第十三話 午後六時 ハリソン教授

 通常であれば、その日の講義を終え、若干の残務を片付けたハリソン教授は、速やかに帰宅する。

 もちろん、大学当局の臨時会議や、急な来客、外部団体から招聘された会議や会食への出席などが予定されている場合は、この限りではない。しかし、ハリソン教授がそのような「本筋ではない余計な仕事」を好まないことを、秘書のマリア嬢は承知していたので、極力お断りするようにしていた。

 通常、ハリソン教授が大学を出る時間は、午後五時三十分。大学から自宅までは三十分かかるから、帰宅時間は午後六時となる。長男のアリソン准教授も父親と似たような性格なので、大学からの帰り道で一緒になることも珍しくない。アリソン准教授のほうが、結婚間際のために多少不規則になることがある程度である。概ね二人揃って同じ時間に帰宅するから、細君のアリスはその時間にあわせて夕食の準備を進めていた。

 長女は既に大学の関係者と結婚して家を出ており、他家でマリアンと似たようなことをしていた。ただし、そちらはアリソン准教授よりもさらに時間が不規則である。そして、次男はこの家では珍しいことに、帰ってくるかどうか分からないほど多忙で、まったく時間が読めない。しかし、ハリソンもアリスもその件については極めて鷹揚で、午後八時の定時連絡さえ欠かさなければ、泊まり込みでもお構いなしとしていた。

 ハリソン教授は帰宅したらすぐ食事にとりかかる。食事自体はゆっくりと進行するので、食べ終わるまでには一時間半かかるのが常だ。午後七時半に食事が終わると、ハリソン教授は入浴等の雑事に一時間半ほど時間を割くので、それらが完了する頃には時刻は午後九時となっている。就寝前の読書や、あえて細かい説明はしないが、彼にしては珍しく不規則となるその他もろもろの用事で、就寝時間は午後十一時になった。


 *


 従って、その日の午後七時に秘書のマリア・ササキ嬢が大きな声をあげたとしても、無理はなかった。


 彼女は大学事務局との打ち合わせに手間取り、午後六時をまわったところで研究室に戻ってきた。そして、その日は定時以降の予定が入っていなかったので、ハリソン教授は既に帰宅したものとばかり思っていた。

 マリア嬢は、共用の机で、共用の筆記用具を使い、前時代的な紙の書類に必要事項を記入した。虚偽申告や偽造防止のためであれば、汎用生体認証を併用した即時承認で十分なのだが、この惑星ではたまに書類提出という義務を課されることがある。これは都市管理型HIMがランダムに対象者を抽出して行われるもので、人間が楽をしすぎて手足を使わなくなることを避けるためには欠かせない措置だと言われていた。

 マリア嬢も書類作成は嫌ではない。

 ただ、その時は文字を書くことに時間がかかった。秘書として必要不可欠なプラグインは、大学卒業前にすべて導入済みであるから、文字を美しく書くだけであればなんら問題はない。しかし、そうなると逆に自分の個性を出したくなるのが不思議なところである。HIMであれば直結で各種プラグインを導入できるものの、生身の彼女は専用設備があるところまで物理的に行く必要がある。そこまでするほどのこともない、いやそれをするのが恥ずかしいぐらいの拘りなので、彼女はしばらく自分なりの味のある文字を、独力で作り出すことに苦心していた。

 午後七時の少し前には、なんとか自分でも納得できる癖のある文字が書きあがったので、明日の朝にそれを事務に提出することを忘れないよう、記憶領域にメモを残す。それから、帰宅前の癖として教授室の様子を確認しようと、一応不在のはずの扉をノックした。すると、中からハリソン教授の声で、

「どうぞ」

 という応答があったので、即座に彼女は、

「え――」

 と大きな叫び声をあげてしまった。

 その声に驚いた学生たちが集まってくる。そして、彼らは扉を開けて出てきたハリソン教授を見て、言葉を失った。

 ハリソン教授は、

「君達、どうかしたのかね。私がどこにいるかは共有情報を見れば明らかではないか」

 と不思議そうな顔をした。確かに、この星の住民は政府が管理している『共有情報』を介して様々な情報を受け取ることができる。ましてやIPIPのハリソン教授である。彼の座標上の位置は、午前八時から午後八時まで本人了承の上で公開されていた。

 しかし、教授が予定もない日に自主的に大学で残業していることは稀、いやむしろ有り得ない話であったから、誰もそこを確認していなかった。ゆえにマリア嬢は、仮にハリソン教授が密かに教授室で女装していた場合よりも、驚いてしまったのである。

 しかし、彼女は職務遂行についての意識が極めて高いので、直ぐに立ち直る。

「あの、それで、教授。今日は何を一体、なさっていらっしゃるのでしょうか?」

 言葉は少々おかしかったが、ともかくハリソン教授の予定を確認した。

「ああ、時が来るのを待っているのだ」

 ハリソン教授は、至極真面目な顔でそう言った。秘書のマリア嬢は、時に恋人に雇用主に関する愚痴をこぼしてしまうことがある。それは、教授のこの癖についてだった。彼は自分が自明のことだと思っている点について、急に説明をしなくなることがある。

 多分、

「あの、それでなにをお持ちなのでしょうか」

 と聞いても、まともな答えは返ってこないだろう。マリア嬢は溜息をついた。その上で、彼女はすぐに意識を切り替える。あのハリソン教授が予定を変更したのであるから、これは事件の予兆に違いない。

「コーヒーを入れ直します」

 そう言って彼女はきびすを返した。

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