第十六話 午後一時 ロッテ
ロッテ・クラウスには密かな悩みがあった。
悩みといっても深刻なものではない。昨日までは「自分の立ち位置が今一つ曖昧であること」に対する漠然とした悩みだった。
それに、立ち位置といっても「物語に出てくる王女と自分の生活が、ひどくかけ離れている」という点ではない。
クラウス家という風変わりな王族の一人に生まれた時点で、初めから分かっていたことであるし、むしろ自由を好む彼女からすると、大勢の従者に傅かれる生活は窮屈で耐えられそうになかった。
だから、今の『名ばかり王女』の位置付けは大変有り難い。文句を言ったら罰があたる。
また、「食堂の手伝いが嫌」という意味でもない。
半年前から母の手伝いを本格的に始めたところで、まだまだ覚えなければならないことは山ほどある。
悩みどころか、食堂のピーク時は余計なことを考えている暇すらなかったし、それに客とのやり取りは実に楽しかった。こちらも文句を言ったら罰があたりそうである。
労働時間もたいしたことはない。
食堂の営業時間は午前十一時から午後二時までで、仕込みと後片付けを入れても拘束時間は六時間程度だ。終わった後、年の近い友人とゆっくり話す時間を取ることができる。
昔の子供達は「勉強」するために日中一か所に集められていたと聞くが、その時代に生まれていたら店の手伝いなんか出来なかっただろう。
今日では『勉強』という概念がしっかり様変わりしていた。
単なる知識の蓄積であれば、プラグインを適用することで「いつでも、どこでも、誰にでも」簡単に実現することが出来る。だから、わざわざ子供達を一か所に集める意味がない。
むしろ、その時限りの体験をどれだけ豊富に経験することができたか、ということのほうが重要な勉強になっている。
その点で食堂の手伝いは効果的だった。毎日、いろいろなことが勝手に起きるので飽きない。プラグインの中にはない貴重な体験が出来る。
王女という身分や、食堂の手伝いという仕事は、人生を豊かにしてくれることはあっても、悩みの元とはならない。
悩んでいたのは「自分の心の向き」である。
ロッテは「自分の立ち位置が今一つ曖昧であること」に、引っ掛かりを覚えていた。
父は王様という身分が実によく似合っていた。選択肢がいくつあっても、父ならば常に王様を選ぶだろう。
母は食堂で細々としたことをしている時、とても楽しそうに見える。母にとっては「女王であること」は、「女であること」と同じぐらいの意味しかない。
姉は検疫官の仕事が板についていた。しかも、そこでは「うなじフェチ」という困った性癖が見事に昇華されていた。
兄は今でこそ王様代行だけれど、ひかり園のボランティアとしての仕事が別にある。
――それに比べて自分はどうなのだろう。
ロッテは「これこそ自分の仕事だ」と思えるものを見つけ出せていなかった。食堂の手伝いは楽しいが、あくまでも母の手伝いである。
家族に相談したら「ゆっくり探せばいいじゃないか」と言われるだろうし、自分も「それでいいのだ」と頭では理解している。
しかし、その一方で彼女は焦っていた。
自分の無駄に高度な能力を生かす方法が、なかなか見つからなかったからだ。
彼女と同じ境遇の子供達は、もっと小さい頃に選択肢の中から進路を選ばなければならない。
「一国の王女」という生まれついての進路があった彼女はそれをせずに済んだものの、能力を十分に発揮できないストレスは年々高まっている。そして、この点については家族にも伝わり辛かった。
当たり前である。出来るのにやらない、という辛さは実際に体験してみないと本当のところは分からない。
もしかしたら兄なら話せば理解してくれるかもしれないが、王様代行中に自分のことを相談するのも気が引けた。
それに何度も繰り返して恐縮だが、「悩んでいる」といってもさほど根の深いものではなかった。
それが急に高まったのは、昨日の昼にフローラに出会って以降のことである。
といっても、ロッテが初対面のフローラに悪い感情を持った、という意味ではない。むしろ真逆で、彼女の温厚かつ穏やかな性格は、ロッテにとって実に好ましいものだった。記者という仕事に誇りを持っている点も、ロッテには眩しく見えた。
だからといって、その「自分がやるべきことを持っている」フローラの姿に刺激されたわけでもない。フローラがただの一般人であれば、ロッテが彼女の立ち位置に刺激を受けることはなかっただろう。
ただ、フローラの一挙手一投足を見守っているうちに、ロッテはあることに気がついてしまった。
――フローラさんは決して見た目通りの人ではない。
これがロッテの特殊能力である。
彼女は『行動論理学』に興味を持ち、かなり専門的にその分野を学んだ時期があった。そして、行動論理学とは、人間が意識的または無意識に行なう行動と、その背景にある心理状態を結びつける論理体系の構築を目指す学問の一派である。
例えば、食堂の片隅で楽しそうに話をする男女がいたとする。
そして、二人の関係は第三者であるロッテには事前に情報として与えられていないものとする。
