二百年前

第二十一話

 緊急事態を告げるアラームが、先程から聞き分けのない子供のように船内に鳴り響いている。


 アーノルド・クラウスはその騒音に負けないように、声を張り上げた。

「ロバート、住民の避難状況はどうなっている!?」

 ロバート・クライスラーが同じく大声で応じる。

「宇宙港に停泊していた避難用船舶は全て離脱した。惑星上の避難用船舶は、本船を除いてすべて大気圏から離脱している。全船舶のうち、九十パーセントは虚数空間門を通過済みだ。そして、現時点で惑星に残っている者の人数は――プリシラ?」

 ロバートの問いかけに対して、プリシラが落ち着いた声で答えた。

「三時間前に行った生体認証によるカウントを初期値とすると、現時点で千五百三十二名が残っていることになります」

「本船が収容可能な人数は、残り何名分だ?」

「緊急脱出用のポッドを流用して、残り五百九十一名分です」

「宇宙服を着せて、通路に安全帯で固定したとして、何名分増える?」

「全ての宇宙服をそちらに回せば、最終的には安全帯の数に依存しますから、三百二十五名分です」

「残り六一六名分も足りないのか……」

「いえ、ただ今乗船用の橋脚が落下したため、不足数は五百九十三名分となりました」

「な――映像は出るか?」

「前面に出します」

 コントロール・ルームの前方にディスプレイが立ち上がり、外の光景を映し出す。

 彼らが乗り込んでいたのは、もともと旅客用ではない老朽化した貨物船であったから、乗船口が前端と後端の二か所しかない。

 それではとても足りなかったので、真ん中にある非常用のハッチを無理に開放して、そこに仮設通路を設置したのだが、見ればそれが落下していた。

 あれほど「一度に渡ることが出来る人数」を制限していたにも関わらず、パニックに陥った人が集中し過ぎたのだ。

「仮設通路の前にいる者には、前後の乗船口に行くように指示しました。現時点で人数に誤差が生じている可能性は十二.一五三パーセントです。再度、衛星からの生体認証スキャンを行いますか?」

「……いや、もうこうなると誤差の有無は意味をなさない。ぎりぎりまで受け入れを行うだけのことだ」

「それでは最終的に収容可能人数を超過します」

「緊急避難として座席一つに対して二人を割り当てたらどうなる?」

「その場合、数の問題ではなく安全性に問題が生じます。大気圏脱出時に、六十九.三二七パーセントの確率で下にいる方が圧迫され、命を落とす可能性があります」

「船の床に寝かせたらどうなる?」

「五十七.八六三パーセントの確率で、船内の壁面に叩きつけられて重傷を負います」

「何か他に方法はないのか?」

「その問いかけは先程もありましたが――現状を維持しつつ受け入れる方法は、もはやないと思われます」

「では、現状を維持しなければ方法はあるのか?」

「あります」

「それはなんだ。教えてくれ、プリシラ」

「はい。私のように脳幹だけを分離してポッドに収めれば、貨物スペースの隙間を流用することが出来ます。少々外科的な措置に時間がかかりますが」

「……現時点で可能な方法が残されていないことをよく理解した。有り難うプリシラ」

「どういたしまして」

 プリシラはあくまでも冷静な声で応じているが、そのことがかえってアーノルドとロバートにはプリシラの内面にある過剰なストレスを感じさせずにはおれない。

 なにしろ、プリシラが都市管理者の能力と資格を得て、初めて担当したのがこの星である。最初のうちは慣れないために失敗もあったらしいが、その都度、星の住民達から励まされて、ここまで成長してきた。

