ニンゲンは、こわい

 ある日のこと。

 エーリャたちは、狩りの練習のために母のナワバリの外に連れられ、山の中腹へと降りた。

 こういったことはままあった。

 母の縄張りは普段、標高の高いところ、森の奥深くにある。けれどその辺りになると大型の生き物ばかりで子供が狩れる様なめぼしい生き物はほとんどいなかったため、練習がてらにエーリャたちは下層まで足を延ばすこともあった。


 しかしその山の生態系の頂点がエーリャたちイルビスとはいえ、母のナワバリから外へ出るのはまだ数える程度しかない。

 いつもは好き勝手走り回る子供たちも、どきどきしながらも母にぴったりとくっついて歩き、ようやく緊張も解けてあちこちに跳ね回り始めたころにヤキムの呼ぶ声が聞こえた。


「おーいこれなんだ」


 声が呼ぶ方に向かってみれば、ヤキムが落ち着きなく地面をうろうろしながら嗅ぎまわっている。


「なにしてるのヤキム」

「これなんだこのあしあと。おれみたことないぞ!」


 ヤキムは興奮しているのかしきりにその地面の跡を嗅いでいる。そこにあったのはエーリャの顔より大きく長い足跡で、それが等間隔に続き茂みの向こうへと消えていた。それを見た母が唸るように喉を鳴らす。


「かあさん?」


 母はその跡には目を向けず四方に耳を動かし、鼻をひくつかせている。なにか探っているようだった。


「デッカイな」

「おれたちのあしあととちがう。つめがないぞ」


 興味津々なのはヤキムとスエニクだ。エーリャは母の張りつめた様子が気になってそれどころではない。

 その辺りをいくらかひと回りしたところで母は落ち着いたのか、奇妙なあしあとのまわりではしゃぐ子らの元へと戻ってくる。そして心配そうに見上げたエーリャを安心させるように頭上をべろりと舐め上げた。


「ニンゲンだ」

「ニンゲン……?」

「にほんのあしであるくやつらだ。いまはいないようだが、であわぬようにちゅういしな、おまえたち。かわむこうのやつらにくわれるよりもむごいめにあわされる」


 母は淡々と子らに告げたが、その一言だけで充分だった。

 子供らにとっては母が絶対的強者だ。山にはほかにもイルビスがいるのは知っていたが、その中でも母が上位にいることも知っている。その母がそこまでいうニンゲンがどれほどのものなのか、考えることすらエーリャには恐ろしく思えた。

 エーリャは寝しなに、あの黄色と黒の獣たちの遠吠えを聞いたことがある。この世のものとは思えないような恐ろしい唸り声がエーリャたちの眠る洞くつまで届いた。

 そんないきものよりもこわいもの。ニンゲン。

 ぶるっとふるえた子供たちは、今までしきりに興味を示していたその大きな足跡から後ずさりした。


「したにいくほどやつらにあいやすい。だからわたしたちはうえでくらす。あそこまではニンゲンはのぼってこないからね」


 それだけ言うと母はゆったりと歩きだし、そのまま皆連れ立って洞窟へと帰った。

 狩りの成果はなかったけれど、誰もそのことに文句を言いはしなかった。それだけニンゲンのことで頭がいっぱいで、ヤキムやスエニクでさえ大人しくしているほどだった。

 エーリャは寝そべる母にぴったりくっつきながらニンゲンのことを考えた。

 ニンゲンはこわいもの。

 ぶるっと毛が逆立つ。怖いからだけではない。なんだかとても気になるから。

 少しだけそのニンゲンを見てみたいと思った自分がわからなくて、それが怖くて、その日はじっと母に寄り添って眠りについた。



*****



 そのニンゲンがここにいる。

 見たこともないのにどうしてソレがニンゲンだとわかるのかと問われても、わかるものはわかるのだから仕方ない。

 顔を横に向けうつぶせで横たわっている。青白いかんばせに透き通るような薄いうす茶色の毛がかかっている。全身びっしょりと濡れそぼっているところを見ると、河で溺れかけてこのあたりに這い上がってきたのかもしれない。

