第一章 獣と神官

よわむしエーリャの見る夢は


 空き時間はいつもここへ逃げる。


 図書室は無数の夢の扉が集まっている。現実でどれだけ居場所がなかろうが、身の置き場がなかろうが、空想の中だけは自由で広大だ。好きな本を選んで開くだけで、行き場のない心の戒めが解けていく。

 本は窓だ。別の世界を覗くための小さな窓。そこにはありとあらゆる世界があって、覗くだけならだれであっても拒まない。だから今日も、窓を開いてみたこともないどこかの世界を見つめる。


 今日の窓は遠く彼方の森に住まう獣を映し出していた。

 綿毛のような白い毛皮に、幾何学模様にも似た黒い斑紋を纏う、白い豹。隈取のように黒く縁どられた瞳は凛々しくも彼方を見据え、太い四肢を踏みしめ立派な尻尾を携え悠々と岩の上で立つその姿。

 小さな窓越しでも見惚れるほどの美しさと気高さに、思わず感嘆の吐息が漏れるのも仕方ない。触れることは叶わないけれど、指先で輪郭を辿り夢想する。


 ――もしも、生まれ変わることができるなら。

 こんな獣に生まれてみたい。人間ではなく、こんなふうに美しく誇りある獣に、生まれたい。

 もしもの奇跡が、起こってくれたなら。



*****



 またおかしな夢を見た。

 うまく思い起こせない夢の内容をあくびで噛み殺しながら、エーリャは洞窟の入り口に立つ。

 山の朝はいつも白い。視界をすべて覆うようにあたり一面が薄靄に包まれている。

 一歩踏み出すと、ぱりぱりと音がした。芝のように長く伸びた霜は草も木も、石も岩をもいちめん覆い、白く染め上げている。吐きだす息は煙のように視界にとどまり、代わりに吸い込んだ空気はその冷たさのまま喉を抜け頭にきんと響いた。

 頭のてっぺんから尻尾の先まで、体中の毛皮が一気に膨れ上がる。


「エーリャッ」

「ぎゃぅッ」


 暗転。

 エーリャの視界は突如ぐるりと旋回する。巡る視界にともない体も巻き込まれ、白銀の世界で勢い舞い上げられた霜や枯葉が、霧の隙間を縫って射し込む陽光に照らされ、きらきらと煌めいた。


「いたいっいたっいやぁっ」

「どうだっ、この!」

「いやっ、やっ」


 ごろごろと雪玉のような二匹の獣がもつれあうように転げまわるたび、あちらこちらと霜のかけらが舞う。エーリャは背に覆いかぶさるカタマリにより首の皮にこれでもかと牙を立てられ、情けない泣き声を漏らしながら必死に身をよじった。


「やめてよやめて! おねがい、やめて!」

「なさけないぞエーリャッ、それでも瑞雪の獣イルビスか! くやしかったらやりかえせ! かみつけ!」

「やだっ、ヤッ、やめていたい、いたいの!」

「よわむしめ!」


 ぐっと後頭部を踏みつけられ、エーリャはまだしっかりと凍てつく地面に鼻面を押しつけられたまま鳴き声交じりにうめく。

 誰が自分を踏みつけているのか、見えなくてもわかっていた。こんなことするのは同腹の兄、ヤキムしかいない。


「はなしてヤキムっ。くるしい!」

「きいきいわめくな。みっともないぞ」

「うぇっ……うっうえぇ……」


 鼻に、溶けてきた霜の容赦ない冷たさが凍みてきて息がくるしい。ヤキムの爪が頭皮に刺さっていたい。惨めに踏みつけられて心が苦しい。

 かなしくてかなしくて、それでも滲んでこない涙の代わりにエーリャは精一杯の泣き声を絞り出した。


「いたいよぉ……らい、ヤキムなんてキライぃ……」

「ちっ。なきむしエーリャめ」


 ふっと頭上の重圧がなくなったと思ったら首根っこを心なし控えめに食まれ、そのまま強引に引き上げられる。

 反射的に身を震わせ纏った土やら水滴やらを飛ばしたエーリャに、ヤキムは鼻面いっぱいに皺をよせ睨みつけてみせた。


「なきむしよわむしいじけむし」

「だってヤキムが」

「それではだめだ、エーリャ」


 情けなく目じりの下がるエーリャの青くくすんだ色の瞳を、同じ色をした対の瞳がじっと覗き込む。苛立ちの中に哀しみが濃く入り混じっているが隠せていない。そしてそれが何を指しているかはエーリャ自身にも見当がついていた。