 彼女にとってこの星は自分の揺り籠のようなものであり、故郷のようなものである。彼女ほどこの星と住民を愛している者はいないといっても、言い過ぎではない。

 本当ならばこの星の行く末を憂い、悲歎にくれているほうが、彼女にとっては普通なのかもしれない。

 しかし、今はそんなことをしていられる状況ではなかった。

 プリシラがいなければ住民を避難させることは出来ない。

 彼女自身もそのことを充分に理解しており、住民の緊急避難が始まってからというもの、感情表現系の処理を完全に切断していた。

 既に避難した住民達から、プリシラに対する感謝のメッセージが膨大に届いているはずだけれど、彼女はそれをどこか控えのサーバに回しているはずである。

 アーノルドとロバートは、後でゆっくりとそれを読む時間をプリシラに与えたいと考えていたが、今は当面の課題を処理する必要がある。

 その当面の課題というのも、結局のところ「最も辛い決断を誰がしなければならないか」という一点に尽きた。

 これまで星を離脱した船には、限界まで住民を詰め込んできた。それでもなお、最終便に全員を乗せることはできない。

 そんなことは状況が明らかになった時点で既に分かっていたことなのだが、アーノルド、ロバート、プリシラは、それを隠し続けていた。

 政府の要人は先に避難させてある。

 アーノルドは事務方の最高責任者として、今回の避難計画を最後まで指揮するために残っていた。

 ロバートは主に緊急避難の技術的な側面をサポートするために、ここに残っている。いや、残らされている。

 いずれも、お互い所属していた官僚機構から、最後に貧乏籤を押し付けられた中途半端な立場である。

 しかし、現時点で最終的な判断が出来る人間は彼らしかいなかった。


 そして、アーノルドが自ら口を開く。

「最後の最後、どうしようもなくなった時には、私がそのことを住民に伝える」 

「それは都市管理者の職務のように思いますが」

 プリシラが感情の籠もらない声でそう言ったので、アーノルドは苦笑した。

「そうかもしれないが、私が残される住民だとしたら、君の口からそのことを絶対に聞きたくない。これは私の我侭だけれど、緊急時だから権限無視については堪えてくれないか、プリシラ」

