迷う獣

 エーリャがイリヤを洞窟に運んでからほんの少しの間に、見るまに山の色が様変わりし、こそげ落とすように木々の葉が落ちていった。

 木々は丸裸になったようでがらんどうの枝越しに見える空は寒々しく、落ちてくる実も格段に減った。

 エーリャはイリヤに言われた通りに枯葉や落ちている枝を持ち帰り、外の様子が様変わりしたことを話すと、これから冬が来るのだとイリヤは答えた。


 一緒に暮らそうとイリヤが告げてからは、ニンゲンの世界の話を沢山するようになった。

 ニンゲンは毛皮がない代わりに服を着て、強靭な爪がない代わりに靴を履いていること。牙をもたない代わりに別のもので動物を狩ったり、自分で果物や植物を育てて食べていること。集団で暮らし、物を交換したり、作ったり、色々な役割を決めて支え合って生きていること。

 聞いてみると、エーリャが今まで考えもしなかったことばかり。

 ニンゲンは母が言っていたように恐ろしい生き物というよりは、すごい生き物なのだと感じるようになっていった。


「それでそれで? マツリって、なに? なに?」

「こら、エーリャ。もう、重たいよ」


 イリヤの胸に両手をつき遠慮なくのしかかってくる獣を優しくあやしながら、イリヤはエーリャが集めた枯葉の上で胡坐をかく。

 イリヤは体の調子は最初よりもだいぶいいらしく寝たきりになることも減って、足を引きずりながらではあるが少しだけなら歩行も可能になるほどに回復していた。こうしてエーリャが全体重をかけてのしかかっても支えられる程度には体力も戻ったらしい。

 膝の上に体ごと乗せながら、エーリャはぐるぐるとご満悦にしなだれかかる。当然この体勢になってから撫でてもらうのももう二人の習慣になっている。


「祭りはね、天神ペルンに感謝を捧げる日に、皆が一丸となってその日を盛り上げるんだ。美味しいものを食べたり、歌ったり、踊ったり。農家は豊穣の神でもあるヴェーレスにも祈りを捧げるんだよ」

「おいしいものってなに?」

「エーリャはやっぱりそこかあ。意外と食いしん坊だよね」


 つん、と人差し指で鼻をつつかれて、エーリャはぺろっと鼻を舐めた。

 食べられないものは多いけど、おいしいものは大好きだ。

 とくにイリヤの話に出てくる食べものは何を聞いてもおいしそうで、口の中によだれがたまってくる。いつぞやはぼたぼたと涎を垂らしてイリヤの膝をぐっしょりと濡らしてしまったほどだ。

それでもイリヤは笑って許してくれるので、エーリャもついつい甘えてしまう。


「交易で持ち寄られる珍しい果物を祭りでふるまわれることもあるよ。南方の果物で、太陽のように丸くて黄色くて、瑞々しくて酸っぱいものとか、果汁がなくて細長くて驚くほど甘いものとか」

「うわぁ……いいな! いいなあ! エーリャもたべたい。たべたいよう!」

「そうだね。エーリャが来たら、ぼくが色んなおいしい食べ物をお腹いっぱいになるまで食べさせてあげる」


 イリヤはエーリャにたくさんの約束をくれる。それがエーリャの心をいつも暖かくしてくれるから、もっともっと約束が欲しくなってくる。

 イリヤと離れたくない。そういったのは本当だ。


 ――ただ、山を下りるのもこわい。


 ニンゲンだらけの世界でエーリャになにができるだろう。

 どうやって生きたらいいのかわからない。

 そう不安をこぼせば、イリヤはなんてことはないとばかりに微笑みかけてくる。


「ぼくが守ってあげると言ったじゃない。エーリャがお腹いっぱいになるまでいつでも好きなもの食べさせてあげるし、一緒に寝てあげる。毎日欠かさずブラッシングをしてこの綺麗な毛皮をうんと艶々にして、爪を磨いて、この大きくて暖かい尻尾をふわふわになるまで洗って、それから……」