「そんなんじゃ、エーリャはいきていけない。りっぱなイルビスにもなれない」


 同じ顔をした兄の眼差しは苦く、それでもはっきりと告げた。

 そんなことはエーリャにだってわかっていた。いや、誰もかれもがとうにわかりきっていることを、ヤキムは告げてくる。

 エーリャは弱い。このままでは、きっと生きてはいけない。


「わかってるよ……ヤキムの、いじわる」


 しゅんと尻尾を垂らしうなだれたエーリャの前に、ぽとりと赤い実が落ちた。

 一つの枝に、鈴なりに小さな赤い実が生っている。エーリャの好きな木の実だった。


「やる。さっきそこでみつけたから」


 ヤキムはエーリャを虐めるけれど、いつもこうして何かをくれる。

 つやつやと赤く輝くそれを味わうようにゆっくり食んで、口の周りを赤く染めながらエーリャはヤキムにすり寄った。


「えへへ。……あのね、さっきいったことね、うそだよ。エーリャはヤキムがすきだよ、だいすき!」

「あーもううるさい。もういくぞ」

「あっ、まって、まって……」


 二匹の兄妹はもつれ合うように仲良くその場を後にした。




 エーリャは、極寒の山奥、凍てつく洞窟のなかで生まれた。

 最初から父はなく、時を同じくして生まれた、スエニクとヤキムの二匹の兄と母だけがいた。

 エーリャたちはイルビスという獣なのだと、母が言っていた。

 丸い耳、白い毛皮に黒い斑紋、太い手足と尻尾を持ち、俊敏な動きで険しい山を難なく移動できる動物。

 誇りある獣として気位が高く、子持ちでなければ群れない習性を持っている。群れずとも個々で生きる力が備わっているからだ。イルビスたちはこの山の覇者として頂点に君臨し、その他の生きものを狩り生活している。

 けれどエーリャは、違っていた。ほかのイルビスたちと何もかもが、違っていた。




「もうころあいだろう。いけ」


 大あくびをしたあと、眠い、と言いうかのようにぽつりと母が呟いた。

 洞窟の入り口のあたり、日の当たるところで兄弟たちがおのおの微睡んだり、取っ組み合いをしているときのことだった。

 そして、その母の一声に最初に動いたがスニエクだった。それまでヤキムと土ぼこりを立てて取っ組み合っていたのに、母の一言から突如立ち上がり無言で洞窟を出て行ってしまう。


「スエニク。かってにでると、かあさんにおこられるよ」


 そばで見ていたエーリャはもちろん止めた。外は危険が多いので、単独行動を起こすとすかさず母が追いかけてきて、洞窟に戻れと威嚇してくる。

 洞窟内の小さなグループの長といえばもちろん母なので、言うことを聞かないと容赦のない力で手痛い仕置きをもらうこともある。母の乳を必要としていたころとは違い体が育ってきた今はそう危険なことも少ないだろうが、それでも兄妹いち体の小さなエーリャは一匹で外に出るなど怖くてごめんなので母の言いつけは厳守した。

 しかし兄二匹は違う。しょっちゅう興奮に身を任せ飛び出しては母に叱られていた。母の叱り方もそう優しい方ではなく見ている方も痛いので、エーリャがいつも兄二人をいさめる役割を担っていた。

