すき、だいすき
イリヤはよく、エーリャに微笑みかけてくれる。
獣に微笑むという動作はないけれど、イリヤに微笑みかけられると、ぽっと温かくなるような気がいつもした。
イリヤはエーリャを撫でるのが好きでいつも膝にのせては優しく毛皮を撫でてくれるので、エーリャはいつも話の途中で眠くなって寝てしまう。
ニンゲンは怖いものだと母は言っていたのに、これではだめだと頭では分かっているのに、結局エーリャはイリヤを拒めない。
イリヤとエーリャ、二つの生きものが寄り添うことに互いに違和感を覚えなくなってきたころ、寝しなにエーリャの毛皮を優しく撫でながらイリヤが問いかけてきた。
「エーリャはどうしてこんなところにいるの。きみたちは森の影とも呼ばれるくらい隠れるのがうまいと聞いたけど、こんなところに住んでいたら丸わかりじゃないかな」
イリヤの無垢な問いに、エーリャの耳がへたりと倒れる。
何も答えずに縮こまるエーリャを宥めるように、イリヤが撫で続ける。辛抱強くイリヤが待ち続けてようやく、エーリャは泣きそうな声で語り始めた。
「エーリャはずっと、うまれたときから、よわかった。いちどもおにいちゃんにかてなくて、えものもとれなくて、けんかもよわくて、なきむしっておこられてばっかりだった。だからいつも、おまえはすぐしぬぞっていわれてた」
ヤキムは怒りながら、スエニクは呆れながら、エーリャにいつもそんなことを言っていた。忠告のつもりだったのだろう。
だからけしかけるように追い立てられたり挑発されたりして、それなのにただの一度も、彼らの思いにこたえることはできなかった。
「こわかったの。ほかのいきものにかみつくと、すごいこえをだすの。チがたくさんでて、すごいこえで、あばれるの。いたい、こわい、やめてっていってるみたいに。かあさんたちはそれをたのしそうにおいかけて、かみついて、ひきずりだして、なめて、たべるの。それがいつも……こわかった。ヤ、だった」
いつも怯えながらそれを遠巻きに眺め近寄らないエーリャに、おまえはおかしいとスエニクもヤキムも言う。母すらそんなエーリャを引きずり出しては何度も血まみれの獲物に向かわせ叱咤してきた。
それでも、足がすくんで、牙も爪も引っ込んで、尻尾を仕舞い込んで震えるしかできなかった。
そんなエーリャのことを家族のだれも理解できず、もてあましていたように思う。エーリャでさえそうだったのだから。
「そんなエーリャだから、ちゃんとしたえものもたべられなくて、きのみばっかりたべてて、ちっちゃいまんまだった。いっつもちびってばかにされて、それで……」
「もういいよ、エーリャ」
「ううん。あのね、だから、ちいちゃいまんまで、これからひとりでがんばれっていわれて、それでエーリャはおくびょうものだからあちこちにげまわって、ここについたんだ」
イルビスは山の頂点に立つ獣のはずなのに、その獲物である生きものに追い立てられるときもあった。
逃げて、迷って、また逃げて、追い立てられるようにして辿り着いたのがここだ。見つけたんじゃない。ここしかなかった。惨めで弱いイルビスに許される居場所など、森のどこにもなかったのだ。
こんな自分を母やヤキムやスエニクが見たら、きっとがっかりすることだろう。そう思えばこそ、余計に、誰も寄り付かないここに居ついてしまった。
「だから、エーリャはこのやまでいちばんよわいイルビスだよ。よわいから、きっと、イリヤをたすけてあげられない。なにかがおこっても、まもってあげられないよ……」
本当は、こんな情けないことを言うのは嫌だ。
ただ、これまで寄り添うものがいなかったエーリャにとって、ここまでそばに居てくれたイリヤはもう厄介な同居人だけの存在ではなくなっていた。
助けてあげたいと思ったからこそ寄り添って温めた。食べ物を与えた。
でもそれだけだ。
所詮エーリャは小さなけもので、しかも弱くて臆病者で、獲物も狩れない家族のお荷物で、役立たず。
あの時だって、いい加減背負いきれないから家族に追い出されたのかもしれない。
エーリャはともかくヤキムとスエニクはもう立派に独り立ちできるほどに育っていたのだから。
エーリャにだってそれはわかっていた。わかっていたから、さみしいと、縋ってしまったのだ。結局理解してはもらえなかったけれど。
でもイリヤは違う。
こんなエーリャに優しくて、寄り添ってくれて、撫でてくれた。意地悪もせず、冷たいことも言わず、いつだって微笑んでくれた。
だから、エーリャも助けてあげたいと思った。守ってあげたいと思った。エーリャ自身が弱いくせに、身の程知らずにも。
ちっぽけな自分が恥ずかしくてたまらない。
哀しくてたまらないのに、心はいつも甘ったれ。どっちつかずの心はいつもエーリャの重荷だった。
どうしていいかもわからずただごめんなさいと謝るエーリャの頭を、ぐっとイリヤがひきよせる。しっかりと胸に抱き寄せて頬を摺り寄せてきた。
「ごめんなんて言わないでエーリャ。エーリャはちゃんとぼくを助けてくれたよ。寒さから、餓えから、守ってくれたよ。例えエーリャが弱いとしても、それなのに、ぼくをこうして助けてくれているエーリャは立派だよ。エーリャは弱くなんてないよ。だからそんなに悲しまないで。きみが悲しいと、ぼくも悲しいんだ」
「どう、して?」
「かわいい、かわいい、ぼくのエーリャ。きみが好きだから。大事だからだよ」