 エーリャがニンゲンの匂いを嗅ぎ取れなかったのもこのせいだ。

 水に濡れてしまえば乾くまで匂いは薄くなる。河にはいる自分がいつもそうなのだから、このニンゲンの匂いもそのせいで極端に薄まったのだろう。


 いやに冷静な目でそのニンゲンを見る自分の奇妙さに気づきながらも、エーリャは逃げようとはしなかった。

 まったく怖くないかと言えば嘘になるけれど、それよりもそのニンゲンから目が離せない。どうにも離れがたく、それどころかもっと近くで眺めたくなった。

 これはニンゲンの雄か、雌か。さすがにそこまではわからなかった。もっと近くで見てみればわかるかもしれない。

 そう思いエーリャが一歩踏み出したとき、足元の砂利がざりっと鳴いた。


「う……」


 ニンゲンがうめいた。

 生きている! 驚きと恐怖で足がすくんで動けない。知らず毛を逆立てるエーリャの目と鼻の先で、苦しげにうめく人間の瞼がふるり、と震えた。


「こ、こは……」


 幾度か瞬きをしながらも覚醒していないのか、ニンゲンの目は胡乱なままだった。

 驚きでしばらく気づかなかったけれど、微かに知っているにおいが混じっている。血のにおいだ。このニンゲンはどこか怪我をしているのかもしれない。

 今はまだ太陽が真上にあるため気温もさほど低くはないけれど、夜までここに居たら結果は見えている。見たところニンゲンは毛が少ない。

 おまけに氷のように冷たい山の河の水にさらされていたようだ。これでは早晩息絶えてしまう。

 夢とうつつを行き来するように瞼を震わせていたニンゲンがふっと意識を失ったのを見届けて、エーリャはそっと鼻先を近づけてみる。


「いいにおい……」


 このニンゲンは匂いが薄い。くっつきそうなほどに鼻を近づけてやっと嗅ぎ取れる程度だ。

 薄茶色にうねる毛からは花のような香りが、肌からはまろやかな母の乳のような香りがうっすらとだけ感じられる。匂いが薄いくせに無性に香しく、つい、届く範囲であちらこちらと嗅ぎまわる。

 鼻先が届くギリギリのところ、わき腹のあたりで急に血のにおいが濃くなり、エーリャは知らず知らずのうちにごくりと唾をのみ込んだ。


「おなかをけがしているんだ」


 血の匂いと甘い香り、入り混じるそれをしばらく嗅いでいると、だんだんと体のどこかがむずむずしてくるような気がする。


 エーリャはゆらゆらと小刻みに尻尾を揺らしながら途方に暮れた。

 いったいどうしたらいいんだろう。

 せっかく毛づくろいをしようと思ったのに、こんなものがあってはなにもできない。それどころかもしこのニンゲンが死んでその場から動かなくなったら、これからもずっとここに来られなくなる。


 さらにさらに、もしこのニンゲンが死んで、腐って、今よりもっと強い匂いを発し始めると、ほかの獣が寄ってくる。

 少しくらい腐っていても、肉食の生きものたちにしたら貴重な食糧だ。これほど大きな獲物ならば放っておくはずがない。もちろんエーリャはこんな大きな生き物に噛みつく度胸などないので除外される。

 でも、もしかしたら川の向こうのあの獰猛な獣たちも多少危険を冒しても危険を顧みずに河を渡ってくるかもしれない。そうしたらこのニンゲンを食べきるだろう。

 持ち去りながら川を泳ぐのはさすがに無理だ。

 それから、もしやつらが何匹もいた場合、ニンゲンひとつでは足りず、河を渡ったのをこれ幸いとばかりに、居場所が分かっている弱そうなイルビスを狩りに来るかもしれない……。