行動論理学は、二人がとる行動を観察することから得られる情報だけで「現時点での二人の関係性と、裏に隠された本音」を類推するものだと考えればよい。そして、だいたいのことを知るだけであれば、さほど特殊な能力は必要ではない。
全体の時間に占める「お互いを見つめ合う時間」の割合。
相手のとった仕草に追随する動きの有無と、その頻度。
思わず伸ばした手の指先に見られる、ためらいの有無。
それらの細かい動きをつぶさに観察していれば、誰でもある程度のことは分る。
ところが、それを更に推し進めて、本人が表に表わすことを避けている裏の感情まで推測しようとすると、途端に難しくなる。心とは相反する動き、というのがあるからだ。かなり訓練された行動論理学者でも、識別可能な行動と心理の関連は六割と言われている。それをロッテは八割近い識別率まで高めていた。
細かい動きを捕捉することが出来る、彼女ならではの精度である。だからこそ気がついたのだ。
ごく僅かに見られる綻びのようなものが、フローラの立ち振る舞いの中にはある。決して嫌な感じを受けるものではないものの、それによって彼女の姿が二重写しに見えてしまう。その違和感を拭いようがない。
そこで昨日は、ネットワーク上でフローラの情報を検索してみた。
IPIPではない一般人の場合、情報の大半はローカルネットの中に留まり、星系外には出てこない。
しかし、多少時間がかかっても構わなければ、他の恒星系のローカルネットに検索要求を行なって情報を得ることは出来る。
フローラは自己紹介の際に「惑星DAAA三四一七Dにある共同通信社のオフィスから来た」と言っていたので、ロッテはとりあえず惑星DAAA三四一七Dのローカルネットに対する検索要求を行なった。
何かが出てくることを期待していた訳ではない。
代理とはいえ国家元首に対する取材依頼である。オファーがあった段階で、やってくる記者のことは伊藤が念入りに調査しているに違いなかった。
それに、惑星管理者の情報検索権限は、統合政府の公安情報データベースにも及ぶ。フローラが危険人物である可能性はかなり低いし、そうでなければ伊藤が入国許可を出すわけがない。
それは分っていたが、なんとなく自分の目で確かめたかったのだ。
ところが二時間後に戻ってきた検索要求結果を見て、ロッテは驚いた。
もちろん、フローラに関する基本的な情報はそれなりに戻ってきた。
ゼロであれば異常事態だが、その内容が妙に薄いのも、ロッテには気になる。
共同通信社は、広汎な人類世界の中で情報の横通しをする目的から設立された、総合情報配信企業であるから、記事の多くは共有対象になっている。従って固有サーバへの検索要求でなくとも、普通に検索しただけで彼らが発信した情報のなにがしかが当然返ってくる。フローラが過去に発信した記事についても、相当な量が検索要求結果には網羅されていた。
また、共同通信社に在籍する記者は、各自が情報の発信源となるために日頃からオープンに情報を求めている。だからこそ自身の個人情報も比較的オープンにしているものなのだが、フローラの場合は逆だった。
私生活に関する情報がほとんどない。まるで「記者」以外の私生活がないのではないかと思えるほどである。
自給自足の隠者生活をしているのであれば、それもありえないことではない。
また、一般市民が一般市民の検索を試みたのであれば、そんなこともあるかもしれない。
しかし、ロッテも一応は立憲君主国家の王族であるから、公的な権限は一般市民よりも高めに設定されている。それに統合政府の個人情報管理データベースには、ロッテ・クラウスの汎用生体認証条件が登録されているはずなので、他の惑星だからその権限が及ばないということもない。
従って、それなりの個人情報はすべて開示されるはずなのに、それがなかった。となると、ロッテの権限では手が届かないところで、個人情報が制限されていることになる。
その必要性が皆目見当もつかない。
フローラは今日も兄と一緒に、昼食をとるために食堂にやってきた。
午前中は伊藤と会見していたという。その時の話をしながら穏やかに笑う彼女を見ていると、とても深遠な秘密が隠された人物とは思えない。
そして、ロッテはその日、他にも気になる点を発見した。
フローラが店に姿を現した後、店の外の路地の陰に一人の男性が姿を現した。
見慣れない男である。ロッテも全住民の顔を記憶している訳ではなかったが、少なくとも店に来たことのある人物で、直接話をしたことがある人物であれば、おぼろげながらも記憶していた。
男は何気ない様子で立っていたが、ロッテが店の手伝いをしながらそれとなく観察している間、視線の五十二パーセント近くはフローラに注がれていた。つまり、フローラのことを知る人物である。
個人情報が希薄で、その周辺に見張りの者がいる女性――政府の極秘情報を専門に扱う記者であれば、それもないことではないかもしれない。
しかし、ロッテは検索結果にあったフローラの記事を読み、彼女がどちらかといえば穏やかなほうの記事を専門とする記者であることを把握していた。
ということは――見張りの目的はフローラ個人ではなく、今回の取材対象である兄のほうかもしれない。何か兄に関係することで、記者に漏れると不味い情報でもあるのだろうか。それで伊藤が密かに監視をつけているとか。
