落ちるもの、拾うもの

 その山は、霊峰と呼ばれていた。

 この地に伝わる伝説の女神が眠ると言われており、ところどころ傾斜が激しく、猛獣が住まい、人が通るには危険が多すぎる。そのため、かつてこの山を越えようとした者も、その先からやって来る者も、すべてを拒む不可侵の神の領域とされていた。

 その神域に入ることを許されたものたちが、この山より遥か下の山麓にある丘に住む、ケィウ公率いる一族だ。彼らは代々信奉する神の神官であり、この山のたもとに住まう民を治める主でもあった。

 そして今、そのケィウ家の跡取りである男とそれに追従する者たちが、霊峰の中腹で休憩を取っている。


「兄上、やはりこの辺りにはないようです。もっと山頂に近いところまで行かないと……」


 己を呼ぶ声にリヒテルが振り返ると、そこには息をのむほどの美貌を備えた青年がすぐ後ろに立っていた。くるくるとうねる艶やかな栗毛をひとくくりにまとめ、新芽のように澄んだ翠の瞳を湛えて男を見上げてくる。年々成長著しくも育っていく彼は、男の中にある記憶をなぞるように美しくなっていく。見れば見るほどに胸の奥を無理やりに掻き立てては狂おしいものだけを残す面影。

 男は彼を手招きすると、今まで見下ろしていたものを彼に指し示す。


「見ろイーリャ。立派な河だ。おれたちはこの恩恵に預かり生きているのだ」

「そう……ですね。ですが落ちたらひとたまりもなさそうだ。見ているだけで飲み込まれてしまいそうです」


 こわがる振りをするように首をすくめる弟を見下ろし、男はゆったりと優しく微笑みかけた。


「そうだな。人の命は脆い。あそこに飛び込むだけで、一瞬で終わらせることができる」

「ええ……ですから兄上、ここは危険ですからもう少し離れて……」

「わかっているならばなぜだイーリャ」


 男は、たった一人の弟の肩をぐっと抱き寄せ、覗き込んだ。困惑するように見つめ返してくるその瞳の中に理知的な光があるのを、見逃しはしない。


「兄上、なにを……」

「なぜあんな真似をした。おまえはなにを考えあのようなことをしたのだ。なぜだ、イーリャ」


 肩にかかる男の力が、答えるまで離しはしないという意思表示のように強くなる。

 とたんにイーリャと呼ばれた青年の表情から困惑の色がすっと抜け、代わりに何の色もない無表情へと移り変わる。


「邪魔だと思ったからです」

「そんなことおれは望んでいない」

「けれどそうする必要がありました。お優しい兄上の御心を煩わせるのは不本意でしたが、ぼくにはどうしても我慢なりませんでした。それに、方法はどうあれよき結果を」

「何がだ! 自分のしたことをわかっているのか……」


 肩を掴む男の指がぶるぶると震えだし、宥めるように青年が触れると、反射的にふり払われ男と青年の間に距離ができた。

 青年は怪訝そうな表情を浮かべると、男に歩み寄る。


「兄上……怒っていらっしゃるのですか? 兄上のお心に背いたことは謝罪いたします。お叱りも受けます。どんな償いでも喜んで受け入れます。どうぞ心ゆくまで僕を罰して……」

