ぜったいにやぶれない、約束

 大変だ。

 ニンゲンの様子がおかしい……気がする。


「いやタイヘンじゃないよしらないしらない」


 ちょうどエーリャがニンゲンを巣穴に運んだところで日が落ち始めた。

 日の光が届いているうちに木の実を調達してきたエーリャが見たものは、気温にともない温度の下がり始めた洞窟内で震えるニンゲンの姿だった。

 驚いてつい急接近してみたものの、気を失っているのかニンゲンが至近距離にいるエーリャに気づいた様子はなく、ただ怪我したわき腹をかばうように体を丸めている。

 吐く息が心なしか前よりも荒くなっている。


 知らないとそっぽを向きながらも、エーリャの意識はどうしてもニンゲンから離せなかった。

 このままこのニンゲンが死んだところで、河に流せばいいだけだ。そう自分に言い聞かせながらも、そうなったらなったでいやだなあと思う自分がいる。

 結局のところ見捨てるのが怖かっただけだ。

 殺すのもこわい、死なれるのもこわい。見捨てるのもこわい。どうしてここまで腑抜けなのだろう。心底自分がいやになる。


「ねえ、ちょっと、だいじょうぶ……」


 声をかけてみるも、返事はない。

 聞こえていないのかもしれないし、そもそも言葉が通じていないのかもしれない。

 エーリャたちイルビスはお互いの感覚と動作で意思疎通をしてきたし、それで不便はなかった。そういうものだと思っていた。

 ただ、ニンゲンがどうなのかはわからない。そもそもどういう生き物なのかだって、さっきはじめてみたのだからどうしたらいいのかわからない。

 困り果てて、ニンゲンの周りをただうろうろと動き回るしかない。


「おーい、ねえ、さむいの? いたい? ねえ」


 返事はないが、震えている。やっぱり寒いのだ。

 そうとなるとエーリャができることなど今のところひとつしかない。

 でも気が進まない。往生際悪くしばらくの間延々とニンゲンの周りをうろついていたが、結局観念してエーリャはぴたりと足を止めた。


「かんちがいしないでね、きょうだけだからねっ」


 聞こえていないだろう相手に向かって言い訳がましく吠えながら、ニンゲンが怪我をしているわき腹とは反対方向にそっと歩み寄る。

 そのままぴったり寄り添うように腰を下ろし、自慢の太い尻尾でニンゲンを覆いこんだ。


 ニンゲンの体は冷え切っていた。

 けれど、こうしていればじきにエーリャの体温と馴染むだろう。ここまでしたのだから早く目を覚まして出て行ってほしい。

 横たわると疲れていたエーリャも眠くなってきて、ニンゲンの首に鼻面を押し込むようにして、ぎゅっと目を閉じた。



*****



 甘いにおい。この匂いを知っている。温かくて、落ちつく匂い。

 潜り込んで、からだをできる限り丸めて目を閉じると、例えようもない安心感に包まれた。

 こわかった。もういやだ。もう目覚めたくない。ずっとこのままでいたい。

 誰も助けてくれないのなら、自分ごといなくなった方がずっとましなんだ。

 お願いだから、このまま眠らせて。



*****



 ぐるぐると、音がした。

 なんとなしにべろりと鼻を舐めると音がやんだので、どうやら自分が出している音で目が覚めたらしい。

 なにやら懐かしい夢を見た気がするけれど、思い出せない。

 でもとても心地のいい夢だった。醒めたくなかった。

 もう一度眠ったら、続きがみられるだろうか。


 夢惜しさに再び眠ろうと体を丸めなおしたそのとき、エーリャは違和感に気が付いた。

 顎の下が温かくて、甘い匂い。額から背中までゆっくりと、単調なリズムで何かがふれている。その触れ心地がなんだかゆったりと優しく、穏やかで、あたたかい。

 思わずうっとりと目を細めたところで、ぺたんと寝ていたエーリャの耳をくすぐるような声が聞こえた。


「おはよう、かわいい子。よく眠れたかな? まだ眠る?」


 透き通った声が歌うように囁いた。

 途端にエーリャの尻尾が普段の何倍もの大きさに毛羽立ち、頭を撫でていたと思われる手の下から抜け出すと自分でも驚くほどの跳躍で一気にニンゲンから距離をとった。

 座り込んでこちらを見つめるニンゲンを改めて確認したエーリャは、尻尾を股に巻き込みながらじりじりと後退する。

 一応、威嚇のために精一杯喉を鳴らして睨みつけながら。


「どうしたの。そんなに怖がらないで。こっちへおいで」


 どうやら一晩の峠を越えたらしいニンゲンは、肌は青白いもののしっかりとした声音でエーリャに話しかけてくる。

 両手を広げて指をくいくいと曲げているあたり、ここへこいと言わんばかりだ。

 エーリャは毛皮を限界まで膨らませてめいっぱいに吠えた。


「うるさいニンゲンっ、おきたならさっさとでてけ、どっかいけ!」

「ひどいな。君がぼくをここまで運んで、助けてくれたんだろうに」

「しらない、しらないったら! でていかないとひどいよっ」


 我ながら言うことがむちゃくちゃだけど、そんなことにかまっている余裕もない。

 そもそもこのニンゲン、なぜ怖がらない。

 こんなにエーリャが威嚇しているのにゆったりと落ち着いてすら見える。なぜにこんなにも余裕なのか。


 そういえば、エーリャはニンゲンが起きたときのことをまったく考えていなかった。

 迂闊な自分に腹を立てつつも、混乱する頭のおかげでどうしたらいいのかも考えつかない。とりあえず出て行ってほしい。

 というか。


「おまえ、なんで、しゃべれるのっ」

「え、いまさら?」


 よくよく考えてみればエーリャとニンゲンはいま会話が成り立っている。

 耳が拾う音は、エーリャが吠えてニンゲンは滔々と聞きづらい声を発していて、お互いにどう聞いても同じように話しているようには思えない。

 それでも相手が何を言いたいのかわかるし、伝わっているように思える。

 頭の中がうねるように気もち悪くて、エーリャはぐるんぐるんと頭を左右に振り回した。


「なにしてるの」

「だって、あたま、きもちわるい」

「ああ……うん、ごめんね。勝手に精神を繋がせてもらったんだ。きみの頭の中にある線とぼくの頭の中にある線を直接結んでいるようなものだから、暫くは慣れないだろうけど、辛抱してほしい」