 いまこの時も、いつもと同じように声をかけただけだ。大体一度か二度でうるさそうにしながらも戻ってきてくれた。戻ってきてくれるはずだった。


「スエニク。ねえスエニク!」


 スエニクは振り返らない。そのままゆったりとした足取りで緑繁る森の奥へと溶け込むように行ってしまった。


「かあさん、ねえ、スエニクが……」


 母の様子はいつもと変わらないはずなのに、なぜだか洞窟の中が寒く感じる。どうして誰もスエニクを引き止めなかったのか、エーリャにはわからない。

 母はいつものように寝そべり目を閉じたままでいる。


「かあさ……」

「よるな」


 母に近寄ろうとしたエーリャが一歩踏み出すと、寝そべるままに目を開けた母が鼻面に皺を寄せてきつく威嚇してきた。今まで聞いたことのない唸り声で。


「か、」

「いくぞエーリャ」


 母の威嚇にたたらを踏んだエーリャを遮るようにヤキムがいった。

 ヤキムもまた、無言で母に背を向け洞窟の外へと向かって歩き出す。


「だってヤキム、なんで」

「いいからこいっ」

「だって……、う、……ま、まって、まってヤキム……」


 エーリャはできれば洞窟の外へは出たくなかったけれど、なぜか自分を拒んだ母の傍にこのままいるのはいけない気がして、結局ヤキムのあとを小走りで追いかけて行った。




「ねえ、ヤキムなんで。なんでかあさん……スエニクも……」

「おまえはほんとうにばかだな」

「ばっ、ばかじゃないよ!」


 普段間抜けなことばかりしでかすヤキムに呆れたように言われると腹が立つ。

 突然なんだと憤慨するエーリャの頬を、ヤキムがなだめるようにべろりと舐めた。


「もうあそこはかあさんのナワバリだ。おれたちはでていかなくちゃならない」

「なん、でそんな、いきなり……わかんないよ。なんなの、かあさんもスエニクも……ヤキムも」

「なんでわかんないんだ。もうおれたちはじぶんでいきてくんだ。おまえだってちびだけど……まえより、おおきくなったろ」


 ヤキムのいうことがわからない。

 どうして突然。なぜスエニクとヤキムはそれがわかる。

 エーリャは洞窟の外にいるいまだってこわい。自分で、ひとりで生きていくなんてこと、考えることすら恐ろしい。

 視線を落とした先に見えた自分の足は、ほら、まだ小さい。ヤキムの足より一回りも小さい。

 言い訳のように、小さく言い返す。


「おおきく、なったって……みんないっしょにいればいいでしょ……。はなればなれなんてやだよ」

「やだってなんだよ。もうこうなったら、かあさんのなわばりにいるとへたしたらころされるぞ。それでもいいのか」

「やだよ! なんで? いや! いや! もうやだ、ぜんぜんわかんない! エーリャは、これからどうしたらいいの?」


 こわい。

 身の内に燻る恐怖に掴まりたくなくて、エーリャはわからないふりをする。不快げにぶんぶんと尻尾を振りだだをこねるエーリャを見ても、ヤキムはいつものように意地悪を言ったり怒ったりはしなかった。

 ただ、すり、と惜しむようにエーリャに身を寄せる。


「そんなのきまってるだろ」


 波打つ白い毛皮を通してヤキムの体温が伝わってくる。

 離れたくない。離れたくないのに、彼は行ってしまうのだ。


「ねどこをさがせ。なわばりをつくれ。かりをしろ。そうしなければ、エーリャは、しぬだけだ……」


 言うが早いか、ヤキムが身をひるがえす。軽やかにエーリャから離れていく彼に追いすがりたくて、でも足が動かない。彼がふれていた場所が、ひどく肌寒い。


「まってよ。まって……まってヤキム! やだよ……こんなのやだ……こんな、こんなのさみしいよ!」


 おいていかないで。ひとりにしないで。ひとりはこわい。ひとりはさみしい。

 心からの言葉に、もう尻尾も見えなくなった向こうでヤキムがこたえた。


「さみしいってなんだ? いきろよエーリャ。それしかない」


 エーリャはそのときから、ひとりぼっちになった。

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