「やめろ!」


 男は懊悩し、後ずさるように一歩後退した。

 男があと数歩数歩下がれば、崖下にてごうごうと濁流を生み出す河にまっさかさまに落ちてしまうことだろう。

 慌てたように、青年は手を伸ばした。


「兄上、危ない……」

「来るな。……愚かな、真似を……。いや、おれがお前をそうさせたのだな」

「なにを、言って……」


 男の脳裏に、過去の思い出が過る。

 失ってしまった。いや、失わせてしまったのか。

 怖れと後悔が体中を巡る。足元がふらつき、立っていることさえつらかった。目の前で困惑するのみの弟を直視することすらももう苦痛で、男は額に手を当て視界を覆う。


「おれが間違っていた。ここにいることもそうだ。全てにおいて、誤った選択を……」

「兄上……? そのようなことをなぜ仰るのですか。ぼくがしたことを咎められるのなら、ぼくを罰すればよいのです。兄上に逆らうことなど、ぼくは」

「そうではない! なぜわからないのだ! おれがおまえを、そう、導いてしまったのか」


 背負いきれない罪悪感に打ちのめされそうだった。戸惑うだけの弟を見ると、やるせない思いが滲んでくる。


「ダメだ。山を下りよう、イーリャ。そもそもここにいることさえも間違いだった。愚かにも血迷って……」

「兄上、危ない!」


 片足ががくんと下がる。

 奇妙な浮遊感とともに、自分に向かって手を伸ばす弟が見え、のしかかるような曇天が視界いっぱいに広がった。



*****



 エーリャはちいさい。母はもちろんの事、スエニクやヤキムと比べても小さい。

 雌だからという理由だけではなくひと回りも違っていたのだから、どう見ても一緒に生まれてきたとは思えない。

 いつもそのことでスエニクにからかわれ、ヤキムに笑われてきた。


 その原因は自分でもよくわかっている。エーリャが好き嫌いをするからだ。

 エーリャたちイルビスは山で狩りをする。その主な食糧源は空を飛ぶものたち、野を跳ねるものたち、岩間を駆けるものたちと様々だ。

 様々だけど、ようはおもにほかの生き物を殺し、喰らうということ。

 エーリャはこれがどうしてもできない。カンが鈍くなかなか獲物が捕まえられないのはもちろんの事、その後が問題だった。


 エーリャは生き物を殺す行為が苦手だ。血が苦手だ。臓物なんてもってのほかだ。

 母やほかの兄弟はおいしそうに食らいつくのに、なぜかエーリャにはそれが忌むべきことのように思えて、どうしてもできなかった。

 あまりに小食すぎて、普通ならあぶれた者は食べ損ねるだけだというのに、たまにお情けで肉を譲ってもらったりもした。

 そして新鮮な血液が滴るそれすらも嫌々口にして、足りない分はわずかに生えている食べられそうな草や木の実で乗り切った。


 家族全員そんなエーリャに呆れていたように思う。

 エーリャだってそんな自分がいやで臓物に挑んでみることもあったが、結局頭の中の何かが拒絶し、ただ牙を突き立てるだけで吐きだして終わってしまった。


 兄妹げんかにも必ずと言っていいほど負ける。

 体力を持て余したヤキムのいい的だった。

 母はよほどやりすぎでなければ滅多に止めに入らなかったし、おかげで逃げ足だけは立派に身についた気がする。

 けれどそんなもの、ひとりになったらなんの意味もない。ひとりになったら狩りをしなくちゃいけない。

 エーリャは狩りが苦手だ。寝床も探さなくてはならない。エーリャは弱いから縄張り争いなんてできない。誰かと争うことすらこわくてできない。これからずっとひとりで生きていかなければならない。

 そんなの、こわい。そんなのは、さみしい。


『さみしいってなんだ?』


 誰もわかってくれない。エーリャにだってわからない。

 でもさみしい。ひとりは、いやだ。




 ひとりになってから途方に暮れたエーリャはしばらくそこに留まっていたけれど、それもそう長い間ではなかった。母の縄張りの外に出れば、また別の獣の縄張りだ。

 エーリャは必死になって落ち着く場所を探しながら、ときには追い立てられつつ、やっとのことで自分の寝床を見つけた。




「こんなところしかなかったよぉ……」


 がらんどうの、小さく狭い洞窟のなかで独りごつ。

 山に広がる森の中、当てもなくさまよったけれどどこも他の獣の縄張りばかりで落ち着けるようなところがどこにもない。

 スエニクとヤキムはこんな状態でどうやって寝床など探すのだろう、と思ったけれど彼らのことだ、戦って勝ち取るに決まっている。もちろんエーリャにも同じようなことができるとは思っていない。

 そうなると誰もいないところを探すしかない。誰もいないところと言ったらここしかない。というより、こんなところ誰も来ない。散々ヤキムに馬鹿にされたエーリャにもそれぐらいのことは察しがついた。