「……分かりました。それから有り難う、アーノルド」

「私も礼を言うよ、アーノルド。本当に有り難う。私の出る幕じゃないのは分かっているけれどね」

「ここまで残ってくれただけでも有り難いよ、ロバート」

 アーノルドは笑顔でそう言い切ると、顔を引き締めてプリシラに告げる。

「さて、プリシラ。私が負うべき仕事をしよう。現時点で船に収容可能な人数は何人だい」


 プリシラからの返事はない。


 それはとても珍しいことだったので、アーノルドは即座に尋ねた。

「どうした、プリシラ?」

「――状況変化あり。地磁気及び地表面の圧力分布に変動が見られます。極移動の兆候。複数のプレートにおいて物理的な変動を感知。緊急地震速報発令。三十秒以内に離陸を」

 状況が切迫していることを理解したアーノルドは、即座に指示した。

「緊急離陸シークエンス開始。同時に船外状況を記録し、その画像を私だけにリアルタイムで回して欲しい。二人は船の緊急離陸に集中してくれ」

 それを聞いたロバートは焦った。

 要するにアーノルドは、

「残された住民達の最後の瞬間を、自分だけが十字架として背負う」

 と言っていたからだ。

「いや待て、それでは君だけが――」

「時間がない。私が出来事すべてを記憶し、責任を取る。だから、二人は船を頼む」

「……分かった。プリシラ、緊急離陸シークエンス」

 言い争っている暇すらなかった。

「船内乗組員及び船外避難民の安全確保がまだ完了しておりませんが――」

「それをやっている時間はない。緊急離陸に関する責任は私がすべて負うから、プリシラは船体の姿勢制御に専念してくれ」

「……承知しました。それではエンジンの緊急起動シークエンスに入ります」

 彼女がそう言うと、貨物船全体が細かく振動し始める。

 ロバートはそれを感じながら溜息をついた。

 本来であれば段階的な手順の実行に最低でも五分程度の時間を要する離陸を、十五秒程度で終わらせるという無茶な話である。

 船外の者が離陸時に放出される熱に焼かれてしまうだろうし、船内にいる者も身体をどこかに括り付けないと命の保証はない。

 しかしながら、離陸が出来なければ全滅である。

「まさか、こんなことをしなければならなくなるとはね」

 ロバートは盛大に眉を潜めながら、目の前にあるパネルで手動操縦への切り替えを行う。

 コンソールが割れ、その中から通常は誤操作防止のために隠されている操縦桿が姿を現した。

 船体の老朽化の度合いに比べて、操縦桿は真新しい輝きを放っている。つまりは殆ど使用されたことがないということだ。

「マニュアルでの離陸なんて、最近の若い連中は教わっていないんじゃないかな」

 そう言いいながらロバートは、操縦桿が船の出力系と接続されていることを手早くチェックする。

 彼が繊細な手つきで操縦桿上のスロットルを開くと、船体の震動はさらに激しくなった。

 それを確認したアーノルドは、ディスプレイに囲まれた状態でプリシラに指示を出す。

「内部及び外部の音声出力を全てオンにしてくれないか。接続可能な港湾設備も含めて、全ての回線を開いてくれ」

「承知しました」

 それを聞きながら、ロバートは出力系の回転数を徐々に上げてゆく。

 貨物船のコックピットには、船長席に座ったアーノルド、操縦席に座ったロバート、制御コンソールに向かって全身から配線を伸ばした状態のプリシラしかいない。

 航法支援士と機関士、そして通信士の席は空いていた。本来は六人定員のコックピットである。三役をこなすプリシラがいなければ動かすことは適わない。

 しかも旧式の船は各部の支援システムに乏しい。船体制御を一通り習っていたとしても、都市管理者が専門のプリシラには手に余る代物だろう。

 それほどのタスクを担いながらも、プリシラは僅かな余力で船内及び船外の音声出力を次々にオンにしてゆく。

 いつもの彼女であれば瞬き以下の時間で完了するタスクに二秒近く費やした後、彼女は淡々とした声で言った。

「完了しました」

「有り難う」

 アーノルドも事務的に短く答える。

 そして、心持ち背筋を伸ばしてから、全回線に向かって語りかけた。

「船内及び船外の皆さん。私はアーノルド・クラウスです。これより緊急発進を行いますので、船内の方は至急お近くにあるものに身体を固定して下さい。そして――」

 アーノルドは一瞬、声を詰まらせる。

「――船外の皆さんに申し上げます。これは私の決断に基づく措置ですから、全ての責任は私個人にあります。よって、皆さんの怨嗟を私に向けて下さい。もうその時間もないかもしれませんが――」

 彼はそこでまた声を詰まらせると、静かにこう告げる。

「――プリシラ、全ての者達のために歌ってくれないか」

「――承知しました」

 僅かに間が空いて、プリシラがそう答える。


 次の瞬間、船体操作に関係のない映像出力装置に、貨物席の前方映像が映し出された。

 その中央、貨物船のすぐ鼻の先から女性の姿が立ち上がってゆく。

 それはプリシラの遺伝子情報から再現された、彼女の本来の姿だった。

 緩やかな曲線を描く貨物船を「繭」とすると、その姿は羽化する蝶に似ている。

 残された住民の中から湧き上がる悲鳴と、船体のあちらこちらから湧き上がる軋み。

 さらには遥か遠くのほうから押し寄せてくる大地と海の唸りが重なり合う。

 そんな中、彼女は貨物船から全身を現してゆく。

 白い薄手の衣を華奢な身体に巻きつけた少女は、大きく両腕を開く。

 そして、全ての音声出力システムから、女性の歌声が流れ出した。

 ヘンデル作曲のオペラ『セルセ』から、第一幕第一場で歌われるアリア「オンブラ・マイ・フ」――優しい木陰を与えてくれる木々の葉を愛おしく思う、ペルシャ王クセルクセス一世の歌。