「それはこまる!」


 全身すみからすみまで逆立った毛が一気に膨れ上がる。

 川の向こうの獣たちの恐ろしくも獰猛な遠吠えを思い出し、イーリャは震えあがった。あんなけものたちに追いかけられたらエーリャなどひとたまりもないだろう。ろくな抵抗もできずに嬲り殺しにされるだけだ、絶対に。


 しっぽが怯えたようにそろりと足元に巻きつく。

 ふと、ヤキムの言葉が頭に浮かんだ。


『エーリャは、死ぬぞ』


 いやだ。死にたくない。

 痛いのも嫌だ。こわい。

 でも、誰も助けてくれない。

 だってエーリャは今、ひとりぼっちなのだから。


「なんとか、しないと」


 そうだ、なんとかしないと。このニンゲンを、なんとかしないと。

 ここから失くしてしまわなければ。ここでとどめを刺して、河に流すしかない。

 ぎゅっと眉間にしわを寄せた獣の双眸は、鋭い目つきで眼下のものを睨みつけた。




「んぎいいいいい」


 無理だった。

 エーリャに自分と同じくらい大きな生きものを殺す度胸などない。

 河に流すこともできなかった。このくらいの大きさのものを流そうと河に入ると、エーリャも足をとられて流される危険があったから。

 どだいわかっていたことだけに諦めも早く、それからはそうそうにニンゲンの首根っこ、正確には、クビに噛みつくのが怖かったため皮膚ではない、体に巻いているものをくわえて引きずりながら、自分の洞窟へと半泣きで持ち帰った。


 短くはない距離を引きずってはきたけれど、体が水にぬれていたため匂いで跡をたどることはできないだろう。

 しかし重い。かなり重い。河の水を吸っているせいかそうとう重い。

 洞窟に持ち帰るまでに全体力を使い切ったような気分だった。

 顎ががくがくになりそうだ。ニンゲンにも口からこぼれたよだれがぼたぼたかかっていた気がするけれど、それはまあいい。どうせもう濡れてるし問題ない。乾く乾く。


 苦心して洞窟の一番奥にニンゲンを運び仰向けに寝転がせると、エーリャはすぐさま距離をとった。

 これでニンゲンが起きても入口に近いこっちが先に逃げられる。逃げること前提なのは今さら考えない。例えそこで死んでもすぐにまた引きずって今度こそ川にぶち込めばいい。


しかし、いくら逃げ道の確保のためとはいえ、自分の寝床をニンゲンに明け渡してしまうのは、誇り高いイルビスとしてどうなんだろう。

 逃げる前提の時点で、は考えないったら考えない。

 うーんと精いっぱい首をかしげても他にいい案は浮かばない。

 とりあえずやるだけのことはしたのだ。あとはニンゲンが起きたら逃げるか、死んだら捨てるかすればいい。

 一定距離を保ってから、エーリャは前足を揃えて、目を閉じたままのニンゲンをじっと見つめた。


 ――そういえば、いま生きているか死んでいるか確認していなかった。


 もしかしたら運んでいる間に死んでいたかもしれない。

 実は途中、何度か石や岩にひっかけた気がする。ぶつけたと言ってもいい。


 死んでいてもいいけれどさっそく死んでいたりしたらここまで運んだ苦労が!


 大慌てでエーリャはニンゲンに駆け寄った。

 そっと近寄り、ニンゲンの様子をうかがう。

 呼吸は小さい。けれど、胸のあたりは静かにゆっくりと上下している。一応生きている。


 なぜかホッとしながら、今度はびっくりさせたニンゲンに少し腹が立ってくる。

 ちょっと小突いてやろうか。

 反撃しない相手には気が大きくなるのか、いつもより大胆な気持ちになったエーリャは、そっとニンゲンの顔を覗き込んだ。

 青白い肌に、薄く開いた口、そして閉じたままの瞳。濡れた睫毛に、すっと通った目じり。


「あれ……?」


 ニンゲンの閉じた瞼の目じりに一つ、川の水なのか水滴が一つ。

 ほとりと横に滑り落ちるまえに、あっとばかりに無意識に舐めとってしまう。

 なんだか少しだけ、しょっぱい気がした。

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