 べつに、洞窟自体はいい。巣材を持ち込めるし安心して眠れそうだ。

 ただ場所が悪い。

 こんな森でもない、峡谷の川べりの洞窟に誰が住むだろう。今は河も穏やかだがもしも増水した場合すぐに水が満ちてエーリャは逃げられなくなる。


 おまけに川向うはエーリャたちイルビスの天敵である黄色い獣たちがいる。

 獰猛な牙に鋭い目つき、毛皮はくすんだ黄色に爪で引き裂いたような黒い模様が入っている、エーリャたちイルビスよりも大きく強い獣だ。

 彼らは非常に好戦的らしく、狩った獣を散々弄んでから食い散らかすのだと、なにが楽しいのかスエニクが面白そうに話していた。

 エーリャはその話を聞いて震えあがり、まだ見ぬその獣に近づくまいと己に誓ったものだった。

 その自分がまさかその危険極まりないやつらの縄張りと隣り合わせに住まうなど、あの頃の自分が知ったら間違いなく卒倒するだろう。いまだって卒倒しそうだ。

 川幅が広いためそう簡単には渡れないようになっているおかげでどうにかなっているようなものだ。

 おそらくはエーリャの位置もおおかた知れていることだろう。


 生きるためにここまできたというのに生きた心地がしないなんて、なんて不運なんだろう。わが身を嘆かずにはいられない。

 もとの洞穴に戻って、母の傍に寄り添って、兄妹みんなでくっつきあって眠りたい。

 でももうそれも敵わない。

 本当はエーリャにだってわかっている。いま戻ったところで母はエーリャに牙をむくだろう。そこから先に待っているものもわかりきっている。

 さすがに母の手にかかって死にたくはない。いまのところは。


「かあさん……」


 さみしい。あいたいよ。

 目を閉じた先に浮かぶ、立派な母を追い求めて、情けなくも鼻を鳴らす。次第にそれもおぼろげになり、疲れ切った獣はがらんどうの洞窟で、小さな体を丸めた。



*****



「ひゃほー!」


 エーリャはあたまいい!

 はしゃいだ勢いで身を震わせ、体中の水分を飛ばした。足元で跳ねるエーリャの手のひらよりも大きい魚の尻尾を加えなおすと、上機嫌で引きずっていく。


 エーリャはあたまいい。自画自賛で心が軽い。


 あれからどれほどの月日が経ったのか、なんとエーリャは生きていた。

 自分でもびっくりだ。河べりは危険も多いがエーリャのような弱くて臆病な獣にとっては最適のすみかだった。


 狩りができないエーリャは草か木の実を食べて忍んでいたが、もう体つきも小さいとはいえさすがに子供のころとは比べ物にならず、それだけでは到底足りなくなっていた。

 かといっても狩りはできないしできたところで満足に食べられない。

 苦肉の策で川で魚を探したところ、なんと捕まえることができた。

 さほど大きい魚はいないしそうそう都合よく捕まえられるわけでもないが、飢えをしのぐ程度にはありつくことができたのだ。


 外敵は河の向こうで顔をのぞかせはしてもこちらまではやってこないし、暫くするうちにある程度は慣れることもできた。

 誰も来ないから縄張り争いをする必要もなく、エーリャがここに居ついてから終始、河は穏やかなままだ。いっそエーリャのための場所と思ってもいいはずだ。

 自分は運がいい。

 まだ跳ねる元気がある魚に勢いよく噛みつき、脂ののった魚の腹を咀嚼した。


「スエニクとヤキムがみたらびっくりするだろうなあ。かあさん、は……」


 みんなは、元気でやっているだろうか。

 つきん、と胸がうずく。

 ひとりになってからときどき、こうして胸のあたりがうずくようになった。

 いや、そうではない。前から、もっとずっと前から、エーリャ大きくなるにつれて、みんなとの差を感じるようになるにつれて、こんなことが増えた気がする。

 ひとりになってからそれがさらに増した。それだけ。それだけで、暫くするとすぐにおさまる。

 そしてやっぱりスエニクとヤキム、母のことを思うと、思い出したようにうずきだす。

 考えれば考えるほど気持ちの行き場がなくなって、誤魔化すように夢中になって魚を食べた。




 おなかがいっぱいになったら眠くなる。

 前は洞窟の奥で身を潜めて丸くなっていたけれど、最近お気に入りの場所ができた。

 峡谷の川べりには落石なのか、上流から押し流されてきたのか、大小様々な岩が多く居並んでいた。

 その中でもひときわ大きな巨岩と、それに寄り添うように立つ一枚岩のような石の狭間に座ってくつろぐのが、エーリャの最近のお気に入りの特別なじかんだ。


 ちょうどエーリャ一匹が入れるような隙間があり、寝そべることのできるスペースもある。

 日当たりも悪くなく、見晴らしもそれなりにいいため外敵が近づいてもすぐにわかるうえ、さっと後ろに引っ込んでしまえばエーリャより大きい獣は追いかけてはこられない構造になっている。

