いた。


「おまえ、なんでこんなところにいる」

「え……だから、がけのしたのどうくつがちかくに」

「そうじゃねえよ! ほかのイルビスがいるわけない……こんなしたまでおりてくらすなんて、ばかでもやらないからな」


 ヤキムの言わんとしているところに気付いてエーリャは身を固くする。

 うまくごまかす言葉も見つからずに黙り込む妹を、兄は信じられないようなものを見る目つきで見下ろした。


「かあさんにおしえられただろ、ここはニンゲンがのぼってこれるばしょだからいくなって。おまえもしってるはずだ」

「しってる……けど、あったこと、ないよ」


 嘘だ。

 頭の中に思い描く青年のことを悟られないように目をそらして、心の中でイリヤ以外は、と呟く。


「そういうもんだいじゃないだろ! ……まさかおまえ」


 詰め寄ってくるヤキムの勢いに押されそうになりながらエーリャはたたらを踏み、後ずさりする。確認するように鼻を近づけてくる仕草にあっと思うもすでに遅く、ヤキムの鼻面に渋面が浮かびだした。


「なんかおかしいとおもったら、おまえいがいのにおいがするな……どういうことだ、エーリャ」

「え、う……さ、さかな、かな」

「エーリャ!」


 恫喝するように吠えられ、エーリャの耳がぱたりと畳まれ怯えを示す。

 黙っているままなど許さないとばかりに牙をむく兄の剣幕に首をすくめ、エーリャはできるだけ身を縮ませた。


「ニンゲン、ひろったの。……で、でも、やさしいよ! かあさんみたいにものしりで、いろんなことおしえてくれるし! けがしてて、よわっちくて、ぜんぜんこわくない!」

「こ……の……!」


 怒鳴られるかと思ったけれど、雷は落ちては来なかった。代わりに愕然としたように自分を見てくる兄の眼差しとかち合い、怒鳴られるよりもはるかに強い居心地の悪さに二の句も告げなくなる。

 次第に毛を逆立て膨らみ始めた兄の様子に、エーリャの毛皮もぴりぴりと刺激され次第に立ち上がっていく。


「……くうつもりだったのか」

「たべないよ、ばかっ。たべれないもん、エーリャ!」


 心外だ。そんなとっておきの食べ物扱いをした覚えはない。

 確かにイリヤはとってもいい匂いがしてたまに知らず知らずよだれがボタボタ垂れてしまうけど、でもそれだけだ。食べようなんて思ったことはない。

 だいいち、そんな恐ろしい真似を、今更エーリャができる筈がない。狩りだって満足にできないのだから。

 けれどヤキムの方は反対に、エーリャが狩りをできないからひろったニンゲンを食べようと考えたのだと捉えたらしい。

 エーリャが必死にそれを否定すればするほど、ヤキムの目つきは鋭くなっていく。


「くわないならどうするつもりだってんだ。なぜひろった。いつころす」

「ころさない! なんでそんなことばっかりいうの? エーリャはイリヤをたべないしころさない! げんきになるまであなのなかでまもってあげて……」


 それから。

 それから、どうするつもりか。ない答えは出しようがない。

 再び言葉を失った妹を見下ろし目を細め、ヤキムは観念したようにため息をついた。


「わかった。もういい。はやくいくぞ」

「い、いくってどこに……」

「もっとうえだ。そっちのほうがあんぜんだろ。くいもんはきにするな、しかたないからしばらくはおれがわけてやるから」


 先ほどまでの剣幕が嘘のように落ち着いた兄は踵を返し、前を歩きだす。

 こちらの言いぶんなど端から聞く様子もない背中を見つめながら、エーリャはゆっくりとそのまま後退した。


「い、いかないよエーリャ。たべるものはじぶんで、なんとかする、から……イリヤだってエーリャのこと、きっとまって」

「いいかげんにしろ!」


 一足で戻ってきたヤキムは瞬く間にその大きな前足を振りかぶり、エーリャの頭に叩きつけた。

 なんの心構えもなく受けた衝撃をエーリャの小さな体は受け止めきれずに地面にもんどりうつ。身を立て直す暇も与えずエーリャの額をヤキムの前足が踏みにじり、すかさず背中も同時にもう片方の前足で差し押さえられた。

 動けないようにそっと首の付け根に牙を突き立て、ヤキムが低い声で囁く。


「ばかが。すくえねえな。ニンゲンがまってる? そりゃそうだろう。おまえをいいようにいいくるめてりようするきなんだろうからな」

「イ、リヤは、そんなこと……しない」

「するよ。ニンゲンはおまえをころしてもってかえるつもりなんだ。しらなかったのか? あいつら、おれたちのかわをはいでかぶるんだよ。おまえにもそうするつもりなんだろ」


 違う。

 イリヤはそんなことしない。優しいから、エーリャを好きだと言ってくれたから。


 そう思うのに、声が出なかった。

 閉じた瞼の向こうに、自分を無機質な眼差しで見下ろすイリヤが映る。

 それでも抵抗しようとするエーリャをさらに強く地面に押し付けながら、ヤキムは聞き分けのない妹を諭すようにゆっくりと告げた。


「わかったよ。そんなにきになるなら、おれがかわりにそのいりやをころしてきてやるから。それでいいだろ」


 ヤキムがイリヤをころす。

 ヤキムが、エーリャのイリヤを。

 エーリャの。


 それを思い浮かべると同時に、奥歯がこすれ合う鈍い音が、聞こえた。

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