 それが「歌う都市」と称えられたプリシラの声で捧げられるような旋律で歌われる。

 悲惨な状況の中、それでも木々の葉――彼女を慈しみ育てた全ての住民に対する彼女の慈しみが溢れ出す。


 そして、感情を制御しているはずの彼女の瞳からも、涙が溢れ出していた。 


 リソースが音と映像に割り当てられたことで、貨物船の制御はかなり混乱していたが、それをロバートが懸命に押さえ込む。

 彼も分かっていた。

 ここまで彼には似合わない非情さで、全ての計画を押し進め、全ての罪を全身で受け止めてまで人々を助けようとしたアーノルドが、最後の最後に我慢しきれなくなったのだ。

 船の制御が疎かになる危険性を丸呑みにしてまで、プリシラに別れの言葉を言わせたかったのだ。

 無論、その思いはロバートも同様である。彼は後に自分でもどうやったのか分からないほどの集中力で、船体各部の出力を制御する。

 そして、どう考えてもそんな余裕はないはずであるにもかかわらず、視界の片隅にあった外部メッセージの着信件数という、どうでもよいはずの事象を鮮明に覚えていた。

 それば、プリシラの歌声と共に激しく上昇していく。事後に検証してみると、それは住民がプリシラに向けて送った別れのメッセージの数だった。

 それを視界に納めながら、ロバートは船体を浮上させるためにメインエンジンの出力を上げた。

 震動がさらに激しくなる。

 外ではプリシラの声と重なるようにして、船体下部から咆哮が上がっているに違いない。

 それとともに膨大な熱が放出されて、近くにいた住民達は一瞬のうちに蒸発する。それを避けることが出来たにしても、極移動に伴う激震と、大津波から逃れることは出来まい。

 貨物船はゆっくりと持ち上がってゆく。

 それと同じに船外では大勢の命が失われてゆく。

 ロバートはその事実に直面することなく、ただ己の職責を果たすために、歯を食いしばって出力を上げてゆく。

 その耳にはプリシラの伸びやかだが悲しみに満ち溢れた歌声が聞こえ、それと船体の震動が奏でる雑音の間にある僅かな空間を埋めるようにして――アーノルドの苦しそうな呻き声が聞こえた。