――馬鹿馬鹿しい。
ロッテは頭を振った。兄に限ってそのようなことはありえない。
――するとこの状況はどう考えられるのだろう。
昼の遅い時間となり、客の姿がまばらになりはじめると、ロッテは頭脳の半分をそのことの解析にあてることが出来るようになった。久し振りに能力をフル回転させる。
その影響だろうか。
「あの、ロッテさん。なんだかぼんやりしているようですが」
と、フローラから指摘されてしまった。ロッテは顔を赤らめる。
「あ、すいません。ちょっと考え事をしていたので」
嘘ではない。そしてロッテは嘘が苦手である。
怪訝そうな顔をしているフローラに笑顔で答えると、ロッテは食器の類を奥に運ぶ。そのついでに、
「お母さん。ちょっと出てきてもいいかな」
と、ロザリンドにそっと告げる。
「いいわよ。それから――」
女王は微かに眉を上げると、言った。
「――遅くなりそうだったら連絡を頂戴ね」
母には敵わないなあ、とロッテは苦笑した。
エプロンを外すと、ロッテは裏口から外に出る。
一瞬、第二王女権限でネットワークに接続することを考えたが、相手の素性が分からない時点で情報を拡散したくなかった。ただの勘違いで伊藤に笑われるのも嫌だから、スタンド・アローンが得策だろう。
ロッテは裏口を出ると目の前にある路地に飛び込んだ。裏口は北向きで、見慣れない男は店中を見渡せるように、南向きの窓が大きく開いた位置に何気なく立っていた。
そこまでは東回りに路地を迂回して、男の目につかないように移動することができる。少々はしたない格好になるものの、別な手段もあった。
路地を走ると、顔見知りの住民達があちこちから手を振ってくる。ロッテが本気で走っているところを見るのは初めての筈だが、この星の住民はその程度のことでは驚かない。事情は分かっているからだ。
軽い会釈だけでロッテは走り去る。それにしても風が強すぎて長い髪が鬱陶しい。後ろで纏めておけばよかったと思うものの、後の祭りである。二分としないうちに、男が立っていた路地の反対側に至る。
前方に男の姿はない。
――しまった!
そう思ったがここで慌てても意味がないので、普段の足取りで男が立っていた位置まで進む。正面に食堂が見え、右手方向に立ち去る男の背中が見えた。小さく息を吐く。
――さて、どうしたものか。
このまま後をつけるという手はある。しかし、彼女が王女であるという事実が、それを困難にするだろう。住民達が無視してくれないからだ。
となると、男にも住人にも見つからないように移動しなければならない。つまり、選択肢は一つしかなくなった。
ロッテは目の前にあった雑居ビルに飛び込む。ビルのセキュリティは旧型の汎用生体認証だが、なんとか第二王女権限をサポートするタイプだ。
いや、それ以前にセキュリティがかかっていないことを知り、ロッテは苦笑して階段を駆け上がる。セキュリティに関する意識の低さが、この星の住民の悪いところだ。
ビルの屋上まで登ると、大通りに面したところから身を乗り出す。右手前方に男の背中が見えた。これならば問題はない。大通りの向こう側に行かれたら面倒だったが、その時は降りるしかあるまい。
後ろに下がって助走距離を確保すると、ロッテは軽やかに走り出した。
右脚でビルの端を蹴り、跳躍する。
眼下に隣のビルの屋上が見えた。
両足をそろえて、着地と同時に軽く曲げる。
振動を吸収するとともに、その足を延ばす勢いで助走。
次のビルに跳躍する。
それを連続しながら、ロッテは男の背中を追った。
向かいのビルが低い時はさほど難しくはないのだが、逆の場合は少々面倒である。
ビルの端を踏み切る時に力を入れれば大抵の場合は問題なくクリアできたが、それでは対応できない高低差の場合はブーストを試みなければならない。
日常生活では決して使わないので、最初のうちは少々感覚が掴みづらかったが、次第に昔の訓練を思い出してきた。そうなると気分が晴れやかになる。
――やはり、抑えこんでいたのがいけないんだ!
二十メートルの高低差をクリアしながら、ロッテは微笑んだ。
既に男の姿はビルの真下にある。
――これならば無理をしなくても大丈夫だろう。
そう考えて気が緩んだのかもしれない。踏み切る前に前方確認することを忘れていた。
向かい側のビルの屋上、ちょうとロッテが着地する位置に男女の姿があった。抱き合ってこっちを見ているところで目があう。
――しまった!
そう思った時にはビルの端に足をかけていた。足の勢いを殺す。これでは向かいのビルまで届かないが、仕方あるまい。空中で身体を回転させながら、ロッテは向かい側のビルにいたカップルに手を振る。
――さて?
落下しながら対策を検討した。
見たところ左右の壁に手ごろなおうとつはない。途中で対応するのは難しそうだ。
別に落ちても死にはしない。着地時の衝撃で脚のバランサーに多少の狂いが生じるぐらいだろう。
――むしろ下に誰かいた場合が一番困る。
そう結論付けたロッテは下を見る。
目の前に見慣れない男が跳躍していた。
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