「それから?」

「それから……うん、ずっと、ずっと一緒だってことだよ……」


 あ。

 また。

 イリヤの目がなんの色も移していない。

 エーリャを見ているようで、もっと別の何かを見据えているように、うっすらと笑みを張り付けている。


 エーリャは気づかないふりをして、いつものように甘えるそぶりでイリヤの腹に額を押し付ける。慈しむように撫でられながらもしぼんだ気持ちは抑えられず、きゅっと目を閉じる。

 イリヤに一言、一緒に行くと言えない理由がこれだ。

 エーリャの気のせいかもしれない。でも気のせいではないかもしれない。イリヤを信じていないわけではないけれど、どうしてもその一言を言う勇気が出せない。


 イリヤがここまで回復したならもう下山するのもそう遠くない話になるだろう。

 そうしたら、エーリャはまたひとりぼっちに戻る。きっとイリヤと離れたらもう二度と、誰にも撫でてもらえないし、抱きしめてもらうこともなくなるだろう。

 自分以外の温度に温めてもらうことも、絶対にない。

 それはいやだ。またひとりぼっちに戻りたくない。

 相反する思いに翻弄されるととても疲れる。最近はそれが堂々巡りで、しまいには何一つ答えを出せずにイリヤに撫でられながら眠ってしまっていた。



*****



 もうすぐそこまで、冬が近づいてきた。凍てつくような風が吹き荒れ、川の水は毛皮を持つエーリャでもしり込みするほどに冷たくなった。

 洞窟の中は外よりはましだが、それでも以前よりもうんと冷えるので、エーリャはイリヤのためにせっせと枯葉を運ぶ。


 イリヤはイリヤで、だいぶ回復したのかエーリャの持ってきた枝で折れた足に接ぎ木を施し、手製の杖を使って川までなら歩けるようになった。

 それからは火を起こすことや体を拭く程度のことは自力で行うようになった。

 火に慣れないエーリャは近づくのがまだ怖い。イリヤが火を起こすと必ずイリヤの後ろに隠れてしまうけれど、それがあると洞窟内はかなり温まる。

 イリヤが凍えるよりはマシ! とばかりに頼まれずとも枯枝を集めては洞窟に持ち帰った。


「雪が降ったら下山が難しくなる。足も動かせるようになったし、体力もだいぶ戻ってきた。そろそろ準備を始めないと……」


 起こした火の加減を調節しながら、イリヤがぽつりと呟いた。

 イリヤの背中に頭を擦り付けてごろごろと鳴いていたエーリャの喉の音がやみ、動きも止まる。

 とうとうこの時がやってきた。もうすぐイリヤがいなくなる。エーリャはまだ、何一つ答えを出せていないのに。

 黙り込んだエーリャをちらりと一瞥したイリヤは、慰めるように後ろ手でエーリャの顎を擽った。


「エーリャ、最近ぼくに食べ物を譲ってくれるでしょう。取れた魚も、僅かな木の実も。自分だってお腹がすいているだろうに……。このままここに居てもぼくはきみのお荷物になるだけだ」

「そんなことない!」


 ぐわっと四足で立ち上がったエーリャは目を見張るイリヤにかまわずうろうろと纏わりついた。


「イリヤがいて、エーリャはいっぱい、いいことあったよ! いろんなことおしえてもらったし、いっしょにねてもらったし、いっぱいほめてくれるし、エーリャのことすきだっていってくれるし……それから、えーと、いっぱい、いっぱい……」


 いっぱい、たくさんのものを、イリヤはくれた。

 どれもこれもエーリャが欲しかったものだ。ずっと心の中で求めてきたものを、イリヤがすべて埋めてくれた。

 そんなイリヤが今すぐにでも離れていきそうな気がして、それが怖くてたまらず、必死に引き留めるための言葉を探す。


 まだ行かないで。

 でもイリヤを引き止めることはできない。


 イリヤが指摘したことも本当だ。

 最近、前より獲れる魚の量が減り、小さい魚しか獲れなくなった。木の実も必死になって探さないと見つからなくなったし、茸も根こそぎ他の生きものに食べられていることも多くなった。山に溢れるほどに実っていた恵みが一気に枯渇してきたようだ。