 それでもロバートの手は止まらない。

 プリシラの悲しみと、アーノルドの苦しみを共有するためにも、彼は自ら罪を犯すことを避けなかった。

 ロバートの口内に血の味が満ちる。

 そして、船首に女神を乗せた貨物船は、港から三十メートル上空に浮かび上がる。

 その下ぎりぎりのところを大波が通過してゆく。

 船体後部からさらに激しい咆哮が迸り出て、激しく身震いをしながら貨物船が女神と共に大気圏を離脱すべく動き出す。

 白く沸き立つ海と、夏の雲を従えた青い空の下、オクターブを上げる女神。

 その声を棚引かせながら、貨物船は白い航跡を残しつつ、上昇してゆく。


 そして、その瞬間を見送ることが出来た生命体はごく僅かしか残されていなかった。


 *


 惑星の引力圏を抜けて、衛星軌道上の比較的安定した位置まで到達すると、ロバートは貨物船の操縦を自動制御に切り替えた。

 この程度のことはいくら旧式でも船の機能で何とかなる。プリセットのコントロールだからプリシラにも負担はかからない。

 ロバートはまず最初に、成層圏を離脱したところで歌うことをやめていたプリシラに声をかける。

「プリシラ、大丈夫かい」

 膨大な量のケーブルに埋もれていた彼女は、感情の抜け落ちた顔をロバートに向けると、言った。

「大丈夫です。機能に問題は生じておりません。ただ――」

 彼女はそこで軽く俯くと、小さな声で言った。

「――暫くの間、歌が歌えなくなりそうです」

 機能ではなく感情の問題。

 しかし、彼女の声に後悔の響きはなかった。むしろ鎮魂の言葉として、ロバートの胸に響く。

「お疲れ様」

 そう言ってから、ロバートはアーノルドのほうを向く。

 アーノルドは離陸前と同じように頭を上げたまま、ディスプレに顔を囲まれた姿で船長席に座っており――その全身が細かく震えていた。


 ロバートは激しい恐怖を感じた。


 席から脱け出してアーノルドに駆け寄ると、ディスプレイを押し退けて、

「おい、アーノルド、大丈夫か!」

 と、肩を掴んで問いかける。ロバートの腕に激しい震動が伝わってきた。

 アーノルドの目は何も見ていない。

 ロバートはアーノルドの肩を押さえ込むようにして、前後に激しく揺すった。

「アーノルド、おい、アーノルド、私の声が聞こえているのか?」


 そこで突然、アーノルドの全身の震えが止まる。


 彼はゆっくりと視線をロバートに合わせた。

「やあ……ロバート……久しぶりだなあ……」

「おい、しっかりしろよアーノルド、私達は助かったんだぞ」

「ああ……そうか……私は助かったのか……」

 そこで急にアーノルドの首がくたりと前に折れる。

 彼は再び震え出すと、喉の奥から搾り出すような声で言った。

「私は、私は、助かってしまったのだなあ。なあ、ロバート、私は見てしまったんだよ」

「見たって、何を――」

 そこまで言ってから、ロバートは思わず息を呑んだ。

 そんなことは分かりきっていた。聞くべきではなかったのだ。

 ロバートが訂正しようと口を開く前に、アーノルドが呟く。

「住民達の、絶望が、手に取るように、分かった。それは、最初から、覚悟していた、ことだった。でも、でも、でも――」

 アーノルドは顔を両の掌で覆う。

「――でも、僕の部下達は、こっちを、真っ直ぐに、向いていた。しかも、彼らは、敬礼まで、していたんだぜ。恐怖に、ぶるぶると、震えながら、絶望の、涙を、流しながら、それでも、無理に笑って、敬礼して、いるんだよ。まるで私が、見ていることが、すっかり分かって、いるようにね。私は、私は、私は、そんなことに、値しない、人間なのに」

 そう言うと、アーノルドは身体を丸めて震え出す。

 ロバートはどうしたらよいのか分からなくなった。安易な慰めの言葉はとても口に出来ない。そんなものに意味はない。

 このまま彼を信じて、悲しみの中に置いておくのが正しいのだろうが、それは出来なかった。

 アーノルドには急ぎ立ち直ってもらわないと困る。これからまだやることが膨大に残されているのだ。

 ロバートが、分からないなりに何とかしようと、アーノルドの肩に再び手を置こうとした時――プリシラが感情の抜け落ちた声で言った。


「アラームメッセージ。虚数空間門のコントロールが失われています」


 ロバートは思わずプリシラを見つめる。

「な、なんだって? それじゃあ、私達はここから動けなくなってしまったのかい?」

「いえ、そうではありません」

「しかし、今コントロール不能だと言わなかったかい?」

「事実を端的に表現するとそうなりますが、虚数空間門が使えなくなったわけではありません。より正確な言い方をすると、一方通行のみ可能であり、その接続先がどこになるのかコントロールできない、ということです」


