幕間
追想する城山の主
彼女に出会ったのは、まだリヒテルが十にも満たないころのことだ。
父に連れられ初めて城下の街に繰り出し、はしゃいで迷子になり路地裏をうろついていたところを、彼女に声をかけられた。
「あんたいいとこの坊ちゃん? 助けたらお金くれる?」
ゆるくうねる柔らかそうな髪を腰まで下ろした、抜けるような白い肌に青い瞳の愛らしい少女がリヒテルを見下ろしていた。
年のころはリヒテルと同じくらいか少し上と言ったところか、下町の子供らしく簡素な長衣一枚を羽織っているだけだ。
「金はない。いまは持ってない」
「あっそ。じゃあ用はないわ。じゃね」
「待て。大通りまで案内してもらえれば必ず礼はする」
ここで見放されては困るとばかりにリヒテルが言い募ると、少女はもったいぶった様にゆっくりと振り返り悪戯めいた微笑を向けた。
「あんた随分偉そうだけど、本当にいいとこの坊ちゃんだったの? いいわよ。あたしが助けてあげる」
言うが早いかおもむろにリヒテルの手を取り、ぐいぐいと引っ張って先頭をゆく。
その強引な所作に驚いたものの、年頃の女の子、しかもこんな愛らしい少女と手を繋いだ経験もなかったリヒテルは顔を真っ赤にさせてその手を握り返した。
「あたし、ネリーっていうの」
「
「そ、生まれるとき灯りの油が足りなくて、たいまつで照らしたからネリーなんだって。安直でしょ。あんたは?」
「……
「ふーん。いかにもお育ちのよろしそうな名前ねえ」
城ではネリーのようなあけすけな話しかたをする者はいなかった。今までになかった類の人間を前に、リヒテルは何と答えてよいかわからずに目を白黒させる。
ネリーはそんなリヒテルの様子にかまわずお喋りを続ける。
「あたしこの辺に住んでるの。あんたは? どこの子?」
この辺りは城門に近く、言うなれば下町のさらに下町に位置する場所だ。逆に言うと城に近ければ近いほど富裕層が住んでいるということになる。
正直に言ってもよかったのだが、城が住まいだと言うと信じてもらえない可能性もあり、ここで放り出されたらまた迷子に逆戻りだ。リヒテルは嘘もやむなし、と答えた。
「おれは、えっと……城、のあたり」
「へえー! じゃあ本当にいいとこの出だね。あの辺金持ちとか偉い人しか住んでないっていうし」
「そうでもないが……」
いいとこの出というか、この城山を総べるケィウ公の息子であり、次期当主だ。
だがそれを出会ったばかりの少女に馬鹿正直に告げるほどリヒテルも間抜けではない。ほどよいところで勘違いしているのなら、訂正しないまでのことだ。
「おまえは、」
「おまえじゃない。ネリー!」
「ネリー……は、あそこで何をしていた」
リヒテルが迷い込んだのは人通りのない路地裏だった。人の気配がないから余計に迷っていたのだ。この少女は一体あんなところで何をしていたのだろう。
単なる好奇心で聞いたのだが、ネリーの手にぎゅっと力がこもる。
「べっつにい。母さんが出てろっていうから行くとこなくて」
「それはどういう……」
「ほらついた! 大通りだよ」
ネリーの何か含むような言い方が気になったが、それを聞く前にあっという間に大通りについてしまう。
この辺りまでは馬車を使ってきたが、このまままっすぐ城を目指して歩けばいつか辿り着くだろう。もしくはリヒテルがいないことに気付いた同行の者が探して引き取ってくれるかもしれない。
リヒテルはネリーに向き合い、つないでいた手を両手で握りしめた。
「ありがとうネリー。お礼をしたいから、どこに住んでいるか教えてもらえるか」「……いいよ、別に。あの辺物騒だから、今度は迷い込まないようにね」
ネリーはぱっと手を離して、呼びとめる間もなく去っていってしまった。
リヒテルは追いかけることもできず、その後ろ姿を見送った。
その後、ほどなくしてリヒテルは無事に同行していた使用人に見つけてもらい、無事父とともに帰城した。
けれど帰った後も自分を助けてくれた可憐な少女のことが忘れられず、城を抜け出して町をうろつきまた迷子になっているところをネリーに拾ってもらい、二人は友達となる。
リヒテルが足しげくネリーのもとに通うに従い、ネリーも心をゆるし自分のことを話すようになった。
ネリーは娼婦の娘で、父はいないらしい。母と二人暮らしだが仲は芳しくなく、母親の商売のときにはいつも追い出される、と愚痴をこぼしていた。
リヒテルが同情するような顔をしていたのを目ざとく察したネリーは逆に小ばかにするようにリヒテルを笑った。
「そういう顔であたしを見る人いるけどさ、それだけだよね。そんなに可哀想だと思うならお金くれない? そしたら母さんにお前も早く客をとれってせっつかれずに済むのに」
「……ネリー、おれは」
「いいのよ。別に見下されるの慣れてるし。でもいつかあたしが見下してやるんだから」
屈託ない微笑を浮かべて、夢を語るようにネリーは瞳を輝かせて話し出す。
「あたしいつか偉い人に見染められてやるんだ。デブでもハゲでもおじいちゃんでも、後妻でもいいから、うんとお金持ち。そしたらあたしを笑ったやつらも、いじめたやつらも、見下したやつらもみーんな、上から笑ってやるんだから」
ほら、あたしって育ちはともかく、見た目は可愛いでしょ?
そんな風に言いながら、片目をつむって見せる。リヒテルはその笑顔を向けられて一瞬胸が高鳴ったけれど、幸いなことに普段から表情に現れないのでどうにか悟られずに済んだ。
リヒテルの様子に気づかず、ネリーはひとりごとを言うようにぽつりと呟く。
「……そしたら、子供にもうんと、贅沢をさせてあげるの。間違っても雪の日に外に追い出したまま鍵をかけたりしない。何日も男の家に入りびたりになって、死ぬほどお腹を空かせた子供のことを忘れたりなんか、しない」
ネリーは泣かない。いつも笑っている。今も下を向いてはいるが、口元には笑みを浮かべたままだ。
気丈な彼女の言葉に、リヒテルは己を恥じた。
この少女は自分が軽々しい同情を向けていい相手じゃない。尊重すべき心を抱いている。
リヒテルは、ネリーの冷たい指先を温めるように両手で包み込み、優しく握り込んだ。
「お前は強い女だな。おれは小さなころに母を亡くして記憶もなく、父しか知らないが、お前のような母を持つ子はきっと幸せだろう」
「リヒテル……」
くしゃっと眉根を寄せ鳴きそうな顔をしたネリーを慰めるように、リヒテルも微笑みかける。ネリーはその微笑を見つめて、嬉しそうにはにかんだ。
「……ありがとう。あなたはあたしの、たった一人のともだちね。えらくなっても見下さないでいてあげるわ!」
「それはありがたいね。未来のお姫さま」
二人は顔を寄せて、笑いあう。
固く握りしめあった手のひらに伝わる温かさを、リヒテルはずっと忘れずに心にしまい続けた。
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