 本当はこの巨岩に上っててっぺんでお日様の光を浴びてみたいけど、どう考えても目立つのでさすがにそこまでは怖くてできない。

 ここが臆病で弱いエーリャにはちょうどいいのだと自分でもわかっていたし、そこも十分にお気に入りなのでかまわない。エーリャの決めた、エーリャだけの特等席だ。


 いつもよりも比較的大きな魚が取れ久しぶりに満足する程度に腹を満たすことができたエーリャはご満悦で尻尾をふりふり、お気に入りの場所へと向かった。

 また、この少し距離があいているのもいい。

 逃げてから岩間に紛れながら走って行けば住処はそうそうにバレはしないという寸法だ。

 やっぱりエーリャはあたまいい! と、軽やかな足取りで石や岩の狭間をするりするりと抜けながら、お気に入りの場所に辿り着く。

 今日は天気がいいから日当たりもいいはずで、きっとそこで寝そべったら格別に気持ちがいい事だろう。

 考えると余計に心が浮き立って、エーリャは飛ぶようにジャンプしながら岩間に身を滑り込ませた。


「ふんふん、ふふん、ふっふん」


 着いたらまずは毛づくろいだ。

 女の子は身だしなみに気をつけなくては。ヤキムやスエニクなんかはいつも砂埃でほこりっぽかったけれど、存外綺麗好きな母はいつも思いついたように毛づくろいをしてくれたし、母自身も真っ白なつやつやの毛皮に黒の斑紋が映えて、尻尾の先までそれはそれは立派なイルビスだった。

 エーリャは体も小さいし弱いし臆病だけど、母のようなイルビスになりたいとも思っている。それを言ったら案の定ヤキムに笑われたけれど。

 でも絶対母のようなキレイなイルビスになりたい!

 だから毛づくろいは欠かせない。素敵な毛皮を保つために。


 意気揚々と砂利を踏みしめ光の指す方へ向かう。

 そうやって有頂天になっていたからだろうか。直前まで近づいたその時になって、漸くエーリャは気がついた。

 岩間の先に、なにかが、いた。


「ぎゃぁっ」


 一瞬で毛を逆立てたエーリャは小さく飛び上がると、疾風の勢いで巨岩の影を抜け大岩を駆けあがり一目散に逃げる。

 近くの大岩の陰に身を潜め、なにかが後を追ってくる気配がないことを感じ取ると漸く膨れ上がった毛並みがへたり、とおさまってきた。


 どうして臭いで気づかなかったんだろう。浮かれて油断していた。

 胸の鼓動が痛くて怖い。よく見なかったけれどあれはなんだったんだろう。

 岩の陰から鼻を伸ばしても匂いは嗅ぎ取れない。他の獣の場合ならよほど小さいものでない限りはエーリャの鼻でも嗅ぎ取れる。

 自慢じゃないが、嗅覚だけは兄妹いち敏感だ。

 あの時あそこで見つけたものは、一瞬見た限りでは小さな獣と言える大きさではなかった。エーリャと同じか、下手したらそれ以上だったかもしれない。

 それなのに嗅ぎ取れないということは……匂いがない。それならばあれほどまで近くに寄ったのに、目に留まるまでエーリャが気づかなかったのも無理はない。

 もしかしたらあれは川に流されてきた流木か何かの漂着物だったのかもしれない。


「なあーんだ!」


 びっくりして損した! 自分の考えに安心を得たエーリャは途端に警戒を緩め、また巨岩への道を引き返していく。

 せっかくの自分のお気に入りの場所にあんなものがあったら邪魔で邪魔でしょうがない。寝ころべないし、毛づくろいも落ち着いて出来やしないではないか。もしも動かせそうだったらどこか別の場所に捨ててこよう。


 落ち着いた足取りで元来た道をゆき、岩間に戻る。

 警戒もないため少し奮起交じりにじゃりじゃり音を立ててそれに無遠慮に近づいたエーリャが見たものは、獣でも、流木でもない。

 そこに横たわっていたのは――――青白い肌を晒した、ニンゲンだった。

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