 なにを言っているのかさっぱりわからない。

 ともかくも、このニンゲンは困ったように話してはいるけれど、どうにかする気はないようだ。

 自分が眠っている間にいったいなにをしてくれたのか。やっぱりニンゲンなんか助けるんじゃなかった。

 エーリャは恨みがましくニンゲンを睨みつけた。


「わかったからはやくどっかいって」

「うん。それは無理」

「なんで!」

「動けないからね。どうやら骨折しているらしい」

「こっせつ……」


 こっせつって、なんだろう。

 聞きなれない単語に首をひねる。でもここでわからないと言うとバカにされそうだ。ヤキムにはさんざんこの流れで笑われてきたので、今は知っている振りをしたほうがよさそうだ。

 エーリャは神妙にうなずいた。


「こっせつしてるからうごけないなら、エーリャがはこんであげる。おまえはねてればいい。エーリャがそとにもってく」


 とにかく動けないなら死体となんら変わりない。少し難儀するけれど、最初のときのように咥えて持ち運べばいいのだ。少し遠くにもっていけばいいだろう。

 名案だとばかりに尻尾を大きくふりまわす。

 それでもニンゲンは否定するように首を横に振った。


「それは困るなあ。きみ、引きずっていく気でしょう。あちこち擦り傷だらけだし打ち身も多いし、これ以上乱暴に扱われたらぼく死んじゃうかも」

「しなない! エーリャはちゃんとはこんだよ、うそをいうな」

「うーん……なんていおうか。まいったな……」

「もういいよ! かってにはこぶから!」


 うだうだと話し合いをしているのがまだるっこしくて、エーリャは怖さも忘れてニンゲンに駆け寄る。

 最初のときと同じように首根っこのあたりを咥えようと回り込んだその時、ニンゲンの目がすっとエーリャを捉えた。


「それはいけない。止まりなさい、エーリャ。待て、だ」


 ざりざりっ、と足が勝手にたたらを踏んで立ち止まる。

 先ほどとは打って変わって醒めた眼差しを向けてきたニンゲンの命令通り、エーリャはそれ以上動くこともできずに硬直した。

 なぜかわからないけれど、それ以上前に行けない。行きたくないと体中が叫んでいるようだ。かといって引くこともできずただ固まるだけ。

 恐れおののき硬直するエーリャをしばらく醒めた目つきで眺めていたニンゲンは、反転笑むように目を細めてエーリャに手を伸ばしてきた。


「いい子だね、エーリャ。おいで。ホラ、さっきみたいに、ここだよ」


 ぽんぽんとニンゲンが足元を叩くと、またしてもエーリャの体は意思と反して動き出す。

 頭では逃げたいとしか思っていないのに、どうしてもニンゲンが誘うそこが魅力的に見えて、近寄らざるをえない。

 緩慢な動きでニンゲンの足元に身を寄せたエーリャは、その手に誘われるままに頭を乗せて座り込んだ。

 ニンゲンの手が、待ち構えていたように、エーリャの頭を優しくなでていく。


「ごめんね、エーリャ。ぼくはね、いま体が痛くてしょうがないんだよ。傷はある程度は塞いだけど失くした血、折れた骨まで一瞬では治せない。他の獣に嗅ぎつかれても面倒だし、ここで匿ってはくれまいか……」

「い、いや……やだ……」

「うん。でもきみはぼくには逆らえないから、諦めてほしい」


 なんで。

 どうして。

 頭の中はしっちゃかめっちゃかなのに、このニンゲンが言っている意味が心底わかるからこそ恐ろしい。

 エーリャはこのニンゲンに逆らえない。こんなに怖いのに、撫でられるのが心地いいと感じてしまっている。逃げたくて仕方ないのに、ずっとここに居たいと体が動いてくれない。

 ぶるぶると震えだしたエーリャをなだめるように撫でながら、ニンゲンがそっと顔を近づけてきた。


「あのね、さっききみとぼく繋げたときに、ぼくの声を君が“聞く”ように暗示したんだ。名前を教えてくれたでしょう、自分で、エーリャだって。きみの名前をぼくが握っているということ。ぼくが上位だと、きみの頭に刻みつけた。これはね、きみとぼくだけの決まりごとなんだ。ぼくときみの、絶対にやぶれない約束ごと」

「おまえの、いってること、わからない」

「わからなくていいよ。ぼくはお願いする。きみは逆らえない。だから、仲良くしよう」


 だから?

 なにが、だからだ。

 お前の言っていることが何一つわからないしわかりたくもない。


 そう吠えてやりたいのに、そんな気も萎えてしまう。ニンゲンが当たり前のようにそういうので、それもそうだな、という気になってくる。

 ただ、ただ、撫でられるのが心地よくてたまらない。


「いい子だね、エーリャ。短い間だけれど、これからよろしくね……」


 半ば諦めの境地で目を閉じたエーリャの瞼に、そっと柔らかいものが触れる。

 どこかで嗅いだような香りが、エーリャをそっと包み込んだ。

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