第二章 誘惑

出会った意味

 ニンゲンは、イリヤと名乗った。


「イリヤ! でてけ! あっちいけ! こっせつやめろ!」

「ふふ……それは、無理だなあ」

「もう、なんでっ……ううう~」


 名前を知って命令すれば言うことを聞くのかと思えば、そううまくはいってくれない。

 イリヤが言うには、今はイリヤが上でエーリャが下だと思い込ませているから、エーリャはイリヤに逆らえないのだそうだ。つまるところ、エーリャが母にだけは逆らえなかったように、イリヤにも逆らえない、ということらしい。

 イリヤの話はくどくどと長い割にエーリャが理解できる部分は極端に少ない。それでもイリヤは根気よくエーリャに言葉を尽くした。


 イリヤは最初、一日のほとんどを寝て過ごした。

 ニンゲンとはそういう生き物なのかと思えばそうではないらしく、弱っているから少しでも楽な姿勢でいるほうがいいのだという。


 そういえばエーリャが今よりもうんと小さなころ、ヤキムとスエニクに追い立てられて大きな岩から飛び降りたとき、前足を痛めて暫く動けないことがあった。

 あの時は母がエーリャを咥えて巣穴に戻り、元のように走れるまで食べ物を運んでくれた覚えがある。


 それに習い、エーリャもイリヤに食べ物を与えた。

 赤く鈴なりになる小さな実や、緑色の楕円型の、噛むと水分が滴るくらい瑞々しい木の実。木の根に生える大きな茸、上から落ちてくる固い木の実。

 獲物を狩れないエーリャはほかの生きものが食べる木の実や、それがどこにどれだけ生えているかも、しばらく過ごしたひとりの生活であらかた把握していた。

 おまけに最近は前よりも食べ物が沢山とれる。魚もここのところ大きいものばかりが獲れて、まるまると肥えた子持ちの魚がいたこともある。


 そんな自分の成果を収穫した食べ物を与えるついでに自慢すると、イリヤは青白い顔で、秋だからね、と微笑んだ。




 最初はイリヤを警戒していたが、あれほど恐れていたニンゲンでも弱ることはあるらしい、とわかると途端に気が大きくなってくる。

 そもそも見た目からして、母より小さく、爪も牙も毛皮も持ち合わせていないひょろひょろしたこの体躯に万一でもエーリャがどうにかされるとも思えない。

 それに、以前見かけた足跡とイリヤの手はどう見ても違っている。

 足の方は似ていたように感じたけれど、足を覆うようについていた茶色の固まりを、イリヤは難なく外してしまったのでどうやら体の一部ではないようだった。よくよく見れば、足の形もあの足跡とは違ってみえる。

 どうやらイリヤはあの時母が言っていたニンゲンとはまた違う種類のニンゲンなのかもしれない。鳥にも獣にもそうして同じようで違う生き物たちがいるのだから、そう考えると納得できた。


 エーリャにはイリヤが何を考えているのかはわからなかったけれど、元気がないことだけは見ていてもわかる。出て行ってほしければ立ち上がって歩き回れるほどに元気になってもらうしか道はない。

 知らず知らずのうちに、エーリャの献身にも身が入っていった。




 やがてイリヤが洞窟内での生活で徐々に回復し、目を合わせて話せるほどになると、イリヤは少しずつ、色々な話を聞かせてくれるようになった。


「この山を下ってずっと下のキセリーの丘というところにはね、城山があるんだよ。そこにはその地一帯を治める一族が住んでいて、その城山の主の後妻に母が収まり、次男として僕が生まれた。だから僕には義兄がいるんだよ」

「えっと、おにいちゃんのこと……? エーリャにも、いるよ。に、にひき……」

「そう。じゃあ僕と一緒だね」


 エーリャとイリヤは似通う部分が多かった。

 イリヤは愛称でイーリャと呼ばれていたこと。エーリャが好んでよく食べる赤い小さな実はイリヤも好物で、小さいころから兄と分け合って食べていたこと。エーリャは家族の中で一番小さかったけれど、イリヤも巨漢だらけの一族の中では比較的背が低く、いつも見下ろされる側だったこと。