 それでも集めたものの中からイリヤが食べられそうなものをできるだけ譲った。自分のぶんを減らしてでも。

 それでも、そうまでしてでもイリヤが傍にいるほうがいい。多少お腹が減っていてもイリヤがいるほうが何倍も嬉しい。


 それならばと、イリヤが言うようにエーリャが一緒に行っていいのかもわからない。

 なにか、まだ怖いような気がするし、山を下りることもいけないことをするような気もしている。それがエーリャの心に歯止めをかけて、何一つとして決定的な答えが出せないでいる。

 結局言葉に詰まってぐるぐる唸りながら懊悩する獣を見つめ、イリヤは苦笑いを浮かべた。


「ごめんねエーリャ。きみを悩ませたいわけじゃないんだ。ただ、このままここに居てもきっと共倒れになるだけだから、ぼくはもうすぐ山を下りる。それだけは、覚えておいて……」


 別れるにしろ、共に行くにしろ、どちらにせよ時間はもう残り少ない。そういうことなのだとイリヤは言いたいのだろう。

 エーリャはそれにうまく答えることもできずにただ曖昧に頷いて、イリヤに引き寄せられるままに優しく抱きしめてもらった。




 翌日の朝、エーリャは久々に川の周辺よりも先まで足を延ばしていた。

 周辺で採れる食べ物が減ったためもう怖いなどと言っている余裕もなく、行動範囲を伸ばすことに決めたのだ。いまよりももう少し食べ物が採れればイリヤが行ってしまうのも少しは先延ばしになるかもしれない。


 そんな浅はかな期待を抱きながら、枯葉をさくさくと踏みしめ灰色の空の下を歩き回る。

 ――本当は、エーリャが普通のイルビスのように狩ができたらそれでいい話、なのかもしれない。わかってはいたけれど、今更ながらに目をそらしていた事実に改めてつきあたる。

 エーリャが狩りをできていたらこんな細々と色んな食べ物を集めるために苦心しなくても、その都度あたりの生きものひとつ仕留めただけで事足りたはずだ。

 そうしたらイリヤの回復ももっと早かっただろうし、こんなギリギリまであの洞窟の中に居続ける必要もなかった。

 エーリャだっていちいち色んなことに怯えて暮らさずに済んだだろうし、たとえイリヤについていってニンゲンの世界に馴染めなくとも、また山に戻ればいいと思えたに違いない。

 それができていないから今こうして今日イリヤに食べさせてあげる食べものにすら苦労している。

 エーリャがイリヤにしてやれたことなど、イリヤがエーリャにしてくれたことに比べればほんの些細で、しょうもないことばかりだ。ただ偶然イリヤを拾って、洞窟に匿って、少ない食料だけを分け与えただけ。たったそれだけ。

 全て、エーリャが普通のイルビスだったなら、臆病な獣でなかったなら、もっとたくさんのものをイリヤにしてあげられたことだろう。

 結局今までそうやって自分がしたくないことから逃げてきたしわ寄せがきているに過ぎない。

 それはきっと、エーリャがイリヤを見つけることもなくひとりぼっちだったとしてもいずれ追いつかれていたことだ。

 例えイリヤと別れたところで、今のエーリャに先はあるのだろうか。

 きっとない。ヤキムが言ったとおり、エーリャは生きていけない。今のエーリャならば。


「ニンゲンにうまれたかった……」


 ぽつりと、そんな言葉が漏れた。

 今まで思いもしなかったけれど、どこかすんなりと納得できる言葉だった。

 エーリャはニンゲンに産まれたかったのだ。

 寄り添って、助け合って、暖めあえる生きものに生まれたかった。イルビスのように綺麗な毛皮も、強靭な爪も、立派な牙もなくたってかまわない。誇りがなくとも、優しさのあるニンゲンに産まれたかった。

 それに気づけばこそ、自分がニンゲンではないことが悲しい。自分がニンゲンであったなら、迷うことなくイリヤについていけたのに。もっと自分らしく生きる世界で生きることができたかもしれないのに。


 だから、しょげたように耳をたたみ尻尾を垂らし、前を見ずに歩くエーリャは気づけなかった。すぐ目と鼻の先に自分以外の獣がいたことに。


「エーリャ……?」


 懐かしい声が、エーリャを呼んだ。

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