イリヤの言葉は熟れた果物のように甘く、甘く、エーリャの心をとろけさせる。
母でさえもここまで慈しんでくれることはなかった。最低限守ってはくれても、ただそれだけだった。こんな風に甘えさせてはくれなかった。
ああ、自分はこうしたかった。これを望んでいたんだ。
与えられたものをめいっぱいに感じ取って、エーリャは子供のように喉からぐるぐると鳴いた。
「エーリャも……エーリャも、イリヤ、すき。だいすきだよ。ずっといっしょにいたい。ほんとは、ほんとは、どこにもいっちゃやだ……」
きっと叶わない。
それでもずっと胸の奥で抱えていた想いを、吐露してしまった。
突き放されるのが怖くて耳を畳んだままのエーリャを宥めるように、イリヤの温かい掌が額からゆったりと撫でてくれる。
「ごめんね、エーリャ。僕には戻らなければならない場所が……」
ほら。
やっぱり。
ニンゲンがこんなところで暮らせるわけがない。
わかっていたことだけにこの先の言葉を聞きたくなくて頭を振るったエーリャの鼻さきに、ぽつりとひとつ、滴った。
反射的に舌でなめとったそれは、僅かにしょっぱい。
顔を上げればそこには、静かに涙を流すイリヤの顔があった。
「イリヤ……?」
「ごめん。なんでもないんだ……」
なんでもないと言いながらも、イリヤが落とす雫はとめどなくエーリャの鼻さきに降ってくる。
イリヤは固く目を閉じ、なにかに耐えるように眉根を寄せていた。
懊悩し涙する彼を前に、どうしたらいいのかわからず、エーリャはうろうろと彼の周りをさまよいすり寄る。
「イリヤ、ねえイリヤ? どこかいたい? おなかがへった? どうしたの?」
何を訪ねてもイリヤの苦しそうな表情が緩むことはない。
困り果てたエーリャはイリヤの頬に伝う雫を舐めとり始める。
「ねえイリヤ。エーリャがいっしょにいるよ。さみしくないよ。となりにいるから、こわくないよ」
「エーリャ……」
イリヤは頬を舐めるエーリャを体ごと抱き寄せた。いつもよりも遠慮も配慮もない、どこにそんな力を秘めていたのかというほどの力でエーリャを力強く抱きしめる。
いつもと違うイリヤの様子に、体だけではなく胸の奥まで締め付けられるような心地がした。
「イリヤ、くるしい」
「エーリャ。……エーリャ。ぼくはずっと、本当はずっと、獣になりたかった。誰にも、何にも、自分にも縛られずに、自由に生きてみたかった。それなのに今、こんなにも苦しい。もうぼくには何もない。いや、もうずっと、なにも持っていなかったんだ……。獣の体を持つきみが羨ましい。どんな怖れにさらされても独りでも生き続けているきみが、とても眩しい。きみはぼくにはないものを、沢山のものを持っているんだよ……」
打ち震えながらも漏らされる言葉とともに、冷たい雫がエーリャの白い毛皮を濡らしていく。
イリヤが何を言っているのかは、エーリャにはわからない。彼はいつもどこか肝心なことは漏らさず、エーリャを抱きしめながらも心はいつも別の場所にあるから。
だから余計にエーリャはイリヤにすり寄ってしまう。
いまだってそう。イリヤがそんなに言うのなら、エーリャの持つ答えなんてひとつしかない。
「エーリャがなにをもってるか、わからないけど、イリヤがうらやましいっていうなら、ぜんぶとっていいよ!」
エーリャには何もない。
毛皮があっても、爪があっても、牙があっても、尻尾があっても。全部、ちゃんと使えないなら意味がない。そんなのは持っているとは言えない。ずっとそう思ってきた。
それでもイリヤが羨ましいと言うなら、エーリャがそれを持っていた意味があるということなのかもしれない。
だから、イリヤが願うなら。
「エーリャのもってるもの、ぜんぶイリヤにあげる! だからそんなかおしないで。わらって、いつもみたいにエーリャのことなでて。エーリャはイリヤがそんなかおしてるの、いや。さみしくなるから、いや!」
「エーリャ……」
信じられないものを見るかのようにイリヤが目を丸くする。
それでも、撫でて撫でてとすり寄ってくる獣を前に表情を和らげ、いつものように抱きしめ、背中をゆったりと撫でさすった。
「優しいね、エーリャは……」
「やさしい? エーリャ、イリヤみたいに、やさしい?」
「エーリャはぼくなんかよりずっと優しいよ。……そうだね。きみがすべてをぼくにくれるというのなら」
ふと、撫でていたイリヤの手が滑るようにエーリャの頬に触れ、両手で挟み込むようにして顔を上げさせる。
新緑の瞳に無垢な獣を写し、涙の痕が残るまなじりを細めて、うっとりと微笑んだ。
「ぼくはそのうちこの山を降りる。でもエーリャ、もしもここがエーリャにとっても生きづらいというのなら、一緒に山を下りてみないか」
「え……」
山を下りる。
考えてもみなかったことだ。エーリャにとってはこの山が世界の全てだった。恐らくは兄たちにも、母にとっても、この山に住まう生き物すべてにとってがそうであるように。
この地で生きて死ぬ。それしかなかった。
山を下りた先の世界のことなど、考えたことも、なかった。
「一緒に暮らそう、エーリャ。エーリャがぼくを守ってくれたように、今度はぼくがエーリャを守ってあげよう。ぼくと来ればもう、怖い思いなんて絶対にさせないし、ずっとずっと、一緒だ……」
イリヤの瞳の中に居る獣は、怯えたように目を震わせていた。
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