 そうした一つ一つの共通点が、エーリャの中にあるニンゲンへの恐怖を和らげさせ、イリヤへの興味を膨らませていく。

 次第にイリヤがただ話すだけではなくエーリャが問いかけたり、自分のことを話すようにもなっていった。


「エーリャは、かあさんと、きょうだいがいて、おとうさんは……いなかった」

「最初から?」

「うん……でも、かあさんは、やまでいちばんつよくてかしこくて、とうさんとかあさん、どっちもいるみたいだった、よ」


 母は厳しくて、必要な時に必要なことをする時以外は甘えさせてはくれなかった。

 あんまりエーリャがくっついて離れないとイライラし始めて叱られるほどだったので、兄二匹はそうそうに乳離れしたし、エーリャもそれにつられるように母にまとわりつくのをやめた。

 だからこうして優しい手つきでイリヤに撫でられると体がむずむずして、けれどなぜか離れがたく感じた。

 イリヤはイリヤでエーリャの毛皮が気に入ったのか、ことあるごとにエーリャを呼び寄せてはあちこち触れたがる。手つきは柔らかく丁寧なので、エーリャも口では突き放しつつも大体は触らせてあげるようになっていった。


「エーリャの毛皮はとってもきれいだね。真っ白な毛並みに黒の斑紋が左右対称で、まるで生きる美術品だ」


 エーリャが毛皮を褒められると嬉しいのだということを悟られてからは、イリヤはひたすらにエーリャの風貌を褒め称えながら毛づくろいするようになった。

 いつも次から次へと美辞麗句を重ねながら、陶酔するようにその薄緑色の瞳を細めてエーリャを見つめてくる。

 そこまで何度も言われるとなんだか落ち着かなくなってくるエーリャだったけれど、悪い気はしない。

 無意識に左右にいったりきたりと揺れる尻尾が、エーリャの心がとろけていくのを物語る。


「い、イリヤはケがないね。そんなでさむくないの? ニンゲンはみんなそうなの? それにつめちいさいし、きばもないし、においもうすいね」


 イリヤの首元に鼻をうずめてすんすんと嗅いでみると、そんなエーリャを拒まずに、こら、と擽ったそうにイリヤが笑う。


「そうだねえ……昔はみな一つの生きものだったらしいよ。まだ神々がこの地におわす頃……」

「かみがみって、なに?」

「大いなる存在、かなあ。人智を超えた界に存在する尊き方々……ええと、誰よりも一番強くて偉い人たち、かな」

「ふーん……」


 イリヤの話はよくわからないことが多くて、イリヤもそれをわかっているのかエーリャにもわかりやすいように説明しなおしてくれるけれど、それでもわからないことの方が多い。

 いまもまた、とりあえずよくわからないけどでっかくて、たぶん母よりつよい、のだとエーリャは認識した。

 イリヤの肩に顎を乗せたままのエーリャの耳の裏を優しくかきながら、イリヤは話を続けた。


「今よりずっとずっと昔の、ある時、神々のうちでもさらに偉い二柱の神が喧嘩したんだ。それはもうすごい大喧嘩で、大地と天が別たれ、天には火柱が舞い、地はあちこち隆起し、空は産声を上げ雨を流し、地は傷を覆うように幾筋もの川を作った」


 それはイリヤの地に伝わるこの世の起こりの物語。

 天と地とが別たれたことにより崩落と再生が起こり、不滅の神とは違う生ける者たちは次々に死に飲まれていった。争いの末に数多の神々は災難を恐れ散り散りになり、最後に二柱の神が残った。残った二柱は男神ペルンと女神ヴェーレス。