 虚数空間航法においては、必ず出口側に門が必要というわけではない。

 虚数空間を抜けて任意の実数空間に出現することは可能であり、新航路開拓にあたっては無人機が任意の空間に飛ばされていた。

 出口側の門は、リスク管理のために設置されているものである。門があれば、他のものは存在しない。誤って衛星と重なって実体化する可能性を避けるためのものである。

 プリシラが言ったのは、往路としては使えるものの行き先は選べないということだった。

「では、どこかの門には出られるのだな」

 ロバートは思わず息を吐く。しかし、プリシラはそれに対して補足を加えた。

「いえ、そうではありません。門に出るためには虚数空間配置型コンピュータの支援が必要ですが、それがなくなりました。接続先は全くの任意になります」

 ロバートは唖然とした。

 それでは移動出来たとしても、出現した先に物質が存在したら目も当てられない。運よく何もなかったとしても、人間が生きていける環境がなければ同じである。

 それならば、この衛星軌道上で大人しくしているか、それで時間がかかるようならば再び惑星に降下したほうが――


「プリシラ、この軌道上に留まっていることが出来る時間はどのくらいだろうか」


 ロバートの後ろからアーノルドの落ち着いた声が聞こえてくる。

 ロバートが驚いて振り向くと、そこには離陸前と同じアーノルドの姿があった。

「あるいは、救助隊がここに派遣されてくるまで、私達が生き残ることが出来るかどうか。そして、再び惑星降下を行った場合の生存確率がどうなるか」

「変数が多い予測となりますね。かなり楽観的な予測を行ったとして――まずは前提を整理致しましょう」

「頼む」

「承知しました。まず、惑星および宇宙港からの支援を失った虚数空間門は、三日以内に主電源が尽きて稼動出来なくなります。それを供給する設備は、この船には存在しません」

「作業船もすべて避難用に使ったからな。つまり、虚数空間門が使えるのは三日後までということだな」

「はい、その通りです。続いて貨物船の設備ですが、住民を最大限収納するために設備は最小限まで絞り込まれましたから、余裕がありません。補給しようにも宇宙港すら予備のない状態です」

「それは船の燃料の話かな」

「いえ、そうではありません。まずは食料不足がクリティカルな問題となります。人体をたんぱく質に還元したとしても、乗員の半数は二週間ともちません」

 人体をたんぱく質として還元するというのは、要するに食料として用いた場合という意味だ。

「続いて、救援がここまで到達するまでの所要時間です。まず、受け入れ先の惑星は大忙しでしょうから、私達が逃げ遅れ、どこの星系にも到達していないことが分かるまでに三日はかかると思われます。この時点で門は使えません」

「ふむ」

「それにより、私達がここに残された可能性を検証するために船が派遣されます。恐らくは無人機で、天体が存在しない位置に出現させるまでに三日かかります。無人機が我々を発見した後、救助隊が編成され、派遣されるまでに三日かかります」

「では、九日間耐えればよいということかな」

「いえ、そうではありません。救助隊は有人船ですから、虚数空間門がない場所に出現させるためには、無人機以上に安全に配慮しなければなりません。それに三日ほどかかります。その上で惑星の影響を受けないところに実体化することになるでしょうから、実数空間の移動に二週間以上かかります。その時点で生存者が残っている確率は、〇.〇〇二パーセントです」

「では、惑星に降下して待つという手段はどうだろうか」

「それは、極移動が未だ収まっていない状態の惑星ということでしょうか? 食料はなんとかなるかもしれませんが、貨物船を重力の影響下で飛行した状態に保つことが出来るのは、三日が限度になるでしょう」

「それが過ぎれば、地震と津波の中で生き残らなければいけなくなるのか」

「はい、その通りです」

「最後の質問だが、これは最初に君が言った通り、かなり楽観的な計算をした場合と考えてよいのだな」

「はい。なかなか説明が難しいので比喩表現で申し上げますが、神が存在する可能性を通常の二万五千倍にしたものに近いとお考え下さい」

「……分かった。有り難う、プリシラ」

 アーノルドは微かに笑うと、下を向いて腕を組む。

 それは考え込んだ時の彼の癖だったが、さほど時間をかけることなく腕を解くのも癖である。

 アーノルドはロバートに向かって苦笑しながら言った。

「ロバート、どうやら私は最低最悪の人間のようだよ。皆んなに何も言わずに、このまま虚数空間門に突入しようと考えているんだから。こんな罪、どうやって償えばよいのだろうね」

 アーノルドの悲しそうな顔を見つめて、ロバートは今度こそ何も言えなくなってしまった。


 *


「私達の祖先が虚数空間門を抜けたのは、今から二百年も前のことになります。それから、統合政府の星間航路探査船が到達するまでに百年かかりましたが、その間に起きたことはここでは語りません。ただ――」

 カール国王はそこで言葉をいったん区切ると、遠くを見るような目になります。

「クラウス家は、この星の住民に対して償いきれないほどの莫大な前科を抱えているのです。ですから、この星の住民が許してくれるまでは、王家の責務から決して逃れてはいけないのです」

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