 二人は七夜争い、八日目の朝、とうとうたもとを分かち、ペルンは天へと昇り、ヴェーレスは地へと潜った。取り残された生ある者たちは二柱の神の別離を嘆き、そしてまた各々が愛する神々についた。


「男神ペルンについた者たちは智を経て毛皮を脱ぎ空を見上げて生きることにした。女神ヴェーレスについた者たちは力を得て爪と牙によりより速く地をかけ野を超え大地とともに生きることにした。それが僕たち人間と、君たち獣の始まりだという、お話」

「えーと……」

「僕たちはもともと同じ生き物だったけど、それぞれの生き方を選んで別の生きものになったということだよ」


 元々同じ生き物だった。到底信じられない話だが、それのせいでこんなにも違う生き物だということには納得できた。

 ニンゲンは、獣をやめたのだ。そして獣は変わることを拒んだ。

 エーリャは、ふうん、と呟きながらイリヤの肩口で目を閉じた。


「それがほんとうなら、エーリャはどうしてうまれてくるときに、けものをえらんじゃったんだろうなあ」


 今までずっと感じてきたことが今の話によりエーリャの中でしっかりと浮かび上がる。どうして獣に生まれたのだろう。ずっと、そう思ってきた。でも言えなかった。

 そんな話をすると、意味が解らないと、笑われたから。お前はおかしいと言われるのにも散々飽きたから考えないようにしていた。

 どうしてエーリャは、獣になんか生まれたんだろう。ニンゲンではなく、獣になろうと思ったんだろう。


「エーリャはこんなに綺麗な毛皮を持っているのに、脱ぎたいの?」


 責めるようでもなく問いかけてくるイリヤの声はどこまでも優しい。

 だからだろうか、今まで言えなかったこともぽろっと言えてしまう。


「違うの。でも、わからない……エーリャはいつもよわくて、かぞくのなかで、やくたたずだったから、そうおもうのかな」


 綺麗と言われるのは嬉しい。撫でられるのも嬉しい。

 でもこうしてイリヤに優しく撫でられるよりも前は、いつまで生きられるだろう、いつ死ぬだろうと、いつもそればかり感じていた。

 それしかなくて、そんな自分のことを考えるのも不安でしょうがなくて、考えないようにしていた。

 本当はずっと怖かったし、いやだった。ひとりで生きるのではなく、誰かと居たかった。立派な牙も爪もいらないから、そばにいてくれる誰かが欲しかった。

 どれだけ立派な毛皮があろうとも、ひとりで眠るのは寒くて仕方ない。寄り添うものがないだけで迷子になったような心地になる。


 久しく感じていなかったものを思い起こして思わずぎゅっと目を閉じすり寄ると、イリヤの体温がエーリャの体温に馴染んでくる。

 それにどれだけ安心するか。

 自分以外の体温があることが、こんなにも身の内の恐怖を和らげてくれる。ひとりじゃないと信じさせてくれる。


 無性に体の奥がむずむずして、イリヤの手のひらにぐりぐりと額を押し付けた。

 イリヤがいなくなる時を思うと、毛皮の下から寒気が忍び寄ってくるようだ。

 しばらく黙り込んだまま顔を上げないエーリャを慰めるように撫でながら、イリヤがゆったりと話し始めた。


「エーリャ……。あのね、僕の一族はさっき話した男神のペルンを祀る神官の末裔だと伝わっているんだ。まあその通りにペルンに纏わる祭事も仕切っているし、今も信仰はこの地に根付いている。だからそれも、恐らくは本当のことだろうと思う」

「ふうん……」

「でもそれだと一つ、不思議なことがある」

「なに……?」


 イリヤは、顔を上げたエーリャに頬をよせると、獣のようにすり寄った。


「この山の名前はヴェレッサグリーヴァ……女神の鬣と呼ばれている。天地再生のその終末に女神ヴェーレスは、男神ペルンと争い傷付いたその身を鎮めた。それがこの山、とこの土地には伝わっている。……ねえ、わかる? エーリャ」


 うっとりと嘯くイリヤの声は、どこか恍惚として、エーリャの毛穴をふつふつと、ひとつひとつ刺激していく。


「ヴェーレスの膝元に、なぜ男神を祀る神官の末裔がここにいるんだろうね……? それはやはり、ぼくたちが記憶にもないいつかの全きときを恋しく思い、惹かれあっている証拠なのではないかな」

「まったき、とき……?」

「そう。人と獣がその道をたがえる前、同じ生き物だった時を、ぼくらは全き獣と呼んでいる」


 ちゅ、と額に柔らかいものを押し付けられる。息を吹き込むようにイリヤは囁きかけた。


「ぼくがここにいるのも、エーリャがぼくを見つけたのも、きっと偶然じゃない。ぼくたちはきっと全き獣の再来として、出会うべくして出会ったんだよ」


 波打つようにエーリャの毛皮が逆立った。陶然と囁かれた言葉はエーリャの胸の奥にするりと滑り込み、瞬く間に体中に染みわたっていく。

 イリヤの話の半分も理解できていないはずのエーリャは、それでも彼の言っていることに感動と、さもなくば暴れだしそうなほどの歓喜をもたらした。

 ずっと枯渇していたなにかに、水を注いでもらえたような、強烈な悦びを。


「エーリャ?」


 ぶるぶると震え毛皮を逆立てたエーリャの様子にイリヤが怪訝そうに顔を覗き込もうとする前に、エーリャは勢い込んでぐっと鼻先を彼の眼前ギリギリまで近づけた。


「イリヤは……まだ、こっせつしてる?」

「そうだねえ。まだ立つのは無理かな。エーリャには悪いけど、まだここにいさせてもらってもいいかな」


 ひたすら頭を押し付けてくるエーリャを撫でて宥めながら、イリヤが苦笑する。立ちたくても立てない、と申し訳なさそうだ。

 エーリャはそれを聞いた途端にばっと四足で立ち上がり、限界までぴんと尻尾を張った。


「いいよ! しょうがないから、おいてあげるねっ。イリヤがさむくないように、エーリャがいっしょにねてあげるね!」


 言葉だけは一丁前に、けれど嬉しい気持ちは隠しきれずに、イリヤの腹に突進した。

 イリヤがわかっていたようにそれを受け入れてくれるから、ますます嬉しくなる。


「あのね、あのね、イリヤのことも、エーリャみたいに……」


 イーリャって呼びたい。なかよしの証拠なら、エーリャもイリヤの事を、イーリャって呼びたい。

 そういおうと勢い込んだ、その瞬間。


「エーリャ」


 おもむろにぎゅっと耳を掴まれた。強くはないけれど、優しくもない力で。

 反射的に全身硬直したエーリャの頭上にかがみこんだイリヤが、鷲掴みにしたままの耳に唇を寄せる。


「嫌いなんだ。その愛称。エーリャには今まで通りイリヤって、呼んでほしいな……」


 耳を掴む手に、少しだけ力が加わる。恫喝のようなそれに恐れおののいたエーリャは身動き一つとれず、返事ひとつをやっとの思いで、絞り出した。


「うん……わかっ、た」

「そう。いい子。いい子だね、エーリャ」


 へたりと寝てしまったエーリャの耳を揉みながらイリヤが口付けしてくる。

 エーリャは先ほどの興奮が嘘のようにしぼんで、代わりに毛穴の一つ一つがぴりぴりとひりついているのを感じた。


 そういえば、とエーリャはあることに気が付いた。

 イリヤは、いつも優しい。でも時々、イリヤはなにか別のものを見るような目でエーリャを見てくるときがある。

 過ぎ去った悪寒の名残に身を縮めながら、それでもエーリャは、イリヤの優しい手から逃れようとはしなかった。

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